⑤
保健室のベッドで横になっていると、父が迎えに来た。
望月に指示されたクラスメートの誰かが僕の荷物を保健室まで持って来てくれていたので、そのまますぐ帰宅した。
僕の顔色を見、父はすぐあらましを覚ったらしい。苦しそうな目になって、小さく息をついた。
保健室へ向かおうと教室を出た途端、僕は猛烈な吐き気に襲われた。
廊下のつきあたりにある手洗い場まで小走りで行き、堰が切れたように胃の中のものをぶちまけた。
幸い四時間目が終わったばかりの今、胃の中は空だ。
苦くて黄色い胃液しか出ない。
「神崎君!」
叫ぶように僕の名を呼び、えずく僕の背を強くさする者がいる。
その人からは心配や気遣いの気配しか伝わってこない、僕の身体に直接触れているというのに。
人間というのは不思議な生き物だな、と、胃液すら出なくなってもおさまらない吐き気に苦しみながら、僕は妙に冷静にそう思った。
余計な妄想をせず、今のようにただ、担任の教師でいてくれればいいのに。
そう思ったのまではなんとなく覚えているが、そこから先、ベッドに横たわって茫然としている今まで、断ち切られたように記憶がない。
保健の先生が言うには、僕は意識をなくした状態で望月に抱えられ、保健室に運び込まれたらしい。
再び吐き気がした。
あの男は、意識を失くした僕を抱えて保健室へ向かう最中、おそらく邪まなことなど考えなかっただろう。
そんな余裕もなかったはずだ。
あの男は善人とは言えないが、とんでもないクズでもない。
自分の職務からもひとりの人間としても、体調を崩して激しく吐き、おまけに突然気を失ってしまった子供を本気で心配したはずだ。
だが……驚きや心配が治まると彼はきっと、自分のてのひらや腕に残る、僕の身体の感触を思い出す。
そしてその生々しい感触に、今後、あの男は苦しむのだ。
「……くそっ」
ひとりごち、唇をかむ。
何故よりにもよって、望月の目の前で意識を失くしたのだ、僕は。
まぶたをきつく閉じると涙が浮いてくる。
自分自身にも望月にも、腹が立って仕方がなかった。
言葉もなく僕は父と、校門へ向かう。
夏の初めのやけに明るい午後の陽射し。短く濃い影が足許にある。
吹く風はすでに、夏の気配を濃く孕んでいる。
校門のすぐそばに半ば無理矢理止めた車へ、僕たちは乗り込む。
スイッチを入れたエアコンの吹き出し口から、生暖かい風が吹きつけてきた。軽い吐き気がぶり返す。
シートベルトを巻き付け、大きく息をつきながら僕は、助手席のシートにぐったりと身体をあずけた。
「真言」
エンジンをかけながら父は、不意に僕を呼ぶ。ぼんやり顔を向けると、父はちらっと僕を見ると、かすかな苦笑いをひとつ、落とした。
「真言。心は自分だけのものだ」
二重三重に深く強い意味を持つ、重みのある言葉。
『言霊』と呼ぶべき言葉。
思わず息を呑んだ僕へ、父は真顔になる。
「お前の心はお前だけのものだ。他人から強い影響を受けることはあるが、お前以外の誰であっても、お前の心を支配出来ない。忘れるな」
父、というよりも、当代の月の鏡としての助言だった。
「……はい」
答え、僕は軽く目を閉じて再びシートへもたれかかる。
額の辺りが何故か、ぼんやりと熱かった。
僕の不調は持病でもある『自家中毒』、近年『アセトン血性嘔吐症』と呼ばれているものの発作だ、と学校側には説明した。
吐き気が治まらず、食事どころか水すら満足に飲めないという理由で、しばらく学校を休むことにした。
嘘ではない。
僕は父に連れられ、母が内科医として勤務している市の総合病院へ毎日通院し、点滴治療を受けていた。
並行して父の手ほどきを受けながら、次代の月の鏡に必要な修練も念入りに行うことにした。
望月の妄想を止める手立てがない以上、僕自身が強くなるしか対処法がないからだ。
「本音を言うなら、学校に行かないのが一番だけどね」
月の氏族の末裔でない筈の母が、あっさりとそんなことを言う。
「不必要なストレスを受けてまで、学校へ行くことはないんじゃない?なにも学校だけが教育機関じゃないんだから。勉強のことを考えるんなら、自宅学習や通信教育や、いくらでも手はあるんだもの」
「学校は勉強だけの為に行くところじゃないよ」
困ったような顔で父が言う。
「もちろん、命を削る無理をしてまで行くところじゃないけど。学校は、社会で暮らす為の訓練だからね……特に我々の血筋の者にとっては」
母はふっと苦笑いをする。
「理さん、この持論だけは曲げないのね」
「曲げないよ」
父も少し、苦く笑う。
「人間はやっぱり、人間と一緒に生きてゆかないと。気の合う奴とも合わない奴とも、ある程度は付き合う訓練が必要だ。学校は、そういう意味では最適な場所だからね。真言に一生、ガラスケースの中で保護するしかないような人生を送らせるつもりかい?」
母は不意に頬を引く。
「たとえ……ひどい妄想に苛まされるとしても?それも担任の先生に」
父は静かに母の目を見て言う。
「妄想の対象になるのを怯えていたら、この血筋の者は死ぬしかないのだよ」
母は絶句した。