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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
鬼灯夜行
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鬼灯夜行(2)

 約二時間の店番を終えて、あたしはあくびをしながら、二階へとあがっていく。

 調理室で、母さんと婆ちゃんは台所の掃除をしている。調理室の中は、外以上に暑い。あたしは、掃除まで手伝ってやるほどのいい子ではない。


 階段を上った先の天井についている、死に掛けのホタルのように頼りない明かりが、階段を照らす。照らすといってもほんのわずかの範囲な上に随分ぼうっとした明かりだから、夏場はいいが、冬になるとほとんど階段が見えず、恐ろしい思いをする。


 コンクリートでできた階段は明かりに照らされても暗く、またじめじめした不快な臭いを発している。あたしは、自分の周りをふらふら飛んでいる蚊を手で追い払いながら、人一人通るのが精一杯の狭い階段を上りきり、左側にある黒いドア(といっても随分さびているから、茶色のドアといってもおかしくないな)を乱暴に開けた。ぎぎぎぎぎぎという、モンスターの断末魔の叫びのようなおぞましい音とともに、ドアが開いた。


 狭い玄関で、あたしは靴を脱いだ。いちいち並べるのは面倒だから、脱ぎ散らかしっぱなしにした。いつものことだ。まあ、どうせ後で婆ちゃんが文句をいいながら綺麗に並べてくれるだろう。


 黄泉の国へ続きそうな不気味な階段とは違い、家の中は淡い橙色の明かりに照らされていて、随分と明るい。あたしが小学六年生の時までは大分じめじめした、暗い雰囲気の家だったのだが、家の中をちょいっとリフォームしたおかげで、大分明るい雰囲気の家となった。とはいえ、TVでやる大改造うんたらみたいな大々的なリフォームをしたというわけではないので、遠くから見ていると綺麗な家だが、近づいてみてみるとそこらじゅうがぼろぼろになっているのがよく見える。


 あたしは、玄関をあがってすぐ左側にある自分の部屋の中へと入った。決して広いとはいえない部屋で、ベッドと勉強机とタンスで半分以上のスペースをとられていて、あたしが自由に動き回ることができるスペースはほとんどない。   

          

 あたしが中学生になるまでは、この馬鹿狭い部屋を一つ年上の馬鹿兄貴と共同で使っていたから、今よりもずっとずっと狭かった。今思えば、よくこんな馬鹿狭い部屋を二人で使っていたな。この部屋に二人分のタンスと机が置いてあったなんて(ベッドは二段ベッドだったからとるスペースは今と変わらず)。 


 馬鹿兄貴が向かい側の部屋に消えた今、タンス一個と机一個が消え、ここはあたしだけの部屋になった。それは喜ばしいことだが、馬鹿兄貴のタンスと机が消えたところでこの部屋の広さが、ぐんと広くなるわけもなく。この部屋は相変わらず狭い。部屋というより物置と言ったほうが正しいかもしれない。寝る時とか、テスト勉強という名の悪あがきをする時以外はほとんどこの部屋に入ることはない。


 ドアの反対側にある壁の、真ん中より少し右に寄ったところにべったりと貼りついている勉強机へとあたしは向かった。机の上には教科書やいらなくなったプリント、最近買った漫画なんかが散らばっていた。物置部屋と貸した部屋においてある勉強机もまた、物置机と化しているのだ。右下の三段ある引き出しの中にも、プリントとかお菓子とか小物とかがバラバラに入っているし、机の上にある棚にも教科書とか授業で配られた、二度と目を通すことがなさそうなプリントなんかが乱暴にいれてある。


 母さんは「あんたの部屋、一夜(かずやと読む。あたしの馬鹿兄貴の名前だ)の部屋よりも酷いじゃない。一夜以上にがさつな子に育っちゃって、全く」とよく文句をいう。馬鹿兄貴の部屋がどんな風になっているかは知らないが、母さんがそういうんだから、まああたしの部屋は馬鹿兄貴よりも酷いことになっているのだろう。


 しかし、母さんにがさつだと、馬鹿兄貴より酷いと何回言われても、あたしは部屋の片づけをやるきが起きなかった。面倒だし、ほぼ物置として使っている部屋が汚れていてもたいして気にならないから、そのままにしている。ここがもっと広くて、部屋らしい部屋だったなら、定期的に掃除をしたかもしれない。


 まあ、多分部屋が広かろうが狭かろうが、結局やらないだろうけど。


 あたしは椅子に腰掛けて、明日の授業に使う教科書を、足元に置いていたカバンの中に突っ込んでいった。時間割どおりに入れるのは面倒だったから、適当にいれた。カバンの中に入ればいいのだ、何も綺麗に順番どおりに入れることは無い。


 机の上の棚は二段ある。一段目には教科書とプリントが乱暴に突っ込んであり、下の段には筆記用具をいれた筒、猫や犬の形をした小さな置物、そして写真立てが三つ並んでいる。一つ目の写真立てには、中学校の時にいった修学旅行で撮ったクラスの集合写真が入っている。二つ目の写真立てには、去年家族旅行で北海道へ行ったときの写真。


 そして、三つ目が六歳のあたしと、今と全く変わらない姿をしている出雲が映っている写真だ。あたしは、ふとその写真が撮られた時のことを思いだした。


 ここから、ちょっとした思い出話になる。話は少し長くなるが、我慢してくれ。

 出雲とあたしが映っている写真は、家族で桜山へ花見に行ったときに撮った写真だった。桜町は、桜がたくさん植えられていることで有名だった。

町中に桜並木があって、春になると町は満開の桜でいっぱいになる。春の、ほんの一時の間だけこの町は滅茶苦茶華やかになる。薄桃色の花びらと、桜の花の匂いが町中を包み込み、風が吹けば桜の花びらが軽やかに舞い踊る。


 町の外れ、北西に位置する桜山も例外ではなく、立派な桜の木がたくさん植えられていて、春になると山は薄桃色に染まる。


 桜が咲く時期は、外部からも大勢の人がやってきて花見をする(ただマナーを守ろうとしない迷惑な奴らもたくさんやってくるから、あまり嬉しくない)。町はこの時期だけ生き生きとしている。そして、桜の季節が終わった途端死んじまう。


 桜山を少し登った先に、絶好の花見スポットがあって、あたしたちは大きな桜の木の下に空色のビニールシートを敷いて、婆ちゃんと母さんのつくった滅茶苦茶美味い弁当をたくさん広げて、同じく花見にやってきた人達とわいわい騒いでいた。


 母さんと親父は途中から、近くにいた知人のところにいって一緒にお酒を飲み始めた。

婆ちゃんの作った五目ちらしは滅茶苦茶おいしくて、口の周りをごはん粒だらけにしながらまるで犬のようにかぶりついていた。


 馬鹿兄貴は大量のおにぎりをハムスターのように(ハムスターほどかわいくないけど)頬にためている。別にそんなに勢いよく食べなくてもおにぎりは逃げやしないのに。流石馬鹿兄貴、そんな事実にすら気づくことができないくらい馬鹿なのだ。……まあ、五目チラシを犬みたいにガツガツ食っていたあたしも同じようなものだったんだけどな。


 花より団子、頭上に咲き誇っている桜には目もくれずに、あたしはごちそうに夢中になっていた。桜を綺麗とおもうどころか、弁当箱の中に容赦なく入ってくる桜の花びらをうっとおしく思った。


 ふと、強い風が吹いて、桜の花びらがあたしのまだ小さかった身体を包み込んだ。あたしは、とっさに目の前にあるお弁当箱を自分の小さな身体で隠した。桜の仄かな甘い匂いと、五目ちらしの甘酸っぱい匂いが混ざって、いいにおいのような気味の悪い匂いのような、なんとも微妙な匂いがした。しばらくして、ようやく風がおさまり、あたしは身体を起こしてまた五目ちらしを食べ始めた。


 それから数分して、あたしは五目ちらしの最後の一口を口の中に入れた。甘く煮たしいたけと、甘酸っぱい酢飯の味をゆっくりと時間をかけて楽しんでいた。


 そんな時だ。あたしの身体が急に冷たくなったのは。誰かが後ろから、あたしに抱きついてきたのだ。誰かはわからないが、あたしは抱きつかれたとたん、金縛りにあったように動けなくなり、体温が急激に下がったのを感じた。


 恐ろしく冷たくて長い髪の毛が、あたしの肩に、頭に、手に、足にかかった。あたしは、何故か以前TVだか何かで見た、滝に打たれているつるっぱげのおじさんの姿を思い浮かべた。あたしの身体にかかってくるさらりとして冷たい髪の毛は滝のようだったのだ。あたしを抱きしめる手は母さんの腕よりずっと細くて白い。少し力のある奴が力を入れて握ったら簡単に折れてしまいそうなくらいだった。おまけにこの腕が、髪の毛以上にひんやりとしていて、あたしの身体はみるみるうちに冷たくなっていった。


 もうあたしは、口の中にいれていた五目ちらしを危うく吐き出しそうになるわ、涙がでそうになるわ、身体は震えるわで、もうとんでもないことになってしまっていた。今は思い出したくもない、恥ずかしい過去である。恥ずかしい過去だから、あたしとしては一刻も早く忘れてしまいたいのだが、悲しいかな人間という奴は恥ずかしい、おぞましい思い出ほど強烈に頭に残り、何度デリートしようとしてもデリートできやしないのだ。


 勇気を振り絞って、あたしは後ろを向いた。ゆっくり振り向くのは怖いから、思い切って一気に振り返った。そして、振り向いた先にあったのは、心臓が一瞬にしてとまってしまいそうになるくらい、冷たくて綺麗な顔だった。あたしはひっと間抜けな声をあげた。あの時、確実に口の中に入れていたご飯粒の一つや二つは落ちていたと思う。


 白くややとがった顔に、切れ長で形の整った瞳、すらりと流れるような鼻、口紅をつけていないのに妙に赤い唇。藤色の模様なしの着物に花菖蒲の色をした帯。あまりに完璧すぎる容姿だから、奴は世界という一枚の水彩画の上に貼り付けられた、裏にノリをべたべたにつけた、マジックペンで描かれた絵のように見えた。早い話が、全然周囲の風景に馴染んでいない。超不自然。そのくせ妙に目立つ。だが、目立つものほど意外と目に入らないもの。出雲は、目立ちすぎるがゆえに、逆に目に映りにくい。


 奴はにこりと意地の悪い笑みを浮かべるとあたしからすっと離れた。


 これが、あたしとあいつの『出会い』だった。


 すっと静かに立ち上がったあいつは、あたしをじっと見つめていた。あいつは人を見下すような笑みを浮かべながら、肩についた桜のはなびらを細い指でつかみ、手のひらに落とす。そして、それをふっと吹いてとばした。それはひらひらと舞ってぽとりとあたしの頭についた。あたしはぽかんとしながらあいつの顔をじっと見ていた。


 あたしは、動くことが出来なかった。まるで、時間がとまったみたいだった。絶えず舞い続ける桜の花びらさえとまって見えた。


「おやまあ、出雲じゃないか。こんなところで会うとは奇遇だね」

 反対側に坐って、緑茶をのんびりと啜っていた婆ちゃんが、あいつに気がついて顔をあげた。婆ちゃんがにこりと出雲に微笑みかけると、出雲もそれに応えるように微笑んだ。


「やあ、菊野。家族揃ってお花見かい? 随分おいしそうな料理が並んでいるじゃないか。菊野と紅葉がつくったのかい?」


「ああ、そうさ。じっくり時間をかけてつくったよ。どうだね、出雲。お前、どうせやることもなくて暇だろう。ここに座って一緒に花見でもしようじゃないか」

 そういって婆ちゃんは、間抜けな顔をして出雲を見ているあたしの隣にあるスペースを指差した。あいつは、桜が描かれた扇を口にあてた。


「おやおや、よいのかねお邪魔しても。私の分などあるのかね」


「あるよ、充分すぎるほどあるさね。餓鬼二人はいくらよく食べるといっても、所詮餓鬼は餓鬼。ここにあるもの全部平らげるほど大きな腹じゃないさ。あたしと紅葉だって、そんなに食わないし、男共はぴいひゃらやりながら酒を飲んでいて、こっちの食い物にはほとんど手をだしてないよ。あんたが食べるくらいの量はあるさ」


 婆ちゃんのその言葉を聞くと、出雲はにこりと微笑んで、あたしの横に正座して座った。あいつの不気味に輝いた瞳が、あたしをとらえる。あたしは身動きがとれず、ただ雷おこしのように固まっていた。


 出雲の冷たい手が、あたしのまだ小さかった手に触れた。あたしはびくっとして、少しだけあいつから距離を置いた。あいつの手は冷たかったのに、何故か触れられた手は火傷したように熱かった。


「おやおや、随分と怖がられているようだね、私は」

 全くそんなことも気にもしないような笑みを浮かべ、あいつはあたしを見た。あたしは、何だか馬鹿にされたようで腹が立ったが、あいつの不気味な笑みを見ると、何もいうことができない。


「お兄ちゃん……だ、だれ」


「誰? ああ……また忘れたのか」


「え?」


「いや、こっちの話さ」

 出雲と婆ちゃんがアイコンタクトをとり、苦笑する。あたしは何がなんだかさっぱり分からず、首をかしげた。


「こいつはね、あたしの知り合いさ。出雲っていうんだ。まあ、この通りお化けのような男だが、よろしくしておやり」


「化け物だなんて、酷いことを言うね、菊野は。私はれっきとした人間だよ。あまりに美人過ぎるものだから、人間に見えないだけさ」


「はいはい、一人で言ってな。全く、本当に嫌な男だね」

 そういいながら、婆ちゃんはあいつに紙の皿と、割り箸を渡した。あいつはそれを喜んで受け取り、お重に残っていたいなり寿司をものすごい速さでとっていった。あっという間にあいつがもらった紙の皿の上は甘いたれのたっぷり染み込んだ、婆ちゃんの得意料理の一つであるいなり寿司でいっぱいになった。


 出雲はいなり寿司を箸で実に綺麗につかむと、真っ赤な口を小さくあけて、どこぞのお嬢様のような優雅な仕草で一口食べる。


 あたしは、料理をそこまで綺麗に食べた人間を見た事がなかったから、ただ呆然としながら出雲がいなり寿司を食べる様子を見ていた。


 時々、あいつはわざとらしく唇をぺろりと舐める。あたしは、今以上の餓鬼だったにも関わらず、その様子を見てどきっとしてしまった。やっと学校に通いだした餓鬼がみても、あいつのその仕草は酷く艶かしいものだったのだ。


「全く、お前は本当にいなり寿司が好きだねぇ。そんなにいなり寿司ばかり食っていると、しまいにその綺麗な肌が、いなり寿司の油揚げの色になっちまうよ」

 お茶を飲み、花見団子を食べていた婆ちゃんは、呆れていた。あいつは、ちまちまと、それでいてものすごい速さでいなり寿司をその腹におさめていく。


「ふふ、それは困るなぁ。でも、やめられないんだよ。だって、菊野の作るいなり寿司は最高なんだもの。ねえ、紗久羅、君だって好きだろう。菊野の作るいなり寿司は」

 急に視線をこちらに向け、あいつは微笑んだ。私は急に話を振られ、心臓が飛び上がってしまうくらいにどきりとしたが、こくりと一回うなずいた。


 出雲は満足そうな笑みをうかべ、そうだろうそうだろうと言って一人うなずいた。


 あたしはそんなあいつから視線をそらし、紙の皿にもったちらし寿司を凝視する。あたしは、がちがちに固まった体を、錆びたロボットのようにぎこちなく動かして箸を握り、ちらし寿司を一口口にいれた。さっきまでとても美味しく食べることが出来ていたのに、あいつが現れてからは、どれだけしっかり噛んでも味がしなくなってしまった。体の震えがとまらない。寒い、寒いのに汗がとまらない。


 それでも無理矢理口を動かして、口の中に入れたれんこんやにんじんの入ったちらし寿司を噛んだ。しばらくして、あたしはそれをごくりと飲み込んだ。なんだか、苦い薬でも飲んだような心地がした。


「紗久羅、随分不味そうに食べるのだね」

 そういって笑って、あいつはあたしの頭をぽんと軽く叩いた。途端、雷が自分の体に落ちてきたかのような衝撃が襲ってきた。電撃のようなものが脳みそと骨を通じて体中に伝わって、あたしの体は痺れて動かなくなってしまった。

 

(そういえば、このお兄ちゃん、なんでわたしのなまえ、しっているんだろう)

 あいつの前でその名を名乗ったことはないのに、どうして。このお兄ちゃんエスパーなのかなあと、あたしは思った。……知り合いである婆ちゃんから孫であるあたしのことを聞いたのだろうか、という考えは当時のあたしにはなかった。


 今にも泣きそうな顔をしているあたしを見て、またあいつが微笑む。あたしは、一刻も早くここから逃げ出したいと思った。

 婆ちゃんが、苦笑いする。


「これ出雲、あまりあたしの孫を虐めるんじゃない」


「別に虐めているつもりはないんだけどなぁ。ねえ、虐めてないよね?」

 そういってあいつは、未だ痺れて動けないあたしの顔を覗き込んで笑った。まるで「虐められてる、っていったら後で酷い目にあわせるからな」と言われているような気がして、あたしは泣きたくなった。


「まったく、どっからどうみたって虐めているようにしか見えないよ。紗久羅、その馬鹿は放っておきな。そうだ、せっかくだから写真を撮ろうか。桜の木の前で」


 婆ちゃんに話しかけられ、あたしの体は自由を取り戻す。あたしは、とにかくあいつの隣にずっと座っているのは耐えられなかったから、うんうんとうなずき、飛び上がるようにして立った。


 あたしは、今までの人生の中で(といっても当時はたったの6年だけど)一番いい走りをして、桜の木の下に立つ。


 婆ちゃんが、母さんのバックに入っていたカメラをもって、ゆっくりと腰をあげ、こちらへと歩いていく。


 風がふいて、また桃色の桜の花びらが舞い踊る。婆ちゃんが作った桜餅のような、甘い匂いにあたしは包まれた。日の光が当たった桜の花びらは、とても輝いて見えた。螺旋を描いて、無数の花びらが私の上から降ってくる。宝石のように輝く桜の花びらが……。花びらが……白い顔……黒くて長い髪の毛……あれ?


 気付いたら、いつの間にかあいつが後ろに立っていて、桜の木を見上げていた私の顔を見下ろしていた。


「ひゃあ!」

 あたしは思わず叫び声をあげた。あいつはくすくす笑いながら、驚くあたしの肩に両手をのせた。


「私も混ぜておくれ」

 あいつの細くしなやかな手が、あたしの肩をつかんで離さない。ああ、あいつの手に体温を奪われていく。また足が震える、動けない。

 本当に、泣きたかった。声をあげて泣きたかった。だけど、泣くことすらそのときの私にはできなかった。


 婆ちゃんは仕方ないね、という風に肩をすくめて、カメラを構える。婆ちゃんの、ほら紗久羅ちゃんと前を向きな、という言葉を聞いてあたしはカクカクとコマ数の少ないアニメーションのようなぎこちない動きで前を向いた。


 できるだけ、あいつの顔と手を見ないようにした。あいつが後ろにいると思わなければどうということはない、はずだ。


 そうだ、いないと思えばどうってことはない。あたしはそう言い聞かせて、必死になってあいつの存在を忘れようとした……が、なかなかできない。


 婆ちゃんに笑ってといわれたから、あたしは一生懸命笑おうとした。ああ、笑うってどんな感じだっけ。あたしは、自分が笑っている姿を思い浮かべながら笑顔をつくってみせる。その笑顔のなんと不自然で不気味なことか。


 婆ちゃんは、あたしの笑顔の不自然さにも気付かず、のんきにハイ、チーズといって、シャッターを押した。カシャリ、という音が微かに聞こえた。


「ほい、一枚。さて、もう一枚」


「もういい、もういい、いちまいでいいよ!」

 

「さっきまであんなにはしゃいでいたじゃないか」


「だって、おにいちゃん、こわいの」

 我慢できずに、とうとう私が本音をぶちまけると、婆ちゃんと出雲は顔を見合わせ、苦笑する。

 婆ちゃんが手招きする。あたしは婆ちゃんのほうへ駆け寄って、ばあちゃんの胸に飛び込んだ。出雲は、桜の木の下から動かず、静かに微笑んでいる。


「嫌われたものだねぇ、私も。まあ、どちらでもよいけれど。菊野、おいしいいなり寿司をどうもありがとう。本当はもう少しゆっくりしていたいのだけれど、紗久羅が怖がっているから私はもう帰るよ。お花見、楽しんでおくれ」


 あいつが、微笑む。すると強い風が吹いて、薄桃色の吹雪があたしたちを襲った。あたしは目をつむり、婆ちゃんの体にしがみつく。むせるくらい甘い香りに包まれて、あたしの頭は少しだけぼうっとして動かなくなった。


 風が収まり、桜吹雪が収まる。あたしは、おそるおそるあいつのいた桜の木を見た。

 もう、そこにあいつの姿はなかった。


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