その15
『緒方 空』は、点滴や鼻には酸素供給のチューブ、心臓、血圧類のモニターを装着させられて、ベッドに横たわっている。ベッドの住人の存在を隠すかのように、医療機器が囲んでいた。部屋に入ったキノは、その無機質な機械音に入り口の側で足が竦んで、動けない。想像も出来なかった、ありえない光景に言葉を失った。出来ることならこの場から逃げ出して、元気な頃の空を思い出したいと言う気持ちになった。キノにとってこのような光景は、過去に何度も見てきてしまっていたからだ。キノは肉親を全て失っている。
「空、空、聞こえる?」
緒方は、少し大きな声で囁いた。
「鈴美麗先輩が来たよ。空、空」
キノはベッドに近寄る。痩せて細くなった空の体は、白いシーツと白い布団の中に埋もれていた。緒方の問いかけに反応がない。目を閉じたまま、かろうじて、か細い息をしている。壁から這い出しているチューブから、酸素供給の音が異様な音を鳴らしていた。
「そ、空ちゃん……、空ちゃん」
まだ目は閉じたままだ。キノはもっと近づいて、耳元で囁く。
「キノだよ。空ちゃん」
彼女の目が、ゆっくりと開いた。そして頭が動く。彼女の口が動いている。
「き、の……」
「うん、空ちゃん。久しぶりだね」
布団の中が動いていた。やがて、それは静かにキノの手に重なる。キノはその細い手を握った。彼女が微笑んだ気がした。胸が締め付けられる。今そこにある、ひとつの命の重さを感じていた。こみ上げてくる涙を、キノは必死に堪える。
「空ちゃん……」
キノはもっと顔を近くに寄せた。二人の肌の白さの意味が、全く違うことを、半ば呆然と見ていた緒方は感じる。
「今日ね、プレゼント持ってきた。ほら、前にイヤリングあげたでしょ」
空は少し頷いた。キノは紙袋から、光る小さな物を取り出す。
「今度は別なやつ。結構、探し回ったんだよ」
クリーム色の髪を掻き上げ、自分の耳に飾って彼女に見せる。
「空ちゃんに、きっと似合うと思って」
空の唇が震えていた。
「き、の、せ、ん、ぱ……」
キノは口元に耳を近づける。
「……あ、り、が、と。うれ、しい……」
「空ちゃん!」
思わず、キノは手を強く握りしめた。
「つけてよ、空ちゃん、絶対に。僕につけたとこ、見せるんだからね。絶対だよ」
ベッドの彼女の目から、涙が流れ落ちる。キノは優しくハンカチで拭った。
「大丈夫だよ、空ちゃん。僕も君についている」
緒方は震えるその後ろ姿を、無言で見守るしかなかった。
「そろそろ、行かなくちゃ」
時計を見たマコは席を立ち上がる。
「もう行くのか」
芦川は呼び止めた。
「随分、付き合いましたよ、先生」
「何だ。やっぱり先生なのか俺は」
少し不機嫌な顔つきになる。
「わかった。書店まで送ってくよ。いや送らせてくれ」
名残惜しそうな目でマコを見た。
「いいですよ。すぐそこですから」
キノに遭遇させまいと、芦川を必死で引き離す。だが振り解こうとする細いその手を彼は掴んだ。
「真琴! 送りたいんだよ、俺は。おまえを」
真剣な芦川の声に、マコは従うしかなかった。
「もう……」
芦川がプロポーズしたのは、マコが中学一年の時だった。夏休みの長期休暇に、大学生だった彼はマコに出会う。彼の一目惚れだった。にこやかな笑顔と無垢な表情の彼女は、彼に癒やしをもたらす。彼女といると芦川は心が和んだのだった。その最終的な彼の結論が結婚の申し込みだったが、花宗院家では冗談扱いとなってしまった。しかしマコは芦川に大人の男性としての憧れや、その直向きな姿に好意を持っていないことも無かった。その淡すぎる想いを初恋として納めていた。
夏が過ぎ彼が去って数年が経ち、つい半年前に美術個展を開くという葉書をもらい、再会したのだった。一緒に同行した男装キノともそこで初めて会っている。マコに付き纏う芦川は不審者と勘違いしたキノに投げ飛ばされた。和解(?)してキノの実力は認めたが、とても女っぽいという印象を持たれ、危うく変装がバレることもあった。そしてマコはキノと結婚し、その連絡を芦川にもしていたのだった。
「真琴、おまえが結婚するって知ってたら」
「知ってたら?」
「絶対、邪魔したさ」
マコは芦川を見た。
「やめてくださいよ」
彼女は強引な彼の言葉に躊躇う。でも、一途すぎる芦川の気持ちも、今となってはわかっていた。
「先生、私の幸せってわかる?」
「おまえの幸せか」
二人は並んで歩いている。
「そう、私の幸せは好きな人の傍にいて、ずっと守ること」
「俺だって、おまえを守る自信はあるぞ」
「違う。私が守るの」
マコは胸に手をあてた。
「池で助けてくれたキノ。あの子がいなかったら、私はここにいなかった。もし、命と引き替えで死ぬことになっても、私は守るの、あの子を」
「真琴……」
「あの子の笑顔がずっと、見れるまで」
マコの瞳の中には、キノの顔が埋め尽くされているように芦川は感じた。
「そうやって、生きていくことが私の幸せなの」
「あいつは……、真琴が一番に守りたい奴なんだな」
頷いて微笑むその笑顔に打ちのめされる芦川は、大きくため息を漏らす。
「でも、俺もおまえの笑顔が見たいからな。寂しそうな顔してたら、俺も守ってやる」
マコは前を向いて、再び頷く。そしてその瞳はキノがいる病院へ注がれていた。




