35. 閑話 敗者の集い
side. Lindane
不覚にも頬に軽い切り傷を負った。まぁこの程度はどうでも良い、剣術に怪我は付き物だ。問題は大事に胸の内ポケットに入れていたハンカチでその血を拭ってしまったことだ。
チッ、舌打ちしそうになったが、それはかろうじて抑えた。
我がルナヴァイン家は正真正銘武家だが品格は雲の上ほど高みに設定されている。周囲にそう望まれている、と言うべきか。
仕方ない、今日は邸に帰って使用人に洗濯を頼もう。我が家の使用人は非常に優秀だからハンカチに何一つ残さず新品同様に仕上げてくれるだろう。
ハンカチは血で汚れた面を内に折りたたみ胸の内ポケットに戻した。
試合は残念ながら8強止まりだ、トーナメントBの4回戦目の相手が悪かったとは言わせてもらえまい、昨年優勝した奴だったが今年も優勝した。
ベンジャミン・ツバァイク(北西の)辺境伯次男。帝都騎士団護衛騎士隊第2班副班長補佐、まだ学園生でありながら騎士の叙任を受けた歴とした騎士だ。帝国騎士団からは貴族のお坊っちゃまのお遊びだのお飾りだの言われていても、実質王族警護専門だから実力が無ければ勤まるまい。付加価値として容姿が多少加味されているだけだ。
でも家に帰ったら父上はともかく、母上様は物凄くお怒りになるだろうな。今から泣いて良いか?妹にも何を言われるやら。
フィンネルは運良くと言って良いのか、トーナメントAの最終戦まで進み2位に入った。
ヘルムルトが二年生で一番期待されていたんだが、残念ながら俺が負かした。『脳ある鷹は爪隠すのか…』なんて去り際に言われ胡乱な目を向けられたが断じて卑怯な手は使ってない、真っ向勝負だ。ヘルムルトは16強、皇宮護衛騎士団総長の父親からこってり絞られるだろうが、こればかりは同情していられない。
帰りの馬車を呼ばなくてはいけないが、少し出て辻馬車でも拾った方が早いか。両親と妹は別の馬車で来ていただろうから、どっちかに乗せてもらえば一番早かったな。失敗した。まだ残って居ないか探し始めた。
そこを声をかけられた。殿下含めて4人居る、これから予約しているレストランに行こうと言うのだ、俺達にとっては何やら問題を先延ばしにしている気にしかならないが乗った。
行った先は内装も落ち着いた多国籍風レストランで、少し広めの部屋に通された。
「ふーん、ソファー席なんて珍しいな、昼の喫茶営業は良いだろうが、夜は酒を主に提供する店なんじゃないの?」
「まぁまぁ、お前と意外と固いな!やけ酒したくならないのか?」
「ヘルムルト、気持ちは分からないでもないが、帰った後の雷が多くなるだけだと思わないか」
「フッ、雷なんて落ちるものなら一つも二つも変わりはしないだろ、先に傷心を癒すんだ」
「すまん!お前の傷心の原因は俺だ。だが俺にも負けられない戦いってものがあってな、母からの圧に曝されては前に進むしか無いって言うかだな……」
「俺だって2位だよ?二年生なら褒められて良いと思わないか?」
「そうじゃないのか?」
驚きながら殿下がフィンネルを見る。まぁ普段淑女の被り物をしたあの元皇女様しか見てないと分からないだろうな。
「うちで一番怖いのは母親だ。考えても見ろ、姫将軍なんて冗談で付けるあだ名じゃないだろう?父だって逆らえないんだからな……フォローしてくれる人が居ないって辛いだろ」
ガックリ肩を落としながら代わりに答えた。
同情したらしいエリンが頭をわしゃわしゃして、慰めようとしているのかよく分からない行動だが俺は犬じゃないからな?そのうち不思議そうに俺の顔を覗き込んだ。その肩口からフィンネルが顔を出し、これまた俺の顔をじっと見た。いや、お前と同じ顔だろ。
「頬の傷無くなってる」
「えっ?」
「試合中に頬に傷を負わされただろう?」
俺達はトーナメントA、Bに分かれて居て、俺がかすり傷を負わされた試合中はフィンネルも試合中だったからこっちを見ている余裕はなかったはずだ。ああ、アレか、俺達は離れていても傷を負ったり、強い感情を持った時などは互いに伝わるから、見ていなくても分かったんだな。それにしても無くなってる、ではなく治ってるの間違いだろう。そう言えば治療もしていないのに治るのもおかしなものだが。
「いやぁ、あの時はご令嬢方の悲鳴が凄かったぞ。猛獣でも混じっているのかと思った」
笑いながら言うエリンはさっさと予選落ちしたやつだ。例の婚約者を宥めるのに苦労したらしく、そのストレスを解消したいらしくこの会を企画したってことだ。
「貴賓席側の方からも悲鳴が聞こえたし、手で顔を覆っている夫人なんかも居たんだぜ、マダムキラーでもあったとはやるな」
「殿下に言われたくありませんよ。」
今日は珍しく溜まった決済書類が無いらしく付いて来ている。ニヤニヤして見たって無駄ですって、どうせ悲鳴を上げたご夫人と言うのは母上様の信者だろう、俺達は母親似だから顔だけは傷を付けるなってことだ。悲鳴の中に野太い声も混じってたのが分からないわけあるまいに。
「ああ、あの悲鳴は物凄かったな」
「そう言えば、将軍夫婦は何処から観覧していたんだ?貴賓席に居なかっただろう、父と祖父が残念がっていた」
「いやいや、俺はその消えた傷が気になってるんだが」
ヘルムルトのやつは揶揄う方に行ったか、ジルアーティーの祖父って宰相だろ?父親は財務大臣、ただ友人の親ってだけなのにきな臭さを感じる役職だな!と言っても、うちにはもう帝国及び帝都騎士団所属者居ないがな!エリンはまだちっこい傷の行方に興味があるようだ。
「傷口を拭ったハンカチを見せてくれないか」
こめかみに指を当ててしばし考えたようなジルアーティーが掌を俺に向けながら言う。
えーっ、俺は野郎に妹からの心がこもった贈り物(実際手の込んだ刺繍だったし)を触らせたくないんだが。仕方無い、エリンとジルアーティーに興味を持たれてしまっては。こいつらに興味持たれるとしつこいんだよな。俺は渋々懐に入れたハンカチを取り出して広げて見せた。
「はぁ?」
自分でも間抜けな声が出たものだと思っている、思っているが、目の前の光景を見ては仕方無いと勘弁してもらいたい。傷を拭って血で汚れたはずのハンカチは、妹から受け取った時のように汚れの一つもなく美しい控えめの光沢を放っていたからだ。
俺が広げて見せたことで、言外にベタベタ触るんじゃねーと気持ちが伝わったのか知らんが、エリンとジルアーティーはそのままじっくりとハンカチを検分する。
最初に口を開いたのはジルアーティーの方だ。
「付与魔法が施されているのは分かるが……洗浄系としか分からない。こんなの何処で付与させたんだろうな。普及したら洗濯屋が潰れる」
「ジル、治癒との二重付与ではないのか?」
普段魔法にはあまり興味を示さないエリンが身を乗り出して件のハンカチを食い入るように見ている。そんなに見つめられると流石に減りそうだから見るのをやめろ。
「いや、魔法付与は一つだけだ。だがこんな付与は見たことがないな。洗浄の魔法自体は生活でもよく使用される魔法だが、付与となると難しい。それにこのハンカチに掛けられているのは普通の洗浄とも違う術式が使用されている」
ジルアーティーの魔法研究バカに火が着いたかも、面倒なことにならないと良いなーと遠い目になった。
「この文様、かなり古い文様だな。帝国以前の古代文字に近いか、力を持つ文字の一種だ。恐らく加護を与える為のもので、戦に行く戦士の装備類に似たものが残っていたと思うが、博物館級の物でも保存状態の問題ではっきりとした文様は読み取れない」
おう、流石学年主席様は知識量が違うな。古代文字なんか高学年になって専攻講義か研究室入りしないと習わないし、そこらの家庭教師ではどんなに優秀でも帝国史以前のものは習えない。まさに専門研究者レベルの知識だ。例えかじっただけの知識にしろ。
心なしか頬が紅潮して鼻息が荒そうに見えるのは気のせいだ、いや、己の知らない領域の知識に触れ興奮しているのかもしれない、知識欲半端ない奴だからな。
俺は文字の形をなんとなく知っていた程度だ、呪いの類に似ているなーと言う程度の。手に取った瞬間に妹の真心っていうのか?胸が暖かくなるのを感じて、大事にしようと思っただけだ。視線だけでフィンネルを見ると目が合った、一瞬だけ瞼を僅かに落とす、その同意を示すような仕草はなんの意味だ?分からん、教えてくれ!
まぁこいつの事だ、俺よりは多くのことを悟っているんだろうが、双子なのに以心伝心がちっとも上手く行かねぇな!
まだ見ていたそうな奴らから隠すようにハンカチを畳んでさっさとしまい込み、全員のグラスに軽いスパークリングワインを注ぎながらこっそり水魔法で高めにアルコールを仕込んでやった。みんな今日のことは忘れてしまえ!面倒事はごめんだ、傷心だけ癒してろ。ストレス解消する場なんだろ?
マリ適当過ぎ要注意信号点灯しかけましたが(ジルが分からないのは聖属性魔法を組み込んでいるからですね)、脳筋側の兄も何気に適当がすごそうだったという話?