その7
そこは丁寧に整えられた和風の庭園が広がっていた。純和風の屋敷は旧来の日本の邸宅で、わびさびの世界が漂っている。キノと千秋は、芦川が用意した別室に待機していた。部屋まで案内した仲居は若い二人の存在自体を不思議な眼で見ている。
「ちょっと、キノちゃん」
中腰のままキノの肩に手を掛けたまま、千秋は落ち着かない。
「どうした?」
「こ、こんなところ、来たことないから……」
「別にどこでも一緒だよ。普通にしてればいいさ。お腹も空いたし、何か食べる? どうせあいつの支払いにするし」
物怖じしないキノは大笑いした。
「大丈夫なの?」
と彼女が周囲を見渡している間に、キノは床の間の近くにあるインターホンを取っている。
「き、キノちゃん、何してるのよ!」
「ああ、注文だよ。何か食べるものを持ってこさせよう」
千秋は飛び上がって、インターホンを取り上げようとした。しかしキノの腕が取り合わない。
「あ、富士の間ですけど、ここで一番高い料理持ってきて」
振り回されていた千秋は受話器を取りあげて、力を込めて思いっきり元の所へ戻した。
「どうしたんだよ、千秋。いきなり」
「き、キノちゃんはお金持ちだから、こんなところは慣れてるかもしれないけど、私は庶民で民間人よ。しかもこんな高そうな料亭の料理なんて!」
「落ち着け、千秋。僕も民間人だ」
キノは腕を組む。
「もう、キノちゃん! 本当に大丈夫なんでしょうね」
「何が大丈夫か、わかんないけど、僕に任せて」
子供のように悪戯な顔を作って微笑した。
「少なくとも頼まれてここに来てやってるのは、こっちなんだから。あいつのツケにしておけばいい」
二人の目の前に絢爛豪華な食事が机一杯に広がっている。千秋の目が点になっている隣で、キノはじっくりと品定めしていた。
「へぇ、意外と凄いね。マコや亜紀那さんのより、おいしいかな?」
細い指が躊躇いもなく高級肉をつまんで、ひょいと口の中に放り込む。その隣の千秋は未だあんぐりと口を開けたまま停止していた。
「まあまあかな。もう少し塩味を押さえた方がいいね」
「キノちゃん、聞こえてるよ」
仲居が二人の方を向く。深々と頭を下げて襖を閉めた。
「よし、腹ごしらえだ」
キノは伊勢海老のフライをつまみ、口に頬張る。
「わかった。もう、ヤケよ!」
千秋も鳥のモモ肉の唐揚げを持ち上げて、二つに引きちぎった。更に尾頭付きの新鮮な鯛の刺身を数枚さらい、一気に口の中に放り込む。
「おい、千秋。だから、何故ヤケ喰い?」
車を降りたマコは、急いで玄関先に走っていく。マコが玄関に手を出すよりも先に、扉が開いた。
「お嬢様!」
飛び出してきた彼女は、屋敷にいる時からのマコ専属メイドだ。彼女はずっとマコの傍にいて今まで様々な困難を助けていた。マコは一礼する。
「ただいま」
「お帰りなさいませ、お嬢様」
マコと彼女は手を取り合った。
「お久しぶりね。元気だった?」
「お嬢様こそ……」
彼女は涙ぐむ。
「破れたキノの手紙を捨てないで持っていてくれた人。怪我をしたキノの入院先を教えてくれた人。佐伯から守ってくれた人。この人がいなかったら、キノと結ばれなかったに違いない……」
マコの握っている手に力がこもった。
「泣かないで。いつでもこうやって、会えるのだから」
マコの目頭にも涙が溜まる。
「お嬢様……」
「真琴ちゃん」と言う背後からのはっきりした声に振り向いた。
広い玄関ロビーに、一人の女性が佇んでいる。
「お母様」
「奥様はずっと、お待ちになっていらっしゃいました」
彼女は言った。マコは頷く。
近寄ってきた綾子は、マコを力一杯に抱き締めた。
「ただいま、お母様」
「おかえり、真琴ちゃん。よく来てくれたわ」
綾子はマコの頭を撫でる。
「頑張ってる?」
「はい」
「鈴美麗家の方と、ちゃんとやってる?」
「皆さん、お優しいです」
「紀乃ちゃんと仲良くしてる?」
「……多分」
綾子は一度マコを体から引き離して、少し厳しい目で見つめた。
「真琴ちゃん」
宙を泳ぐマコの目が不安気だ。
「いいこと、あなたには世界中の誰よりもあの子が一番よ」
もう一度、彼女はマコを抱きしめて微笑する。
「そう、キノが一番」
「まっ、まことぉー!」
大介は、玄関からは登場するや否や、大きな声を張り上げた。
「お父様」
「おお、真琴。本当に真琴だな!」
大介は着ていた上着を受け取ろうとした執事をよそに、無造作に廊下に投げ捨てる。そして小走りにマコの側に駆け寄った。
「何言ってるんですか。嘘も本当もありませんよ」
「いやー、本物だ!」
大介はマコの手を取ると、頬ずりした。ざらついた髭が手についてくる。
「ちょ、ちょっと」
彼女は手を抜こうとするが、彼は離さない。
「ちょっとしか経っていないが、もう何年も過ぎたようだ。元気でやってるか」
「はい……」
眼鏡越しに見える彼の目が優しい。マコは改めて両親から可愛がられている自分を認め、その愛情を感じた。
「私は、こんなにも愛されている……」
大介と綾子の顔を見る。
「キノが、沸き起こる感情に耐えられないのはきっと、叱ったり、慰めたり、優しくしてくれる人がいなかったせいなの。そんな家族が……」
マコはいつか道場で亜紀那に抱きしめられていたキノの姿を思い出した。長い間鈴美麗家で行われていた、感情のコントロールを正常に保つためのキノへのひとつの方法だった。
「そんなことに、私は嫉妬してた……」
緒方空の容態が急変した時のキノの感情の揺れは、誰にもどうすることも出来なかった。あの亜紀那の包容さえ振り解かれ、押さえられなかった。自虐的になったキノを我に戻したのはマコだった。
彼女は抱きしめるのではなく、キノの拳を受けて共に痛みを分かち合ったのだ。痛んだ腹部を彼女は摩る。
「どうしたんだ、真琴」
大介が声を掛けた。目の前の二人は並んで先ほどからマコを眺めている。彼女は微笑み、そして両手を広げて二人を包むように抱きついた。