その16
「病院に来たけど、どこにいるの、キノ?」
「もう病院を出て、本屋にいるよ」
キノはポシェットにスマホを入れた。
マコと別れた芦川は、書店内をぶらついていた。目的もなく手に取る書籍をぼんやりと眺め、また戻すという行為を繰り返している。ふと、同じ棚の並びのいる水玉模様の白いワンピースの女性に目が止まった。店内の客も通り過ぎる度に振り返っている。やがて芦川の側で止まった。ここは男性雑誌のコーナーだ。何度もその横顔を見る。
「こいつは……」
芦川は記憶を戻すように呟いた。キノは隣りの男が、執拗に嘗め回して見ていることに気づく。そしてその男が芦川だと悟った時、慌ててその場から立ち去ろうとした。
「き、きみ」
聞こえない振りをして反対を向き、一歩踏み出す。
「……ち、ちょっと」
芦川は思わず腕を掴んでしまった。咄嗟にキノは振り返る。細長いクリーム色の髪が靡き、端正な顔立ちの中の大きな瞳が見つめる。男は思わず息を飲んだ。
「この感触」
「放せ、いや、放して」
強引にキノは手を振り解く。
「こ、これは、すまない!」
その力強い勢いに負けて前によろけた芦川は、慌てて謝った。
「何をするんですか、いきなり」
キノが睨むと男は細い目をして、異様な眼力に圧倒される。
「これもだ。き、君には以前会ったことはないか?」
「あなたなんか知る訳ないじゃないですか。もう、行きますから」
「しかし……」
芦川は次第に思い出そうとしている。キノは早くこの場から離れようと焦った。
「先生! まだいたんですか」
芦川の背後からマコが声を掛ける。
「……真琴」
振り向いた男は彼女に体を向けた。『まこと』の言葉にキノは一瞬、怪訝な顔つきになる。急いでマコが芦川に近づき、注意を向けさせた。彼女の右手が小さく左右に振れる。
「全く、まだ何かしてるんですか」
注意を引くように話し始め、腕を組んで訊ねた。
「いや、彼女を前にも見たことがあるような気がして」
「誰が? 何処に?」
芦川は振り向いて手を翳したが、だがその者は忽然と消えていた。店内を見回すが姿は見えない。
「先生、夢でも見たんじゃないですか」
「うーん」
不可思議な出来事に、頭を捻った。
「私よりも綺麗な人、沢山いるからね」
「いや、真琴が一番だ。でもそうゆうことじゃなくてな」
もう一度、捻った。
「もう、危ないなあ」
マコは歩道を進みながら、キノに注意する。
「あいつが、いきなり僕の腕を掴んだ」
口を尖らせて答えた。
「マコ、あいつと会ってたの?」
「偶然ね。近くの喫茶店に紅茶飲みに行ってただけよ。先生はお腹空いていたようだし、お昼食べてた」
キノは腕を振り挙げ、頭の後ろで手を組む。
「偶然か……」
「何よ、何かあるなら言っていいよ。先生と待ち合わせでもしていたと言いたいの」
「別にそんなことは言ってないよ」
マコが覗き込むと、キノは顔を背けた。
「はっきり言わないなんて、男らしくない」
彼女は苛立ちながら言う。
「今は、女子だもんね」
「嫉妬してるの、女の子ちゃんのキノは」
キノはマコの腕を掴んで、少し引き上げる。彼女は顎を突き出した。
「嫉妬してる? 僕が?」
「してる。随分。気持ちに余裕ないよ、キノ」
「……つ」
言われて、それまでのキノの気持ちが萎える。
空を心配する気持ちを落ち着かせて欲しいマコが、別の男と会っていた事に腹が立った。しかし彼女も緒方に会うことを心配していたはずだ。自分の事を棚に上げて、彼女を責めている自分勝手なことに恥ずかしさを感じる。
「そうか、そうかもね……。余裕、ない」
マコは息を吐いた。
「緒方君も空ちゃんのことも、気になるんでしょ」
掴んでいる腕を下げる。マコはそのままキノの腕を取って、組みなおした。
「ごめん。君に八つ当たりしても、何も変わらないのに。何も出来ない自分が情けなくて。僕は、バカだ」
マコの頭がキノの腕に寄り添う。
「焦らないで、キノ。待つしかないわ、空ちゃんだって、頑張ってるのよ」
「う、うん……」
返事はするものの、どうしても空の容態が心配だった。待つことのジレンマもある。何も出来ないことへの腹立たしさだけが頭に残っている。
「おんなキノが出来ることは、必ずあるよ。そのために変わったんだし。私たちにしかできない、やるべきことをしなくちゃ」
マコはキノの手を握り締める。
「私たち、これでも夫婦でしょ」
彼女の微笑がキノにとって何よりも変えられない心の支えだ。
「夫婦は互いの痛みも分かち合わなくちゃ」
愛しくて堪らないキノは、彼女が爪先立ちになるくらい、高く抱きしめた。舞う風がキノの柔らかく細いクリーム色の髪を靡かせ、マコの艶のある黒髪と混ざっていく。美少女二人のその光景は、人混みの中で目立過ぎていた。
「き、キノ、みんな見てるから」
マコの顔が紅潮する。
「構わないよ」
大きな瞳が悪戯にマコを射した。ひと拍心臓の鼓動を鳴らして、おんなキノに釘付けになる。
「もう……」
その瞳から離れない彼女は、頬を赤らめたまま口を尖らせた。
「何か変だとと思ったら」
一部始終の二人を見ていて男が呟く。
「あいつが、真琴を……」
ポケットに手を入れたまま、芦川は立っていた。