④
望月は、教師としてそう悪い男ではなかった、と今では僕も思う。
仮に、彼が僕へではなく、女生徒の誰かへ同様の思いや欲望を持っていたとしても。
それを行動に移しさえしなければ、やはり良い教師だったろうとも。
実際、彼は僕に対して直接的な行動など一切取らなかった。
彼はただ、頭の中で妄想を弄んでいただけだ。
妄想、どれほど執拗であろうとただの妄想だ。
妄想以上へ進めなかった彼に罪はない。……ない。
テキストを音読しながら彼は時々、教室の中を歩く。
望月の発音はそう悪くないと思う。
少なくとも、極端に耳に障るような発音ではなかった。
ネイティブの耳ならきっと、日本語訛りの英語だと感じただろう。
が、流暢すぎる英語は日本語に慣れた耳には違和感があり、聞いているだけでむずがゆいというか照れ臭くなり、授業に集中できない。
逆にガチガチの日本語訛りの英語というのも、たとえ中学生の耳であっても違和感があってこちらも集中できなかったはずだ。
公立の中学教師に相応しい、いい感じに垢ぬけない発音だったろう。
「……You have to go home. あなたは家に帰らなければならない。三人称の場合はhas toになります。例文2のように He has to go home. 彼は家に帰らなければならない、と……」
解説をしながら望月はゆっくりと机の間を歩き、教壇へ戻る。
その直前に僕の席のそばを通り、首筋を一瞥したのが感じられた。
彼は黒板の前に立つと、板書を始める。
「have to の否定形は『don't have to』、三人称なら『doesn't have to』になります。ナニナニする必要はない、という意味になりますね。疑問文にする場合は……Mr.kanzaki」
流れるように彼は僕の名を呼ぶ。とても自然に。いかにも授業中の教師のように。
呼んだ瞬間、粘りのある熱気が押し寄せるが、でもそれがわかるのは僕だけなのだ。
「Mr.kanzaki、どういう形になりますか?」
僕は立ち上がり、答える。
首筋にねっとりとしたものがまとわりついて全身がぞわぞわするが、目を伏せ、ひとつ息をついてやり過ごす。
心と感覚をずらす、とでも言おうか。父に教わった対処法のひとつだ。
感覚から強いて気をそらせ、『何も感じていない』と身体に言い聞かせれば少しの間はやり過ごせる。
痛みをこらえる為、歯を食いしばる感じ……に近いかもしれない。
来るとわかっている不快な感覚は、身構えれば耐えやすくなる。
「DoやDoesを前につけます。だから例文1や2は、Do you have to go home? Does he have to go home? になります」
「Very good!」
嬉しそうに望月は言い、黒板へ向かって板書を始める。僕はホッとし、席に着いた。
「では…… Repeat after me. You have to go home. You don't have to go home.……Do you have to go home?」
望月の後を、やる気の無さそうな級友たちの声が続ける。
唱和している僕の耳許で、声でない声が不意にささやく。
(……Ⅰ have to love you.……いや。ここは単純に Ⅰ love you.にするべきかな?Ⅰ……love……)
すさまじい寒気がし、思わず僕は身動ぎした。
素知らぬたたずまいで再び板書をしている望月の背中を、僕は一瞬、きつくにらむ。
love。
ありふれた、僕の世代の少年少女ならちょっとくすぐったい単語。
本来の意味でも十分気味悪いが、声の主が込めた『love』の意味に、吐き気がこみ上げる。
深い息をいくつか吐き、シャーペンを握りしめて頭を振り、僕は強いて、淡々とノートを埋める。
首筋をまさぐっていた粘度のあるものが、そろそろと全身を撫でまわす。
このおぞましいぞわぞわを耐えるには、僕の我慢も限界に近付いている。
手に力が入りすぎ、シャーペンの芯が何度も折れる。
のどかなチャイムの音。
望月の意識がそれたのか、途端にぞわぞわは消えた。
助かった、と胸の中でつぶやき、思わず机の上に突っ伏す。
「……神崎。神崎君」
目ざとく僕の変化に気付き、望月が呼びかける。
「どうした?顔色が悪いぞ、真っ青だ」
誰が顔色を悪くさせたと怒鳴りたくなるが、僕はのろのろと頭を上げ、ゆるくかぶりを振った。
「なんだか急に気分が悪くなってきたんです。……早退してもいいですか?」
さすがに本気で心配そうな顔になり、望月は、まず保健室へ行きなさいと僕へ言った。