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0. プロローグ


 真っ暗な部屋の中、男がひとり窓辺に腰掛けていた。窓からは月のわずかな光が漏れ出て、男の容貌と部屋の有り様を照らしている。頬は痩け、無精髭もそのまま。あたりには空になった酒瓶や割れたグラス、書き散らかした紙やらが散乱していて、男の荒れ模様が窺える。その中で男の手入れのしていない金髪と、青い瞳だけが光っていた。


(いつ、死のうか)


考えながら手の中の短刀を見つめて、ふと、古い友人のことを思い出した。


『私の小さな友よ。貴方は今、生きることが苦しいかもしれない。それでも私は、あなたに生きることを諦めないでいてほしいのです。


尊い命を軽々しく捨てるな、とか、お母上はあなたが死んだら悲しむでしょう、とか、そんな綺麗事を言うつもりはありませんし、言っても貴方は納得しないでしょう。


でも私は貴方が前を向くまで、きっと生きろと言い続けるでしょうね。


だって私は貴方に生きていてもらいたいから。私は貴方がもう一度普通の少年らしく笑うところを見たい。好きなことに熱中できる幸せ、誰かを愛し、愛される幸せ。怒りや哀しみ、喜びや楽しさ。そんな当たり前の感情や幸せを、貴方に知ってほしい。


この世がどんなに貴方に優しくなくても、この世界を見捨てないでほしい。この世の誰もが貴方の敵だったとしても、私だけは味方でいるから。


だから私に、私の大切な友人を失わさせないでくれ。……』


あの頃の自分もすべてに絶望して、生きる気力もとうに失っていた。そんな時、自分より年上の友人は、そう言って泣きそうに笑った。まだ自分が幼い少年だった時だ。


あの時は、彼の言葉で生きることを選んだ。あの言葉があったから、彼がいたから、生きることができた。


今はどうだろう。


愛することを知った。幸運なことに、愛されることも。彼の言った言葉がわかった気がした。初めて世界に色がついて、生きててよかったと思った。その時は、たしかにそう思ったのに。


狂おしいほどに愛した貴女はもうこの世界のどこにもいない。あの時生きるための言葉をくれた友も、もうこの世を去った。


貴女がくれた以上の愛を知らない。

貴女にあげた以上の愛も知らない。

貴女がくれた以上の喜びも、楽しみも、幸せも知らない。


貴女がこの世界にいないこと以上の哀しみを知らない。


自分にはもう、何も残っていない。経験すべきことも、守るべきものも、自分を必要とするものも、この世界に存在する価値も。


「始まりの色は朝の色

終わりの色は夜の色

髪に纏うは愛の音

瞳に宿るは哀の(うた)

ふたつの色を纏いし女神

命あるものに祝福を与えん

黄昏時の森の奥

結びし約束が果たされるとき

大地は歌い 草木は踊る

嗚呼女神を愛した我が祖国に祝福を

女神を愛する者に祝福を……」


彼女が教えてくれた唄をそっと口ずさむ。

彼女がいた国の民謡だと言っていた。


(貴女は確かに、女神だった……)


自分にとっての女神だった。誰よりもこの身に祝福を与えてくれた気がした。


その女神は祝福を与える存在だと言う。だけどそれなら、女神に祝福を与えるのは誰なのだろう。


強く、美しく、ずっとまっすぐ立っていた貴女だけれど、本当は泣くこともあったと知っている。孤独に耐えていたことも、知っている。


『ふたりで街歩きに行きたいな。手を繋いで、誰に憚ることもなく、デートするの……。デートが終わっても、別れないで一緒の家に帰ってご飯を食べて。家は大きくなくていい。お金だって、生活していくのに困らない程度あれば十分。でも、貴方がいて、子供も生まれて……そんな風になれたら、きっと幸せだろうね……』


いつの日かそう呟いた貴女の言葉は、素朴でありふれた願いだったかもしれないけれど、きっと誰よりも切実な願いだった。なのに何一つも叶えることができないまま、貴女は逝ってしまった。


女神であっても、祝福されていいはずだ。救われたっていいはずだ。


貴女のその願いを、少しでもいいから、この世界は叶えてくれたってよかったはずなのに。


もう一度短刀に目を落とす。もう貴女をつなぐものは、これだけになってしまった。


ふいに部屋の中に光が射した。


(あけぼの)色の朝の光は、男の頭上を柔らかく照らしている。

その光に目を向けることのないまま、男は静かに瞳を閉じた。

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