第十五夜:桔梗の海(1)
これは村を訪れた薬売りが語った話であるという。
この世界には『桔梗の海』と呼ばれる場所が何箇所かあるという。大抵は山中の開けた場所にあるらしい。
桔梗のような色をした海というわけではなく、地面が見えない位咲いている桔梗が風にゆらゆら揺れる様子が波打つ海のように見えることから、桔梗の海と呼ばれているという。
桔梗の海は、人では無い者――妖怪達――の遊び場であるらしい。
具体的にそんなところで何をするのかは知らないという。ただ妖怪達の遊び場であるから、例え見つけたとしても無闇に近づかない方がいい……それだけははっきりと言えると最後に薬売りは付け加えた。
本物の海を知らない村人達は薬売りの話を聞いて、桔梗の海とはどんなものなのか、そもそも海というのはどんなものなのだろうと色々想像したとか。
『桔梗の海』
「その、き、桔梗の海……行きませんか」
小さな喫茶店。向かい合う男女。顔を赤くさせながら男を誘う女。
銀世界を思わせる髪は太陽を受けてぎらぎら輝き、青い瞳はその中に熱情を秘めている。雪の中を飛び回るウサギに似た白い肌。
彼女は、雪女である。ゆえに肌寒い今日も半袖のワンピースを身につけている。朝比奈満月に「寒くありませんか?」と心配そうな顔で聞かれたが「寒さには強いですので大丈夫です」とやや素っ気なく答えるだけだった。
外国人だが両親が大の日本好きで、娘に日本人っぽい名前をつけた――という設定になっている「小雪」は目の前にいる男をじっと見つめている。見つめている、というよりは……睨んでいる。
美しい女性にそんな視線を向けられている相手は、美しい、綺麗――などという言葉が一切似合わない男。無造作に後ろで束ねられた、水分の少なそうな髪。ややたれた目、微妙に剃りそこなっている髭、ウエイター姿が似合わないがっちりとした筋肉質な体。決して醜くはないが『美』という言葉からは大きくかけ離れている容姿。
まさに、美女と野獣。
「何でそんな顔真っ赤にしながら言うっすか? そして何故睨む」
小雪が自分に対してどういう感情を抱いているのか全く気がついていない愚か者である弥助は、眉をひそめながら首を傾げる。
「顔が赤い? 馬鹿言わないで下さい、私がお前の顔見て赤面するはずなどありません。後、睨んでなどいません。ま、まあ別に行きたくないっていうのならいいんですけどね! 友達のいないあんたを哀れんで、誘ってやっただけですから」
あっしにだって友達はいるよ、しかも沢山……と困ったように頭をかいた。
そんなことは小雪にだって分かっている。これは弥助を誘う為の只の口実。
「それで、行かないんですか? 行かないんですね。いいですよ、私はそれでも。全然、これっぽっちも、問題はありません」
勿論これは嘘である。普段はそうでもないのに、弥助を相手にすると途端に素直ではない性格になる。
つんとすました顔で言ってはいるが、実際のところ心臓ばくばく、体温も急激にあがっている。勿論にぶちんである弥助が彼女の本心を察しているはずもなく。それなら何で誘ったんだと疑問に思うだけ。
「別に行かないとは言っていないだろう」
「それじゃあ」
「行くっすよ。あそこで釣れる魚は美味いからな。丁度そろそろ足を運んでみようかと思っていたところっす。だからその誘い、有難く受けるよ」
良かった、そう小雪は思った。そして弥助をデートにでも誘ってみたらどうだいと提案してくれたこの店の主、秋太郎の方をさりげなく見た。秋太郎はコップを拭きながら彼女に微笑を向ける。弥助が桔梗の海へ行きたがっているという情報も、秋太郎から得たものなのだ。
「まあ店の仕事が終わってからになるけれど……あっちで集合ってことでいいっすか?」
小雪は全然問題ありませんと、激しく首を上下させた。
「良し、それじゃああっしはそろそろ仕事に戻るか。お客さんももうじき来るだろうしな」
小雪とのんびり喋ってはいたが、一応仕事中だ。今はそうでもないがもう少しすればお客さんがちょこちょこ入ってきて、そこそこ忙しくなるだろう。今の内に出来ることはやっておきたいのだ。
席を立った弥助を小雪はじっと見つめ、そして微笑む。
彼と一緒の時間を過ごすことが出来る。それが嬉しくて仕方が無かったのだ。
だが。
「あ、朝比奈さんあっしもお手伝いするっすよ。すいませんね一人で仕事させちゃって」
店の奥にある小さな調理場で作業をしていた満月にかけている異様に弾んだ声を聞くと、一気に気分が沈んだ。微かに聞こえるその声には、満月に対する好意がこれでもかという位込められていた。その声が自分に向けられることは決してない……そう思うと胸が締めつけられる。
(……ああ、どうして私はあんな男なんかを)
満月を前に鼻の下を伸ばしているであろう弥助の姿を思い描きながら頭を抱える。同時に、自分の好意に一切気がつかない鈍感な男のことを呪った。
(あの馬鹿がもう少し聡い奴だったら、これだけ苦しい思いをしなくてもすんだのに)
そう思う。しかし小雪はちゃんと分かっていた。前にも後ろにも進まない状態になっている原因が自分にもあるということが。
もやもやした気持ちを抱えながら、小雪は喫茶店『桜~SAKURA~』を後にした。
*
桔梗の海は山や森の中にある。その名で呼ばれている場所は一箇所ではなく『向こう側の世界』に数十箇所存在している。或いはもっとあるのかもしれない。
その内の一つがある森を抱く、とある京。そこで日が暮れるまで時間を潰した後、森を目指す。
月明かりと、ホタルに似た虫の光だけを頼りに歩く。夜空を切り取って作られたような木々、時々すれ違う青色の人魂やろくろ首、顔の大きい男、目玉が一つしかない女――といった妖達。幻想的――というよりおどろおどろしい雰囲気漂うこの場所を一人、顔色も変えず歩く小雪。人間には決して出来ない芸当だ。
しばらく進んだ先には木で出来た高い門がそびえたっており、その隣には同じく木で作られた小さな建物がある。門を通る前に小雪はその建物の中へと入っていく。
建物の中には幾人かの妖がおり何やら楽しそうに話している。最奥にはござが敷かれており、そこには植物のつるらしきものがついた木の棒や手のひらサイズの小さな壷等が沢山置かれていた。
「これが花釣りの道具ですか。初めて見ました」
弥助を誘ったはいいものの。……小雪は桔梗の海へ行ったことが今まで無かった。そこで花釣りという遊びをするという話は聞いたことがあったが、具体的に何で何をどうするのかというのは聞いたことが無かった。そもそも彼女は弥助と会うまで、自分が住んでいる京(風花京というところ)から殆ど出たことが無かったから、故郷に無いものに関してはとことん疎いのだ。
「お前さん、花釣りは初めてかね」
見れば、ござの向こう側に一人の老婆がいた。背丈は幼稚園児位で、非常にしわが多い。あまりに多すぎて目や口がどこにあるのかさえよく分からなくなっている。声を聞く限りは女であるが、実際のところはどうか分からない。もしかしたら老爺なのかもしれない。頭に生えている二本の小さな角は手で触れればたちどころにぼろぼろと崩れてしまいそうであった。だが、どこにあるかも分からない口から発せられる声はやけにはっきり聞き取れた。
「ええ、まあ。話は聞いたことがあるのですが」
「一人で来たのかい」
「いえ、一応友人と……もう少ししてから来ると思います」
恋人、と言えないのが何だかせつない。
「そうかい。友人の分の道具まで持って行くかね」
「花釣りの道具ってどれも同じですの?」
「いや、多少違うね。つるの伸縮する度合いとか、餌の露にも色々種類がある。お前さんは始めてのようだから、この竿がお勧めだね。ほどほどに伸びるつるを使っておる。露はまあこれ――紫陽花の露で良かろう」
「そう――なんですか」
言われてもよく分からないから、そう答えるしかない。
老婆は困ったような顔をしている小雪を見て小さく笑った。
「まあその内慣れるじゃろう。そう難しいものでもないから。……で、その友人というのは経験者なのかね」
「え、ええ。恐らくは。ですから私が勝手に道具の種類を選ぶわけには参りませんし……ここで待っていますわ」
「それがええ。その友人とやらも恐らくここを訪れるだろうからね」
そうさせていただきます、と軽く老婆にお辞儀して小屋の端の方へ移動した。
同じく花釣りへ来た妖達と話をする。弥助以外の妖相手だと悪態をつくこともなく、普通に話をすることが出来た。
話に夢中になっていると、弥助がやって来た。彼は楽しそうな様子の小雪を見て優しく微笑む。その目で見つめられると、小雪はどうにも動けなくなる。
「よお、小雪。悪いな待たせちまってよ」
「お、遅いです。待ちくたびれました」
嘘である。そっぽを向きつんとする小雪と、弥助を交互に見た後小雪と話をしていた妖の一人が大声で笑った。
「何だ、友達なんていっておいて……本当は恋人だったんだなあ」
「ち、違います!」
「そんな訳ねえだろう、誰がこんな口の悪い雪女なんか恋人にするか!」
小雪の否定は、まあ全力ではない。一方弥助の方は……全力だ。その全力っぷりが小雪の胸を深く抉る。そこまでムキになって否定しなくても、と肩を落とさずにはいられない。弥助はそのことに気がつかなかったが、他の妖達は気がつき、小雪と弥助の関係を把握したらしい。その証拠に、小雪を同情するような目で見つめた。
矢張りそのことにも気がつかない弥助は何故かにやりと笑い、小雪を指差した。
「それによ、こいつには好きな奴がいるんだ。しかもその相手というのが人間でな。苦手な暑さも我慢して足繁くあちらの世界に行っているっすよ」
「ち、違います! それは貴方の誤解だと何回言えば分かるんですか!」
何回言っても分からないだろう。……馬鹿だから。
妖達は腹抱えて笑うやら、苦笑いするやら。弥助はそんなに人の気持ちに鈍感ではない……のだが、どうも自分に向けられている恋愛感情とか……そういったものにはなかなか気がつかないらしい。それは、彼が想いを寄せる相手朝比奈満月も同じだった。
小雪の顔はどんどん赤くなっていく。雪のように白い肌は今にも溶けてしまいそうだった。
「馬鹿! 本当に馬鹿です、大嫌いです! 馬鹿!」
「そんなムキになって怒らなくてもいいじゃないか。な? それより早く桔梗の海に行こうぜ。一緒に花釣りするんだろう?」
「……」
頬をぷくっと膨らませ、しばらく弥助の顔を睨みつけていたがやがて観念する。ここで帰ってしまったら勇気を振り絞って彼を桔梗の海に誘った意味が無くなってしまう。
「さ、さっさと行きますよ。このぼけ狸」
「あっしのどこがぼけてるっすか。まあいい……さっさと行こう。ちょっと待っていろ、すぐ道具を調達するから」
言って、老婆の前に置かれている道具をとりに行った。
二人、目指すは桔梗の海。
*
木の門をくぐり抜け、道を通る。外はやや肌寒いが、小雪は半袖のままでもけろりとしていた。彼女は雪女であるから、寒さに強いのも当然のことだった。
桔梗の海にはそこから五分も経たずに辿り着いた。
木々に囲まれた、無数の桔梗。いや、実は正確に言うとそこに咲いているのは桔梗ではない。よく似ているが、全く別物である。本来の桔梗より花が大きく、丈も長い。まるで水で出来ているような花で、その花の群れの中に飛び込めばあっという間に全身ずぶ濡れになる。
正式名称はこれといって無い。とりあえず桔梗に似ているから、桔梗と呼んでいるのだ。
花の色は薄紫。空も一瞬これに似た色を見せることがある。静かで、それでいて冷たすぎない色。美しい、色。
もう空は宵闇の色をしているというのに、その花の姿は消えることなく、割とはっきり小雪達の目に映っている。頭上高くそびえている月がそうさせているのか、或いは別の要素があるのか。その辺はよく分からない。
風が吹くと、桔梗の花が同じ方向へ揺れる。その時ざあ、ざあ、という音がした。それは砂浜を撫でては引いていく波の音によく似ていた。潮の香りはしないが、代わりにほんのり甘い匂いがする。
花の中を、何かが動き回っていた。それは小さな光を発している。はっきりとした眩しい光では無く、仄かで柔らかな光だ。色は様々。金、橙、青、黄緑。
花の群れと木々の間には大きな岩が点々とある。海の中にも岩が幾つか見える。上の方は平らになっているらしく、そこに数十人の妖が座っていた。
(ここが、桔梗の海)
初めて見た小雪は、何も言えずただ目の前に広がっている風景を眺めていた。
美しい、と思った。恐らく人間が見ればより感動するだろう幻想的な景色。
「なかなか素敵な所ですね。気に入りましたわ」
「やっぱり小雪は桔梗の海、初めてなんすか」
「ええ。風花京近くにはなかったので」
「そうか。……とりあえず行こうか。ここでぼうっと突っ立っていても仕方が無い。よし、あの岩場にしよう」
言って、歩き出す。小雪もその横について歩き始めた。弥助は歩く速度や歩幅を小雪に合わせてくれた。
殆どの妖がどこかの岩場に座って、そこからつるを垂らしていた。皆花釣りを楽しんでいるようだった。
端の方を通り、腰を落ち着かす場所を探す。花釣りを極める人にとっては、場所、岩の高さ等も重要であるらしい。
「随分と熱心ですね。来たからには全力でやるということですか」
小雪が聞くと弥助が苦笑いし、右手をちょこちょこと振る。
「いや、普段はそこまで場所なんか気にしないよ。ここでいいかなって所にいつも座っている。でもよ、小雪は……初めてなんだろう、花釣り。だからさ、初心者のあんたでもやりやすいような場所を選んでやろうと思ってさ」
その言葉にどきりとしてしまう。小雪は自分が思っている以上に恋する乙女であった。ここは礼を言うべきなのだろうが、声が出ず、よく分からない変な声をもらしてしまう。
(こういう優しいところがあるから……嫌いになれない。諦めることも出来ない。ああ、もう!)
小雪が悶々としていることに気がついていない――というか小雪の方なんて殆ど見ていない弥助は、丁度良い場所を見つけたようで。お、と声をあげた後小雪の名を呼ぶ。しかし小雪にその声は届かない。すっかり桃色に染まってしまった脳が、外界からの声を受け止めてくれないのだ。
しびれを切らした弥助はため息をついた後、俯きながらぶつぶつ何か言っている小雪の左手をぐいっと掴み、引っ張った。それが良い刺激となりようやく小雪の意識は此岸へ戻る。
「何ぼうっとしているんだ、さっさと行くっすよ」
「え、え、あ、ああ、ええ」
もう自分でも何を言っているのか分からない。自分にも分からないのだから、相手にも分かるはずが無い。変な奴と呟きながらその手を弥助が離すことはなかった。
辿り着いた岩場には掛け軸に手足がついた妖だけが座っている。高さは高すぎず、低すぎず。五人座れば定員オーバーになるようなそこまで大きくない場所。岩場の前には石で作られた簡易な階段があり、小雪は弥助に手を引かれながらそこを上っていった。
上から眺める桔梗の海もまた格別で、ここが第一印象以上に広いことも実感できた。
「とりあえず座ろう」
「え、ええ……っていつまで手を握っているつもりですの。い、いやらしい!」
やっと悪態をつく余裕が出来たらしい小雪は、握られた手を振りほどく。
「いやらしい、とか思っているあんたの方がいやらしいっすよ」
「私がいやらしい? ふ、ふざけないでください!」
「ふざけていないっすよ。見た目は清楚、中身はえろえろってか。この脳内桃色雪女め」
「だ、誰が、も、もも……女の子にそんなこと言うなんて、最低です! この助平! 空気読めない男! だ、大嫌い!」
「うるせえ、そんなことばっかり言っていると助平男らしくとって喰っちまうぞ!」
子供と子供の喧嘩。しまいに弥助は身を乗り出し、ぐっとその顔を小雪に近づける。小雪の方はたまったものではない。ほんの一瞬とって喰われるなら本望とかなんとか思ったが、矢張りそれは、まずい。
反論できず慌てる小雪の顔をじっと見た後、弥助はにやりと悪戯坊主のような笑みを浮かべ、彼女から離れる。
「冗談っすよ、冗談。あっしは好きでもねえ女を襲う程節操なしじゃないっすよ。相手もあっしのことを嫌っているなら、なおさらだ」
笑顔が小雪の心をたこ殴りにする。涙が出てきそうになる。もういっそこいつを思いっきり殴ってしまおうかとも思った。
何か言ってやろうと息を吸い込む。……が。
「あんた達喧嘩は別の場所でやってくれないかねえ。花釣りに集中出来ないんだよ」
この岩場にいるのは弥助と小雪だけではない。小さな手の生えた掛け軸が、二人を睨みつける。ここが静かな雰囲気漂う桔梗の海であることをすっかり忘れていた彼らは口をつぐみ、小さくなった。
花釣りを本格的に始めたのはそれからしばらく経った後。