⑥
「……我は月夜見命の末裔に連なる者。真の言の葉を語り、言の葉を真にする者であれかしと名付けられし者なり。我が真名において命じる」
まぶたを閉じて呼吸を調え、僕は唱える。
「我を神の庭、生と死の狭間たる神と人の故郷へ」
唐突の、激しい眩暈に似た感覚。
足腰に力を入れ、倒れるのだけはどうにか耐える。
ゆっくりと息をつき、そろそろと目を開けた。
真白の大地。紺碧の空。
他には何もなく、誰もいない。
『神の庭』『生と死の狭間』と呼ばれている、この世ならざる場所だ。
僕は一人で真白の大地に立ち、ポカンと紺碧の空を見上げる。
(初めて……来れた)
父から話にだけは聞いていた場所だ。
今まで何度か試したが、実際に来ることが出来たのは初めてだ。
『行けばわかる、としか言いようのない場所だな』
父の言葉が耳によみがえる。
『あそこにはツクヨミノミコトとお呼びしている、我々の神がいらっしゃる。お会いできるかどうかまではわからないが、少なくとも将来、月の鏡になるくらいの能力者ならば、遠くからでもかの方にまみえることは出来るだろう。お会いしたら……ただ真摯にお話を聞き、答えるように。我々に出来るのはそれだけだ』
(なる、ほど……)
こんな場所など他になかろう。
雲か霧を思わせる白い大地。
深い深い青の空。
どこから光が来ているのかわからないのに、あっけらかんとひたすらに明るい世界。
どのくらいそうしていただろう。
ふと僕は、父の言葉……言霊を思い出した。
『心は自分だけのものだ』
(つまりこれが……心の中)
『神の庭』『生と死の狭間』。
その名で呼ばれるこの場所こそが、己れの心の最奥。
(本当に……誰もいない)
己れだけ。恐ろしいほどに。
(そう、か……)
確かにこの世界を乱せる者はいないだろう。
僕が生きて僕である限り、誰もここへは、立ち入ることさえできないのだ。
【その通りだ、月の氏族の子】
冷ややかな若い男の声がした。
思わず辺りを見回すが、声の主は見えない。
【どうやらお前、あまり『目』は良くないらしいな、他はそこそこ能力がありそうだが。では……上を見ろ】
声の導きのままに空を見上げると、紺碧の空にいつの間にか、ぎくりとするほど大きな大きな朧月があった。
「ツクヨミノミコト……」
思わずつぶやくと、声は鼻を鳴らすような感じで短く失笑した。
【そう呼ばれるな、お前たちには。だが、我は別にお前たちの祖先ではないぞ。お前の血筋と近しいモノではあるかもしれんが】
「どういうことですか?」
僕の問いに、ツクヨミノミコトは短い失笑を返すだけだった。
【そんなことを訊きにきた訳ではあるまい?訊きたいことだけを簡潔に訊け】
突き放すようにそう言われ、僕は、今一番僕を悩ましている問題を思い出す。
「あの、お、お訊きしてもかまわないでしょうか?」
【自力でここまで来た子供を、さすがに門前払いにはしない。もっとも、それがお前の求める正解かどうか、我とてわからないがな。神などと呼ばれているが、我は全知でも全能でもない】
傲慢な口調に似合わず妙に謙虚なことを、声……ツクヨミノミコトは言う。
僕はひとつ大きく息をつき、問うた。
「実は僕は今、担任の男の教師に、その、普通ではない、欲を持たれています。その……授業中であろうと関係なく……」
ふん、と、ツクヨミノミコトは短く嗤う。
【つまり、担任の教師に欲情されて困っているのか?確かにお前の感覚なら、相手の強い妄想を生々しく受け取ってしまうだろうからな。放っておけというのが一番簡単な答えだが、お前が芯から困っているのもわかる。……そうだな。お前はその男に『普通でない欲』を向けられ、何故嫌なのかどう嫌なのか、相手をどうしたいのか、一度じっくり、冷静に考えてみろ。解決の糸口はそこからしか得られない】
「……は?」
間の抜けた声を出す僕へ、ツクヨミノミコトは再び失笑した。
【期待外れか?言ったであろう、我は全知でも全能でもない、とな。我に問えばすべての疑問が解決する訳ではないし、我に願えばすべての望みが叶う訳でもない。我が出来るのは手助けのみ、お前の問題はお前自身で解決するよう努めよ】
「は、はい。あ、ありがとうございました」
どもりながらそう答えた次の瞬間、僕は自宅の庭に戻っていた。
「真言。『神の庭』へ行けたようだね」
少し離れたところで見守っていた父が声をかけてきたので、うなずく。
特に何かが変わった訳ではない。
が、閉め切ってよどんだ部屋へ清々しい風が吹き抜けたような、そんな気分だった。
学校を休み始めて丸一週間。
吐き気も治まり、普通のものが食べられるようになってきた。
ある日、病院の帰りにハンバーガーショップへ寄ってもらい、フライドポテトとコーラを注文した。
ここしばらく重湯に近い粥ばかり食べていたせいかもしれない、急に塩気のきついジャンクフードが食べたくなった。
フライドポテトもコーラも、身体中の細胞に沁みるように旨かった。
ものも言わずにフライドポテトへ手を伸ばす僕を、父は、ほっとしたような憐れむような笑みを浮かべ、ハンバーガーをかじってブラックコーヒーを飲んだ。
学校を休み始めて十日。
食事がとれなかった時期に落ちた体重は戻っていないが、さすがに体調は良くなっていた。
普通の食べ物を、普通に美味しく食べられるようになってもう三日ほど経つ。
週明けには学校へ行こうかと、ぼんやり思い始めていた。
「そうか」
父はほっとしたように笑んだ。
「そんな気になってきたのはいいことだが。……ツクヨミノミコトからいただいた助言、お前なりに答えが出たのか?」
「答えが出たって言い切れないけど」
考えながら僕は言う。
「僕の心は僕以外の誰にも支配出来ないんだから、あんまり怯える必要もないかなって、思えるようにはなってきたかな?面と向かって平気でいられる自信が、あるとまでは言えないけど」
父はうなずいたが、少し心配そうに眉を寄せた。
「早く答えを出そうと焦る必要はないから、自分の心を静かに見極めるんだよ」