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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
桔梗の海
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桔梗の海(2)


「……こほん。くだらねえ話をしている場合じゃない。花釣りをやろう。ほれ」

 小雪の分の竿も持っていてくれた弥助は、そっぽを向いている小雪にそれを渡す。小雪はしばらく目を合わせようとしなかったが、やがて根負けしたのかやや乱暴にその竿をとった。


 小雪は改めてその竿を見る。手に持つ部分は細い木の棒。ところどころに枝を切った跡がある。色は濃く、黒に近い。

 その棒にとりつけられているのは、植物のつる。具体的になんのつるなのかは分からない。色は枝豆に似ていて、緩やかなウェーブを描いている。その先端には、桜によく似た色をした大きな花がついていた。

 よく見ると弥助の竿についているつるは小雪のものとは違っていて、色は濃くやや太い。先端についている花の色は黄色であった。


「この花に、露を染みこませるんだ」

 弥助は壷をあけ、その中につるの先についている花を浸した。小雪も真似をする。小雪が貰った壷に入っているのは紫陽花の露らしい。見た目は当然というかなんというか……ただの水。匂いは全くしないわけではなく、草花の独特な香りが少しだけした。


「これが餌になりますの?」


「ああ。草花の露は蜜魚(みつな)の好物らしい。……海の中、動く光が沢山見えるだろう? あれが蜜魚っすよ」

 淡く柔らかな光が、桔梗の海を泳いでいる。改めて見てみると、確かにその光は魚の形をしているように思えた。光は色だけでなく大きさも様々で、めだか位のもあれば、鯉位の大きさのものもあった。蜜魚にも色々種類があるらしい。


「蜜魚は桔梗の花を満たしている蜜が姿を変えたもの……と言われている。花の魂が一部変じたものじゃないか、という奴もいるっすが。詳しいことはよく分かっていないんだよなあ」

 人間だったら長い時間をかけてでも、この花の仕組みを研究するんだろうが……と続ける。細かいことは気にしない主義であるこの世界の住人の脳内には探究心という言葉が無いのだ。研究に没頭する妖等殆ど居ない。


「蜜魚には色々種類がある。美味さも、釣りやすさも露の好みも種類によって変わってくるんだ。小雪はどの花の露を貰った?」


「紫陽花だったと思います」

 それを聞くと弥助は納得したようにこくこく頷いた。矢張り初心者にはもってこいのものだったらしい。


「紫陽花の露は蜜魚に好かれているからな。ある程度の種類はその露を使えば釣れる。……ただし、数が少ない上に釣るのが難しい種類の多くは紫陽花の露の味が好きではないらしい。逆にそういう蜜魚が好む味の露っていうのは、大抵の奴等には好まれないものなんだ。だからまあそういう露は玄人向けっすね」

 あっしは気軽にやりたいからそういうのは使わないが、と付け加える。弥助が選んだのは向日葵(ひまわり)の露。これは中級者向けのものであるらしい。小雪はそれを見せてもらったが、矢張り目立った違いは無い。

 しばらくの間気がつかなかったが、小雪はこの時随分と弥助に近づいていた。

 彼が手に持っている壷を半身をひねって見ている内自然とそうなったようだ。

 はっと気がついて見上げればそこには弥助の顔があった。慌てて、離れる。


「こ、これといった違いは無いんですね本当に。ひひ、向日葵の露とか言っておいて、実は私と同じ初心者向けの紫陽花の露なんじゃないですか? 見栄張って嘘ついているのでは。や、弥助は狸ですからね。嘘つきですからね」


「ばれたか。実はそう……ってんなわけないだろう。あんた相手に見栄張ってどうする。気心知れた友達なんだから、小雪は」

 嬉しいような、悲しいような。何とも言えない言葉に小雪は戸惑うしかない。

 痛痒い思いを振り払いたかったから、思わず弥助のたくましい腕をぺしりと叩いた。弥助は何ではたくんだとむすっとする。


「私は別に貴方のことを友達だなんて、お、思っていません。思っていませんとも。思いたくありません」


「そこまで言うか、普通」


「そんなことよりこの竿の使い方を教えて下さい。私は弥助とお話したくてここに来たわけではありません。花釣りのやり方を教えてもらう為に連れてきたのです。そうでなければ誰が貴方なんか」

 勿論、嘘である。見栄っ張りで嘘つきなのは弥助ではなく、小雪の方だ。

 小雪は眉をつりあげ、弥助に食ってかかる。また勢いで顔を近づけてしまい、一人で勝手に赤面し、小さくなる。

 面倒臭い女、と小声で呟きながらもお人よしで出雲のうん万倍優しい彼は懇切丁寧に使い方を教えてやる。小雪は大人しくそれを聞いた。時々弥助に手を触れられ、その温もりに心臓をばくばくさせた。少女漫画のヒロインかとツッコミを入れたくなる位の乙女っぷり。


「な、成程。このつるは手に持っている人の意思を汲み取って動いたり、伸縮したりするのですね」


「ああ。あっしらの体内に流れている妖の力を通じてその人の意思を感じ取るんだとさ」

 まあ、ものは試しだ。つるを桔梗の海へ投げ込むんだと言いながら弥助はつるを海の中へ落とす。鈴の音のような、水音のようなものがそれと同時に聞こえた。

 小雪もそれにならってぽとんとそれを投げ込んだ。つるは花に触れ、不思議な音を奏でる。


「まあ、最初の内は色々動かしてみると良い。いきなり蜜魚を釣ろうとか考えずにさ」


「つるを思い通りに動かせばよろしいのでしょう? 簡単ではありませんか」


「それがなかなか上手くいかないもんでな……やってみな」

 小雪は何がそんなに難しいのだろうと疑問に思いつつも素直にやってみることにした。


 なめてかかっていたが成程、弥助が言った通りそう上手く出来るものではないということが程なくして分かった。

 単純に伸ばす、縮ませる、左右に動かす……というのはそこまで難しくない。

 しかし細かい動き、つるの長さの微調整等は非常に難しいものだった。思った以上に動いてしまったり、つるが伸び縮みしてしまったり、それで上手く出来ないからとあせった挙句動かす方向すら滅茶苦茶になってしまったり。


 弥助曰く上手く蜜魚を騙すには、細かく滑らかな操作が必要不可欠だという。

 一気に伸びたり縮んだり、ものすごい速さで動くつるに釣られてしまうような蜜魚など殆どいないのだと、小雪の悪戦苦闘っぷりを笑いながら言う。

 細かい動きをイメージすることは、大雑把な動きをイメージするよりも難しい。

 つるにかき分けられた花々は幾つもの鈴を一気に鳴らしたかのような音を立てる。光を帯びている蜜魚がそれから逃げるように離れていく。

 

「な、難しいだろう?」

 

「ちょっと黙っていて下さい、集中出来ないじゃないですか!」

 弥助の声すら今はわずらわしく感じていた。そんな小雪はまだ気がついていない。桔梗の海をデート場所に、花釣り初心者の小雪が選んだのは間違いであったことに。これでは弥助と一緒にいる意味が全く無い。

 弥助はまあ仕方無いかと一言呟き、自身も釣りに集中する。花釣りが最初の内は割と難しいことを知っているから、自分のことをぞんざいに扱うのも仕方無いと思っている。だから文句も言わない。


 涼しく透明な空気が底へと沈んでいき、岩場に腰をかけている妖達の肌をなぜる。桔梗の花はその色の深みを増していっていた。その間を優雅に泳ぐ蜜魚たち。彼らは夜の間しか姿を現さない。夜だからこそ美しいその身。

 騒がしいことが好きな妖達だが、この海で先程までの小雪や弥助のように声を張りあげる者など誰一人いなかった。全く喋っていないわけではないようだったが、離れた岩場にいる者の耳には届かない位小さな声であった。

 只聞こえるのは、寄せては返す花の波音。そしてつるに触れられた花の奏でる音。しゃん、ざああ、しゃん、ざああ、りん、りん。

 

 弥助はつい先程、手のひらにちょこんののる位の大きさの蜜魚を釣りあげた。

 頭の方が青く、そこから尾にかけて徐々に紫色になっている完全な夜を迎える寸前の空の色に似ている魚であった。掛け軸の妖から分けてもらった大きな葉の上にその魚をのせる。


「へへ、どうだ。早速釣ったっすよ」

 誇らしげな顔を、小雪は頬をぷくっと膨らませながら睨みつける。そうして竿から目を離した途端、つるは新体操のリボンのようにくるくると回りだした。

 悔しくなって、弥助にあかんべえをしてやるとまた花釣りに全神経を集中させた。


(少しは慣れてきましたが、まだ細かい動きが……というかこれでは弥助と来た意味がまるでないのでは。一人も二人もあまり変わらないじゃないですか)

 今頃気がついたようだ。

 露は定期的につけた方が良いとのことだから、一度つるを引き上げつぼの中へと入れる。そうしながら桔梗の海に視線を移す。


 花々の間を縫うようにして泳ぐ蜜魚は、何だかとても楽しそうだった。花びらに擦り寄ったり、ぴょんと飛んで花に口づけてみたり、周りをぐるぐる回った後ぴたりと止まって花を見上げてみたり。他の蜜魚達と遊んでいるらしいものも見かけた。

 彼等は、自分達を釣って食べようとしている妖達のことなど気にもとめていないようだった。彼等は、彼等だけの世界で楽しんでいる。


 そんな彼等の邪魔をすることをほんの少し申し訳なく思う。しかしこのまま一匹も釣らないで帰るのもしゃくだった。小雪は頑張るぞと一人頷き、つるを海の中へ投げ込んだ。

 蜜魚達がどこにどれ位いるのかは一目瞭然。その近くにつるを投げ込み上手い具合に動かしていればいつかはかかってくれるはずだ。

 なかなかの場所につるをもっていくことが出来た。青や赤の光が、小雪の放ったそれに近い場所でくるくる踊っている。もしかしたら興味を抱いているのかもしれない。


(誰か。誰かかかってくださいまし)

 小雪の肌に触れ続けてすっかり冷たくなっている竿。それを握りしめながらただひたすら祈る。

 小声でお願いします、お願いしますと呟いている小雪の様子を見て弥助が笑いを堪えた。サンタさんにプレゼントをお願いしている子供のようだとかなんとか思いつつ。


 どれ位、願っただろうか。ビー玉を水の中へ落とした時のような音が聞こえたと思ったら、竿が突然重くなった。動かしてもいないのに上下左右に振動している。小雪は一瞬訳が分からずぽかんとした。

 その変化に気がついた弥助が笑うのをやめ、彼女の肩を軽く叩く。


「小雪、かかっている。蜜魚があんたのつるに喰いついたんだ!」


「え、ええ!?」

 お願いの効果があったらしい。しかしかかったらかかったで小雪は困ってしまった。この後どうすればいいのか全く知らなかったのだ。花釣りはおろか、ごく一般的な釣りさえしたことが無かったのだから仕方無いと言えば仕方無い。

 

「どどど、どうすれば宜しいのでしょうか!?」


「蜜魚の動きに合わせてつるを動かすんだ。ちんたらしていると逃げられるぞ」


「そう言われましても!」

 もう何がなにやら。とりあえずつるを動かそうとするが頭の中が真っ白になっているせいでつるの動きがめちゃくちゃになっている。

 その様子を見た弥助がしょうがねえなあと面倒臭そうに呟く。そして小雪の持っている竿に手を触れる。自然と二人の体は密着する。当然小雪は、固まる。


「もう少し右、そこで左……もう少し強く……」


(ミギ、ヒダリ、ツヨク。ああ遠くで弥助の声が聞こえる……)

 小雪の意識はすでにそこには無かった。自分に対して喋っているのだということすら理解できない。つるに意思を伝達することなど出来るはずもなく。

 完全に忘我状態である。

 結果、つるは小雪の竿を一緒に握っている弥助の意思を汲み取るようになった。小雪は固まっていたが、つるは彼女が動かしていた時以上に滑らかで的確な動きをしている。


「ほら、小雪! 釣れたぞ、やったじゃないか!」


「は、はい?」

 弥助が嬉しそうに言った言葉が小雪の意識をようやくこちらに引っ張り戻した。見ると、つるの先端にある花に15センチ位の魚が噛みついており、尾をぱたぱたとうごかしている。(うぐいす)によく似た色。小雪は先週食べた抹茶パフェをぼんやりと思い浮かべた。ああ、あの色にもよく似ているなと思いつつ。

 最初の内は元気よく動いていた蜜魚だったが、しばらくすると大人しくなりやがて石のように固まって動かなくなった。

 弥助は花の先についているその蜜魚を丁寧にとると、小雪用の葉の上にそっとそれを置く。動かなくなった後もなおその体は美しい光に包まれていた。魚より、光にかざした宝石の方が近かった。


「頑張ったじゃないっすか。なかなか良い蜜魚っすよ、こいつは。あっしが言うんだから間違いない」

 あまり頑張ってはいない。実質葉の上に横たわっているその蜜魚は弥助が釣ったものだ。小雪は何もしていない。まあ何もしなかったからこそ釣れた……と言えないこともないから。ある意味では小雪の功績であるのかもしれない。

 弥助だって小雪があの時釣りに全く集中しておらず、呆然としていたこと位気がついていたはずだ。だが彼はそのことには触れない。


 小雪は「私は何もしていない、これは弥助が釣ったのです」と言おうとしたが、出来なかった。意地っ張りな性格(特に弥助の前では)な彼女にそんなことが言えるはずがなかった。

 代わりに胸を反らし、ふふんと勝ち誇ったような顔をしてみせる。


「参りましたか。私の手にかかればざっとこんなものです。花釣りなんてちょろいちょろい、ですわ」


「はいはい。すごいすごい」

 弥助はただ苦笑いしただけだった。桔梗の海を泳ぐ蜜魚達は小雪を「よくやった」と褒めるわけでも「何を言っているんだこの女は」と思うこともなく、ただ自由に泳いでいた。


 また、しいんと静かになる。ここにいると長時間、しかも大きな声で話す気になれないのだ。周りが静かだからなのか、それとも海の美しさがそうさせるのか。

 今度こそ自分の力で釣りたい、そう願いながらつるをまた落とす。海には他の妖達が投げ入れたつるも多くあり、それが舞うように動き回っている。緩やかで、鮮やかで……景観を汚さぬ動きはぼうっと見ていると結構楽しいものだった。

 風に揺られて波打つ桔梗は優しくつるを、蜜魚を抱く。

 

(あの中を泳いだら、どれだけ心地良いでしょうか。蜜魚達が、少し羨ましい)

 そんなことを思うようになった自分に気がつき、小雪ははにかんだ。

 

(昔はそんなこと考えようとも思わなかったのに。何を見ても、何も感じなかったのに。何もかもくだらないものに見えていたのに。今は違う。楽しい、とても楽しい)

 横目でこっそり弥助を見る。彼はぶつぶつ独り言を呟きながら花釣りに熱中していた。きっと小雪の姿など今の彼には映っていないだろう。


(私はこの男に助けられたのだ。彼と出会わなければこうして花釣りに出かけることもなかった。仮に花釣りをやったとしても何も感じず、思わず、何も得ることないまま帰ったでしょう)

 弥助には心の底から感謝していた。誰にでも優しい彼は、小雪にも優しかった。彼の優しさが、温もりが小雪の凍りついていた心を溶かしたのだ。

 しかし彼に自分が心底惚れている理由が彼のその性格にあるのかどうかは、矢張りまだよく分からない。優しいから好きになったのか、助けられたから好きになったのか。実は一目惚れだったのか。そもそも自分はいつから彼のことを意識するようになったのか。


(分からないですわ、本当に。まあ分かったところで何がどうなるってわけでもないですが)

 つるはぐるぐる回っている。蜜魚は邪魔そうにそれを避けながら泳ぐ。その近くに別のつるがある。あの掛け軸お化けのものである。彼は小雪を睨んでいる。勿論小雪は気がついていない。結局掛け軸お化けの方が折れて、つるを移動させた。

 ぐるぐる考えることをやめた頃、弥助は相当な数の蜜魚を釣っていた。


(いつの間にあんなに。負けていられませんわ、私も。このままではあんまりです)

 美しい光が沢山集まっているところに、小雪は狙いを定める。提灯色の光、蛍の光に似たもの、銀色の月の様な色の光……それらが夜空の色をした桔梗の花の中で泳いでいるのだ。

 花には露をたっぷり染みこませてある。


(今度こそ、自分の力で釣ってみせますわ)


 さあ、ざあ、さあ、ざあ。寄せては返す波の音が小雪の心を落ち着けてくれる。時々聞こえるしゃん、ちょん、りんという音もまた心地よい。

 肩の力が抜けていく。


(何だか、今度は上手くいきそうです。難しいこと考えずにやるのが一番良いのかもしれませんね)

 何となく、そんなことを思った。


 しゃん。


「あ」

 竿が突然重くなる。また蜜魚がかかったらしい。先程よりもずっと重いように思えた。

 慌ててはいけない、落ち着いて。自分にそう言い聞かせ、深呼吸を一つ。


 こうすれば良いのだろうか、ここはこう動かした方がいいのだろうかと思いながらつるの長さ、動きを変える。

 不思議と的確な判断が出来た。記憶には蜜魚を釣った時のことが残っていなかったが、体はきちんと動きを覚えていたらしい。

 弥助は手助けをしなかった。しなくても大丈夫だということが分かっているようで、彼女の方を時々見ながら小声で時々アドバイスするだけだった。


 右、左、今は少しつるを伸ばし。そこで一気に縮め、また右へ、左へ。

 甘いのか、苦いのか、酸っぱいのか。そもそも味があるのかどうかさえ分からない、水晶のように透き通っている露に引き寄せられた蜜魚。桜色の柔らかな花びらに今彼は噛みつき、その体を右に左にくねくね動かしているのだろう。

 他の蜜魚達は、今まさに釣られようとしている自分達の仲間になど目も向けない。先程まで一緒に戯れていたのに、もう彼のことなど忘れてしまったかのようであった。ただ楽しそうに輪になって泳いでいる。


 つるが大分短くなってきた。後少しだ。しかしここであせっては今までの苦労が水の泡。慎重にいかねばならぬ。とても重い、けれど負けたくない。

 はやる気持ちを抑えながら、もうすぐ来るその一瞬を小雪はひたすら待ち続けた。


 そして。


「小雪、今だ、引き上げろ」

 弥助の囁く声が小雪の耳に届く。その声にとろけそうになりながらも小雪はぐっと竿もつ手に力を入れ、桔梗の海からつるを引き上げた。


 しゃん、という音と共に海上から現われたのは5~60センチはあろうかという蜜魚であった。月の光を浴びてより一層輝く、染まりかけの紅葉のような色をしたその体。赤、緑、黄色のグラデーションがとても美しい。

 目らしい目も見当たらない、生物なのかどうかよく分からないそれを小雪は、満面の笑みを浮かべて葉の上にのせた。自分の力で釣った魚はとても大きく見えた。


「お、そいつはなかなか珍しい種類の蜜魚っすねえ。紫陽花の露で良く釣れたなあ。随分変わり者みたいだ、あんたが釣ったのは」


「変わり者とは何ですか。私が釣った蜜魚を馬鹿にすることは許しませんよ」


「はいはい」


「私の技量が優れていたからこそ、このような立派な蜜魚が釣れたのです。もっと私のことを敬いなさい。花釣り名人様、と」



「はいはい」

 鼻高々にそう言ってみせる彼女を、弥助は生意気でお調子屋の妹を見るような目で見、笑う。その時ふと初めて彼女と出会った時のことを思い出す。

 笑顔を知らなかった彼女のこと。温もりなどただただ不快なものであると眉一つ動かさずいった彼女の姿。


(昔のあいつが、今の小雪を見たらきっと驚いただろうな。……顔には出さず、心の中で、な)


「まだまだ釣りますわ。あっという間に弥助が釣った数を超えてみせます」


「そうはさせねえよ。初心者娘に負けるほどしょぼい腕してないっすよ、あっしは」


「どうだか。お前は何をやらしてもへぼへぼですからね。きっと花釣りをやってもへぼへぼでしょう」


「へぼへぼって何すか、へぼへぼって。あっしだってなあ、やる時はやるんだ」


「やらない時はやらないんですね」


「当たり前だ」


「何でそこで胸を張りますの。訳が分かりませんわ、全く」

 そう言いながらも小雪は楽しそうに笑う。口元に手を添え笑う彼女はとても可憐だった。普段は大人しいクール系美人といった感じなのだが。

 弥助も素直にその表情を可愛いと思う。しかしその感情が恋愛感情に変わることは無い。


「さあ、もう少し続けるか。どちらが多く釣れるか勝負だ」


「望むところです」


「その勝負、私も参加して良いかな?」

 そう言ったのは掛け軸お化け。その優しげで落ち着いた老爺のような声は、どこか秋太郎のものに似ていた。小雪と弥助は顔を見合わせ、くすりと笑い合うと仲良く頷いた。


「こういうのは一人より二人、二人より三人の方がいいからな」


「その通りです」

 弥助と二人きりの時間を過ごしたい、という目的も半ば忘れている。

 今は只、この時間を楽しみたい。それだけだ。


 今まで釣った数は入れない、相手の邪魔はしない、兎に角楽しんで釣る。

 それだけ決めて彼らは露を浸した花を海へと投げ込んだ。


 そうして過ごした時間は静かに、穏やかに、それでいてあっという間に過ぎていった。

 餌である露も殆ど終わり、蜜魚に散々食いつかれた花は大分ぼろぼろになってきている。


「そろそろ終わりにして、この蜜魚達を食いに行かないっすか」


「ずるいです、弥助。お前自分が一番である内に終わらせようとしているんでしょう」


「そうじゃないっすよ。それに一番釣っているのはあっしじゃない」

 指差した先にあるのは、掛け軸お化けの獲物達。小雪や弥助が釣った数よりもずっと多い。


「あれにはどう頑張っても勝てん」


「うう、確かに。あれだけの数を釣っていたのが弥助だったら意地でも負けを認めませんでしたが……仕方ありません、私達の負けですわ。……二番は私ですわね」


「何を言っているっすか、どう見たってあっしの方が釣っているだろう!」

 そう。二人の間には相当な差があるのだ。しかし小雪は怯まない。


「私は初心者、弥助は経験者。そのことを考慮し、お前が釣った数から10引くと……」


「何で引く必要があるんだ。往生際が悪いぞこの馬鹿雪女」


「お前如きに馬鹿と言われるなんて、心外です! 馬鹿、鈍感、筋肉達磨!」


「あっしのどこが鈍感だっていうんだ、というか鈍いとか鋭いとか今関係ないことだろう! あんた前もあっしのことを鈍感男とか何とか言っていたな!」


「う……そんな昔のこと覚えていません!」


「そんな昔じゃねえ!」

 ああだこうだと再び始まる口論。掛け軸お化けは存在すら忘れられ、呆れるやら寂しいやら。


「それじゃあお前さん達、私は一足先にこいつらを食べに行くよ。また会おう」

 一応それだけ言い、その場を後にする。


 二人の口論は、弥助が押し負ける形で終わった。


「こほん、まあとりあえずこの位にしておいてやらあ。……蜜魚、食いに行くっすよ。こいつらを調理してくれる所が近くにあるんだ」


「そ、そうですか。分かりました。弥助と不毛な争いをして無駄な時間を過ごしました。さっさと行きましょう」

 幾枚かの葉で釣った蜜魚をくるみ、木の下に生えていた太く丈夫な植物の茎で縛りつける。

 岩場から降りた二人は、木々に囲まれた狭い道を進む。


「蜜魚は桔梗の海から極端に離れた所に持っていくと、かちんこちんに固まってしまうんだ。飴なんかよりもずっと硬くなって……並大抵の歯じゃ噛み砕くことが出来なくなる。無理にやれば歯の方が砕けちまう。普通の魚のように腐ったり、生臭くなったりすることは無いけれど。観賞用に持ち帰る奴もいるが……まあ大抵の奴は釣ったその場で食うな」


「ふうん、そうなんですの」

 特に驚くこともなく、小雪は軽く頷くだけだった。人間からしてみれば不思議なことでも、妖達にとっては当たり前のことというか、不思議なことでも何でもない。ここにさくら達がいれば「魚がそんな風に固まるなんて!」とか何とか言って驚くだろうが。


 道の先には開けた空間があり、奥に二階建ての平べったい建物がそびえていた。また、端っこの方で焚き火をしながら近くにある石に座って話している妖が何人かいる。そこからあがる煙がとても良い香りを運んでいた。恐らく蜜魚を焼いているのだろうと小雪は思った。


「ああやって自分で調理するのもいるし、あの建物の中にいる奴らに調理してもらうのもいる。自分で焼いたり煮たりしたものを食うのも格別だが、蜜魚の扱いはあの中にいる奴らの方が上手いからな。そちらに今回は頼もう」


 海は随分静かであったが、こちらは大分賑やかであった。香ばしい匂い、甘い匂いに混じって酒の匂いもした。

 建物の中は外以上に賑やかで、木のテーブルの上に置かれた料理をつつきながら皆酒を飲んでいた。恐らく二階にも食べる場所があるのだろう。


 一階の左奥から特に良い香りが漂っている。そこがどうも調理場になっているらしい。楽しそうに歌う声も聞こえてきた。歌いながら調理しているのだろうか。

 テーブルに料理を置いた、二足歩行の巨大三毛猫が二人に気がついた。


「これはこれはお客様。美味しそうな匂いが……あ、蜜魚の匂いのことですよ、お客様達が美味しそうという訳ではないですからね。私は蜜魚以外食べませんから!」

 そう言いながら口元から垂れているよだれをずるっとすする。黒い瞳は二人が持っている蜜魚をくるんだ葉に釘づけだ。


「それでは蜜魚お預かりしますね。調理方法はお任せで宜しいですかな?」


「ああ。一応刺身と焼き魚は確定で。後はお任せってことで。小雪もそれでいいか?」


「え、ええ」


「了解です。それじゃあ蜜魚、預かりますよ。ええとこちらが雪女のお姉さんの、それでもってこちらがむさくるしいおっさん」


「誰がむさ苦しいおっさんだ。お前、絶対にこの蜜魚つまみ食いするなよ」


「するなと言われるとしたくなってしまいますなあ」

 冗談にも本気にも聞こえる。猫は分かりやすいように印をつけた後、包みを持って調理場へと消えていった。夜空の下に咲いている桔梗のような色の着物の裾をひらひらさせながら。

 そんな彼(彼女?)の背中に弥助が「二階で待っている」という言葉を向けた。包みをもっていない方の手を猫はぶんぶん振った。


「何か心配だが……まあ大丈夫だろう。それじゃあ二階に行こう」


 店の右奥にある階段を上ると、妖達が料理を食べながら騒いでいた。一階よりもずっと騒がしい。

 香ばしい匂い、味噌や酒、醤油の香りが建物中を満たしている。

 見れば先程一緒に花釣りを楽しんだ掛け軸お化けもいた。掛け軸には墨で鯉が描かれており、その鯉がぱくぱく口を開けて料理を食べている。彼はその鯉の口にせっせと料理を運び続けていた。


「おや、来たかい。あのまま二人あそこでいちゃついているのかと思っていた」


「いちゃついてなどいません!」


「どうせいちゃつくなら、朝比奈さんとが良い!」


「誰だい朝比奈さんて」

 朝比奈さんのことは愚か、弥助達の名前すら知らない掛け軸お化けはぽりぽりと鯉の背の部分をかく。小雪は肩をがっくりと落としている。

 まあいい、ここに座りなさいと自分の前にある席を指差す。二人は素直にそこへ座る。


 周りの妖達と騒いでいると、先程の猫他数名の妖が料理が盛られた皿を運んできた。猫はぐるぐると鳴いている。途中つまみ食いしなかったのが奇跡のように思えた。


「ほれほれ、完成しましたよう。美味しく食べるが宜しい。残ったものは私達が美味しくいただきますから。というわけで料理残せよ、絶対残せよ!」

 最後の辺りは涙声だ。残さなければ自分の爪で自分を裂いて死にそうな勢いである。

 弥助も小雪も特に返事はしなかった。猫は他の従業員に引きずられて一階へと消えていった。


「それじゃあ、早速食べるか」

 仲良く手を合わせ、食べ始める。


 小雪がまず手にとったのは太い木の棒にささった焼き魚。焼いても光は消えていない。こげの部分は黒くなく、元の体の色が濃くなっているだけだった。

 

「ぱっと見焼いたようには見えませんが。とても良い香りはします」

 ぱくり一口。美味しい。

 とてもふわふわしている。とろろのような、綿菓子のような。普通の魚よりも甘い。勿論砂糖の味がするわけではない。魚の味だ。だが普通のそれとは矢張り違う。噛むと濃厚な味の汁が口の中に広がる。内蔵や骨は無いから、丸ごと食べられる。


「普通の魚とは全然違う味。でも美味しい」


「だろう? だから時々やりたくなるっすよ、花釣りは」

 弥助が食べているのは刺身だった。身の色はどの蜜魚も同じで、薄荷飴のようなものだった。


「刺身もまたたまらないっすよ。ものすごく弾力があるんだ。油も滅茶苦茶のっていてさ。でも全然しつこくない。おまけに甘い。甘エビよりも甘い。甘いったら甘い。けれどくどくない。ぷりぷりむにむにこりこり、最高っすよ」

 辛味の強い薬味をのせて食べるとまた美味しいらしい。辛い、でも甘い、その感じがたまらないらしい。


 他にも木の実や茸が入ったあんをかけたもの、甘辛い味噌と一緒に軽く似たもの、こんぶと巻いたもの等など様々なものを食べた。

 他の妖達が釣った蜜魚でつくられた料理も食べたし、自分達のを分けたりもした。苦味が強いもの、ものすごくこりこりしているもの、食べた瞬間口の中で溶けるもの……蜜魚によって味や食感等に違いがあるのが面白い。

 酒も、飲んだ。酒は桔梗の海がある所でしか飲めないものを主に飲んだ。


「これは液体状にした蜜魚を混ぜたもので、これはあそこに咲いている桔梗の花入りのもの、これは……」

 弥助や他の妖達にすすめられた酒を片っ端から飲む小雪の顔はあっという間に真っ赤になった。


「どれも美味しいですわ。体がふにゃふにゃとろけますわ」

 酒を飲んで体が熱くなる。けれど嫌な熱さじゃない。昔は体がほてるのが嫌という理由で酒も殆ど口にしなかった小雪であるが。

 

「うんうん、美味いなあ。ああ出来ることなら朝比奈さんを連れてきてやりたかったなあ! 一緒に花釣りして、料理を食べたり酒を飲んだり……痛い!」

 小雪がにやにやしている弥助を思いきり蹴飛ばしたのだ。当然弥助は怒る、叫ぶ。喧嘩になる。この夜何度も繰り返したパターンである。

 その様子を見て酔っている他の妖達が愉快そうに笑う。彼らにとっては最高の娯楽、酒のつまみである。


 美しい桔梗の海で花釣りを楽しみ、美味しい料理を騒ぎながら食べ、酒を飲み、喧嘩して。


「いいぞもっとやれやれ、仲良し夫婦!」


「痴話喧嘩見ながら食う蜜魚は最高だ!」


「本当騒がしい方々だ。でもまあこういうのもいいですねえ」

 外野が盛りあげる。酒の勢いですごいことになっている小雪と弥助の舌戦は、疲れて喉が枯れるまで続いた。


 こうして桔梗の海の夜は過ぎていく。

 夜が明け、海の色が藤色に近くなった頃蜜魚は静かに消えていく。


 海は夜より一層静かになるだろう。


 しいんと、しいんと。

 また来る夜を待ちながら、揺れる、揺れる。桔梗の、海。


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