その5
「おかえり」
マコはキノを見ると、和かにそう言った。その表情に癒されるのは芦川の宣言通りだ。
「ごめんね、随分、遅くなって」
「夕食、先に済ませたよ。酷く疲れてるみたいね」
倒れるようにキノはソファーに座り込み、目を閉じて深呼吸する。
「どうしたの? 何かあったの?」
「う、うん……」
ソファーに身を任せたまま、不自然な返事した。おもむろに身を寄せながら、マコは隣に腰掛ける。キノの頭に触れ、膝上まで誘導した。身を任せてそのままマコの膝を枕にしてソファーに横たわる。マコはクリーム色髪を優しく撫でた。
体の緊張が解けて安堵感が包み込む。何事にも代えられない者の存在。それが彼女なんだ、マコしかいないんだとキノは強く思う。甘く蕩けるような時間が過ぎようとした刹那。
「あの芦川先生がね、お見合いするんだって」
マコは頭上でクスリと笑った。
最初、キノは彼女が何を言ったのか、わからないでいた。しかしそれは惚ける気分を現実に連れ戻す。
「な、何故、そんなこと知ってるの?」
この疲労の主原因はその話だ。そしてマコには内密にしなければならない事であるはずだった。
「お父様から、先ほど電話があったの」
キノはそのままの状態で、瞳だけが大きく見開いている。もちろんその表情はマコからは見えない。
「お見合いの相手の方、お父様が知り合いに勧めたんだって」
マコの膝枕の上でキノは静かに口を閉じ、吹き出し始めた額の汗を感じた。
「誰って聞いても教えてくれなくて、今度なって。意地悪なんだから」
「ははは」
「まだお見合いもしてないのに、仲人するって張り切っていたんだよ」
戯けながら、愉しく嬉しそうな声色が頭上に響く。
「ははは」
膝上では力の抜けた乾いた笑いにしかならない。
「でも、芦川先生がよくお見合いなんかする気になったわねぇ。不思議」
自分がかなり複雑な状況に置かれてしまっていることに気づき、キノは体を硬直させた。
「先生が、結婚かあ」
初恋のような(?)人が幸せになることを、憧れに似た感情で呟く素直な一言が、キノの心臓に突き刺さる。
「いや、ほら、あんな自由で芸術的なセンスの持ち主って、結婚すると案外ダメになるんじゃないの」
何とかして、芦川がそんなことなど考えてもいないことを匂わすように布石を打った。
「どうして?」
「ほら、げ、芸術家って、自由人と言うか、天才と何とかは紙一重と言うか」
説得性のない言葉が続く。
「先生は確かに自由な人だけど、ちゃんと将来を考えている人よ」
起き上がらせようとマコが躰を掴むが、キノはそれを抵抗した。今、表情を見られたら、隠していることが確実にバレそうな気がしたからだ。
「キノも応援してくれるでしょ、先生のお見合い」
エアコンも関係なく、更に汗が噴き出した。
「頼まれている案件の反対のことだよぉ」
「何か言った?」
今度は前屈みになり、顔を覗き込もうとマコが動く。
「あ、あいつは、な、何考えてるかわからないし」
その動きが止まった。
「まあ、それはあるけど」
少しは頷くマコだ。
「ほ、ほら、そうでしょ」
「でも、誰もが幸せになって欲しい。先生も絶対」
安堵する言葉の上に重なる。
「心配してるの?」
屈んだマコは、大きく潤んだ瞳に自分だけが映るまで顔を寄せる。
「な、なんとなく……」
とろけそうに柔らかい唇同士が重なった。マコの艶やかな黒髪と、クリーム色の細長い髪が混ざり合っていく。膝枕のキノをマコはしっかり抱きしめている。彼女の胸がキノの胸に当たり、互いの鼓動が早くなったのを感じ合った。重なっていた小さい唇が離れていく。
「大丈夫よ」
多分、マコは自分が芦川に嫉妬しているのかと思ったのかも知れない。ない訳では無いが、それよりも今後の企てに不安を覚えるのが本音だった。
「最近、おんなキノは色っぽい」
顔を紅潮させてマコは微笑む。反対にキノは苦悩し、憂いと艶のある表情を見せていた。
「はいはい、それくらいでよろしいでしょうか、お二人様」
背後の亜紀那の言葉に驚く。
「キノ様、早く夕食を済ませて下さいな」