第七話【完】
呆然と立ち尽くしていた。目の前には母が取り残した服が、その横には杖が、微動だにせずに転がっている。母が消えてしまった。部屋の中には書置きも手紙も無かった。机の上にはランプを点滅させた母の携帯があって、不在着信と留守電が9件と表示されていた。母はあの杖が本物であるということを知っている。ならば、自分の意志で消えたのだろうか。でも、何のために。私をただ一人この世に残すのはどうしてだ。
ゆっくりと部屋の中に進んで行く。辺りを見回しながら、何かを警戒しながら。母の服は無造作に脱ぎ捨ててある。上から下まで、下着も含めて。少しつまんで持ち上げてみると、小さなものが転がった。乳白色の、差し歯だ。なぜこんなものまで。これではまるで人間の抜け殻だ。人体以外の物をすべて脱ぎ去っている。
そっと服を床の上に戻す。杖はこの前渡したときと何も変わっていないようだ。こげ茶色の、古ぼけた木の棒のままだ。視線を上げ、もう一度部屋を見回す。何か手掛かりになるようなものは、母の意図を示すようなものはないか。
本棚が目に留まった。母は、昔から日記をつける習慣があった。ならば、今回のことに関しても何か書いているかもしれない。本棚に駆け寄り、それらしき本を手当たり次第に開いてみる。違う、これも違う。本を後ろに投げ捨て、次々に本を手に取っていく。
結局、本棚の一番下の段、隅の方にそれはあった。数冊並んでいるが、今手に取っているのは随分と古いものらしい。日付は二十年以上前だ。背表紙の新しいものを抜き出して開いてみる。パラパラとページをめくり、一番新しいページにたどり着く。日付は4日前、母に連絡を入れた前日で止まっていた。内容は他愛のないものだ。仕事とその日の食事について書いてある。失踪を決めるぐらいだ、何か徴候があると思うのだが。そこから過去の日記を遡っていく。日記は母らしく几帳面に綴られていた。一日につき半ページほど、ごく簡潔に一日がまとめられている。短い分あまり細かいことには触れられていないが、記事を遡る分には好都合だ。
ページをめくる手が止まった。二か月ほど前の、私がこの家を訪れる前の日の日記だ。私の話を聞いた衝撃が書かれている。そして、その後には「あおいの時と良く似ている。同じだろうか?」と続けられている。そんなことは初耳だった。そして、あおいとは誰だろうか。私とほとんど同じ名前の人物だ、私と無関係と思えないのだが聞いたことが無い。母は私に隠していたのだろうか、それとも言う必要が無かっただけか。さらにページをめくっていく。蔵の整理をした時の日記に、またあおいという名前が出てきた。曰く、「杖は葵に渡してしまった。あおいとの約束は忘れようと思う。」とのこと。あおいという人物が杖に関係のあることは間違いない。しかも、おそらくは今回の樹や母と同じように杖を振って消えている。いずれにしても、ここ数年の内には深い交流は無かったようで、今の日記帳にはもうその名前は出てこなかった。
日記帳を本棚に戻して少しの間思案する。今回の件と無関係ではないあおいという人物。名前からすると女性だろう。親戚の誰からもその名前を聞いたことが無いので、母とは個人的な付き合いだったのだろうか。それにしても、なぜ母はこのことを私に言わなかったのだろう。今まではともかく、この前相談しに来た時などに話してくれてもよかったと思うのだが。ともかく、あおいという人物が消えたときのことを知るべきだ。だが、どうやって探すべきだろうか。さすがに日記をすべて読み返すのは骨だ。どうにかしてあたりをつけないと。私の脳がうなりを上げて回転し始める。気になるのは彼女が私とよく似た名前を持っているという点だ。私は彼女の名前をもらって名付けられたのだろうか。だとすれば、母はあおいと私が産まれる前までに交流があったことになる。それならば、私があおいという人を知らないのは、私が物心つく前のことだからではないだろうか。私の中に浮かんだこの推測は、すぐに確信へと変化した。
先ほど投げ捨てた本の中から、初めに開いた日記帳を拾い上げる。確か、二十数年前の日記だ。少し遡れば私の生まれる前に到達するだろう。少しの興奮を抱えたまま、きつい古紙の臭いのする日記を開く。表紙裏には、一枚の写真が貼ってあった。私と母が寄り添って写っている。だが、どうにもおかしい。私の姿は今と特に変わりないが、それにしては母が若すぎる。それに、写真の劣化具合から言っても撮られたのはこの日記が書かれた頃、どう見ても二十年以上前だ。だとすれば、どういうことになるのだろうか。これは私に似た他人ということなのか。それにしてはあまりに瓜二つである。まるでドッペルゲンガーだ。写真の中で母と密着しながら微笑みかけてくる、私ではない私の姿はあまりにも不気味だった。
振り払うようにページをめくり、日記の内容を検めていく。あおいという名前はすぐに日記に登場した。連日に渡って母と遊び歩いている、とても親しい友人だったようだ。どうやら彼女は隣町で一人暮らしをしているらしく、職業については書かれていないが、歳は当時の母と大体同じぐらいらしい。日記を読み進めていくが、杖の話はまだ出てこない。毎日を謳歌している二人の様子がひたすらに綴られている。母の日記には男性の影が全く無かった。数年後には私が産まれているはずなのだが、相手も出てこなければそれを欲しがる様子もない。あまりそういうことは日記に書かない性質だったのだろうか。
そうこうしていると、件の蔵掃除の話が出てきた。といってもおおむね母から聞いた通りで、すぐに母の日記はいつも通りの日常に戻っていった。母も杖のことは忘れているようで、日記の中で触れることは無かった。ごく普通の日記は数か月に渡って続き、その後唐突に杖が再登場した。日記によれば「叔父の会社が大口の契約を取り、彼が親戚一同を集めて祝宴を開いた。」とのことである。その中で、半信半疑ながらも杖の事が思い出されたらしい。完璧には信じていないものの無視もできなかったようで、そこから数日は杖の話ばかり日記に書かれている。日記にはあの杖の真偽や是非について様々なことが書かれていたが、最終的には自分も実際に振ってみようという考えに落ち着いたらしい。数日と待たずに蔵から杖を持ち出し、自室へと引っ張り込んだようだ。だが、その場で振ってみるという訳にもいかなかったようで、「重大なことなのであおいに相談したい。」と書かれている。
次の日の日記はこれまでのものと違い、かなり字が荒れていた。苦労しつつも内容を読み解くと、どうやら杖が本物だという確信を得たようだ。その興奮で字が乱れているらしい。どのようにして確かめたのかは分からない。だが、「あおいが服を残して煙のように消えてしまった。」と書いてある。これが先の日記で書かれていた部分だろう。つまり、あおいという人が何らかの願いを叶え、その結果消える。母はそれを見ていたのだ。そうなると気になるのは母の態度である。親しい友人が消えたにしては冷ややかだ。安否も何も心配していない。安全だと分かっていたのだろうか。ともかく、その日を境にしてあおいという人物はほとんど出てこなくなった。出てくるのは名前ばかりで、これまで親しかったのが嘘のようだ。消えてしまったのだから当然と言えば当然かもしれない。しかし、数日後に出てきた「私の番は20年後だ。あおいは約束を覚えていまいが、だからこそ私が果たさねばならない。」という文章が気にかかる。約束の内容はどこにも書かれていない。今まさに母は消えてしまったが、これがその約束で「私の番」ということなのだろうか。
それ以降、再び字が乱れることも無く日記は書かれている。大きなこととしては、あおいの消失の数か月ほど後、母の妊娠が発覚したようだ。相手の男性は相変わらず書かれていない。どうやら母の両親にも内緒にしていたらしい。相当な大騒動になったらしいが、母の意志は固く、その子を産むということを決して譲らなかったようだ。結局、叔父の援護で母の両親が折れ、日記にはその安堵と喜びが書かれている。日付からしてその子は私だろう。自分の産まれる直前のことを知るのはなんだか不思議な気分だ。
足先に少し冷えを感じた。日が落ち始めているらしい。日記を閉じ、首を回す。母の日記の中にも決定的な情報は無かった。背後には母の残した抜け殻が変わらずに残っている。何も手掛かりは得られなかったが、消えるということは心配すべきことではない、ということは新しい情報かもしれない。ならば、母も樹もこの世界のどこかで元気にやっているのだろうか。そうだったら少しは気分が楽になるのだけれど。
いずれにしても、今私は一人だ。一人だがお腹の中には新しい命が宿っている。母が私を身籠った時と似ている気がする。あの時の母もたった一人でお腹に子供を抱えていた。
そう考えた瞬間、私の脳内を駆けるものがあった。手にしたままの日記をもう一度開く。あおいが消えた日の日付を確認する。5月7日。私が生まれたのはその約9か月後の1月29日で、その二日の間は270日前後だ。思った通りだった。あおいが消えたのとほぼ同時期に母は私を妊娠している。私は自分の脳内に湧いたこのおぞましい考えを否定する材料を探していた。闇雲に日記のページをめくるが、私を助ける情報は何もない。私の父が分からないのも、私に似た名前のあおいという女性も、二人がした約束も、すべて一つの暴力的な事実に結びついていた。日記はもうめくるページが無くなっている。表紙裏の私でない私と目が合った。私の手から日記が滑り落ちていく。私のいるこの部屋が急に魔窟へと変わったようだった。
後ずさり、投げ捨てた本に踵が当たる。呼吸がうまくできない。体中が固まってしまったかのように動かない。何の音も聞こえず、今目の前にあるものすら理解できていない。日記を持っていた手だけが、枯れ枝のように私の体から突き出されて固まっている。
ゴトッという音を立てて、先ほどぶつかった山から本が落ちた。それを合図に私の思考は瞬時に動き始め、次の瞬間には部屋を飛び出していた。廊下の壁にぶつかり、今度は反対側の壁にぶつかり、玄関まで駆け、ドアを押しのけて外に転がり出る。そのまま倒れこみ、ぬかるんだ地面に手をついて荒い呼吸を繰り返す。相変わらずのひどい雨が全身を濡らしていく。私は、私という人間は、私であって私でない。それに、今私の胎内にいるのは、いったい誰なのだ。あまりにも容赦のない事実が私の脳を揺さぶっていた。口からは嗚咽が漏れ、頬を伝うのは雨だけではない。嗚咽は次第に言葉にならぬ叫びへと変化していったが、地面で弾ける雨音がすべてを優しく包み込んでいた。