狐を呑む男(2)
*
晴明にとっては至福の、男にとっては拷問の様な時間はゆったりと流れていく。
「もうそろそろ私はお暇したいのだけれど」
隠し切れない苛立ちが、明らかに滲み出ている声。
「ところで貴方のお名前を聞いていなかったな。矢張りこういう時はお互い名乗るのが礼儀であろう」
「君、人の話、聞いている?」
「お前だって名乗っていないだろうって? いや、私は名乗ったぞ。私の名前は瀬尾晴明、十五歳」
「もういい、いい。それは聞いた。そのことに関しては、認めよう。……それはいい。私は」
「貴方の名前は何というのだ? さぞかし素晴らしい名前であろう。私には分かるのだ。少なくともどこにでもある、ごく一般的な名前では無さそうだ」
「それはまあ、そうだとは思うけれど。……ところで君、私が人間で無いことに、気がついている?」
「そうだなあ、貴方の名前は……ううむ、紫苑、藤宮、月代……」
男は肩を落とし、深いため息をつくより他無かった。呆れている。そしてまた、強い衝撃を受けているようであった。
「絶対、気がついていない。なんたることだ……」
「黄泉、暁、時雨、青嵐、浅葱、竜胆……」
「出雲」
「ん?」
今まで相手の話など一切聞かず、一人ぺらぺら喋り続けていた晴明の口の動きが、止まる。
男は観念した風に小さく両手をあげ、晴明を睨むように見つめていた。
「出雲。……それが私の名前だよ」
「おお、おお!」
感嘆、納得、手を叩き、ぽん。
「出雲さんとおっしゃるのか! うむうむ、ぴったりであるな。出雲大社、一度は行ってみたいな。ぜんざいもたらふく食べたい」
前半と後半が、微妙に繋がっていない。男――出雲は都合の良い時だけその耳は正常に働くようだとため息。
「さて、貴方の名前を知ったところで……続けようか! 実は貴方にやってもらいたいことがあるのだ。なに、順調に進めばものの数時間で」
また話を強引に進めようとした。だが、それは叶わなかった。
男の名前を知ったことによって生まれた、一瞬の、油断。それが出雲を動かす力となり。
意識を持っていかれそうになる位、濃く甘い香りが晴明の鼻と、開いた口の中へ飛び込んでいった。その匂いは毎年嗅ぐものであったが、今の季節とは無縁のもので。
晴明は驚き、目を開く。
(これは、桜の……何故このような季節に)
続いて、彼の視界を薄桃色の何かが覆った。それが桜の花びらであることは彼にもすぐ分かった。赤ん坊のほっぺの様に柔らかく、日陰に置いた陶磁器の様にひんやりとした感触。
痛くは無い。ただただ、息苦しい。
薄桃色の世界、他には何も見えない。
その時間は長いようで短かかった。
晴明が再び目を開いた時には、すでに出雲の姿は無く、また桜の花びらも消えていた。地面には石ころと雑草、そして思わず手放してしまったノートとシャープペンしか無い。
(夢? まさか。……夜行性である私が、このような時間に眠ってしまうことなどありえない)
拾い上げたノートには、確かに出雲を観察しながら書いた文章が綴られていた。少なくとも彼との出会いは夢ではない。ではあの桜の花びらは?
晴明の体が、ノートを持つ両手が、小刻みに震える。俯く顔、小さくなる体。
「……ふ」
声とも息ともつかないものが彼の口からこぼれた。
「ふふ、はは……ふふ、ふ……ははは」
次に出てきたのは、笑い声。最初の内は力の抜けた弱弱しいものであったが、それは段々強く大きなものへと変わっていく。
現とは到底思えない出来事が与えた恐怖は薄くなっていき、それに伴い濃くなってくるのは……。
「何と素晴らしい! ここは本当に、素晴らしい場所! ああ、この出来事を誰かに伝えたい! 父に、母に、猫のジョセフィーヌに! 後は中学時代の友人に手紙でも書いて……いや、普通に伝えたのでは面白くないか。それならば、物語のネタにすれば良い。ふふ、また良い物語が生まれそうな予感がするぞ、うん、うん。はっはっは! きっとあの人はこの辺りに住んでいるのだろう。それならば、また会うこともあろう。その時は色々やってもらわねば。ふふ、はっはっはっは!」
幻想はもろく儚いもの。この世を覆う幻想は、彼の馬鹿みたいな高笑いによって、霞み、消えていくのであった。
*
「全く、昨日は散々な目にあったよ」
桜町商店街にある弁当屋『やました』のショーケース。その前にいるのは出雲である。彼が愚痴っている相手はこの店の主、菊野の娘である紅葉だ。紅葉は嫌な顔一つせず、彼の話を聞いている。
「それは大変でしたねえ」
程ほどに気持ちがこめられた声。出雲は嘆き、息をはあ、と吐き。
「この辺りではあまり見かけない顔だったと思うが……まだ子供だったし、ものすごく遠くから来た、ということは無いと思うのだけれど」
「そうですね。そんな強烈な子、この町にはいなかったと思いますけれど。いたら分かりますもの。ここは田舎ですから……皆親戚みたいなものですし」
「だろうね。それにしても驚いたよ。まさかあんな時間、あんな所に人がいるとは思わなかったからね。……思わず声をかけてしまった……かけなければ良かった、本当」
出雲は昨日の小さな、それでいてとても大きな失態を思い出し、頭を抱える。
笑いながら、紅葉はショーケースから出雲御用達の品を取り出し、パックに詰め。
「案外、そんな子供は実在していないのかもしれませんね。……狐にでも化かされたんじゃありません?」
その言い方はどこか思わせぶりで。
「私が? この私が、狐に? はん、笑えない冗談だね」
「あら、分かりませんよ。この町にはこの世の者ではないものがいるって話ですから」
冗談めかして言う彼女の瞳は、間違いなく出雲を指していた。出雲はそれに気づかないふり。紅葉はそれ以上何も言わない。
出雲には分かっている。彼女は自分が人間ではないこと、そしてかつてこの町で好き勝手なことをしていたという化け狐こそが自分であるという事実に気がついているということを。
だが紅葉はそのことを口に出しはしない。追及もしない。彼女は出雲の人間的では無い部分は見て見ぬ振りをし、彼を人間として扱う。
人間として町を訪れ、ふらふらしている出雲に気をつかってそうしているわけでは無いことも出雲は重々承知している。
彼女は自分自身の為にそうしているのだった。自身が築き上げてきた世界を壊さないようにする為に。自分を守る為に。
触れない、見ない、考えない。それこそが自分を『非日常』『非常識』から守る一番の方法であることを彼女は知っている。それは彼女の母、菊野も同じ。
「はい、いつものですよ」
「ありがとう。うん、今日も相変わらず美味しそうだね。……ところでかず坊とお転婆ちゃんはどうしているの?」
「上で二人仲良く寝ていますよ、多分旦那も」
「ふうん。ま、起きたらよろしく伝えておいておくれよ」
「言ってどうするんですか」
苦笑いする紅葉に金を払い、出雲は店を後にした。
パックとビニール袋がこすれる音、ばり、めり、ぱき、じゃり、めり。
さして多く無い人の間をすり抜ける。徐々に消えていく出雲の気配。
彼の存在が、この世から、消えていく。薄れて、霞んで、消えて、消えて。
消える、はず、だった。
「ああ!」
誰かの叫ぶ声が、出雲の背中を叩いた。「ああ!」というより「ああああああ!」と表現した方が正しいかもしれない、やたら長い叫び声。
商店街の中で踊っている音全てをかき消すその大きな声に出雲はびくりと体を震わせた。
心臓が、ばくばく言っている。叫び声を受けた背が寒い。声に驚いたから、という理由もある。だが、そうなった最大の理由は。
(この声、聞き覚えが)
しかもつい最近。……具体的にいえば、本日未明。
いや、しかし、と彼は自分に言い聞かせる。
今の自分はその気配を殆ど消しており、人間にはそうそう気がつかれない存在となっているはず。あの少年は自分に気がつくはずなど。きっと他の知り合いに……。
「夜にお会いした方! 出雲さんじゃありませんか!」
前言撤回。気づかれている。出雲は柄にもなくあせった。あれとはもう関わりたくないと心の底から思った。
しかし思えば思うほど、自分という存在がこの世界に再浮上していく。
いっそ走って逃げてしまおうか。そう思ったが、遅かった。
熱を帯びた手が出雲の肩をぐいと掴む。その手の主……を彼は見たくなかったが、見るより他無い。
見れば、そこには自分が思い浮かべた通りの顔があった。
「矢張り、そうだ! 髪と瞳の色が違うが、間違いなく貴方は出雲さん! またお会いしたいと思い、町中をうろうろしていたら……まさかこんなに早く会うことが出来るとは! 普段の行いが良いからだろうか、それともミツツキミツキカケ様のお導きであろうか! どちらでも、良い、私は嬉しい、また貴方に会えたのだから、はっはっは!」
彼はとても元気であった。出雲の氷の視線に射抜かれてもへのかっぱ。彼の熱気がその視線を溶かしているからなのか、単純に鈍いからなのか。
「貴方のお陰で大分物語が進んだぞ、ほれ、ほれ、ほれ!」
目を輝かせながら、彼はいつの間にか取り出したノートを出雲に押しつける。
しかし出雲からしてみれば、少年――晴明の書いたものなど心底どうでも良いのだった。
一歩、一歩、後ずさり。だがそれに合わせるように晴明の足は前へ一歩、一歩。埒が明かない。
いっそ手に持っているいなり寿司入りのビニール袋で彼の頭を殴りつけてやろうと思ったが、大好物を粗末に扱いたくなかったし、乱暴な真似も好きでは無い(と表面上はそんな風に思っている)から、やることも出来ない。
「しかし! まだ、足りない。これで完全とはいえないのだ。より高みを目指す! 何故目指すのか? そこに私の求める理想と幻想があるからだ! 何という名言、はっはっは!」
気のせいか、彼の体は輝いているように見えた。やや細い両手をフルに使い、次々と形容しがたい妙なポーズをとり。
そんな少年は、目立つ。同時に、彼に絡まれている出雲も目立ってしまう。
集中する視線、意識。これではもう気配を消すことも叶わない。
(目立つことは嫌いではない。けれど……面倒ごとは大嫌いだ。ぴいぴいうるさいのも好きじゃないし)
「本日も貴方の力をお借りしたい! 現実と幻想の間に厚い壁が出来てしまう昼を私は苦手とするが……貴方がいれば、昼も夜も関係ないだろう! ささ、こちらへ!」
晴明を拒絶するかのように出雲は彼のことを睨めつける。その瞳に情も生も無い。
「私は君に協力するつもりなど」
氷を吐くように出雲は言った。普通の人間なら彼に睨まれ、この声色で話されただけで、怯む。そして恐怖に打ち震え、動けなくなる。
「目指せ桜山、我が心の故郷!」
しかし晴明には一切効かず。
晴明は出雲の手をぐい、と掴むと素早く駆け出した。漫画でしかお目にかかれないような勢いで、ずだだ、と。
勢いよく引っ張られ、風に吹かれる布切れのように自分の意思とは関係ない動きをする出雲。彼は困惑する。
(何ということだ。この私が人間如きに……。睨まれ、あの声を聞かされた人間は、体を氷漬けにされたかのごとく、動けなくなるはずだというのに。……しかし霊的な力は感じられないし……これも、彼が言っていた何とか様という者の加護によるものなのか?)
また、晴明が自分の手を平気で掴み続けているということも出雲には信じられないことなのだった。出雲の手は冷たい。触れればたちまち体内中の熱を奪われ、まともに動けなくなる。少しの間ならまだしも。
「ははははは、何だか世界の色が変わっている気がする! 素晴らしい、素晴らしいぞ!」
(まさか、私の肌が冷たいことに……気がついていない? というか私が人間では無いことにも気がついていない、のか? 鋭いようで、ものすごく鈍いのでは)
鈍感は時に人を守る結界となる。鈍ければ鈍いほど、その守りは強固となる。
(私の異質さは感じ取っているはずなのに。変だ。この少年、ものすごく、変だ)