紅葉狩り(2)
*
空と地の境目に見える、何かの集まり。その先頭に立つ者が手に持っている鐘を一定の間隔で打ち鳴らしている。
「おお、あの音。一年ぶりに聞く、音」
その音は楓様の胸を高鳴らせ、頬を紅潮させ。他の者達も興奮しているのか、やたらそわそわしている。
集団は、透き通った音と共に楓様達のいる方へと近づいていく。
化粧をし、整えた髪に飾りをつけた人々。その輝きは太陽、月に似た。身につけている衣装の色は赤、青、黄、緑、紫……この世に存在するありとあらゆる色が、そこにあり。
足を得た花畑が歩いている、まさにそんな光景が楓様達の前に広がっていた。
彼等は敷物の敷かれた所の前までくると綺麗な列を作り、一斉にひざをつき、手をつき、平伏する。楓様が良い、面をおあげなさいと優しく言ってやると彼等は静かに身を起こした。
列の先頭にいるのは先程鐘を鳴らして歩いていた者では無い。彼以上に位の高い、妙齢の女性がいた。
「楓様、いろは組、只今参りました。今年もどうぞよろしくお願いいたします」
「そなたは確か」
「山茶花にございます。他にも浜菊、鶏頭、杜鵑草等がおります。皆、この日を心待ちにしておりました」
「そうか。わらわもこの日を指折り数えて待っておったぞ。……ささ、どうぞ、そちらへ。早速宴を始めましょう。萩、料理の準備を。楽や舞はもう少し後で良いな。藤袴、これを水で満たしておくれ。私は早くあの子と話がしたい」
そう言いながら指差したのは、目の前にある容器。藤袴は傍らにおいていた壷を手にし、大きな容器の前までいく。楓様に向けて軽く礼をしてから、それに水を注いだ。
銀色に輝く水は音をたてながら容器を満たしていく。その音はその様子を見ている楓様の鼓動の音のようであり、また、歓喜の歌のようであった。
美味しい食事を心待ちにしている者達も、その様子をじっと眺めている。
つぼに入っていた水が全て、容器へ落ちた。もうつぼの中には一滴も残っていない。藤袴は再び礼をし、自分の席に戻った。そんな彼の様子など楓様の目には少しも映っておらぬ。彼女はただ真っ直ぐ、月の輝きを湛えている丸く大きな容器を見つめている。今彼女の世界にはそれと、自分だけしかいなかった。
楓様の隣には小さな箱がある。その箱の蓋の右下には楓の葉と、川を象った蒔絵。水とは違い、金に輝き、それはまるで、太陽の様で。
「満つ水、天翔る(かける)、地這う。遠き地まで、さらさらと」
箱の中に入っていたのは、一枚の楓の葉。秋を受け、その身を鮮やかに染めている。物言わぬ容器に話しかけるような調子で言葉をその口で紡ぎながら、その葉を水の上に浮かべ。
「伝う水は全てを繋げる。水と水、命と命、心と心、声と声、世界と世界」
楓様の声に呼応するかのように、水面が揺れる。同時に光ったり、元に戻ったりを繰り返し。その間隔は段々狭まっていく。
「繋げ、水よ。繋げ、絆の証よ」
それが合図だった。……光の色が蛍火色から、春の空色へと変わり。人の声と鐘の音を混ぜたようなやや甲高い音が、空間中に響き渡った。
儀式の成功を確認した楓様は水の上で寝ていた楓の葉を掬い取る。最愛の恋人に触れるかのような手つきであった。それからそれを二三度撫で、箱の中に戻す。
音は徐々に小さくなり、やがて消えた。光の方は、消えることは無かったが、先刻よりずっと淡いものへと変わっている。
水はもう、楓様を、彼女のいる空間を映してはいない。ここに存在しないが、遠く離れた所に確かに存在している空間、その場所にいる者を代わりに映していた。
その大半を占めているのは、女の姿だ。楓様と同じ道具を使っているらしい彼女は、それに映っているだろう楓様の姿を認めたらしい。緊張で固くなっていた顔の筋肉が緩み、外見の年齢にそぐわぬ純粋で幼気な笑顔が生まれ。
「楓姉様!」
「おお、いろは。……一年ぶりじゃの」
本当はもっと色々言いたいことがあったのだが。その穢れ無き笑顔を見た途端、喜びと歓喜の感情が体中に溢れ、言葉を底へと沈めてしまった。
それはいろはも同じだったようで、楓様の名を呼んだきり、何も言わない。
お互い笑顔を浮かべたままただ、見つめ合う。風に揺られ、震える水のさわさわという音が、二人の頭を醒ますまで。
「あ、ああ……このまま見詰め合っていても仕方が無い。にらめっこする為にこの器に水を注いだわけではないのだから。なあ、いろは」
「ええ、ええ、そうですわ。私ったら……楓姉様とまたお会い出来たことがあまりに嬉しくて」
「わらわも同じじゃ。また会えて嬉しく思うぞ、いろは。よおくその顔を見せておくれ。ああ、相も変わらず可愛らしい顔じゃ。髪も星屑を散りばめたかのように輝いておる。その頭を撫でてやりたい。さぞかし暖かく、柔らかいじゃろうな。だが悲しいかな、その体はあまりに離れた所にある。この器に手を伸ばしても、触れるのはただ冷たく形の無い水だけだ。……ああ、苦しい、切ない。この苦しみ、そなたに分かるかえ?」
「勿論ですわ、楓姉様。私も遥か昔されたように、その暖かい手でこの頭を撫でられたい。そしてそれから手を握り合い、色々な所を二人で巡りたい。しかしそれは叶わぬ夢。ああ、見てはいけぬ夢をみてしまいました。どうしてそのようなことを話してしまったのですか。私の胸も張り裂けてしまいそうですわ、姉様。お恨み申しあげます」
つつ、と袖で目を隠し。桃色に近い赤は幼い色であったが、不思議といろはに合っていた。どう見ても二十は超えている見た目の娘であるのに。
「そのようなことを。本当、いじらしい。どうしてわらわ達はこんなに離れた場所に生まれてしまったのだろうね。神というのは随分意地が悪い。前の世の時もそうじゃった。わらわ達を散々苦しめた挙句、無残にこの命を奪い取った。ああ、本当に忌々しいったらない。……ああ、すまない、こんなでは宴を楽しめないね。そうじゃ、まだ宴を始める言葉を述べておらなんだ。いや、それでけではない。わらわの従者達――女郎花や薄――はもうそちらについているか?」
冷たく険しい声で神という存在を呪っていた楓様だったが、今日は宴の日であることを思い出してからは、優しく柔らかな声、口調に戻った。
いろははええ、と一言言ってから近くにいるらしい何かを手招きする。しばらくして、水にいろは以外の人物が二人程映った。一人は細く長い手足を持ったしわだらけの老婆、もう一人はいかにも聡明そうな顔をした男。楓様は二人の姿を認めると、明るい表情を浮かべた。
「女郎花、薄。無事に辿り着いたか」
「はい。皆、無事到着致しました。本当につい先程のことでございます。……いろは様にご迷惑をおかけすることが無いよう気をつけます。私は飲酒を控えようと思います。何せ酒癖が悪いものですから」
「気にせずとも良いですよ、女郎花様。どうせ皆好き勝手暴れるでしょうから。私もそれで良いと思います。静かな宴も良いですが、皆で大騒ぎする宴も好きですから」
女郎花に、傍で話を聞いていたいろはが優しく声をかける。社交辞令でもなんでもなく、心からそう思っている様子だった。女郎花は少し躊躇ってから、それでは遠慮なくと返す。彼女も本当は酒を思いっきり飲んで暴れたかったのだろう。
「それでは私達は、これで。楓様、いろは様。年に一度の語らい、存分にお楽しみくださいませ」
「有難う。そうじゃ、薄。恋人である桔梗が寂しがっておったぞ。……もしかしたらこちらに来た男に心奪われてしまい、浮気してしまうかもしれぬと申しておった」
「桔梗がですか? そんなはずはありません。彼女はそんなこと言いませんし、そんなこと、絶対にしません。彼女は私一筋ですから」
「ご馳走様。全く二人揃って……それではな、女郎花、薄。存分に宴を楽しむが良い。それではいろは、そろそろ始めるとしようかの。皆もう待ちきれぬ様子。準備もすっかり整ったようじゃし」
「そうですわね。こちらも準備出来たようですし。始めましょうか」
二人は一度会話を止め、食べ物を前にそわそわした様子の者達の方を見る。
それから、今日という日が無事訪れたことを感謝すること、今日は心ゆくまで楽しんでもらいたいということ等を述べる。
あまり長々と始まりの言葉を述べるのも嫌だったから、楓様もいろはも程よいところで言葉を切る。
「それでは始めよう。秋の宴を!」
手を三度、鳴らす。これが宴の始まりを告げる合図。
途端、しいんと静まり返っていた宴の場は声と音でいっぱいになった。
皆飢えた獣の如く、目の前に並べられている食べ物に箸を伸ばし、口に入れて、入れて、入れまくる。
酒好きの者は真っ先に杯へと酒を注ぎ、ぐいっと一口で飲み干す。すぐさま次の酒を入れ、飲み、入れ、飲み。そして時々つまみになるものを口にして。
騒ぐこと、飲み食いすることが何より好きな彼らは始めこそやや自制していたが、一時間も経たぬ内に自由気ままに振舞うようになっていった。整然と並んでいた座布団はもうぐちゃぐちゃ、楓方もいろは方も関係なく入り混じり、幾つものグループが出来、迎える側も客側も無くなり、一人に溶け合い、大騒ぎ。
その様子を楓様は笑いながら見つめている。宴は矢張りこうでなくては、と自身も酒を一口。翡翠酒なるそれはその名の通りの色をしており、口に入れた時は辛いが、徐々に甘くなる。甘ったるくならない程度でその変化は止まり、そのまま喉を通って消えていく。そこそこ強い酒だが、酒には滅法強い楓様の敵ではない。
「楓姉様、良い飲みっぷりですね。私は駄目です、少し飲んだだけでも酔ってしまう」
水の向こう側で楓様と乾杯し、一番弱い酒を一口飲んだ彼女の顔はほんのり赤い。
「本当にそなたは弱いね。でもそこが可愛らしくて、良い。……無理はしなくて良いぞ。……ただでさえ、そなたは」
頬染めながら杯を置いたいろはのことを微笑み浮かべながら見ていた楓様だったが、ふとその表情が沈んだものに変わる。
いろはが、こほ、こほと咳をする。その苦しそうな顔が楓様の胸を締めつけ。
「矢張り、まだ具合は悪いのだね。大丈夫か?」
「ええ、大丈夫です。……近頃は少し、良くなりましたから」
「横になっていても良いのだぞ」
「いいえ、いいえ。そんなこと。本当に大丈夫ですから。……それに、横になってしまったら、姉様の顔が見えなくなります。折角の日なのに、顔を見ることが出来ないなんて、そんなの、嫌ですわ」
子供の様に駄々をこねてから、彼女は微笑む。自分は大丈夫だと言いたいのだろう。体調は恐らく芳しく無い。そのことを悟らせまいと無理して笑うその姿に楓様は胸を打たれ。
「本当にそなたは、ああ、愛しい子じゃ。……そなたがそう言うのなら、止めぬ。じゃがもし具合が悪くなったなら、遠慮せずお休み」
「有難うございます、姉様」
その様子を少し離れた所から見ている者がいた。あのお転婆娘、撫子である。
「楓様といろは様は、とても仲が良いのね。まるで姉妹みたい」
じゃがいもに似た実をつぶしたものと、甘酸っぱい実、炒った木の実、スライスした玉葱の様なものを混ぜたサラダを口にし、それから桜の露を飲み、にんまり笑う。
「そりゃあ、そうよ。実際お二方は姉妹だったんですもの。……あくまで『だった』だけれど」
撫子によって散々な目に合った葛だったが今は機嫌を取り戻し、彼女と一緒に仲良く食事をしている。甘辛い味噌だれであえた、やや苦味のある花を一口。
ここにいる者達は、花の魂が寄り固まった者や、妖怪化した植物等であったが、平気で同族である花等を食べている。食べられる花達はそのことを嫌がっていない。楓様と、楓様に仕える者に食べられるなら本望と思っているからだ。
「だった? どういうこと、葛」
くりくりとした愛らしい瞳で葛の顔をじいっと見つめる。葛はその顔を何て可愛らしい顔、なんて愛しい子……とは思わなかった。何故か彼女は撫子に対して呆れているようだった。
「あんたね。去年のことをもう忘れたの? 私は同じことを問われて、ちゃんと話してやったはずよ。去年だけじゃない、一昨年も一昨々年も話したわ」
そうだったっけ? と撫子は首を傾げる。本当に何も覚えていないらしい。
きっとこの子は人の話を真面目に聞いたことが無いのだと葛は彼女のことを忌々しく思いつつ、結局ため息ひとつついた後、二人のことを話してやるのだった。
「楓様といろは様は前世、人間でね。……その時あの方達は姉妹だったの。楓様が姉、いろは様が妹。二人共とても仲がよろしかったそうで、いつも一緒だったらしいわ」
「人間って、とっても怖い生き物っていう、あれ?」
「そう、あれよ」
「藤袴より怖い?」
「ええ、怖いわ。人間に比べれば藤袴様なんて可愛いものよ」
「へえ、そうなんだ。藤袴より怖いんだ。人間って嫌だね。……楓様といろは様も、人間だったんだね」
「前の世でのことよ。今は違うわ。……詳しいことは知らないけれど、お二人は傍にいた人間達によって酷い目に合わされ……傷だらけになりながら山へ逃げたのですって。……二人は昔よく一緒に見ていた楓の木の前で倒れ、その木から落ちた葉を握りしめ……もし生まれ変わることが出来るなら、人間ではなく、楓の木になりたい……そう神様にお願いしたそうよ。そしてそれからすぐ、お亡くなりになったのですって」
一度そこで話を区切り、花を食べさせて育てた魚の刺身を口に入れる。その身は花びらの様に滑らかですべすべしており、味は甘味が強め。辛めに作った調味料をつけて食べるとその甘味がより強くなり、調味料の辛味もまた引き立ち、美味くなる。
「楓様はお願いを聞き届けてもらって、楓の木に生まれ変わったんだね」
「ええ、そうよ。しかも前の記憶を引き継いだまま。更に、手を開いてみたら、前世で死ぬ前に握りしめた楓の葉があったのですって」
楓様は自分がこのように生まれ変わったのだから、妹もきっと楓の木になっているはずだと考えたのだという。それから何年、何十年と生きる内力をつけてきた楓様は、自分に出来た眷属に、妹の生まれ変わりを探す様命じたのだそうだと葛は林檎酒をすすりながら話す。
「生まれた時その手に楓の葉を握っていて、かつ前世は人間だった楓の木を探すよう楓様はおっしゃったそうよ。……楓様の眷属はその話を元に全国を飛び回り……数年後、いろは様を見つけ出すことに成功したの。いろは様もまた、姉の生まれ変わりを探していらっしゃったのよ」
「それで二人は再会することが出来たのね」
「ええ、そうよ。お二人はあそこにある道具を使い、再会を果たしたの。それからお二人は年に一度あの道具を使って会うことを決め、眷族の一部を相手方の空間にやり、宴を開くことにしたの」
「何で一年に一度しか会わないの?」
「あの器に注ぐ水が貴重で、やたらめったら使えるものではない、というのが理由の一つ。もう一つは……毎日顔を合わせて、喋っていたら……きっと会いたくなってしまうから。その体を捨て、飛び出して、相手の所まで行ってしまいたくなるから、だそうよ。楓様の魂が離れれば、体――楓の木は枯れてしまう。そして、この空間は消えてなくなってしまう。楓様は自分の体のことを気に入っていらっしゃる、それにここには沢山の者が住んでいる。だから、離れるわけにはいかない。だから普段は会わず、言葉も交わさず、私達と共に過ごすことで、その思いを紛らわすことにしたのよ」
「そっちの方がかえって会いたくなってしまわない?」
「そんなこと知らないわ。今度楓様に直接聞いてみたら? さあ、私はちゃんと話しましたからね。来年は絶対話してやらないから」
「大丈夫だよ、今度はちゃんと覚えているもん」
「どうだか」
ため息。それから笑いながら喋っている楓様のことをじっと見つめるのだった。
楓様といろはは、飲み食いするより喋ることに集中していた。撫子と葛の視線が自分達を見ていることにも気がついていない。完全に二人だけの世界に入っているのだ。お互いこの一年の間に起きた色々なことを、話して聞かせる。どれも他愛も無い話であったが、そんなことは二人にとってどうでも良いことなのだった。ただ話が出来る、それだけで幸せだったのだ。
「楓姉様、この間外の世界を覗いた時、私青い空に鳥の形をした雲を見つけました。その雲は、果てしない空を悠然と飛んでおりました。雲が作り出した白い鳥はどこまでも、どこまでも飛んでいって、やがて見えなくなりました。それを見た時、私、鳥になりたいと思いましたわ。白い、鳥に。そして楓姉様の所まで飛んで行きたいと心から、思いました」
「そなたが白い鳥になった姿、さぞかし美しかろう。そなたが飛んできたなら、私は大きく手を広げ、迎えよう。空よりもずっと大きく、広げてみせよう。……そうじゃ白と言えば。今日そなたの従者に持たせる予定の土産の中に、銀の刺繍をあしらった白い着物がある。それをそなたに渡してもらうのだ。……来年また会う時は必ずその着物を着ておくれ。白は無垢なそなたによく似合う」
それを聞いたいろはは両手を口元にやり、歓喜の声をあげる。
「まあ、素敵! ええ、ええ……絶対に着ますわ。そして私は鳥に、白い鳥になりましょう。青い空を飛ぶ、鳥に」
そう言って彼女は目を瞑る。きっと白い着物を身にまとい、白い鳥になった自分の姿を思い浮かべているのだろうと楓様は思った。彼女もまたその姿を思い、胸躍らせた。宴はまだ始まったばかりだというのに、早くも来年のことを考えてしまっている。
時間の流れと、酒、上手い飯、宴の空気はそこにいる者達を高揚させていく。