⑪
着替え、自室を出る。
思ったよりも肌寒い、朝夕めっきり冷えるようになった。
いつの間にか秋が深まっていたらしい。
キッチンには誰もいない。
のろのろと湯を沸かして紅茶を淹れ、買い置きのロールパンをかじる。
そういえばここ最近、こういう味気ない食事が当たり前になっている。
もぐもぐとパサついたパンを咀嚼しながら窓から差し込む陽の光をぼんやりと見、今日は何をして過ごそうかと途方に暮れる。
僕も仕事が忙しいけど、母もかなり忙しい。
同じ家に暮らしていてもすれ違うことが多い僕らは、一週間に二度か三度くらいしかまともに顔を合わさない。
顔を合わせても、何を話していいのかよくわからない。
決して嫌いなのではないが、なんとなく付き合い辛い……のが、僕にとって母という人だった。
母の側にも似たような気分があるのが、ぼんやり伝わってくる。
これは今始まったのではなく、少年の頃からそうだったかもしれない。
産前産後くらいしかまともに休まず働き続けてきた母は、いつの間にか僕と、父の仲立ちなしで上手く関われなくなっていたらしい。
母は、父を亡くした当初はさすがに気力が萎えたのか、仕事をセーブしていた。
が、ここ最近はまた以前のようにみっちり勤めている。
いや、もしかすると前以上にのめり込んでいるかもしれない。
僕自身、ややワーカホリック的な仕事の仕方をしていたからさほど深刻に思っていなかったが、母の心身の健康が今更ながら心配になってきた。
あの人だってもう若くない。決して無理は出来ないはずだ。
追い立てられるように仕事に没頭しているのは、母は母でひどく寂しいからではないかと、突然覚るように僕は気付いた。
忙しいとは心を亡くすこと、などというダジャレのような『よく出来た話』を、僕はふと思い出す。
窓越しの虚しいくらい明るい陽射しへ向かって、僕はため息をついた。
実は、師であり上司である三城先生から僕は、今日から二週間、休暇を取れと言われたのだ。
英気を養い、新たな自分と出会って来い、と。
アーティストの指示はどこかロマンティックで観念的で……対処に困る。
学生時代に出品したコンペで、選外ながら三城先生に注目していただき、以来師事している。
学生時代から、勉強半分で先生の仕事を手伝わせていただいてきた。
そして卒業後、僕はそのまま先生の事務所で勤めることになった。
時代が良かったのもあったのだろう、休むことなど忘れたみたいに僕は、先生と目まぐるしく働いてきた。
業績も順調で、先生だけでなく業界の先輩方からもいい刺激をたくさん受けた。
だが、仕事も一時期より落ち着いてきた昨今、先生と出会った最初の頃から言われている僕の課題『突き抜けるには、何かがもうひとつ足りない』の、克服あるいは克服のきっかけを、性根を入れてつかんでこいと厳命されてしまった。
「仕事だと思って、君が普段しないようなことをあえてやってごらん。そうだね、この二週間で3つは。旅行でも庭いじりでも、いっそ短期の肉体労働のアルバイトでもいい。ただ経験の最中は、答えが見つかるだろうかとかこの経験は効率がいいだろうかなんて言葉は、頭からすっぱり追い出すんだよ。その時の君が出会った何かを、ただ無心で経験してくるんだ」
延長を希望するなら更に二週間ほど認めるとまで言われた。
残っている有休のすべてを使っていい、と。
そこまで配慮してもらっては、休まない訳にもいかない。
僕は、過分なご配慮に感謝しますと礼を言って頭を下げた。
実際、世間にこんな物分かりがいい上司などいないくらい、僕もわかる。
普通の者なら狂喜乱舞するかもしれない。
しかし僕は困惑した。
色のない世界に住んでいる者は、旅行も美術館巡りもあまり意味はない。
しないよりは刺激を受けるが、それ以上にはなり得ない。
テレビに映る映像は、美しいが美しいだけ。
生々しい感動を得るには、その場で『体験』して圧倒されなくてはなるまい。
だが、僕が生々しく『体験』出来るのは夢の中だけ。
しかしさすがに二週間、ひたすら眠り続ける訳にもいかないし、眠れば必ず夢を見られるとも限らない。
そもそも、当代の『月の鏡』である僕であっても、飲まず食わずで夢をさまようなど出来ない。
……永遠に目覚めないつもりならともかく。
紅茶とロールパンの朝食が終わる。
飲み終わったカップをシンクへ持ってゆき、洗おうとしたところで気付く。
シンクの角にみずあかがこびりつき、黒ずんでいる。
よく見れば、シンクだけでなくあちこちに、くたびれたようなくすみがあるのに、僕は不意に気付いた。
そう言えばここ最近、仕事にかまけて掃除を始めとした家事のあれこれをいい加減にやり過ごしていた。
(まずは……掃除から始めるか)
袖をまくり、まずカップを洗った後、僕はシンクに漂白剤をかけた。