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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
七つの我が子をお迎えに
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七つの我が子をお迎えに(2)

「あの子……」


「さくらちゃん、知り合いなの?」

 問いかける月子の声色は固い。見ればその顔からいつも浮かべている笑みが消えている。


「いえ、知り合いではないんです。私、ここへはバスに乗ってきたんですけれど……」

 さくらは彼女達がバスに乗ってきたこと、親子三人共顔色が悪く、何かにおびえているような様子であったことなどを話してみせた。化け物のことについては一応伏せておいて。


「そうだったの。確かに、随分参っている様子ね……」

 

「ねえ、お母さん。私あのお化けに連れて行かれちゃうの? お化けの子供になっちゃうの?」

 半ば涙声。周りの視線が二人に向けられている。母親らしき女性はそんな視線から彼女を守るように、その体を優しく抱きしめる。


「大丈夫、絶対大丈夫よ。おもちを食べて、神様にお願いすれば、大丈夫よ。今お父さんが参加の手続きをとっているからね。後少し、我慢して」


(お化けって私が何度か見かけた、あれのこと? 私にしか見えていないと思っていたけれど……あの子には見えるのかしら)

 どうもあの化け物が探しているのは、彼女らしい。


「怖い、怖いよ。声、大きくなってる。お化け、近くにいる!」


「大丈夫、大丈夫だから」

 そう強く言い聞かせる母の声には涙が混じっている。娘同様彼女も限界が近いようであった。さくらは二人、そして今この場を離れている父親の身に一体何があったのか、気になって仕方が無い。かといって話しかける勇気も無く。


「……不味いわね」


「月子さん?」

 呟いた彼女の顔を見上げ。途端。


「アノコ……チカイ……ムカエニ……」


(またあの声!)

 消えたと思ったら、また現れた。その声にぞっとし、震える体を抱き。

 おぞましい声。それを女の子も聞いたらしい。


 女の子の甲高い、悲鳴があがった。彼女の抱いている尋常では無い恐怖心が体内を巡り、内蔵を揺らし。

 混乱状態に陥っているらしい彼女の目には恐らくもう、母親の姿さえ映っていない。叫び声をあげ、暴れ、母親を突き飛ばす。

 怖い、怖い、嫌だ、怖い、嫌だ……そんな言葉と恐怖心を吐き出し、涙を流し。


 とうとう彼女は母親から離れ、列から抜け出し、何も知らずに笑っている子供達の間を縫い、遠くへ走り去ってしまった。幼い上に、動きにくい着物姿であるにも関わらず、その足は異様に速く。何か人では無い者の力を借りでもしない限り、決して出来ないような動きに、さくらは呆然とするしかなかった。


「彩美! 彩美!」

 それが女の子の名前であるらしい。列から抜け出し、彼女を追おうとした母親だったが、眩暈でもおこしたのかその場でよろめき、倒れ、地に伏してしまった。今までたまっていたらしい疲労が限界を超えてしまったのだろう。

 一連のあまりに異様で異常な流れにざわつく人々、不穏な空気を感じ取り泣き出す子供達。


 その様子を見ていた月子が彼女の元へ駆け寄る。倒れた母親の体をゆっくり起こしてやると、大丈夫ですか、と声をかける。


「彩美……彩美、あの子を誰か、助けて……このままじゃ、あの子、あの子!」

 自分の体を支えている月子にしがみつくようにしながら、彼女は訴える。その声から察するに、彼女はどうやら泣いているようだった。

 どうすればいいのか。突然の出来事にただ立ち尽くしているさくらの方を月子が見た。


「お願いさくらちゃん、あの子……彩美ちゃんを探して、なるべく早く。そしたら本殿の前まで来て頂戴。その前につきもちを彼女に食べさせてあげて。お願い!」

 早く行け……という思いがその言葉からは伝わってくる。伝わってきたものが、石のように硬くなっていたさくらの体を動かす。

 分かりました、と言う余裕など無い。黙って彩美が向かった方を素早く向き、駆け出した。


(あのお化けより先に見つけなくちゃ。あれに捕まったら……きっとただではすまない。とても禍々しい気を持つ存在だったもの。あれは人が触れてはいけないもの)

 あの化け物が何者なのか、何故彩美という少女はあれに狙われているのか……その辺りのことは全く分からない。だがそんなことは今のさくらにはどうでも良いことだった。考える力を、足を動かし、彼女を探し出す力に振り分けなければ、元々遅い足はますます遅くなってしまうだろう。


 彩美は大社の出入り口――鳥居のある方――ではなく、本殿のある方へ向かったようだ。

 走るのに全神経を集中させたい。だが、走っているだけでは彼女の姿を見つけ出すことは出来ない。右、左、前、後方。目玉をぐるぐる動かし周りを見る。

 しかし彩美らしき姿はどこにも見えない。彼女の泣き叫ぶ声も聞こえない。


(一体どこへいったのかしら。本殿? それとも記念館やお土産屋?)

 どうしよう、早くしなければ。そう思えば思うほど真っ白になっていく頭、早く、激しくなっていく鼓動。体を伝う汗の不吉な冷たさがさくらを余計あせらせていく。

 仕方なく、彼女は近くを歩いていた親子連れを呼び止める。


「すみません。この辺りで、大きな声で泣きながら走っている赤い着物の女の子を見かけませんでしたか? 多分一人で……七歳位の……」


「ああ、その子ならさっきあっちのお土産屋の方へ走っていったわ。何だか尋常じゃない様子だったけれど……」

 女の人はそう言いながら、記念館の隣にあるお土産屋の方向を指差した。

 聞いてよかった。さくらは彼女に礼を言うと、再び走り出す。


 大きな記念館の隣にちょこんと建っている、木製の、小さなお土産屋。お守りやキーホルダー、地元で有名なお菓子、どこでも売っているようなお菓子、ちょっとしたおもちゃなどが売っている場所だ。

 さくらはそこに飛び込み、彼女の名を叫びながらまわる。売り物でいっぱいの店内は非常に狭い。何回もお客さんにぶつかりそうになりながら、どうにか進む。だが一周しても、彼女の姿は見つからず。

 店員に聞いてみたが、そのような子は店に来なかったという。だが、店の前を泣きながら横切る女の子の姿は見かけたらしい。店を出、再び辺りを見回す。


「彩美ちゃん、彩美ちゃん、どこ!?」

 店を横切った方向から察するに、行き先は記念館ではないようだ。ならば、本殿の方か、それとも。


(お土産屋さんの隣にある道から行けるのは、駐車場、動物の健康を司る神様を奉っている小さな社、それから……お手洗い。その道を行ったのか、本殿のある方へ行ったのか、客殿や社務所の方へ行ったのか……)

 選択肢を誤れば、大きなタイムロスになる。その遅れが命取りになってしまうかもしれない。

 どうしよう。いっそ体が三つあればいいのに、などということを思わず考えてしまう位には混乱していた。


「どうしよう、どうし……あ!」

 お土産屋の隣にある、コンクリートで出来た狭い道。その道の右側、つまりお土産屋の奥にトイレがあるのだが。

 そのトイレ近くに、あの化け物がいた。


(あのお化けは彩美ちゃんを探している……あれは多分、少しずつ、でも確実に近づいてきている……彩美ちゃんに……もしかして、あの子はトイレに)

 意を決し、トイレの方へと駆け出す。


 化け物はお手洗いを隠すようにそびえている壁の前に立っていた。首を右、左にゆっくり振っている。


「チカイ、アノコ、チカイ……ヤット、トリモドセル」

 矢張り彩美はトイレにいるようだ。しかし化け物はなかなかトイレの中に入ろうとしない。どうもその体は見た目に反して相当重いらしく、思い通りに動けないようだった。兎に角喋りも動きも、遅い。

 ごくり、と唾を飲み込む。


(行くしかない)

 意を決し、それの横を通り過ぎて女子トイレの中へ入っていく。壁をまだじっと見ている化け物の姿を横目で見る。体を冷たく巨大な手で強く握られたような感覚に襲われ、全身の毛が逆立つ。化け物は彼女には目もくれず。彩美以外の人間はどうでも良い存在なのだろう。

 彩美ちゃん、いるの、という言葉がでかかったが、寸前で止めた。化け物になるべく情報を与えたくなかったのだ。

 明かりがついていてなお薄暗いトイレ。ものすごく汚れているわけではないが、綺麗とはいいがたく。それがここの気味悪さを助長しているのだった。


 洗面台に一番近いトイレのドアが、閉まっている。

 彩美がいるのかもしれない。さくらはドアに耳を当て、中の様子をさぐろうとする。だがドアの向こう側からは何の音も聞こえなかった。

 蚊が鳴くような声で、彼女の名を呼んでみる。だが、何の反応も無い。

 

(ドアは閉まっている。けれど……誰の気配も感じない。この中に彩美ちゃんはいるの? そもそも……人はいるの?)

 今度は戸を叩いてみよう。戸の前に握りしめた手をやり、叩こうとした、その時だ。


「そこの娘、そこの隣にある個室に入って、今すぐ鍵を閉めるのじゃ!」


「え!?」

 幼く微妙に舌足らず、それでいて尊大な少女の声がどこからともなく聞こえ、さくらは思わず声をあげた。彩美の声では無い。


「早くせい、早く!」


「は、はい!」

 思わず返事をし、隣のトイレに駆け込む。やや乱暴に戸を閉め、そして鍵をかける。その声には人を従わせる力があった。

 かちゃり、という鍵が閉まる音。それと同時に。


 さくらの目の前が、いや、彼女の世界全てが、闇に包まれた。


「え、え、ええ!? こ、ここは……?」

 上下左右、どこを見ても、闇、闇、闇。トイレの中でないことは確かなようであったが……。

 

「その場で深呼吸せい。本来の世界が見えるようになるだろうよ」

 トイレに入るよう命じた少女の声が再び聞こえた。訳が分からなかったが、とりあえず素直に深呼吸し、息と気持ちを整える。

 すると、明かりをつけたかのようにぱっと世界が明るくなり。


 足元を見る。そこには良い匂いのする畳が敷いてある。他の場所にも目を向ける。低い天井、障子、襖……。


「ここは一体……」

 もっとよく見ようと、回れ右。


「あ、彩美ちゃん!?」

 さくらの目に飛び込んできた赤。畳の上に横たわる彩美。慌てて彼女の傍に駆け寄る。最初は死んでいるのかと思った。だがその体は微かに上下しており、小さな唇からはすう、すう、と息を吸い、吐く音がもれている。どうやら眠っているらしい。さくらはほっと息をついた。


「余程参っていたのだろう。ここへ来た途端、眠りについてしまったのだ」

 さくらの背に届く声。振り向けば、そこには一人の少女の姿。


 先程まではなかった金の屏風を背にして、彼女は座っていた。


「どうにか間に合った。後少し遅れていたら、今頃そこの娘、死んでおったわい」

 十歳前後の見た目にそぐわぬ尊大な口調。鮮やかな色の着物を幾重にも重ね、金や銀、瑪瑙(めのう)や翡翠の豪華な飾りをまとっている。特別光が当たっているわけでもないのに眩く輝いている金の帯。子供には似つかわしくない格好だったが、しかし、違和感はなく妙にしっくり着ている。衣装や飾りに負けぬものをもっている少女は、手に持っていた金の扇でぴしゃりと床を叩く。


「ここは一体、貴方は?」


「ここはどの世界にも属さぬ場所。……そなたは知っておろう。世界は決して一つではないことを。その身から『向こう』の匂いを感じる」

 向こう……さくらが『異界』と評している所のことだろう。どうやらここは異界でも、自分達の住む世界でもないらしい。その時脳裏に浮かんだのは、普段は閉じられている世界にあるという麗月京のことだった。


(そういえばそういう場所は何もここだけでは無いって言っていたわね。ここも麗月京と同じような所なのかしら)

 思いながら、さくらは頷き、少女に出雲のこと、自分が時々異界を訪ねていることを話した。少女はそれを聞くと、呆れたようにため息をつく。


「あの世界は人が来るべき所では無いというのに。まっとうな人生を歩みたいなら、あまり行かぬ方が良い。まあ、言っても聞かないとは思うがの」

 その辺りについての返答を、さくらはしなかった。ただ気まずそうに視線を逸らしながら話題を変える。


「私の名前はさくらと言います。貴方のお名前は? 貴方は一体誰なんです? あのお化けは何者なんですか、どうしてあの化け物は」


「ああ、ああ、ああ! そう一気にまくしたてるでない。ちゃんと話すから。わらわの名は千歳(ちとせ)という」


「もしかして、貴方は千勢大社に奉られている……」


「まさか。わらわはそこまで尊い者では無い。わらわはあそこに奉られている神――わらわは母宮(ははみや)と呼んでおるが――の従者じゃ。人間達の祈りや言葉などを母宮に伝える役目を言いつかっておる。逆に母宮のご意思を人間達に伝えることもある。いわば双方の中継役、じゃな」

 喋りながらいじる金銀様々な色の髪飾りがしゃらしゃらと涼しげな音を鳴らす。


「それじゃあ……ええと、母宮様の命令で彩美ちゃんと私をここに?」


「いいや。これはわらわが独断でやったことじゃ。哀れな運命を背負った娘を放ってはおけなくての。全く、可哀想な娘じゃ。この娘自身は……いや、この娘を産んだ両親も……何も悪いことはしておらぬというのに」

 扇を広げ、口を隠す。隠れていない瞳に浮かんでいるのは彩美への情。彼女は心の底から彩美に同情し、そして彼女の運命を嘆いているのだ。


「そなたが見た化け物。あれは妖では無い。……ある一人の女神の分身なのじゃ」


「め、女神の分身?」

 これにはさくらも驚いた。女神というからには尊い存在なのだろう。しかしあれからは尊さも清廉さも感じなかった。邪悪な心と力をもった神なのだろうか。

 彼女の考えは千歳に全て見通されていたらしい。千歳は困ったような表情を浮かべながら首を振った。


「あれの本体は妖達の住む世界にいる。空――雲よりなお高い場所――にある雲上(うんじょう)(きょう)に住んでいてな、下界を覆う余分な穢れ、歪なもの、禍つものを取り除く役目を上の者から言いつかっている女神なのじゃ。妖は穢れを好む。歪なものも大好きじゃ。じゃが、何事も程々が一番での。あまり多すぎると、いけない。妖達でさえ具合を悪くする。ろくでもないことが起きる原因にもなりかねないしの。女神は妖達がそれなりに楽しく、快適に暮らせる世界を守る為、日々穢れを浄化する力を用い、働いていたのじゃ。まあ、あの世界全体を任されていたわけでは無いらしいがの。世界は広いから」


「余分なものを取り除く女神様……決して邪悪な存在ではなかった……なのに、何故」


「子に対する異常な執着心が、分身をあそこまでおぞましい存在にしてしまったのじゃ」


「子に対する執着心?」


「そうじゃ。……何百年も前の話。女神はある日、一人の子を産んだ。その女神にとって、初めての子供じゃった。彼女はその子供に夢中になってな、四六時中子供につきっきりになった。最初の内は、彼女より偉い神もまあ初めての子供だし、仕方無いかと思っていたようじゃ。だがのう。……女神はいつになっても子供から離れようとはしなかった。仕事も一切やらなくなり、子供以外のものには目もくれなくなった」

 女神は我が子だけを慈しみ、下界に住む者達のことなど全く考えなくなったという。多くの者が女神を説得しようとしたそうだが、全て失敗に終わったらしい。


「そしてある日、女神はその京の頂点に立つ神を侮辱するような言葉を発した。余程いらいらしていたのじゃろうな、周りからぐちぐち色々言われ続けて。……じゃが、それがいけなかった。怒った神は女神から、子を取り上げ、そなた達人間が『黄泉』とか『冥府』とか、そういう風に呼んでいる場所へと放ってしまったのじゃ」


「それじゃあ、その子は」


「事実上、死を迎えてしまった。女神は子を取り返そうとしたが……彼の地に生者が行けるはずもなく。どれだけ強い力を持っていようとも、死者の聖域を侵すことは叶わぬ。子を失った女神は悲嘆にくれたようじゃのう。彼女の泣き声が下界まで届いた……という逸話もあるが、まあこれは誰かの作り話じゃろう」


「その女神様が、代わりの子供を探し求めて……」

 そのまま話を続けようとしたさくらだったが、千歳に途中で遮られてしまった。


「そうではない。……魂は新たなる体を得、全くの別人としての生を地上で再び歩むことになる。つまり、転生じゃ。黄泉に放られた子もまた例外ではなく。その子は人間に転生した。……その事実を、女神は知った」

 やっと話が見えてきた。しかしここで変に話を切ってしまうのも悪かったから、さくらはそのまま黙っていることにした。それを確認してから、千歳は話を続ける。


「女神は、人間に転生した自分の子供を連れ戻すことを決意した。……じゃが、彼女が直接そなた達の世界――面倒じゃからこれからは人間界と呼ぶことにしよう――へ降りることは出来なかった。下界の者共に安寧をもたらす為に生まれた女神の肉体と魂は、雲上京に縛られていての。そこから出ることは不可能だったそうな。おまけに、女神はあちらの世界においては絶大な力をもつ存在じゃが、人間界では殆ど無力な存在となる。彼女は人間界に存在する者に干渉する力をほぼ持たなかった」


「でも。女神様は」


「そう。根性……というか力技というか――で、分身を作り上げ、人間界へ放り込んだ。放り込んだところで何が出来るわけでも無いのに……というのは大きな間違いでのう。……女神は基本的に、人間界に住む者に何らかの影響を及ぼすことはできない。だが、幼子は別じゃった。幼子の魂というのは非常に不安定なもので、その世界にも、貰った肉体にも完全に定着出来ていない状態で。その世界に住む者でありながら、その世界に住んでいない者なのじゃ。七つまでは神のうち……という言葉は知っておるかの?」

 こちらの世界にも、向こうの世界にも、黄泉の世界にも属していない、曖昧で不安定な存在。いつ肉体から抜け出し、向こうへ行ってしまうとも限らない魂。


「その状態の子供に干渉することなら、女神の分身にも出来た。彼女は子が七つとなり、その魂を世に定着させ、正式に人間界の住人となる前に何としてでも子を取り戻そうとした。間に合なければ、子を取り戻すことはどうあっても不可能じゃからな。……しかし頭で考え、口で言うことは簡単じゃが、実際にやるのはなかなか難しかったようじゃ。不安定で殆ど力を持たぬ分身は、自分の子に対する思いは強いものの、思考能力が著しく低く、子の魂を感知する能力も乏しい。動きも鈍く……しかも常に存在することが出来ぬものじゃった」

 

(ああ、そういえばあのお化け、消えたり現われたりを繰り返していたわね……)


「しかし女神の執念はすさまじく。その執念が分身を動かし……そしてとうとうまだ幼かった子供を捕らえ、魂を抜いてしまった。そうして彼女は己の子の魂を取り返した」

 酷い話だ。転生し、人間としての生を送っていた子は女神のことなど覚えていなかっただろう。家族と一緒に幸せに暮らしていただろう。それなのに。女神は無常にもその子の人生を無理矢理終らせてしまったのだ。あれに追いかけられ……さぞかし恐ろしい思いをしただろう。それを思うと胸が痛くなり、さくらは顔をしかめた。


「それを知った神は怒り、またその子を女神の手から奪い去り、黄泉へと放り込んだ」

 そして再びその魂は転生し、女神はそれを捕らえ。それを雲上京で最も尊い神と、女神は幾度も繰り返したのだという。

 さくらは、背後で眠っている彩美を見た。ますます痛くなる胸。


「彩美ちゃんはその……女神の子が転生した姿なんですね。あの子の魂は、何度も、何度も……恐ろしい目にあって。長い人生を送ることも出来ず……」


「女神から毎度子を奪う神も……もう意地になっているのだろうな。同じことの繰り返しであることが分かっていながら、何度でも奪い、黄泉へ放り込む。女神を幸せにはしたくないのじゃろう。近頃はわざとすぐに奪わず、女神がほっとしたところを狙って奪っているとかいないとか。与えられた仕事をやるやらないはもうどうでも良くなっているのだろうな。全く、どっちもどっちじゃ。そこにいる娘のことなど、少しも考えてはおらぬ」


「それにしても随分お詳しいんですね。その女神様の事情をそこまで知っているなんて」


「ふふ、実は……」

 千歳が顔を伏せ、体を震わせる。室内に流れる不穏な空気。

 あげた顔は、先程までとは全く様子の違うものになっていた。さくらの体に突き刺さる悪意、害意。


「わらわこそが、その子の魂を取り返さんとしている女神なのじゃ!」


「そんな!」

 さくらは座ったまま後ろに下がり、それから彩美の体に覆いかぶさる。彼女をかばう為に。

 しばらく無言でその様子を見ていた千歳だったが。


 その顔に笑みを浮かべ、声をあげた。どう聞いても笑い声だ。それからは悪意も害意も何も感じられなかった。外見相応の無邪気な笑顔がとても可愛らしい。しかし不思議と「可愛い可愛い」と言って頭を撫でてやりたいとはこれっぽっちも思わないのだった。


「冗談じゃ、冗談。わらわが女神だったら、とっくにそこにいる娘の魂を抜いてとんずらしておるわ。それにわざわざそなたをここに招きはしない。今話したのは全て、母宮情報での。わらわの頭に届いた母宮の言葉をそのまま話しているに過ぎぬ。まあ、神様同士、そういった情報は自然と耳に届くのじゃろうな」

 その言葉に嘘はないようだった。寿命が二年位縮まったとさくらは思った。


「そういえば何故私をここに呼んだんですか」


「娘一人では、あれから逃れ、再び親と合流するのは不可能だと思ったからじゃ。その娘は相当疲れているようだし……。分身は約七年の時を経て、ようやく子の魂の在り処を探り当てた。といってもそれは完全なものではなかったが。……大分近くまでは来た。そして、近くにいるだろう娘を呼び続けた。その声は娘に届いた。この娘も、最初の内は気のせいだと思っていたようだが……何度も聞くうち、どうやらそうではないらしいということに気がついた様子。声は段々近くなり。更に、あの姿が目に見えるようにもなってきたようじゃ」


 彼女が抱いた恐怖心などは親にも伝わり、彩美を通じて彼らもまた女神の分身の声を聞き、その姿を見るようになったようだ。彩美が、人と母宮を繋ぐ千歳の様な役割を果たすようになってしまったらしい。そのことに気がついた分身は、私の子を返せとか、あの子はお前達の子供ではないとか……両親を直接攻撃するような言葉を吐くようにもなったという。


(それで三人共ぐったりしていたのね。無理もないわ。あれの声を聞き、あれの姿を見て、恐ろしいと思わない人はいないもの)

 さくらが分身の姿を見たり、その声を聞いたりすることが出来たのは、人間界に住む者でありながら、異界にも深い関わりを持っている者であるからではないだろうかと千歳は話してくれた。

 また、母親から離れ、逃げた彩美の足が異様に速かったのは、どうにかして親から彼女を引きはがしてやりたいと思った分身の強い思いが、彼女の体に影響を及ぼしたからであるようだ。


「さて。……残念ながら、二人の神に愚行をやめさせる術は無い。ただただ、自分達がやっていることがいかに阿呆らしいものであるか、二人が気づく日が来ることを願うのみじゃ。しかしせめて、その娘だけは、助けてやりたい。こうして関わった以上、見てみぬふりをすることは出来ぬ」


「私もです。私も、彩美ちゃんを助けてあげたいです。……けれど、どうすれば」


「まず、娘の魂をこの世に完全に定着させる。……幸い、その娘はもう七つで殆どその魂はこの世界のものとなっておる。とりあえずつきもちを一つ、食べさせてやるのじゃ。そうすればある程度あれから身を守ることが出来る。じゃが、それだけでは足りぬ。……この娘が間違いなく人間界の住人であること、一人の人間であること、あの両親の間に生まれた子供であることなどを正式に神に認めさせることが必要じゃ。神――今回は母宮じゃな――に報告することでようやくその娘は完全に人間界の者となる。そうなればもう、女神には手が出せなくなる。諦めるより他なくなるじゃろう」

 あくまで今生のうちは、じゃが……と付け加える声は酷く小さい。再び生まれ変われば、同じことを繰り返す。それを思い、憂鬱になったのだろう。


「正式に認めさせる……。それを今、やることは出来ないんですか? 千歳ちゃ……千歳様が母宮様にこの旨を伝えれば」


「それは出来ぬ。正式な段階を踏まなければ、駄目じゃ。例外は認められぬ。非情かと思うかもしれぬがな。わらわも、母宮も一人だけ特別扱いすることは出来ぬのじゃ。そもそもこうしてそなた達を匿っていること自体、決まりに反した行為なのじゃ。まあとりあえず今回は目を瞑ってくださっているようだがの」


「それじゃあ、この世界を出て本殿まで行き、午後……多分後少しで行われるだろう儀式に参加しなければ、彩美ちゃんは助からないんですね」

 誠に申し訳ない限りじゃが、と千歳は元々小さい体を更に小さくさせ、心の底から申し訳ないと思っているような表情を浮かべる。


「そういうことじゃな。……しかし、困ったことに分身は完全にその娘の姿を見出してしまった。そして、もうすぐ手が出せない存在になってしまうことにも気がついている。分身は全力で娘を捕らえようとするだろう。恐らく、動きは先程までとは比べ物にならぬ位素早くなっているはず。……無策のまま飛び出せば、あっという間に捕まってしまうじゃろう」

 そこまで話したところで、畳にその身を横たえ、眠っていた彩美が目を覚ました。ううん、という寝ぼけた声を聞き、後ろを振り返るさくら。

 彩美は目をこすりながら、起き上がり、しばらくぼうっとそのまま座っていた。意識の覚醒は、それから少し経ってからのこと。

 見慣れぬ世界、見慣れぬ人間。それが彼女の目を覚ましたらしい。


「きゃあ!」

 逃げようとしたのか、勢いよく立ち上がり……すぐバランスを崩して、その場でしりもちをつく。


「彩美ちゃん。お姉さんね、彩美ちゃんを助けに来たの」

 彼女を安心させようと、笑みを浮かべながらゆっくり彼女に近づき、その手をとる。その手は少しひんやりしていた。体調を崩しているのだろう。無理も無いとさくらは思う。

 最初、彼女は明らかに警戒していた。しかしさくらの手の温もりが、女神によって凍らされた心を溶かしていったらしい。徐々に体から余分な力が抜けていっているのを、さくらは握った手を通じて感じ取る。


「本当? お姉ちゃん、助けてくれる?」


「ええ。絶対。お化けから彩美ちゃんを守ってあげる」

 そう言って、さくらはカバンに入れていた箱を取り出す。先程買ったつきもちだ。包装を破り、箱の蓋をあける。中には一口サイズの真っ白いおもちが十二個。仄かに香る甘い匂いと、中に入っている木の実の香ばしい香り。


「彩美ちゃん、一個、これを食べて」

 彩美は素直に頷き、もちを取り口の中に入れる。恐る恐る口を動かし、咀嚼。

 まだ固かった表情が、もちを噛む度柔らかくなっていき。飲み込んだ頃には、笑顔になっていた。余程美味しかったらしい。


「美味しい、このおもち、とっても美味しい!」


「うん。ここのお菓子は天下一品なのよ」


「て、てんか……」


「ものすごく良いってことよ」

 笑顔と共にそう言うと、彩美はそうなんだと目を輝かせながらこくこく頷く。

 その仕草が大変可愛らしい。千歳とは違い、彼女は間違いなく子供だった。

 

 どこにでもいる、女の子。


(守ってあげなくちゃ。私のこと、信じてくれたんですもの)

 しかし、問題は。


(どうやってあれをまき、本殿まで行けばいいのかしら。本来私達がいたトイレから本殿までの距離はそこまで遠くはないけれど。動きは相当俊敏になるようだし……分身は、彩美ちゃん以外に一切興味を示さない。私が囮になることは出来ない……囮……)

 考える、考える。しかし考えれば考える程、頭は動かなくなっていく。

 全く関係のないことが、頭の中を巡り、思考を邪魔する。


(どうしてこう、色々考えなくちゃいけない時に限って……うう)

 巡る、言葉。朝、TVで聞いたこと、バス内での会話、千勢大社を歩いている時耳に入ってきた会話……。つきもちの、こと。


(今は食べ物のことを考えている場合じゃないのに!)


――あんこを魂、もちを肉体に見立ててね……――


 つきもちを知らない知人らしき人に女の人が説明していたことが頭をよぎる。

 その時だ。良さそうな案がひらめいたのは。


「そうだ! 見立て! これならどうにかなるかも!」

 突然さくらが大声をあげたものだから、彩美も千歳も呆然とし。

 なんじゃなんじゃ、おどかしおってと文句を言う千歳にさくらは思いついた方法を説明してみせる。反応は上々。


「うむ。上手くいくかもしれぬな……案外。よし、それで行ってみよう。失敗すればそこまでじゃが……やらぬわけにはいかぬからな。そなたを、娘と同じ場所に転移させる。二人して、行くがいい」

 ありがとうございます、千歳様……その声は果たして彼女に届いただろうか。


 再び、暗転。そして現れたのは……便器、綺麗とも汚いともいいがたい床、所々細かい傷がついているドア。


(上手くやらなくちゃ。……私が絶対に彩美ちゃんを守ってみせる)

 さくらは決意し、戸惑いを隠せない彩美の頭を撫でる。お姉ちゃんと一緒に逃げるわよと言ってやると、彼女は唇をぎゅっと握りしめながらこくりと頷くのだった。


 あの子はここにいる。間違いない。やっと見つけた。ずっと探し続けていた。

 本来、私にとってはこの位の時間など、ほんの些細なものであった。短い、という言葉を使うのも躊躇ってしまう位、微少で刹那的な時間。

 

 でも。長かった。あの子をこの手に抱けぬ日々。今まで私が生きてきた時間よりずっと、長いような気がした。

 取り返しては奪われ、また取り返しては奪われ。


 あの子の笑顔、あの子の温もり、あの子の声!

 絶対取り返す。あの子は私の、私だけのものなのだから。


 今、あの子の気配は消えている。けれどあの子は確実に、いる。近くに。


 ああ、あの子の気配が戻った。ああ、ああ、ああ!

 いる、あの子がいる! 目の前に、私の目の前に!


 あの子だ、あの子だわ、私が愛した子! 私の子!

 暖かい、温もり、ああ、間違いなくこの子は。


 いや、違う。違う、違う! この子は……。


 さくらと彩美は今、トイレを出て、本殿向かって駆け出していた。化け物――女神の分身の隣を通って。


(上手くいった! けれどあれは所詮一時しのぎ……気がつかれる前に本殿へ!)

 さくらのズボンのポケットには今、つきもちが入っている。海がめのたまごのようなそれこそ、命運を分けるもの。

 十二個の内、一つは彩美が食べた。そしてもう一つは。トイレ――二人がいた個室の前辺りの床に、ある。いや、恐らくもう分身が手に取っているから正確にいえば床にはもう転がっていないだろうが。


「ごめんね、彩美ちゃん、頭、痛くない? 大丈夫?」


「だい、じょうぶ! 頑張って、逃げよう、お姉ちゃん!」

 彩美はさくらの手をぎゅっと強く握り締める。離せば終わりだと理解しているらしい。

 さくらは彩美の頭から髪の毛を数本、拝借していた。そしてそれをつきもちの中に入れたのだった。何のためか。


(見立て。ある物を見た時、それとは別の物を想起し、対応付けるもの。つきもちは、もちを体、あんこを魂に見立てている。……そのつきもちの中に彩美ちゃんの髪を入れ、つきもちを『彩美ちゃん』にした)

 藁人形を憎い人間に見立て、それに釘などを刺すことによって相手を呪う。

 それと似たような原理である。

 彩美のことしか頭にない女神の分身は上手く騙されてくれたようだ。我が子の魂を取り戻すことで頭がいっぱいな上に、思考能力の乏しい分身が相手でなければ、決して成功しなかっただろう。


 後ろを振り返る。そこには分身の姿が。どうやらすぐ気がついたらしい。こちらめがけ猛スピードで前進している姿は鬼神、もしくは、死神。穢れを取り除く力を持つ清浄なる女神が生み出したものとは、どうしても思えなかった。

 鬼さんこちら、手のなる方へ……などといったことは言えない。捕まったら次の鬼になるというだけの話である鬼ごっことは訳が違う。さくらは捕まっても恐らく何の被害も受けないだろう。だが、彩美は。

 

 分身は先回りをしたり、フェイントをかけたりしてくる。そのせいで、真っ直ぐ本殿の方へと走ることは出来なかった。遠回りしたり、同じところをぐるぐる回ったりしなければならなかった。

 さくらは捕まりそうになる度、団子を地面に置く。分身は足を止め、それを手に持つ。それが自分の求めていたものでないことに気がつくまで、彼女は愛おしそうにつきもちを抱きしめる。

 まだ食べられるものの中に人の髪の毛を入れ、更にそれを地面に置くという行為にさくらははじめ抵抗を覚えていた。だがしばらく経つと、もうそんな抵抗を覚える余裕もなくなってゆき。


(一人の女の子の命がかかっているんですもの。このおもちを作った月下堂の人達には悪いけれど……!)

 波の様に迫り、離れ、また迫る分身。激しい運動と、恐怖がさくらの心臓を締めつける。千歳がかけてくれた術のお陰で、いつもよりかは余程動けているが、それでもへとへとだった。記念館の前にある木の周りをぐるりと走る途中、またつきもちを一つ、置いた。さくら相手に敵意をむき出しにし、迫る、禍々しいもの。それはつきもちの前で再び動きを止め。


黄泉醜女(よもつしこめ)に追い掛け回されたイザナギノミコトの気持ちが何となく分かった気がする。確か櫛や髪を黄泉醜女に向かって投げつけたのよね。それが筍や山葡萄に姿を変え、彼女達の足止めに成功して……って今はそんなこと考えている場合じゃないわ!)


 走る、走る。彩美の「生きたい」という願いが、握った手を通じて伝わってくる。それを受け取ったさくらもまた「一緒に生きよう、絶対に逃げ切ろう」という強い思いを彩美の体に流す。その行為が、二人に力を与えるのだった。

 分身の姿など見えない周りの人からしてみれば、必死の形相で見えない何かから逃げ回っているらしい変な姉妹に見えるだろう。しかしそれでも良かった。

 周りの目などどうでもいい。生を掴み取れれば、それで、良かった。


「ワタシノコ、ワタシノコ、ダレニモワタサナイ!」

 声、音……どちらに分類すれば良いのか分からぬものが聞こえる。それは二人の体を縮み上がらせる。


 逃げる、逃げる。ようやく本殿へと至る門をくぐり抜けた。後はひたすら突き進むのみ。右、左、右、左。前へ、前へ。

 あれだけあったつきもちも、もう、無い。二人の意地、根性と分身の執念。ぶつかり合い、火花を散らす。この戦いの決着を左右するのは、意思の強さ。


 本殿が見える。その前には彩美の両親と月子がいた。


「彩美!」

 彩美の母が大声で、自分の子の名前を呼んだ。

 その声が、彩美に力を与える。遥か昔、自分の母であった者より、大事で、愛しい、今の、母親。いや、今とか昔とかそんなものは無い。


(彩美ちゃんにとってのお母さんはあの人だけ。彩美ちゃんは彩美ちゃんだもの。女神様に彩美ちゃんの魂をどうこうする資格はない)

 前へ進みながら、すぐ後ろについている分身を、睨みつけた。彼女の動きがほんの少しだけ、鈍くなる。


「彩美ちゃんの人生は、彩美ちゃんだけのもの。彩美ちゃんのお母さんは貴方じゃない! 貴方の子供は、ここにはいない!」


「チガウ、アノコハ、ワタシノコ、ワタシノコナノヨ!」

 しかしその声に覇気は無い。『自分の子』であるはずの彩美が、自分の姿を全く見ていないことに気がついたからだろう。彩美が見ているのは、両手を広げ、彼女の小さな体を抱かんとする一人の女性、そしてその隣にいる父親の姿だけ。

 彩美の手が、さくらの手から離れる。彼女は力強く駆け、そして。


「お母さん!」


「彩美!」

 母の体に吸い込まれていく、彩美の小さく可憐な体。緊張の糸が切れたらしい彩美は母の胸の中で大声をあげて泣いた。


「二人共、早く本殿の中へ! 儀式は間もなく始まります!」

 母の代わりに父が彩美を抱き上げ、そして三人は本殿の中へと入っていく。

 それを目の当たりにした分身は、泣き喚きながら遠のいていく『子』に向かい、細長い手を伸ばす。しかしどれだけ伸ばしても、その手は決して彩美には届かない。


「イカナイデ、ワタシノコ、ワタシノコ、ダレニモワタサナイ!」

 へろへろなさくらの隣をすり抜け、分身が本殿へと突進する。文字では形容出来ない叫び声をあげながら。


「ああ!」

 儀式が終わらない内は、彩美の安全は保証されない。儀式の開始は五分後。

 手を差し伸べ、口を開け、駆けて、駆けて。吹く、風。


 分身の手が、本殿入り口に触れて。

 それが触れた瞬間、本殿が眩く輝いた。その光は分身の体を遥か彼方へ吹き飛ばす。耳を抉る、彼女の絶叫。

 一体何が起きたのか。その場にへたり込み、無傷の建物に視線を注ぐ。

 

――子に害をなす者はあの社には近づけぬ。安心せい、もう大丈夫じゃ。そなたもご苦労じゃった。何の礼も出来ぬが……。それでは、またの――

 頭に響く、幼く、しかしそれでいてしっかりした声。ほんの短い言葉を残して千歳は彼方へ去ってしまった。恐らくあの空間に再び足を踏み入れることは無いだろう。彼女の姿を見ることももう無いに違いない。


(けれどきっと千歳様は、見守り続けている。この大社を訪れる人々のことを。だから、ここに来れば、会える。たとえその姿は見えずとも……)


 儀式は滞りなく進み、無事終了した。ちなみに儀式は、神官の言葉を聞き、舞を見た後、親と一緒に良い香りのする枝を持ち(レプリカの花がついているらしい)、祭壇にお供えするというものらしい。そこで両親は神様に自分の子供のことを報告し、この世界の住人として認めてもらうようお願いし、そして子の健やかな成長を祈る。子供は好き勝手なことをお願いするらしい。

 本殿を出た三人の顔は、晴れやかだった。憑きものが落ちたのだろう。


「きっとあの三人はもう大丈夫ね。さくらちゃん、ありがとうね」


「いえ。私は殆ど何もしていないですよ。……あ、でも私……つきもち、駄目にしてしまったんです。皆さんが一生懸命作ったものなのに、ごめんなさい」


「いいわよ、気にしないで。さくらちゃん、ついてきて。お礼につきもちをあげるから」


「い、いいんですか」


「ええ、勿論よ。さあ、行きましょう」

 先を進む月子の後についていこうとしたさくらの目と、幸せそうな表情を浮かべている彩美の目がごつんと合う。彩美は愛らしい笑みをさくらにくれた。


「ありがとう、お姉ちゃん」


「元気でね。彩美ちゃん」

 さくらも笑顔を返し、手を振る。彩美の手を握っていた両親が小さくお辞儀する。

 くすぐったくなる胸。声をあげて、さくらは笑う。


(あの女神様は、もう彩美ちゃんに手を出せない。けれど、彩美ちゃんが死に、再び生まれ変わった時は……それを思うと胸が苦しい。でも私には何も出来ない。今はただ、祈ろう。彩美ちゃんの幸せを……)


 さくらは月子からつきもち入りの箱をもらい、帰路についた。

 一人の少女、そして今日千勢大社を訪れた子供達の幸せを祈りながら。

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