第三話
翌日の天気は雨だった。ほとんど眠れていないが眠気はほとんど感じない。体はだるくて頭も痛いが気力だけはそのはけ口を求めて荒れ狂っている。車で住宅街を抜け、味気の無い高速道路を走り抜ける。実家までは車で2時間程度、こんなに早くまた戻るとは思わなかった。会社は明日休みだし、母には泊まる予定だということも伝えてある。ここで何か手掛かりを掴む。それだけのために私は今息を吸って、ハンドルを握りしめている。
雨が強くなり、雷も鳴っている。山の木は揺れ、田んぼの稲は互いにもたれ合っている。実家の駐車場に車を止めて、少し息をつく。魔法の杖なんてものがある以上、どんな話が出てきてもおかしくはない。最悪の結末も覚悟しておかなくては。
インターホンを鳴らしてから鍵を取り出して開ける。一週間ぶりの我が家である。といっても生家ではない。元々は叔父の家で、叔父一家が都会の方に移った折に譲られたものだ。祖父母は他界しているため、今は母だけがこの家に住んでいる。住んでいた時間はそれほど長くないが、それでも実家だ。落ち着ける場所であることには変わりない。
「あら、おかえり。雨ひどいみたいだけど大丈夫だった?」
「うん、まあ。車だしね。それよりごめんね、突然また帰って来て。」
「別にいいのよ、娘が帰って来て嬉しくない親なんていないんだから。」
「そういうもんなの?」
「そういうもんなのよ。」
家に上がりながら玄関にいる金魚の様子を見る。私の家にいるものよりおとなしい。住み慣れた場所なので落ち着いているのだろうか。
リビングの椅子に座り、お茶を淹れる母を見ていると、何となく帰ってきたという実感が湧いてくる。
「それで、電話で言ってたことは本当なの?」
事の顛末は既に伝えてあった。すべての事情を伝えたのは母が初めてだった。
「うん、全部本当。もらった杖を振ったら服だけ残して消えちゃった。だからなんとかしなくちゃいけないんだ。」
さすがに母も少し飲み込めていないようだった。眉間にしわを寄せて机の上を凝視している。理解を待つ間に淹れてもらったお茶に口をつける。自分でも奇妙なほど冷静だった。
「結局あの杖ってなんなの?本当に魔法なんてあるの?」
あの時目の前で起こったことは間違いなく超自然的な現象だったが、20数年間の経験が未だに理解を拒んでいた。
母はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと顔を上げながら口を開いた。
「あの杖は本物の魔法の杖。どんなに非現実的なことでも本当に願っていれば叶えてくれる。そういうものよ。」
母の表情は私の知る母のどの表情とも一致しなかった。それに、私の母はこんなに突拍子もないことを言う人間ではなかったはずだ。私の中の母と何もかもが食い違っていた。なんでも叶える魔法の杖よりも、目の前の見知らぬ顔の母の方が私には怖かった。
あっけにとられている私を置いて、母は淡々と語り始めた。
「あれはお母さんが20ぐらいの時に見つけたものなの。悟おじさんって覚えてる?昔一緒に水族館に行ったあの背の高い人。あのおじさんが昔住んでた家からこの家に引っ越すときに、蔵の中の物を一度全部出したの。必要なものを持ってくためだったんだけど、ついでだから要らないものを処分しようってことになって、その時にあれが見つかったの。埃まみれの箱の中に入ってて、いつからここにあるのか誰も分からなかった。ただ、中に紙が入ってて、そこに"振れば心の中の願いが叶う"って書いてあった。みんな信じたわけじゃないけど試しに振ってみたりもした。その時は何も起きなかったけど、あのすぐ後におじさんの会社では大口の顧客が見つかったし、その後もそれが何度も続いた。まるで会社を大きくしたいって願いが叶ったみたいに。それにその奥さんも、会ったことあるから分かるかもしれないけど、明らかにあの時から歳を取ってないの。まるでいつまでも若くありたいって願いが叶ったみたいに。」
頭がおかしくなりそうだった。普通に考えれば母の話は単なる偶然を気にしすぎているだけだ。誰にでも幸運というものはあるし、歳を取っていないのもアンチエイジングとか整形や化粧のおかげだと考えれば一応は納得できる。でも、どこにでもある田舎の商社がラッキーだけで一流企業の仲間入りだなんて、本当にあるのだろうか。いくらなんでも還暦間近で大学生に間違われるのは無理がないだろうか。全部杖のおかげだと考えた方が納得できはしないだろうか。不可解なことが起こりすぎて私の脳はまともな思考ができなくなっている。
「だから、私はあの杖は本当に魔法を起こすと思ってる。といってもそう思い始めたのは最近だけどね。あの時すぐに何か起きたわけじゃなかったから。あと、おじさんがあの時の事をどう思ってるかどうかは分からない。あれ以来忙しくなっちゃってあまり連絡取れてなくて。自分の運気のせいと思ってるのか、杖のおかげだと思っているのか。まあ、何も言ってこないってことはたぶん自分の運だと思ってるんだと思う。」
私は、次に何を聞くべきなのか分からなかった。すべてが嘘のような話だったが、母の様子からして語られた事は真実である気がする。だとすれば何だろうか、私はこれまでの人生をひっくり返すようなこんな戯言と向き合わなければならないのだろうか。
手に持ったままの湯呑みの中でお茶の水面が揺れている。そのさざ波に飲まれ、沈んで消えてしまいたかった。