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 そして僕は、視界から色を失くした。



 あの日。

 目を覚ました僕は、のろのろとキッチンへ向かった。

 家中が妙に静かでひと気がないのにぼんやりと違和感を持ちながらも、まだ十分目が覚め切っていなかったからか、深刻に考えていなかった。


 しんとしたキッチンのダイニングテーブルに、置手紙があった。

 少し乱れていたが母の字だ。一読し、完全に眠気が飛ぶ。


 震えてしまう手でマグカップをつかむとポットからお湯を注ぎ、インスタントコーヒーと砂糖をぶち込み、ついでに牛乳もぶち込んで生温かいミルクコーヒーを作ると、一気に飲み干した。

 マグカップをシンクに置き、部屋へ戻って素早く着替えた。



 タクシーを呼んでいつも通っている市立病院へ行く。

 受付で名前を言い、教えてもらった病室へ小走りで向かう。

 個室のベッドに横たわっているのは、父だ。

 点滴に繋がれた状態で、土気色の顔できつく目を閉じ、ぐったりしていた。


「真言」


 気配に気付き、父が目を開けて軽く笑んだ。


「体調はどうだ?」


「何言ってんの、父さんの方が大変……」


「まあ、よくあることだよ」


 何でもないことにように父は言い、不意にきゅっと眉を寄せた。痛みが走ったのかもしれない。

 やや引きつりながらももう一度笑み、父は言葉を続ける。


「『鏡』の務めは命を張るものだから、胃に穴が開くくらいで済んだのなら喜ぶべきなんだよ」


 思わず僕はうめく。


 話に聞いてはいた。

 ヒトの心に関わるということは、自分自身の命を張るのだと思え、と。

 生半可に関ると互いを不幸に、最悪、相手もろとも自分も命を落とす可能性がある、と。

 『夢』と関わらざるを得ない者が、最初に持つべき覚悟がそれだ、と。

 ……でも。

 その『覚悟』に実感を持ったことなど、僕は今の今までなかった。


 父は言う。


「しばらく入院することになるだろうけど、命に別状はないから過剰な心配はしなくていいし……するな」


 僕は言葉を失くし、ただそこにいた。

 何に対するのかわからない怒りと心配と、申し訳のなさとで、僕の頭の中はぐちゃぐちゃだった。


「確かに命に別状はないけど」


 後ろから不意に低い声が聞こえてきたので、僕は驚いて振り向いた。

 白衣の母が立っていた。

 僕が来たと知り、仕事を抜けてきたのだろう。


「真言も理さんも。そこまでしなくちゃいけないの?……しなくちゃいけないんだって、わからなくはない、けど……でも……」


 つぶやくようにそう言う母の顔は、置き去りにされた幼子のように頼りなげだった。


「しず……」


 父が名を呼ぼうとした途端、母がぽろぽろと涙を落として泣き始めたので、僕は本気でうろたえた。


「ごめん静香さん。心配ばかりかけて」


 父は言い、困ったようにまゆを寄せた。

 母は首を振り、涙を呑んで気丈に頭を上げた。


「本当を言うと、出来るだけ逃げて逃げて、いっそ現実社会から隔離して暮らす方がいいのかもしれないね、我々は」


 ため息をつくようにそう言うと、父はそこで一度言葉を切り、ふっと目を伏せた。

 少し考え、再び口を開く。


「でも、それじゃあきっと駄目なんだ。自分たちの血筋とその理解者だけで、永遠には生き続けられない。現実をきちんと生きられない者に、本当の意味で『夢』を司るのは無理だ。弱い心で強すぎる力を持つなんて、碌なことにはならないからね。上手く利用されたり、流さなくてもいい血を流す結果になる……実際、遠い昔の祖先はそうだった」


 奇妙なほど断定的にそう言うと、父は、複雑に笑んで僕を見た。


「でも必要なら自分の心を守る為に、あえて自分へ『呪』をかける場合も出てくる、今回の真言のようにね。だけど『呪』というのは目的が何であれ、あまり良いものじゃない。歯止めや制限をかけられるのなら……父親としても鏡としても、可能な限り務めて当然だ。結果、こうして身体を壊してしまって、心配や負担をかけるけど」


 父の笑みがふと、柔らかくなった。


「月の氏族であろうとなかろうと、人生は大変なことや煩わしいことばかりだ。けど悪くないものだよ」


 父は頬を引く。


「……真言。お前も本気で恋をしたら、望月先生を許せる……少なくとも苦笑いまじりで受け入れらるだろうと、父さんは思う。その日まで、真幸(まさき)くあれ」



 病院を出て、タクシー乗り場までのろのろと僕は歩く。

 様々な言葉が頭を渦巻いていた。

 言祝ぎと共に与えられたあれこれが、まだきちんと頭に入っていないというか整理出来ていない。



 ふと空を見上げた。

 雲の隙間から輝く陽射しに、眩しい青。……多分。

 言葉で表現するならそうとしか言えない、夏の気配も濃い空。


 朝、目が覚めてすぐから父の入院にばかり気を取られていて、ちゃんと認識していなかったけれど。

 今、僕の瞳に映るのは『言葉で表現するならそうとしか言えない』概念で作られた、色のない世界……だった。



 色のない世界で生きるようになって、もう十年。

 お陰で僕を脅かし続けた、妄想のセクハラにもたじろがなくなった。

 まったく平気とはいえないが、アダルトビデオを見て興奮している者を、少し離れたところからしらッと見ているような、滑稽なような哀れなような気分になるので、本気で腹は立たない。



 あれ以来、望月は急速に僕から興味を失くしていった。


 彼は、僕に『呪』をぶつけられ自我を壊されかけたところ、父に言祝ぎで『縛』られたことで正気を保った。

 彼の性癖や本質は変わらないが、僕を見ると彼は、無意識で怯えるようになった。

 瞳の奥にあった押し込めた情欲の影が、かすかな怯えの影に変わっていた。

 そしてその度に彼は『慎みを持つ者・慎みを知る者也』という父の言祝ぎと、『OK.Good boy』の承認の言葉を意識の下で聞き、意味の分からない怯懦から解放されて安らぐ。


 また、『慎みを知る者也』であろうと無意識で考えるようになった様子でもある。

 年端もいかない少年へ、性的な妄想を持たないよう自ら戒めているのが感じられる。

 むろん、五年十年経った彼がどうなったのかまでは、僕もわからない。



 言祝ぎとほほ笑みだけで崩壊しかけた他人の自我を支え、不都合なあれこれを上手くごまかしてしまった父の手腕。

 24になった今の僕であっても、とてもかなわない。

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