第十八夜:祭りの前日
土壌を作ります。種をまきます。種をまくと、芽が出ます。茎が伸び、幾枚の葉で飾られていきます。
最後には、花が咲きます。
花が、咲きます。とても綺麗な花です。
花を咲かせましょう。種をまき、肥料を与え、水をやり。
花を、咲かせましょう。
『文化祭前日』
今日の東雲高校はとても慌しい。午前中は通常授業だったからそうでもなかったのだが、午後になってからは。
文化祭準備の為、生徒や先生が休む間も無く動き回っている。その姿は、学校という巣の中を行く働きアリのようであった。
外で模擬店をやるクラス(これはほぼ三年生だ)はテントをせっせと組み立て、そこに長机を設置する。長机は学校の外れにある、運動部の部室が集まる小さな建物の二階に、暗幕やらスタンドやら等と共に置かれている。
それらを使うクラスの生徒達は事前に申請した数だけ、その部屋から暗幕や長机を運び出すのだ。
「ここって本当、気味が悪いわよね」
長机をとりに、さくらとほのりは生徒でごった返し状態になっている棟へ足を踏み入れていた。
確かにそうねとほのりの言葉にさくらは素直に同意する。湿ったコンクリートの匂いが鼻をかすめた。カビが生えていたとしても何らおかしくは無い。
今にも雨が降りそうな日に出ていそうな雲を閉じ込めたかのような色をした壁、階段。手で触れると体が震える程冷たかった。天井には蛍光灯がついているが、それでもあまり明るくは無い。行きは問題ないが、帰り、長机等を運ぶ時気をつけなければいけない。
二階にある部屋には生徒達が沢山集まっていた。普段はトレーニングルームとなっているらしいその部屋もまた、人が大勢いるにも関わらず何だか寒々しい。今はまだ良いが、本格的な冬になったらここはきっと氷の国になってしまうだろうとさくらは思う。
部屋の奥には積まれた長机や、ダンボール箱に入った暗幕などが置いてある。その前に、机に座って色々書いたり、生徒達と話をしていたりする人がいた。見ればそれは環で、彼はさくら達が入ってきたことに気がつくと会釈した。
「こんにちは。ええと先輩達のクラスは……衝立と長机ですね。衝立は後一個、長机は後二個です」
環が所属している図書委員会は、長机等の数が去年記録したものと一致しているか改めて確認したり、それらをこの部屋に運んだり、今どのクラスが何を何個持っていったのか確認したりする作業を請け負っているのだ。
環は手元にある表にチェックをする。このチェックを間違えると、面倒なことになる。
「毎年図書委員の顧問をされている先生曰く、必ずといっていいほどミスがあるらしいです。申請した以上の数を間違えて持っていってしまったり、その逆があったり」
原因の一つは図書委員のチェックミス。クラスの人が持って行く度、該当する道具の欄に正の字を書くのだが……うっかり別のクラスの欄に書いてしまったり、違う道具のところに書いてしまったり、別の作業を少ししている間に正の字を書き忘れたり、逆に余分に書いてしまったり。
もう一つは持って行く生徒達のミス。先生から毎回「道具を持って行く時は必ずそこにいる図書委員に一言言うように」と言われているのにも関わらず、図書委員の人に声をかけるのを忘れ、そのまま勝手に運んでしまう生徒が必ずといっていいほどいるのだ。
「図書委員さんも大変ね」
「そういえば臼井先輩図書委員じゃないんですよね。先輩はすすんで図書委員になりそうな人なのに」
環に言われ、さくらは頬をかいた。そんな彼女をほのりが肘でつつく。
「サクはほら、人と話すの得意じゃないから。……他にも理由はあってね。この子一年の時図書委員をやったのだけれど。当番の時暇だからといってカウンターで読書をしていて……続きはわざわざあたしが話さずとも……何となく、分かるでしょう?」
「ああ、何となく」
ため息混じりの声。それ以上話していると他の図書委員達に睨まれそうだったので、話を切りあげ、さくらとほのりは積みあげられた長机を持ち、その部屋を後にした。
階段は慎重に下りる。彼女達の隣を、二階へとあがっていく生徒達がすり抜けていった。まだ地獄は終わらないのか、ええい、嫌いだ、長机など嫌いだ! どうせ運ぶなら可愛い女の子が良い! ……などと叫ぶ男子。それを聞いてほのりとさくらは力が抜けそうになった。何をくだらないことを、思ったことを素直に口に出すほのりはバランスを崩しかける。さくらであれば間違いなくそのまま転落していただろうが、ほのりは彼女ほどとろくはない。おっとっとと良いながら体勢を整えた。
校舎に入り、教室へと向かう。窓には店の宣伝ポスターが貼られ、教室の前には食券を販売したり、入場受付をしたりする時に使われる机が並んでいる。
食券販売係となっている二人は長机を持って教室へ入る。まだ脚は開かず、教室の隅にそうっと置いた。
「ふう。別に大した重さじゃないとはいえ、地味に疲れるわよね。神経使うし、ゆっくり行かないといけないしさあ」
「ええ、そうね。……次は何をする? 外の飾りつけとかやる?」
ほのりはそれに同意し、自分達と同じ係りである女生徒に声をかけた。彼女は外に貼る用のポスターの束を抱えていた。
「さっちー、これからあたし達食券販売する机とか、廊下側の窓を飾りつけしようかと思うんだけれど、それ用の飾りって今どこにある?」
「ああ、それならロッカーの前にあるよ。ダンボールに外・受付コーナー用って書いてあるはず」
「オッケー、了解。サンキュー」
ほのりは彼女に軽く手を振る。さっちーと呼ばれた生徒はポスターを抱えていない方の手を申し訳程度に振る。確かにロッカーの前には幾つかのダンボールが並んでいた。二人が探していた箱はすぐ見つかった。
教室の前に並べられた机と、その後ろにある窓にメニュー表を貼る。そこには女の子特有の丸っこく可愛らしい字が並んでいた。しかもかなりカラフル。
貼った後一度少し離れ、曲がっていないか、位置は適切か確認する。
「ちょっと右に曲がっている感じ?」
それを聞いてさくらが位置を微調整する。途中良い感じになったのか、ほのりのストップという声が聞こえ、さくらはそこで手を止めテープで再度貼りつけた。
「後はこの花と、鎖ね。しかしこの花改めて見てみると……可愛すぎるというか、子供っぽすぎるというか……」
画用紙を円状に切り抜き、組み合わせて作られたそれは、幼稚園の窓なんかによく貼ってありそうなもので。正直高校の文化祭には似つかわしくない代物であった。作っている時はあまり気にならず、結構楽しみながら切り抜いたり、貼り合わせたりしていたのだが。
「けれどいいじゃない。とっても可愛いもの」
「そうね、可愛いは正義ね。それじゃあ貼っちゃいましょう」
普段は無いものがある、普段あるものが無い、そんな学校は今『向こう側の世界』のようになっている。そのような場所では些細なことなど気にならなくなる。
妖怪の世界に妖怪がいてもおかしくは無い。それと同様に、半分異界と化している学校内に、幼稚園位でしかお目にかかれないような飾りがあっても違和感は無い。全くといっていいほど気にならなくなる。
「ああ、偏っている。もう少し離れたところに貼らないと。ここだけ異様に固まって……サクの方は……あの、その、直線状に全部貼るのはやめて欲しいんだけれど。こういうのはやっぱり全体的に貼って欲しいわ」
「そ、そうね。それじゃあこれをここに、と」
貼り直しつつ教室の中をちらっと覗く。女子数名が机を向かい合わせにしてくっつけては、上に可愛いランチョンマットを敷く。調理場は衝立で隠されており、そこには今まさにさくら達が貼っているのと同じようなまんまるお花が。
更に中央部分には看板。これは紙を貼った木の板で作られたもの。店名はクラス担任の名前からとって『ひめあきら』となっており、書道部所属の女子が書いた綺麗で丁寧な文字が書かれている。
作業を忘れて中の様子をうかがっていたさくらは、ほのりにスカートをぺらりとめくられるまで(中にはハーフパンツをはいていたから何ら問題は起きなかったが)自分の世界にトリップしていた。
「ほら、手を動かす。次はこのくさりをつけないと」
「酷いわ櫛田さん。スカートめくるなんて」
「ほい、これそっちからつけていって」
華麗にスルーし、くさりを押しつけた。さくらは素直に受け取る。地面につかないよう、使い終わったホースのようにくるくる円状に軽く巻き、一旦机の上に置いた。
「これってくっつける間隔を適当にやると、相当不恰好になるのよね。こんな飾りをじろじろ見る人なんていないだろうけれど、なるべく綺麗にやらないとなあ。……しかしまあ、こういう飾りって作る人の性格がよく出るわよね」
このくさり(教室内に飾るものもだが)は数人で手分けして作ったのだが。
さくらは改めてくさりに目を向け、あはは、と笑う。一人で作ったもので無いことがすぐ分かる位、ポイント毎に色々な違いがあったのだ。
その一、太さばらばらポイント。やたら細いものと太いものが入り混じっている。切り口はくねくね蛇のようで。短冊状にすりゃ問題ないだろう、という考えの持ち主が猛スピードで、超がつく程雑に切ったのだろう。
その二、丁寧にも程があるだろうポイント。先程までのとは違い、くさりの太さは一定、切り口も真っ直ぐであった。切られた辺りに微かに見えるえんぴつで書かれた線。恐らく定規で切る部分にびしっと線を引き、それをはさみでなぞるように切っていったのだろう。いやもしかしたらはさみではなく、カッターで切ったのかもしれない。雑すぎるのもどうかと思うが、ここまで丁寧に作らなくても、とほのりは感心半分、呆れ半分。
その三、色のバランスが微妙なポイント。あるポイントでは赤、ピンク、橙、黄色のくさりしか使われていなかった。水色や緑、黄緑等他にも色々な色のくさりがあったはずなのだが。余程赤・黄系統の色が好きだったようだ。ちなみに丁寧にも程があるだろうポイントのくさりは水色、ピンク、黄色という並びを延々と繰り返していた。これもまた、全体の色のバランスをおかしくしている。
「何かまとまりが無いなあ。まあ、飾りのことに文句を言っても仕方が無いか」
言ってほのりはさくらと、どういう間隔でくさりをくっつけていくか話し合う。その後は実際につけたり外したりを繰り返していった。無駄に細かい調整をし、理想のバランスを目指す。
「よう、進んでいるか」
別の場所で作業をしていたらしい一夜が、二人の様子を見て声をかける。すると二人は一斉に彼の方を見、怒鳴りつけた。
「今大事なところなの、邪魔しないで!」
その気迫に押しやられた一夜は、肩をすくめ、まあせいぜい頑張れやという言葉を残し、教室へ入っていった。
しばらくしてようやく飾りつけを終わらせた二人。
「そう言えばさっき誰かあたし達に話しかけていた?」
「さあ? 気のせいじゃないかしら」
二人共、一夜に声をかけられたこと、彼に怒鳴ったことなどすっかり忘れていたのだった……。
準備は滞ることなく進み、前夜祭までに大方の準備を終わらせることが出来た。仕上げは明日に持ち越し。
「これといったトラブルが無くて良かったわね、うちらのクラス」
「何故か教室に置いてあったのりが消えちゃったみたいだけれど……」
まあどうせ後で見つかるだろう。訳の分からないところから、ぽんと。
「しかし何というか。お祭前なのに、すでにお祭り騒ぎって感じだったわよね。今は落ち着いているけれど」
「準備も本番に負けない位賑やかになるものね」
前夜祭の会場である体育館を目指しながら、さくらはすっかり様相の変わった校内を観察する。
(普段無いものが現われる。それだけで、たったそれだけで世界はその様子を変える。日常の匂いが消えて、非日常の匂いが充満する……)
けれどここは学校。日常の世界。その事実が消滅することは無い。
(日常と非日常が混ざっている。今学校はこちらの世界と、あの、異界を繋ぐ『道』のような状態になっている……)
さくらはそうっと目を瞑る。浮かんだのは、藤色の髪を揺らしながら笑う男の姿。
――二つの世界の境界が曖昧になっている場所は、異常を呼び寄せ、異形を惹きつける……――
*
今から数日前――一年女生徒と男子生徒のいざこざを目撃した日の翌日――夕方のこと。
「それで、君は学校で何か良からぬことが起きるかもしれないと思っている、と」
心落ち着く紅茶の香り、心安らぐお菓子の甘い香り。優しい香りに満ちた、部屋。
そんな部屋にいるのはさくらと、ただそこにいるだけで人の心の平静を乱す男、出雲。鈴はいつも通り、二人にお茶とお菓子を出すとどこかへ行ってしまった。
「はい。気のせいなんかでは無いと思うんです」
女生徒の怒鳴り声、気まずそうに彼女から視線を逸らす男子達。何も言えず静かになる他の生徒達。
重苦しい空気。その時自分を襲っためまい、動悸。あの時確かに世界は揺れた。
「まあ、あの辺りも桜町同様、普段からあちらとこちらの境界が曖昧になっているからねえ。祭りの準備という非日常を生み出す前段階とも呼べる行為が、境界を更に曖昧にし、こちらの世界の者を招いてしまった……という可能性は無いとは言い切れない。しかもその場でいざこざがあり、場の空気は最悪だった」
「はい。ああ何だか気まずい空気が流れているなと思っていたら……その妙な感覚に襲われたんです」
可愛らしい瓶に入っていたドライフルーツをつまむ。大変甘いのだが酸味も結構あるので単体でも十分いける。が、紅茶と一緒に食べた方がより美味しくなる。出雲はレモンの砂糖漬け入りのチーズケーキを一口。
「桜村奇譚集に、確か祭りや儀式の時は悪いことを考えてはいけない、という話がありましたよね?」
ある祭の最中、男二人が大喧嘩したところ、嵐となり、邪悪な化け物まで現われたという話があったのだ。しかし同意を求められた出雲の方はあまりぴんときていないようで。
「ふうん? 私はあそこに載っているもの全てを把握しているわけじゃあないから、知らないけれど。まあ間違ってはいないね。人間の負の感情というものには、場の性質を悪い方向へ変える力がある。穢し、歪ませ、異質にするんだ。そうなるとこちら側の住人にとってはより魅力的な場になる。そこに流れる空気の匂いは我々を惹きつけ、招く。そして曖昧になった境界を飛び越え、君達の世界に入り込む……という場合がある」
場が歪めば歪むほど、異質なものになればなるほど、より凶悪で強い力をもった者が引き寄せられていく。それから一度話を区切り、彼は優雅に茶をすすった。
「普段は無いものを置き、普段はまずやらない踊りをし、歌を歌い、その場の空間の性質を変え、二つの世界の境界を曖昧にする。その地は半分異界のような所になる。そして人々は神だとか精霊だとかを呼び寄せようとするんだ。正しい方法、正しい心を以って祭りや儀式を行えば、その場が極端に歪むことは無い。けれど一歩間違えれば。……災厄を招くことになる。まさに命がけ。特に桜町周辺の土地では、少しのずれが命取りになる」
「……やっぱりあの時、入り込んでしまったのでしょうか。この世界の住人の誰かが」
知らないよそんなこと、と真剣なさくらに対し、出雲の方は非常に面倒くさそうであった。
「君の話を聞いただけじゃ分からないよ。調べてやるつもりもない。……まあ、その文化祭とやらは面白そうだからねえ。気が向いたら遊びに行こうかな」
「そうですか……」
「まあ、どちらにせよ、文化祭当日は気をつけた方がいいかもしれないね。二つの世界の境界が曖昧になっている場所は、異常を呼び寄せ、異形を惹きつける……。その場所は半分異界のようなものになる。そしてその地を流れる歪で異質な力は活性化され、我々により強い力を与える。入り込んできた奴がその日何かしらの行動を起こすかもしれない。……仮に誰も入り込んでなどいなかったとしても、その祭の日に誰かが入り込んできて何かするかもしれない」
君一人注意したところで何がどうなるわけでもないがね、と痛い言葉を付け加え、ケーキを一口。彼の目はさくらを見ていない。
ふう、と一息ついて今度はドライフルーツに手を伸ばす。出雲にとってはさくらの話を聞くよりも、甘いお菓子を食べることの方がずっと大切で。そして彼にとってより有意義なことであった。
それから出雲は一言も喋らなかった。話すことが特に無いのだろう。相手が紗久羅であれば、もう少し多弁になっていたかもしれないのだが。
さくらはこの世界についてもっと色々聞いてみたいと思う反面、今日起きた出来事のことが気になっていたし、会話が出来る空気でも無かったから、同じく黙ってただお菓子をむさぼり、茶を飲むだけの人形と化した。
結局大した収穫を得ることが出来ないまま、さくらは満月館を後にする。館を訪れる前と後、変わった点といえば、腹がいっぱいなったということ位。減って欲しかった不安は残念ながら少しも減らず。
通しの鬼灯を握り『道』を通る。灯篭の中にある青い炎が揺れるのを見る度、心が揺れた。不安という名の炎は消えることなく、むしろ激しさを増していった。石段を踏む足が冷たい。痛くて、しびれて。見上げれば、赤い鳥居と、季節はずれの桜。体中を流れる血がそれらを求めてうずいているのをさくらは感じた。今にも体から飛び出していきそうで、恐ろしかった。
鬼灯を握る手に力が入った。今の彼女を守ってくれているのは灯りをともしている小さなそれのみなのだ。
(ここはとても綺麗なところ。けれどやっぱり、恐ろしい。ここには長居していたくは無い。駆け出したくなる。綺麗で、魅力的な所なのに、体が、動物としての本能がここにいることを嫌がっている……)
文化祭当日の東雲高校は、この『道』と同じような場所になる。あちらともこちらともつかない場所に。そう思ったら、背筋がぞっとした。
さくらは転ばないように気をつけながら、出来るだけ早く足を動かして『道』を通っていくのだった。
一方、満月館。食器の片づけを終えた鈴は、出雲の膝の上に座り喉を鳴らす。
そんな彼女を慈愛に満ちた瞳で見つめながら、今日さくらから聞いたことを語った。
「祭りそのものより、あの子の存在の方がずっと危険だ。こちらの世界と強い関わりをもっている彼女は、祭りにおける非日常を生む装置――屋台や祭り、歌、みこしなど――と同じようなもの。いや、それ以上のもの、だ。当日学校を埋め尽くすだろう非日常を生み出す装置全部かき集めても、彼女の存在には敵わない。それ位彼女は危険なんだ。あちらの世界にとってはね」
昨日学校に何かが侵入していたとして……その原因の一つは彼女にもあったんだろうね、とついでに言った。
「お祭の日……何か……起こる?」
さあ、どうだろうね、出雲はくすりと笑い、それから天井を見上げた。
「けれどまあ……祭りによって境界が曖昧になり、この世界に近い状態になっているその場所に彼女や、彼女と同じようにこの世界と関わりをもっているかず坊がいれば……うん、何か起こるかもしれないねえ」
「出雲、楽しそう……」
「楽しそう、じゃない。楽しいんだよ。何か起こればいいなあ。その方がずっと、良い」
鈴の頭を撫で、笑う。それを見た鈴も微かに笑った。出雲の幸せが、彼女にとっての幸せなのだった。
勿論こんなやり取りがあったことなど、さくらは知らない。今の自分がどれだけ危険な存在であるかということも、自覚していない。
*
ぼふ。回想に全意識を向けていたさくらは、誰かの背中が目前に迫っていたことに気がついていなかった。顔面を思いっきりぶつけるまでは。ついでに、ここが学校で、今体育館を目指して歩いていたことも忘れていた。
ぶつかった相手というのは一夜で、彼は自分の背中に激突した人間がさくらであることを確認すると、ため息をつく。
「お前、またぼけっとしていただろう」
「し、していないわ」
「それじゃあ余所見していただろう」
「余所見もしていないわ」
「じゃあ何でぶつかってきたんだよ。納得出来る説明をお願いしようか」
じと目で彼女のことを見つめる一夜の隣には、友人がいた。その友人は一夜の背中をぽんと叩き、大声で笑い出す。
「そりゃああれだろう。井上の背中が恋しくて、愛しくて、ああ、一夜の背中に顔面をダイブさせたい! と思ったからだろう。欲求不満が爆発しちゃったんだなあ、奥さんは。井上、内心喜んでいるんじゃないの? ああ、そんなことをする位俺のことを愛しているのか、と!」
彼は自分の体を自分の腕で抱きしめるというオーバーなアクションを起こしつつ、わざとらしい口調で語った。それに同意するように笑うほのり。一夜は二人を睨みつけ、さくらは困り顔を向け。
「そ、そんなんじゃないわ」
「そうだ。というかこいつは俺の奥さんじゃない。こいつの顔面ぶつけられても全然嬉しくない」
ああ、悪い悪い、友人はにやけながら一切感情のこもっていない謝罪をする。
「一夜は臼井さんの顔じゃなくて、胸をぶつけてもらいたかったんだよな。大きいもんなあ、臼井さんのおっぱ、げぶっ」
大声でされたセクハラトークを最後の最後で止めたのは、ほのりの鉄拳である。
「セクハラ発言禁止!」
頭をおさえる一夜の友人、呆れるしかない一夜、どう反応すれば良いか分からずおろおろするさくら。そんな彼女をほのりが引っ張った。こんな奴等放っておいて、さっさと行きましょうと言って。
それから間もなく、体育館で前夜祭が始まった。
まずは文化祭の準備を進めてきた前期生徒会会長であり、文化祭実行委員会委員長である三年生の話があり、それに続いて後期生徒会会長の御影要の話があった。要の話は異様に堅苦しく、体育館内の気温を五度程下げた。
「今から始まるのって前夜祭よね? 葬式じゃ、ないわよね?」
「ま、まあ御影君だし……」
「あいつ適度に力を抜くって言葉を知らないわよね……」
しかし彼が下げた気温もあっという間に元通り。喉自慢大会、高校生の主張大会、吹奏楽部や軽音部による演奏、○×クイズ(最後まで残った十人に明日の文化祭で使える食券が手渡された)といったプログラムは、そこにいた生徒達の多くをそれなりに楽しませた。進行がぐだぐだであったことは残念だったが、こういうものは大抵そうであるから、仕方が無いのだった。
最後に生徒全員に缶バッジが配られた。これは毎年配られるもの。校章と年が描かれているだけのシンプルで可愛げの無いもので、もらっても大して嬉しいものでは無いのだが……一応これを当日つけることになっている。
クラス毎にそのバッジが入った箱が配られ、自分の分のバッジを取りつつ、後ろの人に箱を手渡していく。
そして教室に戻るとSHRを行い、解散した。終わった頃にはもう外は大分暗くなっていた。だがさくらはまだ帰らない。文芸部の方の準備があるからだ。
当日は部室では無く、同じ棟にある部屋を使う。部室はあまりに狭すぎるからだ。明日販売するものや飾りを箱に詰め、借りてきた台車で運ぶ。
「もう明日なんですねえ……もっと先のことのように思っていたんですが」
台車を押していた環が感慨深そうに呟く。
「しかもあっという間に終わるしね。本番より、準備の方が時間かかるのよね、こういうのって。数年かけてこつこつ貯めたお金をたった数時間で使い切っちゃう感じよねえ」
明日の文化祭について話している最中、教室へと着いた。もう殆ど使われていない所で、中を満たす空気は異様に冷たい。電気をつけても、明るく暖かい感じが全くしない。閉じ込められていた一年分の時間。その匂いが鼻をかすめた。
室内を軽く掃除し、並んでいた長机の配置を変えたり、余分なものを畳んで移動させたりする。しおりや部誌は明日の朝並べることにし、とりあえずそれらが入った箱を机の上に置く。看板だけは前もって設置する。
黒板に五人で絵を描いた。大きなキャンバスに、チョークを使って、自由気ままに。皆で夢中になって魚だとか鳥だとか、猫、犬等を描いていたら予想以上にぐちゃぐちゃになってしまった。文芸部、という文字が全く目立っていない。
「でもまあ、いいか」
「ええ。消すのもったいないし」
「それにしても……深沢さんの絵って何か、すごいですね」
「そうですか?」
彼女の絵は下手、というわけではない。ただセンスが何というか、ものすごく独特なのだ。好きな人は好きかもね。という……珍味のようなものであった。
掃除道具を入れるロッカーを弄っていた佳花が手を叩く。
「さあ、今日はもう帰りましょう。明日は少し早めに来て最後の準備をしましょうね」
佳花が集合時間を提示する。四人はそれに頷き、明日の文化祭に思いをはせつつ、帰る準備を始めた。しかし言いだしっぺの佳花はまだ動く様子が無く、すっかり黒くなっている空をじっと見つめている。
「どうしたんですか、美吉先輩」
その背中がどことなく暗く、冷たくて。さくらは言い知れぬ不安に襲われた。
不安を振り払おうと声をかけると、佳花は一呼吸置いてから静かに振り向く。
いつも通りの優しく暖かな笑みがそこにあったから、さくらはほっとした。
「……美吉先輩にとっては最後の文化祭ですね」
「ええ、そうね。大学にも行かないから、こういうのは明日の文化祭が最後ね……」
笑みに少しだけ寂しいという感情が混じっており、さくらの胸をきゅっと締めつける。佳花は窓の外に広がる空を見ながら、色々なことを思い返していたのかもしれない。
「それじゃあね、臼井さん。明日は頑張りましょう」
「はい」
鍵をかけるのは佳花に任せて、さくらは手を振り教室を出た。
文化祭の完成形に限りなく近づいている校内。明日それは完成するのだ。
再びさくらの体をつきあげる不安。何も起こらないという保証はどこにも無い。
(明日、何も起こらないといいけれど…)
心からの願いは果たして聞き入れられるのだろうか。それとも。
外は暗かった。とても、暗かった。暗すぎて前が見えなかった。
*
種を、まきましょう。美しい花を咲かせる為に。
きっと上手くいくでしょう。ここはとても素晴らしい土地。
上手くいかないわけが無いのです。
花、花。もう永遠に咲かせることは出来ないだろうと思っていた花が。
咲く、咲く、咲く。