⑧
よろめくように近付く僕へ、父は一瞬、哀しそうな一瞥をくれた。
そして小さな息を落として軽く目を伏せた後、真顔になった。
父としてではなく、月の氏族の束たる『鏡』の顔だ。
「真言。お前の気持ちが察せない訳ではない。あれがどんなにつらいのかも……私自身が来た道でもあるからね。だが」
にわかに父に瞳に鋭さが増す。
「……お前は彼へ、何をしようとしたのだ?」
答えようとしたが言葉が出てこなかった。
そもそも、アレは考えてやったことではなかった。
とにかく望月が疎ましく憎くて……殺してやりたい、衝動が抑えられなくなった。
「お前は彼をどうしたいのだ?」
「ど、どうって……」
消えてほしい。
いなくなってほしい。
いやらしい思いを持って、頭の中で僕を蹂躙しないでほしい。
そんな言葉が浮かんでくるが……ではその為に具体的にどうしたいのかと問われたとしても、曖昧模糊としていて明確に見えない。
あの瞬間の殺意は本気の本物だったが、あくまであの瞬間、衝動的に湧きあがっただけだと今では思う。
彼が僕へ関わってさえ来なければ、殺したいとまでは思わない。
子供のようなあどけない顔で父を見上げ、英文をくり返していた望月を思い出し、僕は複雑な気持ちになった。
あの少年のような彼が、彼の芯にはいる。
彼は僕を、死にたいくらい追い詰めるが、彼の根本に悪意はない。
ただ性の対象が同性と言うだけ、密かに妄想をして楽しんでいるだけ。
それ以上ではない、少なくとも今、現時点では。
これは彼の側の問題ではなく、感じ取れてしまう僕の問題だ。
「お前は彼へ、月の氏族の霊力をぶつけた」
感情の読めない顔で父は言う。
「今まで少しずつ説明してきたとは思うが、我々の持つ霊力の方向性は、『夢』への干渉や働きかけだ。相手の強い思い……妄想に蹂躙されてしまうのは、この力の反作用というか、副作用のようなものだ」
僕は曖昧にうなずく。
「夢……人の心を時になだめ時に狂わせ、操る。それが我々の霊力だ。扱い方ひとつで簡単に狂気の闇へと堕ちる力だ……相手もろとも、己れも」
ぎくっとした。
今まで何度か聞かされてきた話が、いきなり実感を伴った。
父はわざとのように淡々と言葉を紡ぐ。
「厄介だが、我々の血にはそういう際どい能力が潜んでいる。お前がさっき無意識でそうしたのはわかっているが……お前は彼へ『呪』を向けたのだぞ」
「え?」
瞬間的に望月へ殺意は向けたが、それが『呪』だとまで僕は思っていなかった。
「『呪』は相手だけでなく、己れをも傷付ける諸刃の剣だ。だからこそ、その方向へ霊力を使ってならないと代々戒められてきた」
父はそこで、ひとつ大きく、息をついた。
「……人の心というのは、扱いが難しい上、怠け者だ。一度『呪』に慣れてしまうと、己れを不快にする者すべてを呪うことで解決しようとしてしまう。そうなるともう、人間とは言えない。『鬼』『祟り神』と呼ばれる存在になってしまう。『鬼』『祟り神』になってしまった親族は、月の鏡が責任を持って鎮めることになる。……どういう意味か、わかるな?」
僕はうなずいた。
全身にじわじわと嫌な汗がにじむ。
あのまま望月を呪殺していたら、僕はおそらく父に鎮められ……つまり殺される。
「真言。我々の束が何故、月の『鏡』と呼ばれるか、考えたことがあるか?」
虚を衝かれた。
月の氏族の束を『鏡』と呼ぶのは、昔からの習わしだとぼんやり思っていて、改めて何故かなど考えたこともない。
父は不意に胸の辺りまで腕を持ち上げ、てのひらを上に向けた。
ゆらり、と陽炎のようなゆらめきと共に、父のてのひらの上に丸い板状のものが現れた。
彼はそれを丁寧に持ち直すと、面の部分を僕へ向ける。
あまり顔色の良くない自分の顔が、その丸い面に映っていた。
三角縁神獣鏡、という単語が頭をよぎる。丸い板は銅鏡らしい。
「己れの心は己れのペースで、ゆっくり向き合うのが望ましい。だが……必要ならば。荒療治を行う。行える者を『鏡』と呼んできたのだ」
目の前が何故か、ふうッと暗くなるような気がした。
「真の言の葉を語り、言の葉を真にする者であれかしと名付けられし者……神崎真言。当代の月の鏡・神崎 理の言の葉を聞け」
頭の内側で、父……『鏡』の声だけが響く。
「我は理を知り、理を生きるものであれかしと名付けられし者なり。我が真名において、神崎真言へ命じる。『鏡』を見よ、目をそらさずに。そして……己れの真の姿を知れ。ツクヨミノミコトのお言葉を胸に、己れの真の姿を知れ」
(己れの、真の姿……)
丸い鏡に映る自分の青い顔を、僕は見つめた。