⑨
僕はしばらくの間、父の手の中で鈍く輝く、少し青みがかった古風な鏡を見つめた。
緊張してこわばった自分の顔が、夏の宵闇を思わせる色合いの鏡面に映っている。
しかし、別にそれ以上何がある訳でもない。
どうしたらいいのかわからず、僕は、途方にくれた気分でただじっと、父の手の中にある鏡を見ていた。
どのくらい、そうしていただろう。
不意に、鏡に映る僕の首筋に、得体のしれない黒い紐状のものが絡んでいるのに気付いた。
何だろうと思った次の瞬間、不気味な黒い紐は身体中をまさぐるように全身に絡みついているのに気付き、文字通り驚愕する。
(……綺麗だ。なんて綺麗な子なんだ。ここまで僕の理想そのものの子が実在するなんて信じられない)
(首筋も綺麗だ。細いけどただ細いんじゃない、青年へ移ろう手前、幼さと男らしいたくましさが同居する、このほのかなのどぼとけの線がいい)
(肩も脚も背中も美しい。このまま剝製にしてしまいたい……ああでも。それでは生きて動く彼を見ることが出来なくなる、悩ましい話だ。アポロンが愛したヒュアキントスは、きっとこんな少年だったんだろうな)
「……やめろ」
ずっと聞かないふりをしてきた、望月の心の声が耳にわんわん響く。
(綺麗だ)
(触れたい)
(肌はどんな味で香りで……舌触りだろう)
「う……うるさい!うるさいうるさい、いい加減にしろ。気色悪いんだよ!」
叫び、きびすを返そうとした瞬間、キィイイィン、という激しい耳鳴りが響いた。
途端に身体の自由が利かなくなる。
『逃げるな。己れの真の姿を知れ』
父の声が覆いかぶさるように降ってくる。
「これのどこが『己れ』だよ、父さん!望月の妄想と、気持ちの悪い独り言じゃん!」
追い詰められた気分で叫ぶが、金縛りめいた感覚は揺るぎもしない。
瞬きすら出来ず、僕は、鏡に映る自分を見ているしかなかった。
と。
さながら空気か霧のようだった黒い紐状のものの質感が、不意に変わった。
温度と湿度がにわかに加わり、ぞわぞわ蠢き始めたのだ。
「ひっ」
喉の奥が小さく鳴る。
襟や袖口から、ひも状のものがそろそろと忍び込んで肌をなぞり始めた。
身体中を蠢く、人肌ほどの温かさの湿った感触。
全身の毛が逆立ち、ぞおっとする。
(触れられるのがそんなに嫌なのかい、僕のヒュアキントス)
笑みを含んだ望月の声が、なぶるようにささやく。
(嫌だと思っているのは君の頭だけだよ、ヒュアキントス。難しいことなんか考えないで……感覚にだけ素直におなり。君の頭がどんなに嫌がっていても、身体はちゃんと応えようとしているよ)
下腹をまさぐられる感触に、思わずビクッとのけぞる。
(ふふ、可愛いね)
勝ち誇ったようにそういう男の声。
殺意が湧き上がる。
それは瞬くうちにふくれあがり、僕の全身にみなぎる。
考えるより先に、ちくしょう殺してやる、というつぶやきがもれる。
【……お前はその男に『普通でない欲』を向けられ、何故嫌なのかどう嫌なのか、相手をどうしたいのか、一度じっくり、冷静に考えてみろ。解決の糸口はそこからしか得られない】
冷ややかなツクヨミノミコトの声が不意に聞こえた。
途端、くじかれたように殺意はしぼんだ。
奥歯を噛みしめるようにして姿勢を正し、僕は、鏡をにらみつける。
青ざめ切った顔でこちらを見ている自分。身体中で蠢く黒い紐。
【何故嫌だ?】
父のようなツクヨミノミコトのような声が、僕へ問う。
「決まってる。気持ち悪い!」
僕は叫ぶように答える。
【何故気持ち悪い?】
「僕は同性に興味なんかない!」
【じゃあ異性ならいいのか?】
「異性でも……同性よりかはマシなだけで。そもそも勝手に触られるのなんて嫌だ。この身体は僕の身体だ、他人を気持ちよくさせる為にあるんじゃない!勝手に身体中をまさぐられるなんて……吐き気がする!触るなぁあ!」
絶叫したが、黒い紐は消えない。
【……彼は触っていない。触りたいと思っているだけだ。触ったとしたらこうだろうかと妄想しているだけだ】
「わ、わかって、る……」
身体の奥で何かが折れるような気がした。
情けなくて泣けてくる。
「僕が感じ取れるだけで……あいつは確かに、僕に触れていない……」
身体中が急にガクガク震える。
「触れていない、けど。触れられるのと同じような感触がずっとあって、気持ち悪くて耐えられないんだよ……」
絞り出すようにそう言った途端、僕は腰が砕けたように座り込んでしまった。
「ずっと妄想され続けるくらいなら、もういっそ、あいつに抱かれてやろうかなんて投げやりなことも考えるけど。でも、そんなことしたらもっと妄想がひどくなるかもしれないし」
【望まない相手と身体を重ねるのは、お互いにとって不幸だ】
冷ややかでありながらもどこか優しく、なだめるように声がそう言う。
僕は泣きながらうなずいた。
【……で。結局お前はどうしたいのだ?】
僕は涙を呑んで顔を上げ、もう一度、鏡の中を見つめた。
「僕が、真名の通り『言の葉を真にする者』ならば。あいつからだけじゃなく、妄想のセクハラを感じないようにしてくれと……望みます!」
【望みには責任と結果が伴う。それに、本来感じるものを感じないで一生を過ごすのは、さすがに無理だぞ。場合によるとお前は狂う。それでもかまわないのか?】
「このままだと今、狂ってしまいます。この望みが叶わないなら、いっそ殺して下さい」
【わかった。お前の言の葉は真になるだろう】
「ツクヨミノミコトへ申し上げる。当代の月の鏡として、親族の郎子へ言祝ぎを与えることをお許し下さい」
少しあわてたような父の声が突然、辺りに響く。『月の鏡』というより、『父』の声だった。
声の主が短く嗤う。
【……親心だな、月の鏡。許す】
ありがとうございます、と礼を言って頭を下げる父の姿が不意に見えた。
『鏡』はいつの間にか、この場から消えていた。
「さて。とんでもないことを望んだな、真言。だがそう望みたくなるのもわかる」
頭を上げた父が、少し苦しそうに顔をゆがめながら僕を見て、言った。
「神崎真言、お前の望みは叶うだろう。必要がなくなる、その日まで。本当の恋を知る、その日まで。我は言祝ぐ、親族の郎子に幸いあれ!」
父の言葉……否。
近年では最高の『鏡』であろう神崎理の渾身の言祝ぎが、僕の全身を飲み込むような勢いで覆いかぶさってきた。
ふっ…、と気が遠くなり。
次に気付いたのは翌朝遅く、自室の布団の中だった。




