第十九夜:祭りの始まり(1)
『祭りの始まり』
青い空、白い雲。風はあまり強くなく、暖かい。舞花市、本日晴天なり。
いつもより少し早めに来た生徒達は食材を運んだり、飾りや必要な道具等の最終確認をしたりする。さくらやほのりもクラスの様子を見た後、文芸部のやる店がある部屋へ向かった。
部屋にはすでに佳花と陽菜がおり、箱の中に入れていたものを取り出していた。
「おはよう、臼井さん、櫛田さん」
「おはようございます」
声を揃えて元気よく挨拶し、作業にとりかかる。売り物である部誌、しおり、そして佳花が作ったブックカバーを綺麗に並べ、その前に値段の書かれたプレートを置く。おつり用のお金は文化祭が始まる寸前に顧問の先生が持ってきてくれるようだ。
次に、おすすめの本や活動報告(部誌にのっているものの簡易版)の書かれたフリーペーパーを商品が置かれているものとは違う長机に積んだ。
更に自分達がおすすめしたい本、図書委員や先生がおすすめする本を並べ、隣にそれらの書籍情報をまとめたペーパーを積み、作業終了。
環がやって来たのは、準備が終わってすぐのことであった。急いで来たのか、少し呼吸が荒くなっている。
あんたが遅れるなんて珍しい、クラスの方で何かあったのかとほのりが聞くと、環が申し訳無さそうに首を縦に振った。
「はい。実は看板の一つが無くなってしまって……」
「看板?」
「はい……。お二人共先日起きたこと、覚えていますよね? 男子三人組がふざけていたら、作業中の女子とぶつかって……」
「ああ、あれね。あの看板結局どうなったの?」
「上に貼っていた紙は汚れてしまって、どうしようもなくなりましたけれど……下のダンボール紙はそこまで深刻なダメージを受けていませんでしたから。紙を貼り替えて、文字や絵を書き直しました。それでまあ、一応完成したわけなんですが」
その続きは言われなくても充分察しがつく。どうやら無くなってしまった看板というのはそれのことらしい。
「その看板は教室入り口前に置く予定のものでした。まあでも出すのは朝でいいかなってことになりまして……一応教室の中に入れていたんです。最後に教室を出たのは委員長だったそうです。その時点ではまだ看板はあったようです」
「じゃあ何かあったとすれば学級委員長……ええと、安達さん? 彼女が帰った後ってこと?」
「ということになります。けれどあの看板を盗む、もしくは壊す為だけにわざわざ職員室の鍵を盗み出すっていうのも変な話ですよね。かといって、委員長が嘘をついているとは思えませんし」
一通り話し終えると、環は腕を組みうなった。お化けが盗んでいったんじゃないの、とからかうようにほのりが言ったが、考えることに夢中になっていた環の耳には届いていなかった。それを面白くないと思ったほのりは環の頭をぺしんと叩いてやった。
そこまでされても気がつかない環ではなかった。
「何で叩くんですか!?」
「うるさい、あたしの愛を受け取ってくれない環なんて環じゃないやい!」
「櫛田さん、与えるだけの愛があってもいいと思うわ。例えその愛受け取ってもらえなかったとしても、御笠君は御笠君よ」
「ボケに対して真面目な言葉を返すなあ!」
真顔で真面目(少し恥ずかしい言葉)な言葉をはくさくらなのだった。ツッコミを入れようと口を開いていた環はぽかんするしかない。
「文芸部は素敵なところですね。私ここが大好きです」
「ひいちゃんはひいちゃんで何だかずれた発言しているし……」
「深沢さんはいつでもマイペースだから」
これには佳花も苦笑い。ほのりもぼけるのが面倒になったのか、真面目に質問する。
「それで、結局看板はどうすることにしたわけ?」
「今から同じものを作るのは流石にきついですから……結局看板無しになりました。一応廊下側の窓に店の名前が書かれたものを貼っていますし……昭和を意識した、昔なつかしタッチで描いた絵をのせたなかなか良い看板だったのですが……残念です」
「そうかあ。それにしても何で看板なんかを……他のクラスで、何かが朝無くなっていたってことはなかったの?」
陽菜がその質問に、少なくとも自分達クラスは大丈夫だったと答える。それに続いて環が首を縦に振った。
「特には無かったようです。僕達クラスの看板だけ。まあ看板が無くても店は開けますから、とりあえずその奇妙な出来事については忘れて、楽しくやりますよ」
そう言いながら、もらしたため息の色は暗い。一生懸命作ったものが、日の目を見ることなく消えるというのは矢張り気持ちの良いことではない。思い入れが強いほど、そのものに対して力を入れていればいるほど、失った時の虚無感は半端ないのだ。
環も作り直した看板の色塗り等を手伝っていたらしい。だからこそ悲しく思っているのだろう。
「まあ誰が犯人かは知らないけれど。そんなことでくよくよしていてもしょうがないもんね」
「そうね。お祭は楽しんでやるもの。ため息ついて、どんよりした気持ちを抱えてやっていても楽しくないし、良いお祭にもならないもの。悪いものは悪いものしか呼ばないわ。気を取り直して頑張ってね」
ほのりと佳花の言葉に環は嬉しそうに頷いた。陽菜も良かったですね、といつも以上ににこにこ笑いながら言うのだった。
さくらはそうね、とそれだけ言った。看板が盗まれたという事実が少し気になったからだ。それが普通の看板であったらそう気にすることはなかったのだろうが。
(あの時……男子生徒がふざけていて……結果的に一生懸命作っていた看板を台無しにされて……女子生徒が怒った。そして、あの場に悪い空気が流れて……私は妙な感覚に襲われて)
いわばその看板はあの場が負の感情で満ちることになった原因なのだ。あの看板がきっかけで何かが校内に侵入した可能性がある。
その看板が消えてしまった。これは果たして只の偶然なのだろうか?
(考え過ぎかしら? うん、そうよ、考え過ぎ。こんなことばかり考えていたら、駄目。悪いものを呼ばないようにする為にも、今日はいつも以上に元気に明るくやらなくちゃ)
「サク、あんたは何さっきから神妙な面持ちになったりにこにこしたりしているの? 百面相で笑わせようとしているの? わざわざそんなことしなくても、あんたの顔は充分面白いから大丈夫よ。あはは、ああおかしい、笑える」
「最後滅茶苦茶棒読みでしたね。まあ僕からしてみれば櫛田先輩の方が余程面白い顔に見え……痛い!」
「環、あんたって結構学習能力がないわよね? 年上のお姉さんの顔を面白いだなんて、失礼しちゃうわねえ、え?」
「ほらほら二人共、いつまでもいちゃついていないで。これから体育館で開会式があるのだから、そろそろ行かないと」
佳花の言葉に二人は手をあげた。
「全く、昨日前夜祭やって、更に朝開会式とか面倒くさいわよねえ……式といっても只校長が延々と話したり、模擬店とかイベントとかの宣伝をしたりするだけだしさ。ああ、さぼりたい、さぼりたい」
と言いつつポケットからバッジを取り出し胸につけている。そういうところは真面目なのだ。他の部員も同じようにバッジをつけた。式の最中でさえつける人は少なく、つけたとしても文化祭が始まる前に大抵の者は外してしまう。
「このバッジって何か意味、あるんでしょうか? どうせ作っても殆ど皆さんつけないんですよね?」
「まあ、一応記念にはなるから……」
佳花でさえそれ位のフォローしか出来ない。本当にどうでも良いものなのだ。
せめてもう少しデザインがしゃれていれば良かったのだろうが。校章と年しか書かれていないバッジでは。
五人で他愛も無い話をしながら体育館を目指す。たった数時間のお祭が後少しで始まろうとしている。こういうイベントが嫌いではない彼等は、張り出されたテントや、窓を飾るポスター等を見て胸躍らせた。
体育館の中へ、入る。いつも通りごく自然に。だが。
ぐらっ。中に入った途端、頭の中がぶるぶる振動した。世界がぐにゃりと揺れ、足元がふらついた。
ほのりや環、陽菜は何も感じていないらしくそのまま歩いている。
気持ち悪いその妙な感覚はあっという間に消え失せる。先程の出来事は夢幻だったのだろうかと思う位。一瞬のこと。
(何だったの、今のは……まさか)
心臓が不吉な音を立てる。その感覚には覚えがあった。そう、数日前のあれと、同じ。
自分以外の生徒は何も感じていないのだろうか。頭を抑えながら目を動かす。
(あ、あれ……?)
隣を歩いていた佳花が、その場で棒立ちしていた。彼女は何かに気がついたのだろうか。さくらの視線に気がついたらしい佳花が微笑む。しかしその笑みにはどこか影があった。
「どうしたの、臼井さん」
「い、いえ。何でもありません」
「そう」
佳花は他にも何か言いたげであったが結局何も言わず、再び歩き始める。
(ここにいても、本当に大丈夫なのかしら……)
少し不安だった。だが不思議とそんな不安も少ししたら消えていった。
この場では全部ぐちゃぐちゃに混ざり合って、何も分からなくなる。今ここに境界は無い。何にも、無い。
開会式の間、皆ぼうっとしていた。いつもはそれなりに真面目に話を聞いているさくらでさえ、上の空であった。
何気なく見上げる天井。舞う塵が光を浴びてきらきら輝いていた。何だかいつも以上に輝いて見える。祭りを前にすると何だってより輝いて見えるのだろうか、そんなことをぼうっとしながら思った。
皆話を聞いていないが、お喋りもしていない。気味が悪い位、静か。
だが誰もその状況を妙だと思っていないようなのだった。さくらも何だかいつもより静かだな、とは思ったが。
そんな時だ。店の宣伝をする生徒の声に混じって、何か別の声が聞こえ始めたのは。
生徒の声は遠くにあり、殆ど何を言っているのか理解出来ていないのに何故かその囁くような声ははっきりと聞こえた。
――まきなさい、まきなさい。一面に。時間をかけてそこから芽が出て、茎が、葉が出て。そして花が咲くのです。美しい花を私の為に咲かせて下さい。私の為だけに、咲かせてください。弱くて醜い、哀れな人の子達……――
さくらは頭を押さえ、小さな声で呻いた。
(頭が重い、ぐらぐらする……ああ、何も、分からなくなる……私は今何かとても気になることを聞いたような気がする、それなのに……ああ、駄目、もう思い出せない。そもそも私は何か変なことを聞いたの? 気のせい? あれ、私はなんで今こんな頭がぼうっとして……)
ゴムで出来たような床、金属で作った筒状のものをごんごん鳴らしたような声、トゲで刺されたかのようにちくちくして痛む胸。
もう本当、何も分からなくなってしまった。
「サク? サク、ほらさっさと行くわよ。何ぼうっとしているのよ全くあんたは」
その声に気づき、顔をあげた時にはもう開会式は終わっていた。生徒達の殆どは席を立っており、体育館を出始めている。
さくらの先を行くほのりは大きなあくび一つ。さくらも少し眠たくて、あくびをしたくなったが、とりあえずこらえる。こういう式は退屈で、いつもなら時間の経過をえらく遅く感じるのだが、今回に限ってはあっという間だったような気がした。
(そういえば今日校長先生、どんな話をしていたかしら? 店の宣伝ってどんな感じだった? そもそも本当に式なんてやっていたのかしら……内容を全然覚えていないわ)
ほのりに式の内容を聞いてみたが、彼女は怪訝な表情を浮かべ、あんなどうでもいい式の内容なんていちいち覚えているわけないじゃない、と一蹴。さくら同様、ろくに話など聞いていなかったようだ。
体育館から出ると、何だか肩の力がふっと抜けたような気がした。ぼうっとしていた頭が一気に冴え、今日はどこの店をどういう風に回ろうかと考えることが出来るようになり。
「まあ、滅茶苦茶面白いものでもないけれど、それなりに楽しもうっと。ああ、でも文化祭の後、感想を生徒会から配られた紙に書かなくちゃいけないのよね。ああいうのって面倒くさいわよねえ」
「私も感想を書くのって苦手だわ。けれど今はそんなこと忘れて、思いっきり楽しみましょうよ」
「それもそうね。サクにしてはいいこと言うじゃん。さてバッジを……ああ、別にいいか、つけっ放しでも」
ほのりは面倒くさくなったのか、胸に伸ばしかけた手を引っ込める。
教室に戻り、最初の当番は早速開店の準備に取り掛かった。他の時間の当番組も一部手伝いに加わり、後の者は模擬店巡りや部活での出し物の準備(数人はどさくさに紛れて校内から脱出する準備)を始める。
調理係は持参のエプロン、三角巾をつけ、廊下に設置されている水道で手を洗い、すぐ品物を出せるようにホットケーキをあらかじめ幾らか作り始めた。
接客係は服を作って他人に着せることを至上の喜びとしている女生徒、福井特製の衣装に着替え、ある者はまんざらでも無い顔をし、ある者は死人のような顔になり。
「福ちゃんの服ってセンスは悪く無いけれど、絶対着たくは無いわよね。フリフリで乙女チックで。……あの格好で見知らぬ人と接しなくちゃいけないとか……なんという罰ゲーム」
「私、接客係にならなくて良かった……」
さくらは心の底からそう思ったのだった。地味でださい服しか着ない彼女にとって福井作成の衣装は色々と強烈なのだった。どれ位強烈か。食べ物で言い表すならそう、あの世界一臭いと言われている食べ物、シュールストレミング。
「着てみれば良かったのに、サク。それとも井上リクエストのバニーガールとかメイド服――って今皆が着ているのもそれみたいなものか――の方が良かった?」
「あれは一夜が冗談で言ったもので。一夜が変なこと言ったせいであの時私まで恥ずかしい思いをしたのよ」
それはクラスでどういう店をやるかということについて話し合っていた時のことだ。兎に角服を作りたいらしい福井が「どんな店になったとしても、最悪展示とかになったとしても、私は服を作りたい!」と言い出した。
その言葉を聞いた一夜は何を思ったのか、色々な話し声が飛び交う中小声で「この機会にお前も何かあいつに服作ってもらえば? バニーガールの衣装とか、メイド服とかさ」とか何とか冗談で言いだした。
さくらは冗談じゃない、と恥ずかしがりながらその提案を拒否したのだが。
二人のやり取りが、随分離れた場所に居たはずの福井の耳に届いてしまい……。
「あの時の福ちゃん、うざったい位輝いていたわよね。確か『井上君は臼井さんのバニーガール姿とかメイド姿とか見たいの! 何といやらしい! でもいいわ、最高、男のロマンね、私はそういうの大歓迎よ、臼井さん、いいえクラスの女の子全員がバニー姿で給仕している姿を見てみたい! というわけで先生、衣装はバニーガールがいいと思います!』とか言って。笑いとブーイングの嵐が起きたわよね」
結局バニーガール姿というのは晶によって即却下された訳だが。さくらと一夜は随分恥ずかしい思いをしたものだ。
「ていうか姫ちゃん、バニーガールは却下したのに何故メイド服風衣装は却下しなかったのかしら」
「さ、さあ……公序良俗に反していないからかしら、一応……」
「まあ露出は殆ど無いし、丈も割と長めだしね」
作業を手伝っていた晶がぱんぱんと手を叩き、皆を黙らせる。
「そろそろ開店の時間だ。用の無い奴等は教室から出ろ。それでもって文化祭スタートを知らせる放送が聞こえたら、各自好きな店を回れ。いいか、どさくさに紛れて外へ出ようとか思うんじゃねえぞ。見つけ次第とっ捕まえてやるからな」
はい、という適当な返事がまばらに聞こえる。
「調理係は忙しくても、手を抜かないこと。こういうのは火をちゃんと通さないといけないしな。接客係、いつまでテンション下げているんだ。もうこうなったらヤケクソでいけ。大丈夫、どうせしばらくすりゃ慣れる。まあ慣れる頃には当番が交代になるだろうが。受付係は受付ミス、おつりのミスゼロを目指せ。やる気があまり無い奴等も、無いなりにきちんとやること。ってほらお前等いつまで教室でくっちゃべっている、さっさと出ておいき」
そしてそれから約十分後、文化祭スタートを告げる放送が学校中に響き渡るのだった。
*
さくらはほのりと一緒に模擬店巡りをする。
茶道部でお茶体験をし、和菓子の美味しさに舌鼓を打ち、抹茶の苦さに悶絶し。
次に美術室へ行き、美術部部員の作品を見た。明らかに適当に描いたことが分かるような作品もあれば、一生懸命描いたということがひしひしと伝わってくるもの、ものすごく上手いなと思うもの、色々あった。特にさくらが気に入ったのは、夜空の下そびえたつ金色の御殿と桜が描かれた絵。そこで牛乳パックで作られた葉書を二枚ほど購入した。
「ああ、まだ抹茶が口の中を支配している……サク、ちょっと外の模擬店見に行きましょうよ。焼きそばとかポテトとか売っているみたいだし」
ほのりは口直しをしたいらしい。さくらもそろそろ模擬店巡りをしたいと思っていたところだったから、喜んでその提案を受け入れた。
学校の中も大分賑やかになってきていたが、外の方はそれ以上だった。外に模擬店を出しているのは主に三年生で、売っているのもメジャーなものが多い。そのせいかお客さんが外に集中しているのだった。外には買ったものを食べる用のテーブルやイスが並べてあり、それなりの数のお客さんがそこに座って色々食べていた。
「ああ、もうとても良い匂いがする。昼になったらもっと混雑しそうね。サク、焼きそば食べる?」
「ええ。こういう所で食べる焼きそばはとても美味しいもの」
「それじゃああたしは焼きそばを買う。代わりにサクはからあげとフライドポテト買ってきて」
「分かったわ。それじゃあ買い終わったらここに集合しましょう」
ほのりと一時別れ、からあげとポテトを売っている店を探す。
校内はすっかりお祭ムードで、いつも流れている空気など微塵も感じられない。見知らぬ人々、法被やクラスTシャツを着て一生懸命調理をしている生徒達、ソースやクリーム、油の匂い。テント、看板、風船等の飾り、喋る声、鉄板でものを焼く音、フライヤーでから揚げやポテトを揚げる音。
(本当にお祭はすごいわ。日常の世界を簡単に非日常の世界へ変えてしまう。それでも全てが変わったわけじゃない。だから今、ここはとても曖昧な世界になっている)
もしかしたら人だかりの中に、異界の住人が混ざっているかもしれない。純粋にこの祭りを楽しんでいるのならば良い。さくらとしては大歓迎だ。だが、この世界の人々に害をなそうとしている者が紛れていたら。それを思うと胸がざわめく。
「いけない、こんなこと考えている場合じゃないわ。ええと、から揚げとポテトは……この辺りかしら」
「あれ、さくら姉?」
自分の名を呼ぶ声が聞こえ、振り返る。そこには紗久羅と、紗久羅の友人らしい少女がいた。カチューシャに、白いワンピースの紗久羅とは正反対の女の子っぽい子であった。
「紗久羅ちゃん! 紗久羅ちゃんも文化祭、来ていたのね」
「ああ、面白そうだからな。あ、こっちはあたしの友達で及川柚季っていうんだ。二学期、転入してきて……色々あって仲良くなったんだ」
「そう。もしかして、この前話してくれた……鏡女って人の?」
柚季はやや気まずそうにしながら小さく頷く。
「まあ、そういうこと。ほら柚季、この人があたしと兄貴の幼馴染の……臼井さくら。あたしはさくら姉って呼んでいるんだ」
「ええと、及川柚季です。宜しくお願いします」
丁寧にお辞儀する少女、柚季。さくらは微笑みながらお辞儀を返す。
「今日はお花トリオのお二人さんはいないの?」
首を傾げさくらが問う。柚季は紗久羅の方を見た。彼女はお花トリオのことをまだ知らないようだった。
そんな柚季に紗久羅は説明してやった。それは自分の幼馴染であること、名をあざみ、咲月ということ、自分も含め花と同じ名前であることからそんな風に呼ばれているのだということ。柚季は理解したようで、こくこく頷く。
「二人共用事があるらしくて、今日は来られないらしい。あたしとしては残念だけれど、まあ柚季がいるからいいや。なっちゃんも今頃どこかでふらふらしているだろうし。会ったら弄ってやろう」
「それじゃあ私は紗久羅をいじめてやろう」
紗久羅の背後に立っていた男が彼女の頭に手をやりながらそんな言葉を吐いた。さくらにはその姿がはっきりと見えている。紗久羅には見えていなかったが、誰であるかは声を聞いてすぐ分かったようだった。隣にいる柚季は一瞬で青ざめ、棒立ちになる。
「楽しいお祭、色々な食べ物、更には楽しいおもちゃがここに。うん、なかなか良いね、文化祭というものは」
そこに立っていたのは多分、出雲だった。いや絶対出雲なのだが。
(あれ、いつもと姿が……)
こちらの世界に来る時、彼は髪と目を黒くする。その点はいつもと変わらないのだが。
髪の長さが随分短くなっており(それでも男性にしては長いが。弥助と同じように後ろで縛っていた)服装もつば及び一部分が青い、白の帽子に英語が書かれた白いトレーナー、青のジャンパー、ジーンズという普段の出雲なら絶対身につけないようなものであった。
そんな俗っぽい服装に身を包んでいても、『人ならざる者』の空気は変わらず漂っている。
「い、出雲さん、その格好どうしたの?」
驚いたさくらが聞いてみる。出雲は嫌そうな表情を浮かべ、鉛の息を吐いた。
「私はいつも通りの格好で良いといったのに。菊野に無理矢理家に引っ張り込まれて、無理矢理着せられたんだよ。こういうのは私の趣味じゃない。それにわざわざ服を着なくても、変化すればどうにでもなると言ったのに。まあこんな服装には絶対しなかっただろうけれど」
確かにどう見ても出雲の趣味ではない。サイズも丈がやや長く、緩め。
「ばあちゃんの嫌がらせだな、こりゃあ……」
「あんたのいつもの格好は目立ちすぎる、少しは地味になれとかなんとかいって。別にいいじゃあないか、目立っても。そもそも私の存在なんて大抵の者はすぐ忘れるんだ」
「ああ、そういえばそんな設定があったな」
「設定と言わないでおくれよ。事実なんだから。まあ今の君達からしてみればもう設定としか呼べ無い位のものなんだろうけれどさ」
出雲の姿は完全に気配を消さない限りは普通の人間にも見える。話すことだって触れることだって出来る。だが彼が姿を消した途端、その存在は霞のようなものとなり、記憶から消える。紗久羅だって小さい頃は会って別れる度彼のことを忘れてしまっていた。相当深く関わらない限り、彼の存在を記憶に留まらせ続けることは難しい。
「ところでその服、誰のなんですか?」
「ばあちゃんが着せたんだから……親父か兄貴のだな。でも親父の趣味ではないし……兄貴のかな。確かあんな感じの服を着ていたような覚えが」
「その通り。かず坊のだよ。……さっき偶然会った時、何で俺の服を着ているんだよと無駄に大きな声で怒鳴られたからね」
私だってこんな服着たくなかったと言ったら更に怒鳴られたと不満げに言い。
そりゃあ勝手に服着られた上に、文句を言われたら誰だって怒るだろう……と誰もが思ったが、彼に何を言っても無駄だということを知っているから、言わない(柚季の場合は極力彼と会話したくなかったから)。
「やっぱり着物が一番良いよ、うん。まあしょうがないから着てあげているけれど、ね。ところでサク、その胸につけている飾りはなんだい?」
彼らしさを見事に殺しているような服を着ていても、彼は周りの人から注目を浴びている。着物姿だったらもっとすごかったかもしれない。逆に強烈すぎて霞んでしまうかもしれないが。
そんな彼が指差したのは、さくらの胸についているバッジだった。
「ああ、これバッジって言うんです。私達高校では毎年文化祭の日、これをつけることになっているんです」
ふうん、と自分で聞いておきながら随分と気のない返事をする出雲は指を口元にやりつつ、じいっとそのバッジを見つめた。興味が無いようで、あるのだろうか。よく分からない反応にさくらは少し戸惑う。
「あの、このバッジがどうかしたんですか?」
「いや? 別に。随分なものをつけているなと思って」
つまりそんなセンスの無い、ださいバッジなんてよくつけていられるな、という意味なのだろう。さくらは一応記念に……とだけ言っておいた。正直それ位しか言えることが無く。
そうしてから、自分はからあげとポテトを買いに行く途中であったのだということを思い出す。あまりちんたらしているとほのりを先程居た場所に延々と待たせることになってしまう。
「私、友達を待たせているから失礼するわね。紗久羅ちゃん、あと柚季ちゃん? 二人共、是非私のクラスのお店に来てね。文芸部の方にも顔を出して欲しいわ」
紗久羅は了承したのか笑みを浮かべながら手を振った。
それを見てからさくらは目当ての店を目指す。
(あ、そういえば出雲さんに妙なものを感じるかどうか聞くのを忘れてしまったわ……うん、でも、いいかな。この場は今とてもごちゃごちゃしていて、そういう区別もあまりつかないかもしれないし)
からあげ&ポテトを販売している店はそこそこ盛り上がっており、数人並んでいた。今ストックがほぼ無い状態らしい。だが並んでいればじき買えるだろうと思い、そこに並んだ。
待っている間、色々な音や声が聞こえてくる。ごちゃごちゃ、ぐるぐる、ぐちゃぐちゃ、混ぜあって、でも溶け合うことなく。はっきりとしない混ざり方。
「匂いがする。いっぱいするよ」
「本当だ。色んな匂いがするね」
「とっても良い匂いだね」
「ああ。本当、そこら中から良い匂いがするよ」
さくらの後ろに子供が二人並んだようだった。少年か少女か、声だけでは判別出来ない。ただあんまり喋り方が無邪気だったから、さくらは思わず笑む。
その次に続く言葉を聞いていなければ、さくらはそのまま笑っていられただろう。だが。
「人間とは違う匂いが沢山する。色んな種類の妖怪の匂いが沢山するねえ」
無邪気の中に秘められた邪悪な部分が一気に表面化した。
「でもきっと誰も気がついていないんだ。馬鹿だね、愚かだね、人間は。今この土地は歪んでいる。心地良いねえ」
「ああ、もう気持ちが良いったらないね。ほら、あそこに妖怪が。あそこにも、あ、あっちにもいる。沢山いるねえ」
さくらは後ろを振り返ろうとする。だが体が思うように動かない。胸が痛み、焼け、重くなる。まるでものすごく刺激の強いミントと、唐辛子を腹の中に注入されたかのようであった。
二人の笑い声が彼女の耳を容赦なく突き刺した。
「けれど。妖怪の匂いよりもっと強い匂いがある」
「ああ。とても懐かしい匂いだねえ、あの花の匂いだ。……いいや、これはまだ種かな? あの種の匂いでいっぱいだねえ」
「この匂いを嗅ぐ日が再び来るなんて。夢のようだ。けれど、花になるには時間がかかるね」
「そうだねえ。一体誰がまいたんだろう」
「種を持っているのは『あれ』だけさ」
「そうだったねえ。それじゃあ今ここには『あれ』がいるんだねえ」
「他の奴等はこの匂いに気がついているかな?」
「どうだろう、殆ど気がついていないんじゃないかな?」
「だろうねえ、きっと、そうだろうねえ」
二人はまた笑った。無邪気で邪悪な声で。
さくらが後ろを振り返れるようになった頃には、もうその子供達の姿は無かった。代わりに立っていたのは三十代位の男。男と視線が合い、慌てて前を向き直す。
まだ胸が痛い。あの笑い声が耳からこびりついて離れない。
(一体今のは何だったのかしら? 駄目だわ、あの笑い声ばかり頭と耳に残っていて……話の内容がよく、思い出せない……)
何とかそのやり取りを思い出そうとしたが、矢張りはっきりと思い出すことは出来なかった。そうしている間に注文の順番が回ってきたから、慌ててから揚げとポテトを頼む。
食欲をそそる油の匂いを嗅ぎ、それらをほのりの下まで持って行く頃には、気味の悪い体験をしたこと自体、殆ど記憶から消え去ってしまった。恐ろしく異常な出来事も、この境界が曖昧になった場所では霞んで消えていってしまうらしい。
先程指定した場所に、ほのりがいた。彼女もついさっきここに着いたばかりだったらしく、特に何も言わなかった。二人で適当な場所を見つけ、焼きそばとから揚げ、ポテトを食べる。
「後三十分位でクラスの方の当番が回ってくるわね。校内の模擬店をざっと見てから行きましょう」
「そうね。お店、売り上げは順調かしら」
「忙しすぎるのも嫌だけれど、暇すぎっていうのも嫌よね。ほどほど盛り上がっていればいいわね」
焼きそばは味付けが丁度良く、大変美味だった。ポテトはやや薄味だったが、塩分が濃すぎるよりはずっと良かった。
(何だろう、胸がちくちくする……さっき何かあったような……頭がぼうっとする……)
口を動かしもぐもぐ買ったものを食べている間、頭の中はずっとぼうっとしているのだった。
文化祭はまだ、始まったばかりだ。