第十六夜:祭りの準備
『祭りの準備』
山を飾る木々の葉が、秋らしい色に染まり始める頃。近々開催される文化祭に色めく東雲高校の生徒達。
熱気・興奮の赤、明るく楽しい未来思う黄。染まって、混ざりあって。東雲高校という山を鮮やかに、賑やかに彩る。
放課後になると廊下に木の板、新聞紙、絵の具、バケツ等が広がり、その周りを生徒達が取り囲む。そして廊下は足の踏み場も無くなるのだった。
教室も廊下と同じ位賑やかで、机の上に厚紙や折り紙、はさみやカッター、普段学校では目にしないような服等が並べられており、女子がぺちゃくちゃ喋りながら作業をしている。
近くの店で買った、必要なもの、そうでも無いものが沢山入ったビニール袋を両手に持った生徒が階段をかけあがる。曲がり角を曲がったところでバケツを持っていた人と危うくぶつかりそうになり、悲鳴をあげた。
家庭科室は文化祭当日に販売する食べ物を実際に作っている人達で溢れている。作るものはそう難しいものではないが、矢張り作ってみなければ分からないことがある。所要時間の目安を知りたいし、どういう手順で皆にやらせるか等色々決めなければいけないことだってある。更に後日、当日使う器具を使って試しに調理をする。
室内はソースや砂糖、油の匂いなどでいっぱいになっていた。部屋の入り口をのぞく食い意地の張った男子達。準備の手伝いは殆どせず、美味しい蜜だけ頂いてさっさとずらかろう……という魂胆である。間もなく彼等は様子を見に来た姫野晶にはたかれ(正確にははたくふり)、はえのように追い払われた。
体育館では演劇部が当日披露する劇のリハーサルを行っている。次の日には文化祭前夜祭、後夜祭のリハーサルがここで行われる予定だ。
現生徒会役員、旧役員及び有志によるメンバーが集まって出来た文化祭実行委員会は大忙し。頭の中で『文化祭』という言葉がゲシュタルト崩壊を起こしている状態であった。
一方、文芸部の部室がある辺りはいつもとあまり変わらず、割と静かであった。元々この辺りの部屋を使っている部活は殆どが少人数だし、そのメンバーというのも大人しい性格の者が殆どであった。だから目立った変化も無い。
クラスの準備の手伝いをした後、この部室へやってきたさくらとほのりはいつもと変わらず和やかで落ち着いた空気を吸い、ほっと息をついた。
文芸部は文化祭で部誌としおり、そして佳花が個人的に作ったブックカバーを販売する。
部誌は余裕を持って作業をしていたお陰で、すでに完成している。後はしおりと、当日部屋の前に置く看板を作成するだけだ。そしてこちらできりがいいところまで作業をしたら再びクラスの準備の手伝いに戻るのだ。
「これ、文化祭当日に近づくにつれ、どんどん慌しくなっていくんですよね? 中学の時とは大違いですよ。楽しいですけれど、地味に疲れます」
さくら達同様クラスの手伝いをした後こちらへやってきた環はため息をつきつつ、しおりにする紙を虹色に染める。色が変に混じらないように慎重に。
「前夜祭の前、飾りつけとかテントの設置とかをやるのだけれどあの時はもうてんてこ舞いになるのよね。当日になってあれが無いこれが無い、あれが多すぎる、あれはどこだっけこっちだっけって……」
さくらは去年のことを思い出していた。教室を飾る為に折り紙でつくったわっかをつなげた鎖を作っていたのだが、いざ飾り付け作業に入ってみたら若干足りず、慌てて作った……ということがあった。また、飾りの一つが行方知れずになりこちらも慌てて作った……のだが、作り終わった後で変なところから見つかったなんていうこともあった。
当日は当日でまた色々トラブルがあるしね、とほのり。
佳花がくすりと笑う。
「まあ、何のトラブルも無く終わっても……それはそれで味気ないし。少し位のハプニングなら楽しまないとね。臼井さんと櫛田さんのクラスは喫茶店をやるのよね」
「はい。ホットケーキとジュースを出すんです」
「ケーキのトッピングには種類があって、好きなものを選んでもらうってやつです。ジュースはオレンジジュース、紅茶、ミルクティー。ホットケーキ単品の注文可。ジュース単品は受け付けていません、と。持ち帰りも出来るようになっているのよ」
「ホットケーキですか、おいしそうですね」
ふわふわした笑みを浮かべる陽菜の腹が、ぐうと鳴った。環は呆れ、他の三人は苦笑いした。陽菜はぺろっと舌を出す。その仕草が大層可愛らしい。同じことをほのりやさくらがやっても全く可愛くはないのだが、陽菜がやると何だかとても可愛く見える。ちなみに出雲がてへっと舌を出す姿は多くの人の背筋を一瞬にして凍りつかせることが出来る。
「私のクラスは某有名店のドーナツを販売するんです」
「僕のクラスは駄菓子ですね」
「ああ、そういえば一年の時は出来合いのものを入荷して販売する形をとるんだっけ。あたしのクラスは去年パンを売ったなあ」
実際に自分達の手で作ったものを売るのは二、三年生。さくらは陽菜と同じくドーナツを販売した。
出来合いのものを売るだけ、というのはつまらなくは無いのだがなんだか味気ない。矢張りどたばたしながらも自分達で作ったものを売りたい。一年生は早くも来年の文化祭に思いをはせているのだと環は語った。
「来年のことを考えるのが悪いとは言いませんが、そういうのはせめて今年の文化祭が終った後に考えてもらいたいものです」
そう続けながらしおりとにらめっこをしている。今彼の脳内を支配しているのは文化祭ではなく、目の前にあるしおりであった。
さくらは昨日購入した千代紙を色々な形に切って厚紙に貼りつけたり、和風の柄のシールを貼ったりする。絵を描くのはあまり得意ではなかった(別に下手でもないが)が、細かい作業は得意であったし、好きでもあった。
ほのりは円や線等を組み合わせ、幾何学的な模様を描く。ざっくりとした性格の人が描いたとは思えない、見事なものであった。普段は小生意気なことばかり言っている環も、そのしおりの出来に関しては素直に賛辞の言葉をおくった。
「へへん、あたしだってやれば出来るのよ、やれば」
「すぐ調子にのる。本当櫛田先輩ってお調子者ですよね」
「ああん? 全く、相変わらず小生意気なくそがきね!」
ほのりはすっかり小さくなった消しゴムを環の額めがけて投げつける。狙いはそれることなく。
「痛いじゃないですか!」
「消しゴム一つで痛い痛いと泣き喚くなんて。なんて脆弱なのかしら! ゆとり教育反対!」
「ゆとり教育全然関係ないじゃないですか!」
「もう、二人共やめなさい」
可愛らしく、暖かな色合いの鞠を描いていた佳花が鉛筆を動かす手を止めてたしなめる。二人は素直に「はい」と言った。まあ、反省は全くしていないのだが。
何やかんや言いながら作業は進み、とりあえず一区切りついた。
絵や模様を描くだけなのに随分と時間がかかってしまった。もう少し適当にやればもっと早く終ったのかもしれないが、彼等はそういうところに手を抜きたくない性分の持ち主であった。やるからには、きちんと、やる。
「後は穴をあけて、リボンを結ぶだけですよね」
「その前にラミネート加工をしなくちゃね。リボンは去年のあまりを使いましょう。……去年櫛田さんと先輩が沢山買ってきて下さった残りが、嫌というほどあるから」
佳花にしては珍しく恨めしそうな目でほのりを見ている。ほのりはみるみるうちに小さくなっていった。何も知らない環と陽菜が首を傾げる。さくらがその様子を見てくすりと笑いながら二人に説明した。
「あのね、去年もこうやってしおりを作ったのだけれど……しおりにつけるリボンが足りなくなって……櫛田さんと先輩――当時三年生の人――が買いに行くことになったの。しおりの数はそう多くもないからあまり沢山買わなくていい、一、二種類位でいいですって美吉先輩は二人に釘を指したのだけれど。櫛田さんと先輩ったら何を思ったのか、十種類近くの、しかも随分長いリボンを買ってきちゃって」
「だってどれも可愛かったんですもの。あれもこれもって言ったらあっという間に。そりゃあ長さを確認しなかったことは悪いと思っているけれど」
ほのりが口をとがらせる。対して佳花はぷくっと頬を膨らませた。
「あの後二人して美吉先輩に説教されちゃったのよね。櫛田さんはともかく、先輩は後輩に説教されることになっちゃって。先輩、佳花ちゃんは私のこと先輩だと思っていないのねえーんえーんって泣く真似して」
明るく優しい先輩だった、さくらはわざとらしくえんえん言っていた先輩の顔を思い浮かべる。彼女はほのりを妹のように可愛がり、さくらのことはいじりまくった。
「私はちゃんと言ったのに、二人が十年経っても使い切れない位の量を買ってきてしまったのですもの。おまけに一緒に買ってきて欲しいといったラミネートフィルムの方はすっかり忘れて買わずに戻ってくるし」
環はそれを聞いて遠慮なく笑った。その口ホッチキスで止めてやろうか、とほのりは唸る。陽菜は素敵なエピソードですね、とよく分からない感想をいつものようににこにこしながら述べた。
「ま、まあほらリボンには色々使い道がありますから。あは、あはは」
言ってごまかし。ため息をつく佳花の方は一切見ていない。
五人は片づけをし、それぞれの教室へと戻っていった。普段ならもう下校している時間だが、このまま帰るわけにはいかない。やることはまだまだ沢山あるのだ。日は沈んでいく。だが生徒達の心は沈んでいかない。むしろどんどん上へ、上へと浮き上がってきている。沈んでいたらとてもじゃないが、準備なんて進められない。
ほのりとさくらは二人仲良く校舎を移動しながら周りの様子を観察する。
木、紙、絵の具の匂い。水をたたえたバケツに筆を浸す音、紙を切ったり折ったりする音、とりとめの無いお喋り、指示をする声。
匂い、音。普段はそこに無いはずのものがこの学校中に満ちている。
「何だか学校が学校じゃないみたい。いつもの学校はここには無くて、今は別の世界みたいで……」
だが朝・昼はいつも通り授業がある。学校の本質は何も変わっていない。けれどいつもとは違う何かが今はある。
(日常と非日常がぐるぐるして、溶けあって。そんな感じがするわ)
さくらはそんなことを思った。それを聞いていたほのりは呆れたように笑った。気持ちは分からないでもないけれど、と。
「だってとても不思議な感じがするんですもの。ここは今『向こう側の世界』みたい」
「向こう? あんた何を言っているの」
しまった、つい。さくらは何でもないと首を振る。あちらの世界の存在を知っている者はごく一部なのだ。この学校にはせいぜい一夜位……。
ほのりはまたメルヘンお花畑モードに入っていたのねあんたは、と勝手に納得してくれた。
(向こうというより、あちらとこちらの狭間の『道』に近いのかも。うん、でもそれとはまた……考えがまとまらない。けれどやっぱり不思議な感じがするわ)
「まあお祭ってそういうところがあるわよね。いつも見慣れている場所も、屋台が広がって提灯がぶら下がって、太鼓がどんどん鳴って、浴衣姿の人とかが大勢やってくると、別世界に変わっちゃうもんね」
「日常の風景が、お祭をやっている時だけ非日常のものになる。いつもと違うことをやって、いつもと違うものを置いて、いつもと違うものを着る。それだけで世界は大きく変わるのよね」
「何かあたし達ものすごく恥ずかしいこと言っているような気がする」
「そう?」
さくらにはそういう感覚が、無い。
今二人は一年生の教室が並ぶ二階にいる。初めての文化祭、さぞかし楽しみであろうと去年のことを思い出しながら、思う。
さあ、さっさと教室に行こうとほのりが言いかけたその時であった。
「いい加減にしてよ貴方達!」
階段のある場所からやや離れた所から、女子が大声で怒鳴るのが聞こえた。
とても、大きな声で。喋ったり作業をしたりしていた人達は驚き、固まる。
何があったのだろうと行ってみれば、女子が男子三人に対して顔を真っ赤にして怒鳴っているのだった。
「手伝いもしないで、邪魔ばかりして、ふざけないで、ふざけないで! もう、いい加減に、してよ!」
眼鏡をかけたその女の子はとても真面目そうな子であった。怒りをあれだけ露にするようなタイプにはどう見ても見えなかった。
男子の方は今時の、勉強より遊ぶことの方が何万倍も好きそうな人達だった。
彼等はやや気まずそうな表情を浮かべながらもごもご口の中で何か言っている。
さくらは床に視線を移す。ダンボール紙の上に紙を貼って作られた看板。絵の具で文字と絵が描かれていた。
その上に、さかさまになったパレットとひっくり返ったバケツ、そこからこぼれた水。看板は色のついた水に濡れていて。
さくらとほのりは何が起こったか、大体のことを把握した。
近くに一足先に戻っていた環の姿を認め、さくらはそっと彼に近づき事情を聞いてみる。怒鳴る女子の姿をちらちら見ながら環は話してくれた。
「あの男子達、全然手伝いをしなくて……いっそそのまま帰ってくれていた方が良かったんですが。何故か帰りはせずに、作業をしている女子達にちょっかいを出したり、ふざけていたりしたんですよ。皆そろそろ先生を呼んでどうにかしてもらおうと思っていたようですが……その矢先に」
ふざけていた男子が、今彼らを怒鳴っている女子の背中にぶつかり、ぶつかられた彼女は看板の上にパレットを落としてしまい。ついでにその馬鹿男子はバケツまで蹴飛ばしてしまったそうだ。
「彼女普段はとても大人しいんですけれど……堪忍袋の緒が切れてしまったようで」
「まあ、無理も無いわ」
一緒に話を聞いていたほのりが頭を抱えた。邪魔する位なら、いっそ帰ってくれた方がありがたい。
「迷惑なのよ! それ位分かってよ! 貴方達なんてどっかいっちゃえばいい!」
なお怒鳴ることをやめない彼女の目には涙さえ浮かんでいた。余程腹が立ったのだろう。他の女子達が彼女をなだめ、教室へ連れて行こうとする。
今この場の空気は最悪だった。冷たく、重く鈍く、暗く。色をつけたら間違いなく黒。
(何だろう、とても嫌な感じがする……)
さくらは急に気分が悪くなった。脳が、内蔵がぐるぐるしているような感覚。
得体の知れない何かがさくらを襲っている。心臓がどきどきする。
一瞬、世界がぐにゃりと揺らいだような気がした。あちらとこちらが混ざって、再び分かれて。そんな感じが何故か、した。
あははは。
不気味な笑い声が聞こえた気がした。
「さくら?」
「え? ああごめんなさい」
ほのりや他の生徒達はそういうものを感じていないようだった。気分が最高に沈んでいるという点だけはさくらと共通しているだろうが。
「どうかしたの?」
背後から声が聞こえ、さくらはさっと振り返った。
後ろには涼しい目をした少女が立っていた。
「僕達クラスの委員長さん。安達さんですね」
安達という少女は事情を聞くと、こくりと頷き、ほうとため息をついた。
「困った人達ね。……お仕置き」
と言って、男子達にデコピン。表情一つ変えずにやるところが何だか怖い。
男子達は小さな声で一応謝ると、逃げるようにその場を去った。きっと明日改めて先生からお叱りをうけることになるだろう。
次にまだ怒りが収まらないらしい女子の方を向き、彼女をなだめ始めた。
しばらくしてようやく落ち着いたらしい女子は安達に連れられ、教室へ入っていった。
「とりあえず一件落着みたいね」
「ええ、そうみたいね」
今はもう何も感じない。気持ち悪くも何とも無い。
(一体、何だったのかしら? 貧血? 笑い声も……気のせいかしら)
「すみません、何だか心配させちゃって。先輩達もクラスの準備があるんですよね」
「そういえばそうだった。早く行かないと。それじゃあ環、頑張ってね。看板は……今なら作り直すことも出来るだろうから」
「はい、ありがとうございます」
さくらとほのりは環に手を振り、教室へ向かった。
文化祭はすぐそこまで、せまっている。
*
種をまきます、育てます。
花が咲きます。
養分を吸い取って。
ここは良い場所、とても、良い場所。