第一話
私の家には先祖伝来の杖がある。曰く、振るとその人の願いが一度だけ叶うのだとか。正直言ってすっかり忘れていた。それはそうだ、振っても何も起こらないのだから。幼い頃は大真面目に振り回したりしたものだが、ついぞ私の願いが叶うことはなかった。だから、私にとってはただの杖なのだけれど、私の母はこれを非常にありがたがっていた。それもあって、蔵の整理の折に手渡されたそれを、私は何となく受け取った。受け取って、杖と一緒に今の私の家に戻った。
私の家はいわゆるベッドタウンにあるマンションの一室だ。何の変哲もないこの部屋に、私は同棲中の彼氏と一緒に住んでいる。20台も半ばに差し掛かるしそろそろ結婚を、と思って杖を振ったが何も起こらなかった。やはりこんなものに頼ってはいけないということだろうか。
「ただいまー。」
見慣れた玄関で声をかけながら靴を脱ぐ。靴箱の上には少しスペースがある。ちょうどよさそうだな、と思って荷物の中の金魚鉢を置いてみる。思った通りサイズはぴったりで、何となく自慢げな気分になる。後は実家からもらってきた金魚を入れるだけだ。
「おかえり。うわ、すごい荷物。」
私の両脇に山と積まれたガラクタに驚く彼が、私の彼氏である荒川樹だ。
「まだ車にこの倍はあるよ。私だけでもバザーが開けそう。」
「掘り出し物はあった?」
「大体は私が昔描いた絵だとか小学校の文集だとかそういうの。でもね、これはすごいよ。」
そう言ってガラクタの中から例の杖を取り出して仰々しく掲げる。そして、これまた仰々しく口上を述べる。
「ここにありますは我が系譜に伝わる秘伝の杖。ひとたび振りますればその者の深奥を覗き、そこに眠る願望をたちどころに叶えると言われておりまする。どうぞ、お納めください。」
樹は少し面食らったみたいだったが、すぐに私の冗談に合わせてくれた。
「うむ。大儀であった。して、褒美は何を望む。」
「ハーゲンダッツの新味をいただきたく存じます。」
「好きにせい。」
とうとう堪えきれなくなった私が笑い出し、それにつられて彼も笑い出す。蔵の整理は慣れない重労働だったけど、これだけ笑ってくれたらおあいこにしてあげてもいい気がしてきた。
「で、これ結局何?」
「いや、だから魔法の杖。」
「願いを叶えてくれる?」
「そう。さっき言ったのは全部本当のこと。まあ、家のお母さんが言ってるだけなんだけどね、振っても何も起きないし。」
彼は杖と私を交互に見比べて、私が本気かどうかを測りかねている。そりゃそうだ、突然こんなことを言ったらおかしくなったと思われてもしょうがない。
「じゃあ、これはただの杖?」
「私にとってはね。試しに振ってみれば?」
彼はうなずくと神妙な面持ちで杖を握り、立ち上がった。見ていると何となくほほえましい。昔私が杖を振り回していた時、母もこんな気持ちだったのだろうか。彼は目を閉じて、杖を振り上げ、振り下ろし、消えた。忽然と、シャボン玉のように一瞬で、消えた。消えてしまった。玄関には杖が転がり、彼の着ていた洋服が彼のいた場所に落ちていた。彼にこんな手品ができるとは知らなかったが、どうやらできたらしい。そう思いたかった。