祭りの始まり(3)
*
一方。紗久羅と柚季は今、本物の妖とお化け屋敷に入るという普通の人間には出来ない貴重ではあるが全く嬉しくない体験をしていた。脅かす側の生徒達もよもや千年以上生きた化け狐を相手にすることになるとは思ってもいなかっただろう。
一般教室より一回り大きいその部屋の中には暗幕や黒いビニールが張られ、墓や骸骨等人の恐怖心をあおる小道具があちこちに設置されている。ひゅーどろどろというお化け屋敷定番のBGMは流れていない。代わりに時々女の人が恨み言を呟く声と、心臓を飛び上がらせる位大きな鐘の音が聞こえた。
お化け屋敷に入ることを頑なに拒んだものの、結局出雲に引きずり込まれてしまった柚季は、まあよく叫んだ。
ただ彼女の悲鳴は、恐怖や驚きによって出たものでは無かった。その点は他のお客さん達とは少し違う。彼女がその声に込めているのは自分の前に現れた偽物の『化け物』に対する嫌悪の感情、そして彼等を拒絶する強い意思。本物も偽物も関係ない。彼女は平等であった。
驚かす側の生徒達は、初対面の人間から悪、拒絶というかなりきつい感情を思いきりぶつけられ、困惑し、心を尖ったナイフで抉られることになった。
しかし彼等の心をぐりぐりと抉るナイフは一本ではなかった。
それはお化け屋敷を全体の半分位進んだ時のこと。
「なあ、あれ……絶対動く、よな?」
暗幕の下から半分体を出し、うつ伏せになっている落ち武者の格好をした男子生徒。そんな彼の隣には机があり、上にはスタンプ台と電気スタンドが置かれている。どうやらここで、入り口にて貰った台紙にスタンプを押さなければいけないらしい。
落ち武者は明らかにこちらの様子を伺っている。彼の視線が体にちくちく刺さった。
「絶対動くわ。こっちがスタンプを押した瞬間、わあ、とか言い出すに決まっている」
うんざりした様子の柚季はため息のような深呼吸のようなものをし、覚悟を決める。
紗久羅と柚季は落ち武者に注意を向けつつ、スタンプを押した。あらかじめおどかされることが分かっていれば、それ程心臓は跳びあがらない。
(ベタだよなあ、これってかなり)
そう、ベタだった。あまりにベタ過ぎだった。
しかし、落ち武者は一向に顔も声もあげる様子が無い。二人して「あれ?」と思った。その時油断が生まれた。
「うおうわああ!」
文字では書き表せないような奇声が二人の背後を襲う。思わぬ場所から聞こえた声に心臓は驚き、どくんという叫び声をあげた。振り返れば、長い黒髪のかつらをかぶり、絵の具でところどころを赤く染めた白い服を着、包丁のレプリカを握りしめた女生徒が立っていた。
彼女が発した以上の叫び声を柚季があげた。その声にたっぷりと込められた拒絶、嫌悪、憎しみといった感情に押され、女生徒は怯み、困惑の表情を浮かべながら一歩後退する。
更に。スタンプを押し終えたばかりの出雲が、振り返った。揺れる髪、電気スタンドのわずかな光に照らされる彼の体。そしてそんな彼から、女生徒めがけ放たれたのは、殺人眼光。
氷より冷たく、世界中のどんな刃より鋭いその瞳。十年以上彼と付き合いがある紗久羅でさえ未だ慣れないそれに、初見の人間が耐えられるはずもなく。
二本目の刃、それは出雲であった。彼の視線は周りが暗闇だろうがなんだろうが、よく刺さる。
柚季が叫び、出雲が睨む。落ち武者、からかさお化け、猫娘、白装束をまとった男などなど。二人の前に立ちはだかったお化け役全員がこの精神攻撃を受け、倒れていったのだった。更に、更に。そんな二人と行動を共にしている紗久羅はリアクションが薄く、おどかし甲斐が無い。
二本のナイフと地味に痛む針でお化け役の人達の心をいたぶりまくった三人は、やがてお化け屋敷から姿を消した。
「ああ、やっと出られた……」
三日三晩洞窟を彷徨い続け、ようやっと外に出て日の光を浴びた人のようになっている柚季。他二名はけろっとした様子で、気持ち伸びをし、息を吐いた。
「おどかす相手におどかされる人間の表情ってたまらないよね。お化け屋敷というのは存外面白いものだ」
「お化け屋敷そういう所じゃねえし。あの人達、もち直せるかなあ……」
「もうお化け屋敷なんて二度と行きたくない。文化祭レベルのものでも、嫌なものは嫌!」
「そんなに嫌だったのか?」
柚季は首を激しく縦に振った。紗久羅は彼女の首がもげるのでは無いかと心配になった。
「無駄にクオリティ高いし、おまけにお化け役やたら多かったし!」
「ああ、言われてみれば」
確かにやたらお化け役の人間が多かった気がした。紗久羅は覚えている限りのものを挙げてみる。だが実際口に出して挙げてみると、そんなに多くなく。
思い出そうとすると、頭がぼんやりする。
一方の柚季は、紗久羅の倍以上名前を挙げてみせた。そんな奴いたっけか、と思った者も幾らかいたが、柚季が言うのなら、まあいたのだろうと紗久羅は思った。
「冷たくてねっとりとした感じの嫌な気配をずっと感じたわ……本物があのお化け役の中に混じっていたんじゃないかと思った位よ。というか何かこの学校にいると変な感じがする」
「そんなことあるわけないじゃんか。お化け屋敷の空気にのまれてそんな風に感じちゃっただけだって。学校だって変わったところは無いし、変な感じも特には。人が沢山いるからじゃないかな」
紗久羅は柚季を安心させようと、明るい声でそう言ってやった。……のだが。
「いや、柚季の言う通りだ。お化け役の中に、本物が混ざっていたよ」
隣で二人の話を黙って聞いていた出雲が、衝撃の事実をいつも通りの淡々とした口調で暴露した。えっと紗久羅は彼の方を見、また柚季を見る。
柚季はすっかり白くなり、固まり、棒立ちになる。まるで石膏像だ。
「お化け屋敷だけじゃない。学校中にいるよ、あちらの世界の者達がね」
「嘘だろう? そんな奴等全然見かけなかった……気配を隠しているのか?」
「隠しているのもいる。だが特別隠していないのもいる。お化け屋敷にいた奴等の殆どは気配を隠していなかった。だから紗久羅にも見えたはずだ」
「確かに妙にお化け役の人数が多かった気はしたけれど」
「けれど記憶にしっかり残っている人の数はそう多くも無かった。一方柚季はそれ以上の数を挙げてみせた。……紗久羅はすっかり術の影響を受けているね」
術、という想定外の単語に紗久羅は驚き目を丸くする。出雲はくすりと笑う。
まず出雲は二人に(といっても柚季は殆ど聞いていない様子だったが)祭りは非日常を生み出すこと、この地は今日常と非日常がごちゃ混ぜになっていること、それによって二つの世界の境界が曖昧になっていることなどを話した。
そんな話を人が沢山いる所で堂々としていいのかと紗久羅は話の途中質問したが、出雲は問題ないと即返答。
「誰も聞いちゃいないさ。今ここには人間がうじゃうじゃいる。こういう所では何もかもぐちゃぐちゃに溶ける。個の存在なんて無くなる。特定の人間の話なんて耳に届きさえしない」
そこからまた話を本題に戻す。
「元々この地の境界は曖昧だ。それが祭りの影響でますます曖昧になった。こちらとあちらの境が曖昧になった場所は妖達を惹きつける。どちらの世界とも呼べない異質で歪んだ地の空気に引き寄せられた彼等は、稀に境を飛び越え、こちらの世界に迷い込んでしまうことがある」
逆に人間が境を飛び越え、あちらの世界に迷い込んでしまうことだってあるのだと出雲はおまけ程度につけくわえた。
「じゃあ文化祭が原因で、妖怪達がこっちの世界に入り込んじゃったわけ?」
「原因はそれだけでは無いけれどね。……しかしまあ、随分な数が入り込んだものだ」
出雲は素直に感心した風に笑い、頷く。紗久羅は感心している場合かと彼を小突いてやった。
「で? まあここに妖怪共が入り込んでいるっていうことは理解できた。今度は術がどうとかこうとかって話について聞かせてもらおうか」
「今ここは、常識と非常識、日常と非日常、こちらとあちら、ありとあらゆるものの境界が曖昧になっている。……こういう場所では妖達の異質さもぼやけ、霞む。それゆえ、妖達の存在に気がつきにくくなる。気がついたとしても、その姿や声があまり頭に入ってこない。妖自身は気配を消しているつもりは無いのに、実際は消しているようになってしまうわけだ。誰かがかけたらしい術は……その性質をより強いものへ変えるというもののようだね」
「その術の影響を受けたから、この学校にいる妖怪達の存在を認識出来なくなったのか」
目で見てはいる。耳で彼らの話す声を聞いてはいる。だが、それらの情報が頭までいかない。お化け屋敷で沢山の者におどかされたことは覚えている。だが具体的にどんな者に、どんな風におどかされたかは覚えていない。彼らと関わった事実が遠のいていく。それは術による干渉が原因であったようだ。
「まあ、本当にそういう術かどうかは分からないけれど。でも何かしらの力は作用しているようだ。そうで無ければ……おかしい。確かにこういう地では私達の存在も目立たなくなる。けれどその性質は本来ここまで強くは無い」
「この術をかけているのは……良い奴、なのか?」
「まあ少なくとも人類の敵ってことはないと思うよ。人に我々の存在を認識させず、関わらせず、縁を結ばせず。知らない、気がつかない、忘れてしまうというのは時に人を守る力になる。……この術が働いている限り、大きな騒ぎは起きないだろう」
「分かったような分からないような。……けれど、何でお前の存在はちゃんと認識出来ているんだ、あたしや柚季は。あんたは向こうの世界の住人なのにさ」
「愛の力だよ、愛の」
愉快そうに笑い、紗久羅の鼻を指先でつつく。紗久羅は短い悲鳴をあげ、退いた。その反応を見て出雲がまた笑う。気持ちの悪いことを言うな、くそ狐! 紗久羅の大きな声が廊下に響いた。
「君や柚季、サクと私はすでに深い縁で結ばれている。すでに結ばれた縁を無かったことには出来ないのさ。それに私には巫女・桜の力があるからね。他の者程影響を受けないんだよ」
後はこの服が妖としての私をぼやけさせているようだ、と最後に付け加える。
余程気に入らないらしい。
そこまで言うと、通りかかった教室の前で立ち止まる。中から香ばしい匂い、甘い匂いがする。どうやら団子を売っているらしい。出雲は何も言わず、ふらふら中へ入っていき、のりを巻いたしょうゆ味の団子とあんこののった団子の入ったパックを持って戻ってきた。
「でも柚季はお化け屋敷で見た本物の妖怪達のことも覚えているんだよな。お化け屋敷以外ではそういうの見ていないようだけれど」
出雲からのり巻き団子を一本貰い、ぱくりとかぶりつく。出雲は柚季にあん団子を手渡す。ようやく動けるようになったらしい柚季は小さくなりつつ、串を彼から受け取った。
「この子は人間にしては強い力を持っているからね。術の影響を受けにくいのかもしれない。ただ根本的に彼女は我々の存在を否定し、拒絶しているからね。ある程度は術の力を受け入れているのだろう。お化け屋敷の時は、妖達のことを意識しすぎたせいで、術の効果が薄れてしまったのだろうね。逆に、サクは術の影響をかなり強く受けていたようだ。……向こうの世界の住人と関わりを持っていて、かつ我々ともっと深く関わりたいと思っていて、更にあんなものをつけているから。それに彼女は柚季と違って、異質な力に対する抵抗力を殆どもっていないから。今頃、何かおかしい、何か忘れている気がする、頭がずっとぼうっとするとか何とか考えながらうんうん唸っているんじゃないかね」
普通の人はさくらとは違い、頭がぼうっとしたり、何かがおかしいと思ったりすることは殆ど無いようだ。校内に人がやたら多くいる気がするとか、そういえばさっき来たお客さんってどんな人だったっけとか、そういうことを少し思う位らしい。
「あんなもの?」
「しかしどうもこの学校にかけられている術は一つではないようだね。色々な力が混ざり合って、面白い、いや酷いことになっているよ」
紗久羅の問いは無視しつつ、また少し気になるようなことを呟く。だがその続きを話すことはなく。ただ笑いながら二人の手をとる。紗久羅は真っ赤になり、柚季は石膏像に逆戻り。
「さあ、行こう。ふふ両手に花なんて、最高の気分だ」
「離せこの! というかあたし達はあんたと行動したくない! 二人で遊ぶ!」
「色々私に喋らせた代金だよ。対価はきちんと払ってもらわないとね」
「てめえが勝手に話しだしたくせに、代金をもらおうなんて、詐欺だ!」
「消えたい……」
柚季のか細い声。帰りたい、逃げたい、ではない。消えたい、だ。楽しい文化祭でここまで心をぼろぼろにされる人もそうはいないだろう。
校内を自分の嫌いな妖怪がうろうろしている。そのことを知った途端、体全体が重くなった気がした彼女は、その重みを放出するように息を吐いた。灰色の息は、この場には全く似合わないものであった。
「離せ! というかものすごく冷たい! 全身の筋肉がかちこちに凍りそうだ!」
出雲に握られた手がどんどん冷たくなり、痺れていく。彼の手は氷水、冬の夜空、水を浴び続けた石の様であった。
とても細い手で、力いっぱい振りほどけば簡単に逃れられそうなのだが、意外と上手くいかない。紗久羅はそれでも何度か振ってみる。しかし本気でつかみにかかっている彼の手は一向に解ける様子が無かった。
「離せと言っているだろう! ああ、もう皆に見られているじゃないか!」
「るんるん、らんらん、楽しいなあ」
「嘘つけ! 思いっきり棒読みじゃないか! 柚季も何かこの馬鹿狐に言ってやれ!」
「死にたい……」
「死ぬな、柚季、死ぬな!」
消えたい、すら超越した不吉な言葉。それを言う声は先程以上に弱弱しくなっていく。
それとは正反対に出雲は元気だった。
仕方なく、二人は出雲との模擬店めぐりを続行することにするのだった。
*
「ああ、あれは駄目だな」
三人が通り過ぎた教室から一人の男が出てきた。男は他の階へ消えようとしている出雲の背中をじっと見つめている。
「あんなのに手を出したら、死んじゃう。まだ死にたくないからねえ。残念だけれど仕方が無いね」
男の腰についている紐。それには小さな壷が結びつけられている。彼はその壷をねっとりとした嫌な手つきで撫でた。
「今頃うちの姫様は何をやっているだろう。……遊んでいるかな、それとも人間相手に笑顔を向けて、いらっしゃいませとかなんとか言っているのかな」
肩を震わせ、くっくっくと笑う。しばらく笑った後、男はその場を去っていった。
「集められるだけ、集めておかないと」
その言葉を、教室の前に残して。