⑦
そんな話をした日の午後。そろそろ夕方だった。
僕は居間で本を読んでいたし、父はアトリエで絵を描いていた。
僕の体調が良くなってきたので、両親の生活も常のペースに戻りつつあった。
本を読んでいるうち、僕はこのお話の挿絵を描きたくなった。
龍にまたがったまだ幼い勇者。
風のにおいが鼻をかすめた、気がした途端、猛然とこの主従を描きたくなった。
スケッチブックを部屋から持って来て、僕は夢中で鉛筆を走らせた。
不意に玄関で呼び鈴が鳴り、我に返った。
自分でも気付かないうちにかなり集中していたらしい。
玄関へ向かって返事をし、僕は何も考えず表へ向かった。
そして玄関を開け……硬直した。
玄関にいたのは望月だった。
何故どうしてという言葉が頭をよぎる。
担任教師が長期欠席の生徒の様子を見に来るくらい、冷静に考えれば当然だろうが、いきなりこの男が現れたことで僕は、完全にパニック状態に陥った。
「……神崎君」
白っぽい夏の始めの午後の光を背に、ほっとしたように望月は笑う。
「良かった、ずいぶん顔色が良くなったじゃない。でもちょっとやせたかな?」
逆光の作る薄闇に、望月の生白い顔が浮かんでいる。
蛇に睨まれた蛙のように僕は、硬直して望月の顔をただ見た。
彼は僕に『普通ではない』欲を持っているが、だからこそと言うべきか、生徒の中でも僕を気に入っているはず。
校内で体調を崩した気に入りの『生徒』が回復している様子に、彼は本気で良かったと思っていただろう。
そう、そこを疑ってはいない。
だがそれ以上の感情が、湿り気のある熱気を伴って僕に絡みつく。
首筋に、胴に、脚に。
一瞥の中に込められた、彼自身も無意識と紙一重のところでの……視姦!
「……う」
息が詰まる。
のどの奥で、鈍い不快な音が鳴る。
酸っぱいものがせり上がってくる感触。
「えーと、お父さんかお母さんはいらっしゃるのかな?」
いかにも教師らしいことを言うのん気そうな望月に、僕は生まれて初めて、本気の殺意を抱いた。
その瞬間、両のてのひらがいきなり熱くなった。
「もちづき……しんや」
呪詛のように僕は、目の前の男の名を呼んだ。
はっきり聞き取れなかったのだろう、望月は問うような目で僕を見た。
「望月、慎也!」
下腹に力を込め、僕は、殺意を込めて男の名を呼んだ。同時に両のてのひらを男へ向ける。
考えるよりも先に僕は、血に潜む本能のまま霊力をぶつけていた。
「己れの真の姿を知れ」
焼けそうにてのひらが熱い。怪訝そうな望月の顔が、一瞬のうちに恐怖で固まる。
「この、下衆野郎が!」
叫んだ瞬間、キィイイィンとでもいう激しい耳鳴りがし……、気が遠くなった。
ハッと気付いた時、僕は『神の庭』にいた。
『神の庭』の白い大地に、仰向けに寝転がっていた。
深い深い青い空を、呆けたように僕は見ている。
そして、雲のように見えるのに白の大地は意外と硬いのだな、と、ぼんやり思った。
……『神の庭』、だと思う。
真白の大地に紺碧の空しかない場所など、そこしかないのだから。
だがなんとなく違和感がある。
身体の奥からしんとして透き通るような、あの場所独特の空気感とは少し違う気がする。
思いながら僕は、ふらりと身を起こした。
「……我は当代の月の鏡・神崎 理。理を知り、理を生きるものであれかしと名付けられし者なり。我が真名において、ここに月のはざかいを敷く」
父の声だ。驚いて僕はそちらへ首を向ける。
再び、キィイイィンという激しい耳鳴りがした。
思わず僕は、きつくまぶたを閉じた。
しばらくして耳鳴りが治まり、ほっと息をつきながらそろそろと目を開けた。
少し離れたところに父がいる。
父、だが……いつになく力強さを感じられる空気をまとい、僕に横顔を見せる形で彼は、すっと立っていた。
良くも悪くも優し気な、いつもの父のたたずまいではない。
「望月慎也。起きなさい」
静かに命じる声に半身を起こすのは、確かに望月だ。
どこかおどおどしたというか、頼りなげな雰囲気だったが。
父が言う。
「あなたの正確な真名は知らないが、おそらく。慎みを持つ者・慎みを知る者也との願いから名付けられたであろう。その名に恥じぬ生き方をするように、と。この場の主として我はあなたを言祝ぐ。慎みを持つ者・慎みを知る者……望月慎也、と」
「は、はい……」
呼び掛けへの返答は呪術の基本。
そんなことをぼんやり思いながら僕は、二人のやり取りを見ていた。
「Mr.Motiduki」
不意に父は、発音を英語風に変えて望月に呼びかけた。
「Repeat after me.You have to go home」
「ゆ……You have to go home」
望月は茫然としながら父の言葉をくり返す。
ふっ、と父は笑む。
それは、実の息子である僕でさえ一瞬ゾクッとするくらい、蠱惑的な笑みだった。
「You don't have to go home」
父がささやくように甘く言う。
望月は馬鹿のように父を見つめ、くり返した。
「You don't have to go home」
「OK.Good boy」
褒められ、望月は子供のような顔ではにかむ。
「では……Mr.Motiduki.Answer my question」
「イ、Yes,Mr.Kanzaki……」
「Do you have to go home?」(あなたは家へ帰らなくてはならないのですか?)
「イ、Yes,Ⅰ do……」(はい、そうです)
望月がそう答えた途端。
その場から彼は、煙のように消えた。
父は大きく息をつくと、不意に僕を見た。
今まで見たこともない、ギョッとするほど険しい表情だった。
「さて……次はお前だ。真の言の葉を語り、言の葉を真にする者であれかしと名付けられし者……神崎真言!」
心臓をつかまれたような衝撃に、僕は息を止める。
「こちらへ……」
顎でしゃくるように命じられ、僕はほとんど無意識のまま立ち上がり、父の前へ向かった。