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そんな暮らしを一週間ほどしたある日。
僕は、久しぶりに少し遠くへ出かけることになった。
ここしばらくは出かけるといっても食材の買い出し程度で、ほとんどの時間、家に籠ってイラストばかり描いていた。
例の、あかがね色の表紙の児童書に出てくるキャラクターを、今の画力で描いたらどうなるかから始め、好きだった童話や小説、漫画のキャラクターも自分なりに描いてみたらどうなるかなど試した。
落書き以外のなにものでもないが、時間を忘れる愉快な遊びであり、とても懐かしい、それでいて新鮮な感覚だった。
そう言えば、『楽しい』ってこんな感じだった。
ある瞬間ふとそう思い、愕然とした後に可笑しくなった。
なるほど、学生時代の『アンドロイドのような男』という誹りは正しい。
ただ、自主的引きこもり生活に入る直前、僕は、手紙をくれた出身高校の生徒会に連絡は入れていた。
自分の経験談が皆に役立つか面白いかは何とも言えないが、少しそちら……生徒会と話をしてみてもいい、と。
ウチの高校は11月第1週の金・土・日に文化祭をやる。
その時によって呼ぶOBの人数や職種はまちまちだし、この催しが例年そう盛り上がる訳でもなかった記憶もある。
うまくOBがつかまらず、流れた年もあった筈だ。
が、伝統的に生徒会唯一の催しものだし(生徒会は文化祭実行委員会の中核として裏方の方が忙しい)、催しとしては先生受けも悪くないから、完全にやめるだけの理由もないのだろう。
正直、当日(多分日曜の午後辺り)本当に参加できるか微妙だし、普段ならすぐに断りの連絡を入れていたと思う。
だが、話だけはしてみてもいいかと僕は思った。
師からの宿題として、普段は決してやらないことをやってみようと思ったのがひとつと……虫が知らせる感じも、どこかしらあった。
もちろん、今回すぐにどうこうなどという都合のいい話はなかろうが、僕を『先輩』と呼ぶ人物と繋がるであろう場所へは、高校だけでなく機会を作って訪れる努力をしたい。
一応、出身高校の先輩として訪ねるのだ。
あまりいい加減な格好も出来ない。
かといって、カチッとしたスーツを着るほどでもなかろう。
少し考え、地の厚いオフホワイトの綿シャツに、とあるアパレルショップで数年前に買った、柔らかな革製の細身の黒いネクタイをラフな感じに締めた。
チノパンでもいいが、ここはネクタイに合わせる感じで黒のレザーパンツにしよう。
トップスが全体的にダボッとしている上に袖が余り気味なので、渋い赤のシャツガーターで袖を上げた。ちょっとしたアクセントになるだろう。
足元は普段から履いている黒のローファーでよかろう。
これ以上気を遣いすぎるのもなんだかかえって野暮な気がしたので、これでいいかと思って僕は家を出た。
最近、長そでTシャツにスウェットパンツという気の抜けきった格好ばかりだったせいか、こんなカジュアルウエアでも妙にかしこまったような窮屈さを感じ、我ながら呆れた。
職場へ戻るいいリハビリだなと思い、苦笑いしながら電車に乗って母校へ向かう。
三年間通った最寄り駅の駅舎はいつの間にか、少し改修されていた。
校門をくぐる。
ここはあまり変わっていない様子だ。
まあ、学校なんてそうそう改修や改装をすることもないだろう。
正門をくぐり、本館の正面玄関へ向かおうとした時。
「あの、すみません」
という女の子の声がした。
何気なく振り返ると、重そうなくらい豊かな黒髪に太めの黒い眉、かっきりとした二重まぶたが印象的な小柄な少女が立っていた。
左腕に『実行委員』の腕章を巻いている。
「49期生の神崎先輩でいらっしゃいますか?」
緊張した面持ちでそう言う彼女。僕は思わず息を止めた。
その目。その髪。
そして『先輩』という言葉を紡ぐ口許。
……彼女だ!
言葉を失くして立ち尽くしている僕へ、彼女は不思議そうに小首をかしげた。
「あの、どうかなさいましたか?」
「あ……いや、その」
目を伏せ、ごまかすように笑みを作る。
「ごめん。君が一瞬、知り合いに見えたんだ」
「あ……ああ。それでそんなにびっくりした顔だったんですね」
納得したのか、彼女は笑った。
その瞬間。
緻密に仕掛けられたドミノが一斉に倒れ、新しい景色が目の前に広がったような心地がした。
極彩色に彩られた、新しい、だけどどこかしら懐かしい景色。
真幸くあれ、という父の声が、柔らかく僕の耳に響いた。