14. 慈母の微笑み
王子付きメイドとなって初めての一日を終えた。
オーガスタは使用人寮の談話室のソファーに座り、手紙の封を開ける。
手紙は親父さんと女将さんからだった。
無事でよかった、迷惑などではない、お金は大事に預かっているからまた泊まりに来いということ、紹介状のことは気にするなということ、荷物が残っていたからそれも一緒に送るといったことが書かれていた。とは言っても、オーガスタは文字が読めないので届けに来たダイスさんに読んでもらったのだが、手紙をもらっただけでも嬉しいので読めないながらにも眺めているのだ。
オーガスタは手紙を一旦ローテーブルに置いて荷物の包みを解き始めた。
中にはぼろぼろのカバンの中にちょっとの衣類とユーリからもらった人形が入っている。オーガスタが孤児院から持ち出したなけなしの私物そのままだった。
(よかった、あのとき持っていかないで)
オーガスタはユーリの人形を手に取った。闇商人たちに攫われたときに持っていたら、おそらく失くしていたはずだ。
荷物もローテーブルに放り出し、オーガスタは人形を弄びながらソファーに寄りかかった。
考えるのは今日のことだ。
「王太子になりたくないから……どういう意味なんだろう」
「殿下のことですか?」
独り言に返事があって驚いて振り返ると、ソファーの後ろにメイヤー夫人が立っている。いつのまにか談話室にいたらしい。
メイヤー夫人はオーガスタの隣に腰掛けた。
「その話は殿下が?」
「まあ」
オーガスタは曖昧に返事をした。正直あの台詞が本気か冗談か区別がつかなかったのだ。
メイヤー夫人はふむ、と考え込む。
「確かに、そう考えると辻褄は合いますね」
「というと?」
「殿下は優秀な王子でした。そしてそれ故に王太子に推されていたという話は以前しましたね。聡い殿下のことです。自分が優秀でなければ、そもそもこのような争いは起きなかったのではないかと思ったのでしょう。そしてそれは事実になりました」
「つまり、殿下は自分が王太子にならないように、あえてダメな王子を演じてたということですか?」
「そうでしょうね。殿下がダメになっても、殿下の兄上は殿下ほどではなくてもまあ可もなく不可もなくという感じですし、母親の実家の力もある。第一王子殿下もまだお若いですから、これから先いくらでも成長があるでしょう。殿下は王太子は兄に任せようと考えたのかもしれません」
「それで、ここに来ても性格が直らなかったのは、自分の演技の辞め時がわからなくなってしまったからでしょうか」
「あるいは、まだ殿下は周りの状況を警戒しているのかもしれませんね。もしかしたら演技によって本当の自分を見失ってしまったからかもしれませんが」
「なるほど」
ふたりで考え込んでいると、急にドアがバタンと開き、アリスがずかずかと談話室に入って来た。後ろにはリーザとマーサもいた。
開口一番、アリスは叫んだ。
「オーガスタ! 殿下はどうだった!? 死んでない? 何かされてない? 大丈夫? 無事? 怖くなかった?」
大声を出してからメイヤー夫人に気がついて慌てて口をつぐむ。仕事では厳しい夫人だが、プライベートだからか彼女は鷹揚に笑って許した。
オーガスタは思わず苦笑する。
「死んでないよ。首は絞められたけど。っていうか質問は一度に聞かないでよ」
「ごめんごめん。無事でよかっ……ん?……は!?!?」
これにはメイヤー夫人も含めて一同騒然とした。
「ちょっそれ、どういうことよ! 殿下ってそんなに酷い人だったの!?」
「私は聞いておりませんよ!! どういうことですか。これは殿下に直訴します! 医務室は行きましたか? 行った方がいいのでは?」
「本当だわ! 首のところ跡になっているわよ!」
「本当に大丈夫なの、オーガスタ!?」
あまりの勢いにオーガスタは思わず腰を引く。
「いや、大丈夫だって……この通り元気だし。それに、殿下も私を殺すつもりはなかったと思うよ?」
「当たり前です!! 殺すつもりがなくても普通人の首を絞めますか!?」
メイヤー夫人のつり目がもっと吊り上がっている。これは相当怒っているらしい。しかし、オーガスタは一応王子を弁護した。
「仕方ありません。殿下はきっと、それ以外で己を守る方法を知らないのです」
メイヤー夫人は思うところがあったのか押し黙った。
オーガスタは王子を思い出す。
彼に対して同情心はない。むしろあの態度は嫌いな部類だ。彼は所詮、衣食住にも困らない、温室育ちの人間なのだ。だからこそあんなに甘い態度が取れる。
彼に対してあるのは、強いて言えば共感だった。
(だって、彼のあの瞳は、あの子にとってもよく似てる。そして多分、私にも)
ユーリが孤児院に来たときを思い出した。あの時の彼女はまだ小さかったけれど、たしかにあの瞳は哀しみを映していた。
ユーリと初めて会ったとき、彼女は瞳に目一杯涙を溜めていた。それでも泣くことのない幼い少女に孤児院の一同は憐みを抱いたが、オーガスタだけは感嘆を覚えていた。なんて気丈な子供なのだろうと。彼女がたった2歳の時だ。
ユーリは父親に捨られた子供だった。母親はユーリを可愛がっていたのだが、その母が亡くなり、父親は2人の兄と自分を生かすために、まだ幼くて手のかかるユーリを厄介払いしたのだ。
1番の庇護者であった母を失い、味方であるはずの父からたった1人にされてしまったユーリは、最初誰にも心を開かなかった。その頃はまだ他の姉たちが孤児院にいて、泣きもせず笑いもしないユーリをどうにかしようとしていたが、ユーリは誰にも懐かず、その姉たちもすぐに孤児院を出て行った。
鋭い言葉と暴力以外に、己の心を守る術を知らない。他者を信じられないから、人に頼ることを知らない。がらんどうの心に気がつかないふりをしたまま、人を威嚇してたったひとりで孤独と恐怖を堪える。
オーガスタにも身に覚えのある姿。
暴れて、奇声をあげて、終いには動かず喋らずたった1人で佇むユーリを見て、オーガスタは思った。
――ああ、まるで私みたいだ。
いや、もしかしたら実際はユーリと私は少し違うかもしれない。ユーリには自分のように深い後悔があるわけではないだろうし、自分は彼女のように信じていた人から裏切られた訳ではない。
孤児院全体を震わせたあの事件の後のオーガスタは、もうずっと抜け殻の様だった。
元々明るい性格だった、という訳ではないが、何も最初から今ほど無口で無表情だったのではない。人見知りではあったし、大きくなるにつれてオーガスタの瞳や髪の色のことで色々言われ、外の人間にはあまり感情を見せなくなったが、それでも心を開いた人間には笑いかけるし普通に話もしたのだ。
しかしあの日以降、変わってしまったオーガスタに周囲は戸惑い、オーガスタもまた1人になっていった。
一人ぼっちのユーリは、周囲から遠巻きにされる自分の姿と重なった。
でも、自分は1人じゃなかった。誰もが変わってしまったオーガスタを見捨てても、ミィナだけは側にいてくれたから。だから、オーガスタは手を差し伸べた。
(1人になってほしくなかった。ユーリのためにも、自分のためにも)
最初は他者と関わることを恐れていたユーリも、だんだんオーガスタに懐くようになった。そうやって傷ついた者同士、傷を舐め合っていたのだ。自分たちの関係は、そんな歪なものだったけれど、抱きしめたユーリはいつだって温かかった。
そういった意味で、自分とユーリと王子は似たもの同士だ。ずっと、傷ついた心を抱えたまま生きている。
(でも、王子と私たちでは、決定的な違いがある)
ユーリの瞳には哀しみもあったけれど、それ以上に命の灯火がいつだって燃えていた。どんなに悲しくとも、生きることを捨てたりなんて私たちはしなかった。できなかったし、しなかった。しなかったから、あの子は死んだのだ。
でも、王子はどうだ。彼の瞳は美しかったけれど、哀しみと、どこか生きることに投げやりなところがあった。生まれてきたことすら後悔しているような、そんな瞳。
生きることを諦めてなお、生きている人が嫌いだ。自分にどこか似ているのも、時折自分の姿を見せつけられている気がして嫌いだ。自分たちは必死で生きて、生きて、それでもその手をすり抜けるものを、ずっと抱え続けてきたのだ。それなのに、己の手から溢れ落ちるものを抱え続ける努力すらせず生きている王子が嫌いで、そして何よりも羨ましくて妬ましかった。そんなことなら、あの子と変わって欲しかった。生きて生きて生きて、そして死んでいったあの子と。
それでも、きっと自分はあの瞳に惹かれるのだろう。哀しみも、諦めも、すべてを超えてなお美しいのは、純粋だったからだ。自分にはないもので、それはきっと彼の強さで。
あの時、どんなに口では死ねと言っていても、あの純粋さではきっと彼に私は殺せなかった。
彼が今でも純粋なままなのは、彼が強いからだ。その綺麗なままの心を今もなおとどめておけるくらいに。でもそれは多分弱さでもあって、だからこそ王子は世界を上手に割り切ることのできないまま、たった1人で、自分の本当の思いすら隠して、闘ってきたのだろう。
(すがるものが必要だ、彼には。動物でもなく、死んだ人間でもなくて、生きている人が)
だからと言って自分が手を貸すほどお人好しではないけれど、そう思った。自分のようにいつか出ていくつもりなんかじゃない、彼に一番寄り添える人間。
(いるじゃないか。沢山、この城に)
オーガスタは周りを見渡した。アリスにリーザにマーサ。メイヤー夫人。みんな王子のことを、自分なりに考えている。それだけじゃない。ダイスさんもそう。エイドやローゼンハイン老子だってきっと。そして一番彼に近いルイも。
今はまだ、お互い言葉が足りず、心を開けてないとしても。
「みなさんなら、変えられるかもしれませんね」
「え?」
そして、彼がこれ以上必死で己を武装する必要がないようになってほしい。それはきっと、自分にとっても希望だから。
オーガスタは知らず知らずのうちに微笑んでいた。
一同はハッとして、それから何故か胸に手を当てる。
「……何のことだかわからないけどちょっともう一回その微笑みお願いします」
「は?」
アリスの言葉にオーガスタは目を点にした。
「だからもう一回微笑んでって。心に納めたい」
「うん。なんか慈しみに溢れてて……とにかく私ももう一回見たい」
「私も」
「……え?」
結局何のことだかわからないまま、オーガスタは一日を終えた。自分が普段どれだけ笑わないか自覚していないオーガスタだった。




