お祭り騒ぎ、馬鹿騒ぎ(3)
*
放送室を飛び出した三人の足元をぴちゃ、じゃりという音と共に冷たい何かが襲う。
足元を見れば、そこに見慣れた廊下の姿は無く。
「何これ、廊下が川になっている!」
「今度は川!? どうしてこうなるのよ!」
水位は三十センチ程。その透明度は高く、また、青空の様な色をしていた。
川底に敷き詰められているのは石ではなく、とんぼ玉であった。その形、色、模様はばらばら。それがきらきらと星の様に輝いているのだ。
その川を泳いでいる魚には目が無い。粘土で作った魚に千代紙を張りつけた様なものである。矢張りこちらも色や模様(絵や紋様)には個体差があり、全く同じものは二匹もいないといったところだ。
三人はその幻想的な光景に感動を覚えることも、感嘆の声をあげることもなく。ただもう、うんざりしていた。
(今度は何をやらされるんだ、あたし達……)
このまま何も起こらないということは絶対に有り得ないと彼等は思っている。
そしてその考えは少しも間違っていなかったことが間もなく分かった。
がくん、と三人の体が揺れる。自然とそうなったわけではない。三人が足をつけている川底が、ベルトコンベアの様に動き出したのだ。スピードは、そんなに早くない。
それと同時に、川の流れが少しだけ速くなる。川底の進行方向と同じ方へと流れていく水。
「一体これから何が始まるんだ……って、なっちゃん、柚季! あれ!」
水が流れ着く先――終点――にあたる場所は、廊下の突き当たり。そこには部屋は無く、壁がある。
その壁に、巨大な口と真っ赤な目、もじゃもじゃした黒い髪が描かれていた。
いや、恐らく絵ではない……本物だ。肌は青。ものすごい形相でこちらを睨みながら大きな口を開けている。その姿、まさに青鬼(の首)。その口に際限なく入り込んでいく水、トンボ玉。それはぼうっと突っ立っている三人の行く末を暗示……いや、明示していた。
三人は仲良く悲鳴をあげ、川底の動き、水の流れに逆らい、走る走る走る。
足を止めれば、喰われる。動かざる者、生きるべからず。
しかし必死に走っても走っても、なかなか顔との距離は広がらない。底が動く上に水が満ちているせいで、思い通りに前へ進めないからだ。重りのついた足を動かしているような気がしてくる。
それだけでも大変だというのに。
時々、壷や亀、南の島にありそうな巨大果実(?)等が向こう側から流れてきて、走り続ける紗久羅達の行く手を阻む。千代紙魚達がぴょんぴょん跳ね、べちんと三人に体当たりをしてくる。またこれが地味に痛い。
綺麗な花には毒がある。綺麗な川には鬼がいる。とんぼ玉を踏む度聞く、がりん、ごりん、ばりん、じゃりん、という音が段々、鬼が人を骨ごと噛み砕いている時の音に聞こえてきた。赤、黄、緑、青、黄、花、粒、目、線、渦……川底で彼等は賑やかに、笑い声をあげ、三人の必死な形相を面白がっている。
後退もしないが、前進も殆どせず。ほぼ同じ所を延々と走り続ける。
「これ、いつまで、逃げて、いれば、いい……痛っ!」
全力で走っている時に喋るのは大変危険である。舌を襲う激痛が柚季の動きを鈍らせた。瞬間、体のバランスが崩れ、彼女は前のめりに倒れた。七色のしぶきがあがる。赤地に咲くしだれ桜が柚季の頭をつつく。その隣にいるのは百人一首の札の絵に包まれた魚だ。
「柚季!」
そのことに気がついた紗久羅が息をあげながら叫ぶ。一人逃げることなど出来ない紗久羅と奈都貴は思わず立ち止まった。
柚季はどうにか体を起こすが、川の流れととんぼ玉が立ち上がるのを阻害する。近づく鬼の顔。ますますあせった彼女は生まれたての子牛の如く、立ち上がろうとしては倒れ、また身を起こしては、倒れを繰り返す。
「及川!」
立ち止まっていた奈都貴が柚季の方へ駆け出す。逆らうは難し、乗るは易し。
紗久羅もそれに続き、届かないと分かっていながら手を差し伸べる。柚季も同じように手を真っ直ぐ伸ばした。
(駄目だ、間に合わない!)
柚季と鬼との距離は、もう、殆ど無い。
そんな時、柚季が叫び声をあげた。そうしながら彼女は川底に手を突っ込み、持てるだけのトンボ玉を掴むと、それを鬼めがけてぶん投げた。節分の豆まきがとても可愛く見える位の勢いであった。
鮮やかなトンボ玉が、鬼の目を直撃する。水の流れに混じって、呻き声の様なものが聞こえてくる。トンボ玉を投げるのに必死な彼女はそのことに気がついていない。目を瞑りながらどかどか投げる、もう兎に角、滅茶苦茶に投げる。
目への攻撃が余程効いたのか、それとも柚季が無意識の内に玉の中へ込めていた退魔の力が効いたのか……鬼は目から大粒の涙を流し、大きな声で叫び。
そして、鬼の顔が壁から消えた。同時に川も消滅する。後に残ったのはいつもの茶色の廊下と壁の前にへたりと座り込んでいる柚季……そして、廊下に膝や肘をついて悶えている紗久羅と奈都貴の姿だけだ。
「きゅ、急に止まるなよ……くそ、痛い」
「疲れた……体も心も。当分ランニングマシーンには乗りたくないや……」
「井上、ランニングマシーンなんて持っているのか」
「持っているわけないじゃん。言葉のあやだよ、あや。ああ、疲れた。……柚季、無事か?」
「命は助かったけれど、心が死にそう……」
死んだ魚のような目で天井を見る柚季。そんな彼女がしばらくして、う、という声をあげた。何事だと聞くと、彼女は黙って天井を指差す。
「何だ……何、あれ」
「金色の大きな玉……もしかして、くす玉?」
紗久羅の言葉に金色の玉が「当たり!」と返事をした。同時にその玉から赤い紐が伸びてきて、息を整えながら立ち上がった紗久羅の眼前で、ゆらゆら揺れる。引っ張れ、ということらしい。
「どうする? 引っ張る?」
「引っ張っても少しも良いことが無さそうだな」
「無視! 絶対無視するべきよ!」
「引っ張らないと、お前等が小学校の卒業文集に載せた作文やプロフィールを全校生徒の前で読み上げてやる。クラス文集の作文とかも晒してやる」
三人の手が一斉に紐へ伸び、それから彼等は躊躇うことなく掴んだそれを引っ張った。頭で考えるより先に、体が動いていた。
ぱかん、と開いたくす玉が無数の小さな何かと、明らかにくす玉より大きい何かを一つ吐き出す。
ぽろ、ぱさ。床に落ちたのは……折り紙で作られた鶴ややっこさん、手裏剣、兜等など。しゃがみ込み、その一つを拾い上げた奈都貴が何かに気がついたらしく、短い声をあげた。
「これ、俺達教室で作業をしていたグループがちょっとした息抜きに折ったやつだ。何でこれがくす玉の中に」
「へえ……あれ、その折り紙と一緒に何かものすごく大きなものが落ちてきたような気がしたけれど……それはどこに」
「ここだよ」
折り紙達を輪になって囲んでいた三人の耳に男の声が届く。ばっと振り返ると。
「あ! あんた!」
「さっきコンビニで見かけた……」
「生徒会役員の……!」
コンビニで見かけた、小柄な方の男子生徒がそこに立っていた。恐らくくす玉から出てきた大きな何かの正体は彼なのだろうが……。
「一体どうやってあのくす玉の中に……ていうかいつの間にそんな所まで移動したんだ?」
「常識って何ですか、見つけにくいものですか……ああ、頭が痛い」
男子生徒はにこにこ、いやにやにや笑いながらそこに突っ立っている。紗久羅の問いには一切答えない。
「貴方は生徒会長と一緒では無かったのですか? 一体今、何が起きているんですか?」
奈都貴が問うも、矢張り何も答えない。
しばらく笑みを浮かべているだけだった男子生徒だったが、急に大声をあげて笑いだし。
「お祭り騒ぎ、馬鹿騒ぎ! 楽しめ、楽しめ、楽しまなきゃ、損だ!」
笑い声以上に大きな声をあげ、意味の分からないことを言い出す。あまりに大きな声だったものだから、三人の心臓はびくんと跳ねあがった。
彼はそれだけ言うと再び笑い出し、くるっと三人に背を向けて真っ直ぐ走り出す。ぽかんとしている三人を尻目に、彼はある部屋の戸を開け、さっと園中に入っていった。
一番早く我に返った奈都貴が「待て!」と叫び声をあげて、走り出す。その声のお陰で同じく我に返った紗久羅と柚季が彼の後を追いかける。
男子生徒が入っていったのは、校舎の端の方――下駄箱や三人が一階へ行くのに使った階段、巨大手毬によって戸を壊された部屋より奥――にある部屋だった。
(あそこって確か、生徒会室がある……)
放送を終えた生徒会役員達は、自分達の領地である生徒会室に戻ったのだろうか。
(よく考えていれば、真っ先に行くべきだったのはあそこだったんだよな……一番いる可能性が高い部屋なんだから)
「失礼します!」
一足先に生徒会室前まで来た奈都貴が、入り口の戸を勢いよく開けた。
しかし彼は部屋の中に入らなかった。追いついた二人はどうしたのかと彼に尋ねる。入り口を塞ぐように立っていた彼は、頭を抱えている。
「また何か変なものが……ってええ!?」
「これ……もしかして、視聴覚室……!?」
軽く膝を折り、中の様子を覗いた二人は驚きの声をあげる。二人は生徒会室の中を見たことなど無い。しかしそんな彼女達でも、目の前に広がっている光景が生徒会室のものでは無いこと位は容易に分かる。
カーペットの上に白く長い机があり、そこにパソコンが整然と並べられている。そして最前列近くに設置されている、ホワイトボード。
間違いなくその光景は柚季の言う通り、視聴覚室のもの。
「何だよこれ!? ここ、生徒会室だよな!? おまけにさっきこの部屋に入ったはずの、先輩もいないし!」
「本当だわ……入る部屋、見間違えたのかしら」
「いや、それは無いと思う。しかし一体これは……まさか」
奈都貴は開けた戸を一度閉める。そしてもう一度、開けた。
「ああ!? 今度は音楽室になっている!」
「まさかドアを開ける度に違う部屋になっちゃうの?」
柚季の言う通りだった。奈都貴が戸を閉め、開ける度、部屋が変わる。
書道室、どこかのクラス教室、更衣室、美術室、理科室……。
おまけに現われる部屋は校内に存在するものに限らなかった。稀に、全く関係無いもの、この世には間違いなく存在していないようなものが混じるのだ。
宇宙、ジャングル、妖がわんさかいる座敷、目玉だらけの部屋……。
いずれは生徒会役員のいる場所が現われるかもしれない、という期待の元、開閉を繰り返すが、一向にそんなものは出てこない。
家庭科室、四方が黄色い何も置いていない部屋、会議室、校長室、茶道室、ミラーハウス……。
がらり。
再び開けた戸。その向こう側には……銭湯……。富士山の絵、大きな風呂、立ち込める湯気、鏡、椅子、シャワー。利用しているのは、木の板で出来た、人に似た形をしたもの。
女性……のようだが、その身に何も描かれていないからはっきりとしたことは分からない。そもそも本当に人を象った物なのかどうかすら怪しい。もしかしたら曲線だらけの塔やはさむ部分が丸い洗濯ばさみを象ったものかもしれぬ。
きゃあ、という悲鳴。その声は女のものだった。それと共に奈都貴めがけて色々なものが飛んでくる。
それは何故かお椀だったり、バナナだったり、ざるだったり……。紗久羅と柚季はさっさと身を退き、安全圏へと避難する。逃げ遅れた奈都貴はそれらを一身に受け。
止めの、金たらい。良い音と共に倒れる奈都貴。タオルを巻いた木の板が、乱暴に戸を閉めた。
「なっちゃん、大丈夫!?」
「……大丈夫に見えるか? ああ、疲れた……もういっそ正気を失った方が楽かもしれん」
「本当、いっそ皆みたいになった方がいいのかも」
「二人共しっかりしろ、それじゃあいつになってもこの地獄は終わらないぞ、きっと!」
そう励ます紗久羅だったが、正直心の中では二人と同じようなことを思っていた。抗えば抗うほど疲れてくる。
「ああ、もう……! ゲームとかだったら必ず回復ポイントみたいな所があるのに! 今ここにはそういう場所は無いのか!」
抱える頭、吐き出す息。
まだ起き上がろうとしない奈都貴はそれをぼうっとしながら聞いていたようだが、何か思いついたことでもあったのか、急に起き上がる。
「……図書準備室」
「は? 図書準備室? 何、それ」
「図書室の近くにある小さな部屋のことだよ。別名司書の部屋。図書室には置いていない資料や本を保管したり、司書が図書室では出来ない業務をしたりする部屋。視聴覚室の隣にある……司書と先生、真面目に仕事している図書委員会以外には存在さえ知られていないような、地味な場所だよ」
「司書……九段坂のおっさんことか」
「そう。あの人、その部屋に魔除けの結界を張っているんだ。……使鬼の力を借りて、こっそり張ったらしい。九段坂さんがいなくても、結界の効果は持続する。そこは多分安全だ」
「九段坂のおっさんはもう、帰ったのか」
「帰っただろう。……確か今日は、自分と同じ怪異に深く関わる人達と一緒に飲むって言っていた。普段もこんな時間までは残らない。残る必要が無いからな」
「それじゃあ、そこに行きましょう!」
奈都貴の話の中に、希望の光を見た柚季の目が輝く。しかし奈都貴の顔はどこか浮かない。
「……けれど、多分今その部屋は鍵がかかっている。中に入るには、鍵を手に入れなくちゃいけない。鍵を手に入れるには、職員室へ行く必要がある。……学校中滅茶苦茶となれば、恐らく職員室も」
無事ではないだろう。残っている教師も、きっと正気を失っている。
職員室は図書室や図書準備室と同じ棟――の三階――にある。
そこまで無事に行けるか、辿り着いたとしてちゃんと使える鍵を手に入れられるかどうかは、怪しい。
「でも、行くしかない、よな。どこかで休まなきゃ、いずれあたし達も皆と同じようになっちゃうかもしれないし」
「……そうだな。鍵が無事手に入ることを祈りつつ、行くしかないか」
「そうよね、それしか方法が無いものね……うう」
柚季も仕方なく二人の意見に賛同した。
「三階へ上がってから行くか、ここからエントランスホールまで行って、その近くにある階段を上っていくか……まあどっちもあまり変わらないか。このままエントランスホールまで行こう」
「またあっちに戻るのね……」
あっち、というのはさっき青鬼(顔だけ)が出現した所のことだ。仕方無いさと言う奈都貴の声はいつもより少し小さい。
廊下を歩いている最中は特に妙なことは起きなかった。
しかし角を曲がり、銀紙風呂敷に捕らえられた廊下を突き進み、その先にある渡り廊下を渡ろうとすると……。
「また水かよ!」
コンクリート製の廊下は飛び石に変わっており、その石を綺麗な水が包んでいる。それらを囲む、小さな石。
「これ、池?」
うんざりしながら柚季が前を指差す。紗久羅と奈都貴は自信なさげに首をひねった。
「水の中を何かが泳いでいるな。池だとすると鯉か何か……じゃないし……」
池――のようなものの中を泳いでいるのは鯉でも金魚でも無かった。鋭い歯を持つ……ピラニア。スッポンらしきものもいる。
うっかり落ちようものなら。それを考えただけで、ぞっとした。
「ここはやめよう。一度戻……れない」
三人が来た道は、淡く光る竹の壁によって塞がれている。いつそんなものが出現したのか……そんなことは考えるだけ、無駄である。
この壁をどうにかして突破し、別のルートから向かおうとしても。恐らく似たような試練がその先に待ち受けているのだろう。
「行くしかないってことか」
「これ、大丈夫か? 渡ろうとしたら襲ってくるとか……ないかな」
「あんなのに襲われたらたまったものじゃないわ!」
「……それに関しては問題ないようだ」
渡り廊下へ至る入り口横の壁に、一枚の張り紙がある。そこには『落ちない限り、襲ってこないよ』という文字。
その言葉に信憑性があるかどうかは分からない。だがこのままでは後にも先にも進めない。
果たして張り紙の言葉は正しかった。水の中にいる者達は、びちゃびちゃという音を立てながら、石の上に乗った奈都貴達をじっと睨んではいたが襲っては来なかった。
しかし油断は出来ない。石の表面は割とすべすべしている為、滑りやすいのだ。合わせて、石の大きさはあまり大きく無い。慎重に行かねば足を踏み外してしまう。
ゆっくり進む、という行為はじわじわと心を削っていく。いっそ走るように進んでしまいたいと思うが、不安定な足場でそんなことをするのは自殺行為である。肉体的苦痛を回避する為に精神的苦痛を味あわなければいけないというのは相当に辛いことではあったが……。
慎重に進んだ甲斐あり、ゴールが目前へと迫る。
後少しで辿り着く。緊張の糸が自然と緩んだ。
そんな時、眼前に逆さ吊りにされた恐ろしい形相の男が現れたらどうなるか。
垂れる髪、今にも飛び出てしまいそうな大きな赤い瞳、三日月型の口、鋭い刃。それが何の前触れも無く、三人の前に現れる。
「ぎゃあ!」
綺麗に揃った悲鳴。
一番間近でそれを見た奈都貴がバランスを崩す。紗久羅がの手が彼の首根っこを掴んだ。同時に彼女のバランスも崩れたが、どうにか踏みとどまる。
奈都貴もまた、すんでのところで踏みとどまり、体勢を立て直した。見れば、彼等を驚かした男の姿はどこにも無い。ぱっと現れ、煙のように消えてしまった。
寿命が十年程縮まる思いをしてから、三人は無事反対側の通路まで辿り着いた。すぐさま右向け、右、前へ、進め。真っ直ぐ行けばそこにエントランスホールがある。
広々としたエントランスホール正面には図書室があり、その前に階段がある。
階段を上った先には音楽室や書道室、美術室等がある。ちんちんどんどんちんどんどんという音と、賑やかな声の聞こえる美術室の真向かいに設置されている階段を上った先にある、職員室。