第五話
次の日の仕事は手に付かなかった。頭の中でこれからの自分の将来とかしなければならない準備とか、とにかくいろんなことがぐるぐると回り続けていた。少し風邪っぽいというありきたりな言い訳で追及をかわし、最低限の業務だけをする。今日が終わっても今ある問題が片付くわけではないが、それでも早く今日が終わってほしかった。
21時過ぎに仕事がひと段落つき、迷わずに帰路についた。カバンの中には昼休憩の時にこっそり買った検査薬が入っている。これをやったからといって何かが変わるわけではない。だが、結果次第では私は何かを変えなくてはならない。子を産み、育てる。今までは全く考えたことが無かった。それをする自分の姿も思い浮かばないし、そもそも私一人でできるのだろうか。あまり考えたくなかった。だから、結果を見るまでそのことは考えないことにした。
家に帰り、荷物を置いてすぐに検査薬の説明書を熟読する。こんなに簡単なことで本当に分かるのだろうか。少し不安になるが、判定の精度は99%と書いてある。それを信じよう。
下を脱いで便座に座り、少し呼吸を整える。自分の鼓動がとても大きく聞こえる。個室全体に反響して、この部屋自体が私の心臓になったみたいだ。目を閉じ、気持ちを落ち着けて、いよいよ検査薬を取り出す。キャップを取り外し、先の部分に尿をかける。自分のしているところをまじまじと見るのはなんだか変な気分だ。終わったらキャップをして、膝の上に乗せて、待つ。どっちの結果が出るのか、私は見ていられなくて目を閉じる。私の手は自然と組まれ、組まれた手は額につけられていた。私は祈っているのだろうか、無神論者なのに。そして、私はどっちの結果が出ることを願っているのだろうか。その答えは私には分かっていた。しかし、それを口にしてしまうのは怖かった。長い、あまりにも長い数分間だった。
目を開けたくない。このまま立ち上がり、落ちた検査薬をどこかへ蹴飛ばしてしまいたかった。もうこんなことは忘れて、明日から何食わぬ顔で生きていきたかった。でも、それはできない。ので、見る。見なければならない。意を決して目を開ける。少し眩しい中でも結果ははっきりと目に入ってきた。説明書と照らし合わせてもう一度確認する。陽性だ。つまり、今、私のお腹の中では、新しい命ができつつある。思わずお腹をさする。少し押してみたりもする。実感はない。だが、私は母親になろうとしている。
状況を飲み込むのに数分かかった。言葉にすればたった一言で済むことに、私の心は一言で済まないほどに動揺していた。とりあえず、いつまでもこの格好をしていたら風邪をひいてしまう。私はぼんやりとした頭のままでトイレを出た。
これからどうすべきか、皆目見当がつかなかった。手探りでやるにはあまりにも問題が大きすぎる。樹がいてくれたならどんなに心強かっただろうか。でも、彼はもういないのだ。どこかへ消えてしまってそれっきりだ。とにかく誰かに相談したかった。そして、相談相手で思い浮かぶのは母だけだった。迷わずに電話をかけた。でも、樹の両親にも話をした方がいいだろうか。いや、それはこの先どうするのか決めてからの方がいいだろうか。母へのコールの間そんなことを考えていた。結局母は出なかった。少し早いが寝てしまっているのだろうか。留守番電話の応答メッセージに録音された母の声がのんきに語りかけてくる。仕方ないので留守電を残す。妊娠したかもしれない、いろいろ相談したいから明日の夜に連絡してほしい、とそれだけをできるだけ簡潔にまとめて話した。もし詳しく話し出したら止まらなくなってしまいそうだった。
ふっ、と糸が切れたような感触がした。力が抜け、その場にへたり込んで、そのままうつぶせになる。頭の中はいつの間にか空になっていた。フローリングの隙間に目を這わせ、床に付かず離れず漂う埃を眺める。ふわ、ふわ、落ちて。ふわ、ふわ、舞い上がる。ふわ、また落ちる。落ちながら埃同士がくっついて、少し大きな埃になる。でも、ふわ、ふわ、落ちながらバラバラになる。すっ、と目を閉じた。埃は、吸い込んだ息に紛れて私の中へ入り、瞼の裏でまたふわ、ふわと踊った。私は、それを見ながら眠った。