その14
14
病院の待合室は薄暗かった。今日は休日なので点灯している照明が少ない。季節は夏に向おうとしているのに、ここだけ晩秋のような静けさだ。エアコンがいやに効きすぎているように冷たい。そこには他の人影はなく、片隅の壁にもたれている男だけだった。その体は疲れきっているのか、目を閉じて無防備な姿を見せている。
キノはその男まで歩んでいった。足音が側までくれば気付くとはずだったが、目は開かない。顔前の直立して少し声を上げて言った。
「緒方」
疲労しきっているのか反応はない。右手を伸ばして肩を静かに揺らした。
眉間がピクリと反応し、ゆっくりと瞼が上がっていく。
「緒方」
開いた瞳の先に、水玉模様の白いワンピースを着たキノが立っていた。
「……せ、先輩?」
慌てて立ち上がる。しかし体のバランスを取れず膝折れした。素早くキノは右腕を掴んで支える。
「緒方、大丈夫か? 相当疲れてるね」
「鈴美麗先輩……」
キノは彼を椅子に座らせた。その隣にキノも並んで腰掛ける。緒方は思わず振り向いた。少し暗い中に浮かぶ、長い髪と白い肌、大きな瞳を見つめ、視線を逸らす。
「でも、先輩どうして、ここに」
「マコが教えてくれた」
はっとして、もう一度キノを見る。
「花宗院先輩……。話してくれたんですね」
「彼女も相当、悩んだけど……、らしい」
キノは頷いた。
「嬉しいです。こんな形でも、先輩にもう一度会えるなんて」
緒方の顔は変わらない。あの時のままだ。
「ずっと、空ちゃんに付き添ってるのか」
「はい……」
二人は無言になった。キノも何を話していいのか見当がつかない。
「先輩……、あの時の傷、まだ……、痛みますか」
不安げにキノを見る。
「大丈夫だよ。もう全然。いつでも闘えるよ」
緒方は思い出したように笑った。
「闘う。相変わらず、強いですね、先輩は」
「強いよ。いつも、そうだろ」
キノのその端正さを増した顔と微笑みに釘付けになる。
「ほら、これ買ってきた」
キノは彼に缶コーヒーを差し出した。
「あ、ありがとうございます」
二人はそれから最近の話しをする。
「花宗院先輩の彼氏に会いました」
キノは咳込んだ。慌てて、ハンカチで口元を拭う。
「まるで、先輩みたいな綺麗な人でした」
「彼氏が?」
少し眉間に皺を寄せて考え込む。
男装していた訳ではない。正真正銘の男子だったけど、とは言えない。
「凄くお似合いでした。先輩の方はどうなったんですか」
緒方は真摯な顔で見つめる。
「先輩は……」
「まだまだ、いや全然足りない感じ。でもやってやる」
男が拳を震わせた。
「鈴美麗先輩、僕は、今でも先輩が」
「緒方!」
言葉を遮るように、キノは声を上げる。
「……空ちゃんに会えるかな」
それ以上は言わせてはならなかった。口に出せば、これまでの彼の意志が揺らいでしまいそうに思えたからだ。自分と再会することで、以前の感情に潰されるようなことになってはいけなかった。マコもそれを恐れている。
「先輩……」
キノは先に立ち上がる。拳で緒方の頭を小突いた。
「あの時の約束、覚えているのか、おまえは」
細い腕を見上げると、微笑んでいるキノがいる。
「はい」
逆に緒方は口元を引き締めた。
「真琴、あんまり笑わないな」
スパゲティ専門店でカルボナーラを食べながら、芦川は呟く。
「そんなことないですよ」
マコは愛想笑いをした。急いで紅茶を啜る。
「いや、笑ってない。俺と居るのが、そんなに面白くないか」
フォークをくるくる回しながら絡めてパスタをすくい上げ、口へ運んだ。
「真琴は、笑ってる顔がいいんだよ」
マコの瞳が男を捉える。
「おまえの素敵なところは、笑顔だよ。俺はそれが凄く好きなんだ」
言いながら、芦川は黙々と食べていた。まるで照れている自分を隠すかのようにも見える。
「そんな笑顔を奪ってるあいつは、今、何してるんだ。そんな奴は、俺は好かん」
芦川を眺めるマコは表情を柔和にした。
「……先生」
「真琴、先生はやめろ。俺はもう、おまえの先生じゃない。貴文って呼べ」
思わずマコは吹き出す。それから暫く彼女は笑った。
「それだよ。可愛いぞ、真琴」
芦川はフォークで指し示す。
「ありがとう、貴文さん」
マコはそう答えた後に、照れながら笑った。
「いいね。やっぱり、それだよ。おまえは」
名前で呼ばれて男は満足気に頷く。黙々と頬張る顔を見ながら、マコはポツリと呟いた。
「これって、口説かれてるの?」
「昔からずっと口説いてるじゃないか」
マコは慌てて紅茶を啜る。
「今となっては、本気と冗談が半分ずつか」
芦川は大笑いした。つられてマコも微笑む。
「大切か、あいつのこと」
「うん」
マコの輝く瞳が何よりもその想いを語っていた。
「勝てないか」
芦川は頭を掻く。
「でも、先生。ちょっと嬉しい」
愛らしい笑顔に、少しだけ満足気な顔をして芦川は照れた。
「だから、先生はやめろって」