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病との出会い

身体が軋む中、筆を、言葉を走らせています。


どうか、お願いします。

少しだけ時間をください。

『慢性疲労症候群』

という言葉だけでもいいので、

知ってくださいませんか。



はじめまして。


皆さん、いきなりですが、

『慢性疲労症候群』という病気を知っていますか?


また、この病名からどんなことをイメージしますか?


私は初めてその診断名を聞いた時、

「こんなにも死にそうな目に遭っているのに、

そんな馬鹿な病名なわけがない」

と、医者に猛烈な怒りを抱いたのを覚えています。


この小説は、小説と言っていいのか迷いますが、

この物語は私の実体験です。


少しでもこの病について一人でもいいから知ってほしい。また、もしかしたら自分も同じような症状や体験があると感じた方がいらっしゃったら、はやく専門の診療を受けてほしいと思い、筆を取りました。


私は医師の先生から、

『後何年かほっておいたら一生車椅子生活だった。』

『手遅れになるところだった。』

告げられました。


なので、少しでも自分もあてはまるという方がいましたら、すぐ病院に行ってください。

お願いします。

普通の大学病院でどこも異常がないと診断された場合、すぐ専門の病院にかかってください。

なぜなら、この病気はいくら検査をしても数値として異常が分かるわけではないからです。


私はこの病気だとわかるのに、5年もかかりました。


最初のサインは高校2年生の夏。

一生懸命部活動のバレーボールをやっていた際、

いきなり手に力が入らなくなり、ボールをうまく持てなくなったのです。この時、私は家庭環境がすこし複雑になり、嫌な気持ちを溜め込んでしまう性格や人に合わせすぎてこじらせた劣等感や罪悪感が加速して行き場のない感情が心を支配していました。それを打ち消すように部活に全力を注いでました。

さらに進学先の入学金を稼ぐためにバイトも楽しみながら勤めてました。


それからは1ヶ月休部となりました。

どうしたことか毎日何時間以上も無気力で動けず、表情は硬く、食欲もない、言葉も発することができませんでした。ただぼーっと部屋の片隅に座っている。

そんな時間が流れました。

あとから考えれば、身も心も憔悴していて軽いうつ状態だったと思います。

休部期間の終わりが迫るにつれて、私はもういいかげん人に迷惑はかけれない、いつもの私に戻らなければと半ば無理やり復帰しました。


復帰した時、ボールがまた持てなかったらと怖くなったこともあります。ですが、持てないとか力が入らないとか甘えているだけ、目の前の青春は今しか味わえないのだから楽しまなきゃ損だ、と気持ちを前向きに切り替えて頑張りました。

それからは充実した高校生活で、本当に楽しい思い出が作れました。

ですが、あの時頑張ったことをすこし後悔しています。


心の底から楽しんだ笑顔もありますが、笑顔を引きつらせながら無理やりテンションを高くして笑ったことも何度もありました。


『そんなの誰にでもあることだ。』

と思う方もいらっしゃるでしょう。

ですが、この時、本当に苦しくて溜まった灰色の気持ちは吐きどころがなく、こっそりリストカットを親や友人にバレないようにやって、発散していました。


「人には色んな考えがあって否定はしちゃいけない」


「話をしたい人には想いを受け止め、傾聴、共感。」


一見、良いように聞こえますが、

真剣に話をしてくれている相手に失礼だし、

なにより私が本気で素直な気持ちで向かい合っていないというのは事実でした。

さらに私は過剰でした。

相談や話をしていても、相手の欲しい言葉は何かといいことや、仕草や表情を細かく見たりして合わせたり、そういうことばかり考えていました。


「優しいね。」という言葉が何より心を締め付けて、罪悪感が痛くて痛くて仕方なかったです。

本当の自分は違うのにといつも思っていました。

そのたびに灰色の気持ちは、赤の痛みに変わりました。


この時は、これが全てでした。


私は無事高校卒業し、

看護師を目指して専門学校に入ることになりました。

昔から人の役に立てる仕事に就きたいと考えてたので、人を慈しむことができる看護師を選びました。


入学式一週間前、朝、起きた時に手首を親に見られてしまい、母親にリストカットがばれました。


母親は落胆しながらも、大声で激怒し、

「看護師を目指すのに信じられない!!

患者さんに見られたらどうするの?

あんたに看護師になる資格ない!!」

と言いました。


私は、

(あぁ、もうこれはできないな。

これからどうやって気持ちを吐き出せばいいのかな)

っておかしなことを心の中で思いました。


それからはなんとか厳しい看護専門学校で忙しいながらもくらいつき、充実した日々を送っていました。


ですが2年生になってから、異変が起きました。

熱が頻繁に出るようになり、扁桃腺が何度も腫れたり、咳が何ヶ月も止まらないということが起きました。ひどい倦怠感や関節痛から何度もインフルエンザの疑いをかけられ、検査をしました。


大学病院のCTやMRI、採血、インフルエンザの検査など症状が出るたび検査を繰り返しましたが、どこも異常なしという結果でした。


遂に、おかしいとある医師から指摘されるたのは三年生の実習中でした。

熱発し、そのまま実習先の大学病院でいつもどおり検査をする際、1年でインフルエンザ検査を13回受けたと話した時でした。


この時の私の体は常に熱発していて37度以上が当たり前、ひどいと38度、39度になる時もありました。

体の節々がキシキシと痛み、手足に鉛の重りがついているような感覚、倦怠感もこれ以上ないくらい酷く、扁桃腺が腫れて喉の熱感が気持ち悪さを増幅させていました。


関節の痛みが激しすぎて夜もまったく眠れず、食欲もなくなり、代謝がおち、手足は氷のように冷たく、自分でこの時気付いてませんでしたが、周りからは、

「肌が死人みたいに青白く、今にも死にそう。」

と言われました。

ですが、私は元々肌が人よりすこし白い方だったのでほんのすこしだけ白さが増しただけだと思っていました。

周りの言うことが冗談だと本気で思っていたのです。


もう、この時は正常な思考が低下していたのだと後々知りました。これも病気の症状です。


私はこんな体になりながらも、毎日大量の解熱剤、ビタミン剤や痛み止めを飲み、患者さんの前に立ちました。病棟までは学生は階段を使う決まりで、重たい足で何段も階段を上がったり、下がったしました。毎日夜遅くまで記録物に追われ、国試勉強に研究論文など、とにかくいっぱいいっぱいでした。


目の前にある夢に向かって必死に、もう本当情けないくらいがむしゃらに走っていました。

あとから振り返れば、私は怖かったんだと思います。

現実から目をそらして、

「お願いだから、ふつうに頑張らせてください。」

「今、ここで足を止めるわけにはいかないのです。」

眠れない暗く静かな夜に、毎日涙を流して、神様に願いました。


ですが、何度願っても、状況は変わることはありませんでした。

そして、遂に最悪なことが起きてしまいました。

貴重な時間を割いて、

読んでくださり本当にありがとうございます。


この病気を通じて少しでも色んな考えが巡ればいいなと思います。


更新毎日目指して頑張ります。

ご意見、ご感想頂ければ幸いです。

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