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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
我が愛しのエンデュミオン
66/360

そして羊飼いは月に抱かれて消える(6)

 二人の少年は何故か祈るような目でこちらを見ている。


「あんた達は」

 出雲という男の関係者であることだけは確かだろうが、一応聞いてみる。

 それに答えたのは青い勾玉のついた首飾りをしている方の少年。


「俺の名前はやた郎、こちらはやた吉。俺達は出雲の旦那の使い魔だ。今日は旦那の命令で君を満月館へ連れに来た」

 そういえば公園前で意識を失った俺を運んだのは、あの男の使い魔だったんだっけ。それがこの二人というわけか。

 あの女はどこにいるのだろう。きょろきょろ右や左を見てみるが矢張り彼女の姿は無い。決して会いたくはない人物だが、いるべき場所にいないと何だか気味が悪くて怖い。

 二人はその気持ちを察したらしく苦笑した。


「安心してよ、今日はあの姉ちゃん来ないから」


「出雲の旦那が色々言って説得してさ。今頃あっちの世界でふらふらしているんじゃないかな」


「あんた達の主人は俺にいったい何の用があるんだ」

 女と顔を合わせなくてすむことにほっとしながら聞いてみる。二人は「さあ」と首を傾げた。どうやら詳しいことは何にも聞いていないらしい。


「よく分からないけれど、何か話をしたいらしいよ」

 

「嫌だとは思うけれど、来て欲しい。君をちゃんと連れて行かなければ俺達は旦那に殺されてしまう」

 冗談ではないようだった。目が本気だし、あの男はそういうことを平気でしてしまいそうな奴だったし。祈るような目で俺を見ていた理由を今理解した。

 来てくれないと殺される、とまで言われたら断るわけにもいかない。これはもう頷くよりほかなかった。


 俺の返事に満足したらしい二人は安堵の表情を浮かべ、次の瞬間烏に変身した(いや、恐らくこちらが本来の姿なのだろう)。少年が烏の姿になってももう殆ど驚かなくなった自分が何だか怖い。

 目の前にいる烏には足が三本あり、図体もやや大きめ。彼らは空高く飛び上がり、俺を導くかのようにゆっくり進んでいく。

 桜山神社までたどり着き、借りていた通しの鬼灯を握りしめる。

 石段の両側を彩る季節外れの桜、延々と並ぶ鳥居、青い灯を抱いて光る(とう)(ろう)

 非日常という言葉を詰め込んだその美しくも気味の悪い――あの男や女みたいな――道を抜けてあの館に入る。


 広い部屋で待っていたのは生物にはとても見えない姿の男、出雲。

 部屋に入ってすぐ立ち止まっていた俺を、人間の姿に戻ったやた吉が出雲の向かい側にある席に座るよう促した。


「こんにちは。ふふ、思った以上に異形化が進んでいるようだね。恐ろしいね月片というものは」

 楽しそうに笑いながら男は紅茶の入ったティーカップを手に持つ。俺は何も言わずただ男を睨んでいる。


「今日は食って掛かってこないんだね。……随分大人しくなったじゃないか」


「あの女のせいで、疲れているんだ。怒鳴る気力もない」

 理由はそれだけではない。けれどこの男に何もかも正直に話すのは嫌だったからそれ以上は何も言わない。

 男はそんなこと百も承知というような顔で「そう」と言った。


「まあ仕様がない。彼女は他人との距離感とか、適切な会話の量、口を開く時機等が良く分かっていないんだ。彼女達月の民というのはね、余計なお喋りとか、騒々しいものとかが大嫌いなんだ。必要以上に他人と交流することも嫌う。……そんなところで何百年――何千年かもしれないけど――生きていたんだ。他人との関わり方なんて分かるはずがない」


「そりゃあ、そうだけれど」

 人との距離感をとるのが異常なまでに下手な理由はまあ、分かる。しかしだからといって我慢は出来ないし、許したくはない。


「憎たらしい位が丁度良いと思うよ、私は」

 言って皿に盛ってあったチョコクッキーを頬張る。男が少し揺れ動く度、藤の花を映した小川の様な髪がさらさら揺れた。


「だってそうだろう? もし星條が憎むに憎めないような女性だったら……余計辛い思いをしたと思うよ、君は。外見も中身も良い人に想われて嫌な気持ちになる人はなかなかいない」


「だから、あいつが嫌な女で正解だったと?」


「正解かどうかは分からないけれど、まあまだ気は楽じゃないかな。すっきりしっかりがっつり憎めるのだから」

 まあそんなのと未来永劫付き合い続けなければいけないっていうのはなかなかの地獄だとは思うけれど、と嫌な言葉を付け加えてくる。この男もあの女同様、いやある意味あの女以上に性格が悪いと思う。

 彼はまたクッキーを一枚手に取り、ゆっくりと食べる。クッキーをくわえる唇は異様に艶かしく、何かとてもいやらしいものを見ている気分になった。


「君も食べれば? 毒なんて入っていないから」


「いらない」

 食べたいと思わなかった。食べ物を見ても何の感情もわいてこない。石ころと同じだった。あってもなくてもいいもの。結局生きる為に必要でなくなれば、今まで美味しく食べていた物だって石ころと同じような存在に変わってしまう。

 生きる為、楽しく豊かな生活を送るために必要か、必要でないか。生物の考えの基準はそんなものなのだ。そんなことを、思う。


「食べたいという欲求まで消えてしまったのか、可哀想に」


「そんなこと思っていないくせに」


「ばれた?」

 顔に貼りついている嫌な笑みを見れば誰だって分かる。


「星條を助けて正解だった。私は矢張り好きなんだ、人が堕ちていくさまを見るのが……。今の君の顔を見ているととても気分が良い。自分が生きてきた世界を壊され、創りなおされることを嫌がり、拒絶し……逃れようのない現実から逃れようと足掻き……やがて疲れ、諦めた人間の顔は私にとってはどんな食べ物よりも美味しいものなんだよ」

 数日前までの俺だったら「ふざけるな!」と大声をあげて怒鳴り散らしただろう。しかし、今は。


「憎んだって、恨んだって……もうどうにもならないんだ。あいつがあんな言葉を俺に投げかけなければ、昨日鏡を見なければ……まだ目を背けていられたのに。鏡に映っている自分を見た瞬間、全部終わってしまったんだ」


「そう、どうにもならない。何もかも手遅れだ。少なくとも君が人ならざる者になるという運命は、変えようがない。黄泉の国の食べ物を口にしてしまった女神は、その国の住人になってしまった。……それと同じさ。時計の針は手を使えば簡単に動かせるが、時間は進めることも戻すことも出来ない。悔やんだって、憎んだって何も取り戻すことは出来ないんだ」

 分かっている。そんなこともう、とっくに。それでも足掻かないではいられなかった。今だって何もかも認めてすっきりしたわけではない。きっとこれからだってそうに違いない、そう思った。


「……君は彼女から貰った月片を食べるべきではなかった。見ず知らずの人間から貰ったものを何の躊躇(ちゅうちょ)もなく口にするなんて……無防備にも程がある」

 星條を唆した張本人のくせに偉そうなことを、と少し腹立たしく思う。けれど反論は出来なかった。男の言う通りだ。世の中には道を尋ねるふりをして相手を車に引っ張り込み連れて行ってしまう奴だっている。お礼に、と差し出したものが何の害もないものであるとは限らないのだ。


「君、初めて星條と会った時何にも思わなかったの? この人は自分達とは何か違うとか、危険な感じがするとか」

 思った。頭の中で鳴り響いた警鐘。彼女は人間では無いのではないか、逃げた方がいいのではないか……そう、思った。

 男は俺の表情から思いを汲み取ったらしい。呆れたように小さなため息をついてから話を続ける。


「直感を信じればよかったのに。動物の直感は、どんなものにも勝る最高の情報。それを無視したが為に君は人間としての『死』を迎えることになってしまったんだ。結局悪いのは」


「もういい!」

 分かっているんだ、そんなことだって。認めたくなかっただけで……結局のところ、悪かったのは俺だったのだ。あの女はどう見ても人間ではなかった。人間だったとしても、かなり危険な部類のものだっただろう。見た瞬間に思ったのだ、ちゃんと。それなのに俺は。


 分かっている。だからこそ余計腹立たしいのだ。人間には見えなかった女から貰ったものを口にし、挙句化け物になった自分を憎らしく思っていた。あの女の言うことを聞いているのは、静香や家族を守る為だ――そんな偉そうなことを言っているが実際のところは……自分の為だったのだ。生きたかった、死にたくなかった……生き続けるには女の言うことを聞くしかなかった。

 生にしがみつく為なら何でもする醜くみじめな自分。そんな自分を認めたくなかった。俺は女を憎んだ。そうして彼女を憎むことで、自分を守ろうとしたのだ。全てを彼女のせいにして、少しでも楽になりたい……そう思って。


「君はもう少しで彼女と『同じ』存在になる。その後はどうするの? 彼女と一緒に行動を共にするのかい」


「それしか無い……」

 もうあの世界では生きていけないだろう。老いない上にケガもすぐ治る、おまけに異常に体温が低くなった者に居場所は無い。かといってこちらの世界のこともよく分からない。簡単に死なない体になった(これからなるのだろう)とはいえ、矢張り一人で生きるのは不安だ。見知らぬ場所で一人生きていくのは怖い、誰かにすがらなければいけない……あの女なら、俺の面倒を喜んでみてくれるはずだ。

 情けなかった。惨めだった。そんなことを考える自分が。安心して暮らせるのなら、どれだけ憎い女とも行動を共に出来ると思っている自分が。

 男の赤い瞳は喜びに満ちている。己の醜さに気がついた俺の顔を見て楽しんでいるのだろう。


「まあ君は生き物だからね。生きたいと願い、生きる為の行動をとることは至極当然のこと。生き物としては間違っていないと思うよ、今君がとっている行動はさ」

 生き物としては正しくても、人間としては間違っている気がする。


「君に」

 顔をあげる。男は俺の顔を真っ直ぐ見つめていた。冷たい瞳に、冷たい笑み。

 柳の葉のような指が俺を指差している。


「最後の選択肢を与えよう。私は君が足掻き、堕ちていくさまを影ながら見守り……随分楽しんだ。楽しい思いをさせてくれたお礼を君にあげなくちゃね」


「お礼? 選択肢……?」


「そう。まあとてもささやかなものだけれど。ああ、なんて優しいんだ私って」

 優しい自分に酔っている姿はあの女によく似ていた。違うところといえば本気でそう思っている風ではないという部分。

 続きを言わずしばしの間自分の空虚な優しさに酔っていた男は、ふふと小さな笑い声をあげてから、俺をまた見た。秋によく見かける彼岸花に似た色の瞳はとても不吉なものに見える。


「君が我々と『同じ』存在になることは避けられない。彼女の伴侶として生き続けるという未来も、もう君がそう決めた以上変えることは出来ない。一応彼女を殺して君を解放してやるという手がなくもないが……面倒臭いし、そこまでしてやる義理は私には無い」


「あの女は死なないんじゃ……」


「限りなく死から遠ざかっている存在ではあるけれど、やろうと思えばやれるんじゃないかな」

 と言って具体的な方法を語ってくれたが……とても真似出来ない、あまりに残酷でグロテスクすぎて逆に想像出来ないようなものだった。俺にはそんなことは出来ないし、幾ら殺してやりたい程憎んでいてもそこまでして……と思う。


「君に与える選択肢は二つ。一つは何もしないであの世界から消えるというもの。……君の姿は消えても、君という人間がいたという記憶は恋人ちゃんや家族、友人達の頭に残り続ける。エンデュミオンでも羊飼いでも無い、牧田俊樹という存在を残し続けるんだ」


「二つ目……の選択肢は」

 問われ、男は自分の髪をさっとかきあげる。その手の動き、髪の流れ……どれもぞっとする程美しい。


「牧田俊樹という人間が居たという記憶を、綺麗さっぱり皆の頭から消し去る」

 途端、頭を氷の塊でがつんと叩かれたような衝撃が襲った。

 忘れる?皆が俺のことを……?


「これならば君が消えても誰も悲しまないし、苦しまない。まあ記憶を消すというか、君という存在を認識することをやめさせるというか……単純に記憶を抹消するわけじゃないのだけれどね。お望みならば、君の記憶も消してあげよう。そうすれば君は苦しむことなく『エンデュミオン』として生きられるだろう」


「そんなことが」

 そんなことが、出来るのか。

 出来るさ、男は俺の心の問いを汲み取り答える。


「私だけの力だと難しいが……星條の力があれば可能だ。彼女は元々そうして人の記憶を操作する力を持っているらしいからね。君と関係がある人間なんてそんな多い訳じゃないだろうから……まあ主な人間の記憶さえ封じてしまえば問題ないだろう。後の人はそうして記憶を無くした人に感化されて……連鎖を繰り返し、最終的には君の存在を認識するものは誰もいなくなる」


 思いも寄らぬ提案に心が揺れる。忘れる。静香が、両親が、友人が、俺のことを。


「ゆっくり考える時間は与えないよ。今ここで決めるんだ。人間として生きた証を残し続けるか、それとも消し去るか」


 どちらにすれば良い。

 様々な思い出が脳内に映し出され、目まぐるしく変わっていく。今まで忘れていたような思い出も鮮明に甦った(よみがえった)。

 学校の帰り道、いつも俺の隣にいた静香、春になると薄桃色になる山、授業風景、喧嘩、自己紹介、クラスリレー、遠足、肝試し、お正月に貰ったお年玉、七五三……。

 皆、俺のことを忘れる。俺は皆のことを忘れる。

 忘れて欲しくない。そんな残酷な。俺がいなくても普通に、何も変わらず回り続ける世界を思った。俺のことなんて忘れて、俺なんか最初からいなかったように笑う静香――他の誰かを愛し、誰かに愛される静香の姿を思い浮かべたらどうしようもなく胸が苦しくなった。子供なんか最初からいなかったかのように暮らす両親のことを考えたら頭が痛くなった。

 忘れられ、居なかったことにされたら。牧田俊樹は消えてしまう。俺はエンデュミオンになってしまう。


 けれど。このまま皆の中に記憶を残して……自分という存在がいたことを残し続けたとして。

 誰が幸せになるというのだろう。俺の様子がおかしいことに気づいていたのに俺を止めることが出来なかったと、きっと静香や両親達は自分のことを責めるだろう。俺という存在は触れられたくない傷として残るに違いない。

 そして俺もまた、永遠に苦しみ続けることになるだろう。何百年、何千年生きてもきっと俺はあの女のことを愛さない。愛そうとも思わないだろう。


 『牧田俊樹』にしがみつき続ける為に、静香達の人生、幸福を奪っていいのだろうか。いいや、良く無い。

 笑っていて欲しい。特に、静香には。大切な――魂の片割れには。

 俺のことなんかで後悔して欲しくない。泣いて欲しくない。笑って欲しい、笑顔でいて欲しい。

 それに俺と彼女が『無関係』になれば、あの女だって彼女に危害を加えるような真似はしないだろう。きっとこれで彼女は守られる。人間として、今までと変わらない『日常』を送り続けることが出来る。


 それならば。

 涙が溢れてきた。ぼろぼろと落ちてきた雫が手の甲を濡らす。目頭が熱い、目が痛む。苦しい、苦しい、とても苦しい。それでも俺は言わなければいけない。


「お願いだ……俺の、俺のことを、皆……忘れてしまうよう、に、してくれ……誰も悲しまないように、して欲しい……それが……皆に、静香にしてやれる、最後の……」

 涙は溢れるように出るのに、言葉は口から思ったように出てこない。何度もつっかかり、呻きながら、時間をかけてようやく全てを吐き出した。

 出雲は笑っていなかった。かといって俺を哀れんでいる様子も無い。ただ、俺を見ているだけだった。感情、思い、その顔には何も無い。


「分かったよ。星條にもちゃんと私から話そう。彼女は喜んでこの提案に同意するだろう。私からのお話はこれで終わり。もう、帰っていいよ」

 言われた通り、俺はのそのそ立ち上がり部屋を出た。


 その夜、部屋にあったアルバムを見た。この思い出が全て消えていくのかと思うと胸が苦しくなり、また涙が溢れてきた。

 両親に、何があったのかと問い詰められた。けれど俺は答えなかった。

 答えたところで、何が変わるわけでもない。それにもう少しすれば二人は俺のことを忘れてしまう。意味なんて、無い。


 親の問いかけに無言で答え続けてから、洗面台へ行った。そこにあったカミソリで指を少し切った。焼けるような、鋭い痛みが走る。そこから赤い血が出た。……が、あっという間に痛みは消え、傷口も綺麗さっぱり無くなった。どこから血が出ていたのか分からない位、綺麗に。一瞬のことだった。


 ああ、自分は矢張り化け物なのだと思った。

 その事実を驚くほどすっきり飲み込んで……そしたらとても楽になった。


 もう人間として無理に生きる必要は無い。皆の視線を気にすることも無い。化け物は化け物として、自分が思った通りに動けばいいのだ。


 学校へ行くのも、何の苦でもなくなっていた。視線も声も周りの風景も何も感じず、聞こえず、見えない。揺れなくなった心。悲しい、苦しい、憎らしい……そういうありとあらゆる感情も、どこか遠くへと行ってしまった。

 考えるから、思うから苦しいのだ。何も持たなければ苦しくも気持ち悪くもならない。どうして今までそのことに気がつかなかったのだろうとさえ思った。


 教室。席に座っている。誰の声もこの耳には届かない。誰かが何か言っている、この声は誰の声だっただろう?それさえ分からない。

 俺はこの世界から切り離されている。皆がいる世界とは隔たれた場所に、いる。そりゃそうだ、俺は人間ではなく化け物なのだから。


 姫野先生に呼び出され、最近様子がおかしいが何かあったのかと問われた。

 彼女は心の底から生徒である俺のことを心配しているのだろう。その気持ちはよく分かる。それでも俺は話さなかった。話しても意味が無いから。


「分かった……無理には聞かない。だが話したくなったらいつでも話せ。篠宮も友人達も、皆お前のことを心配している。あたしもだ」

 自分の無力さを噛み締めるような表情を浮かべながら、先生は去っていった。

 ごめんなさい、心の中でそう呟いた。


 何の中身もない、空虚でつまらない毎日を送った。後少しでこの世界とも、この生活ともお別れになるのに。今までのように笑い、はしゃぎ、ふざけ、そして静香と共に穏やかな時間を過ごす気にはならなかった。それにきっとそんなことをしたら――未練が、きっと。やっぱりここにいたい、忘れて欲しくないときっと思ってしまう。だから何もしない。

 授業をさぼったり、学校を早退したりした。授業を受ける必要も、学校に何時間もいる必要も無いのだから。


 女はすっかり大人しくなった俺を見て満足しているようだった。共に過ごせる時間が増えたことで今まで以上にご機嫌だった。

 俺はあの女に愛の言葉を囁いた。あの女が望むことはなんでもしてやった。

 化け物としての人生を支えるのは、この女なのだ。俺はこの女に見捨てられたら何の支えも無く生きなくてはならなくなる。この女に捨てられたところで、こちらの世界に戻れるわけでもないし。

 だから俺は、あの女が望む俺になってやった。


 けれど「エンデュミオン」という名を心の底から受け入れるつもりはない。

 それを受け入れれば、完全に俺は『牧田俊樹』を失う。それは嫌だった。往生際が悪い奴だと自分でも思う。それでも。


 そしてとうとう『別れの日』がやってきた。

 俺は女に明日あの世界に別れを告げると言った。女はやっとこの日が来たと手を叩いて喜んだ。


 最後の学校。最後の教室、最後の授業。

 これがもう最後なんだ、二度とここを訪れることは無いんだと思うと抑えていた感情が少しだけ表に出る。たまらず授業をさぼり、保健室へと逃げた。


 明日の今頃、自分はどうしているのだろうと思った。皆のことを、静香のことを忘れ、あの女と笑い合いながら仮初の幸福な時間を過ごしているのだろうか。そして静香達もまた俺のことなど忘れ、いつもと変わらない毎日を送っているのだろうか。明日はそういえば土曜日だ。静香は友人と遊ぶのだろうか。俺のことを忘れて。

 駄目だ、思ってはいけない。思えば後悔する。数日前と同じように醜く足掻きたくなる。駄目だ、考えてはいけない。


 時間は過ぎていく。あっという間に。

 自分が化け物であることを再認識しなければいけない。そうしなければ封じ込めた思いが溢れ出てしまう。


 そっと保健室を抜け出し、体育館近くにある水道を目指した。コンクリートで出来た細長い流し台に五つ程くっついている蛇口。

 水をそこから出して一口飲んだ。喉を水が通る感覚が全く無かった。潤いも感じなかった。水など今の自分にとっては必要の無いもの。ありがたみも何にも感じない。


 ポケットに入れていたカッターを取り出す。鋭い刃。何の脅威にもならない、もの。それをただ意味もなく出し入れする。


「牧田君!」

 誰かの叫び声が聞こえた気がして、ゆっくりと振り返る。ぼやけた視界。誰かがいる。……ああ、臼井か。

 臼井は俺が手に持っているものを見て悲鳴をあげたようだった。おかしかった。こんなもの、少しも怖いものじゃないのに。自然と笑みがこぼれた。きっとあの男が浮かべるそれに近いものだっただろう。


「牧田君、それ……何をする気なの?」

 

「これ……? ああ、心配するなよ。そういうの、無理だから。やったところで何の意味も無い。これで首とか切ってもさ……手首を裂いても、意味は無いんだ」

 何の意味も無い。自嘲的な笑み。どうしようもない運命に対する、諦めの感情。


「俺は、化け物なんだ」

 臼井の目が大きく見開いた。


「化け物なんだよ」

 妖怪とかがやたら好きらしい女も、俺の発言には流石に驚きを隠せないようだった。ただ何も言わず、俺を見つめていた。

 取り出したカッターで自分の頬を裂く。深くは切っていない。それでも鋭い痛みが頬を襲った。臼井が悲鳴をあげる。誰だって驚くだろう。けれど切り裂いた本人は何にも感じていない。恐怖も、何も。


「大丈夫だよ。こんなの」

 水で血を洗い流す。すでに傷は消えていた。水で濡らしても少しも痛みを感じない。ああやっぱり俺は化け物だ。

 呆然と立ち尽くしている臼井に近寄り、顔を近づける。彼女は恐る恐る手を伸ばし、頬に触れた。彼女の手が焼けるように熱く感じられた。


「臼井。お前最近静香とよく話しているよな。……俺のこと、話しているんだろう」

 ごくりと彼女が唾を飲み込む音が聞こえる。肯定もしなかったが、否定もしない。やっぱり、そうなのか。


「あいつが心配してくれていることを、とても苦しんでいることを俺は知っている。分かっている。本当は俺のこと、問い詰めてやりたいと思っているだろう。でもあいつはそうしない。俺達昔からそうだった。辛いことがあるんだろうな、悩みがあるんだろうなと思いながらも、無理に聞くことはしないんだ。ただ、傍に居て、寄り添っているだけで。相手が自分に話してくれるのを、ずっと待っている。それが正しいことなのか、間違っていることなのか……人によってはそんなのおかしいと言うかもしれないけれど。でも、俺達にとってはそれこそが正解だった」

 彼女のことを思い出す。少しだけ心が温かくなった。けれどすぐそれを押さえ込んだ。駄目だ、その気持ちは忘れなければいけない。

 馬鹿みたいに俺は臼井に自分の思いを話した。話せば話す程体が熱くなっていく。無くした体温が戻ってくる。


 いつも一緒だった二人。そこにいるのが、隣で笑っているのが当たり前だったはずの存在。これからも死ぬまでずっと一緒にいるのだと、思っていた。

 こんなことなるなんて思いもしなかった。離れ離れになって、お互いのことを忘れてしまう日が来るなんてこと。


 嫌だ、嫌だ、嫌だ。臼井の姿が消える、目の前であの女が笑っている。

 エンデュミオン、と囁いている。


「俺は化け物になった。もうあいつとは違う……でも、それでも俺は牧田俊樹だ。俺はこんな風になりたくなんてなかった、俺はずっと俺のままでいたかった……けれど今はもう……でも、違う、俺は違う。何度も言っているだろう……俺は違う、違う……俺はエンデュミオンなんかじゃない!」

 叫んだ。

 抑えていたものが溢れ出た。吐き出し終わるとまた体温が消えていき、心も冷めていく。

 馬鹿馬鹿しい。憎んだって何の意味も無いのに。


「はは、あんたに話したからってどうなるわけでもないのに……話したって意味は無いんだ。どれだけ話しても、意味が……」


 意味が無いことをしたってしょうがない。もうやめよう。

 そう思った途端、臼井の姿がまたぼやけた。俺はモザイクがかかったようにぼやけて曖昧になった彼女に背を向け、保健室に戻る。


 この世界での最後の時間を、保健室で過ごした。静香の顔を最後に見たいと思ったが、やめておいた。

 目を閉じる。思い出の中の彼女が笑っている。十分だ、それでもう、十分だ。

 その笑顔ももう少しで俺の頭の中から消える。悲しい、苦しい。でも、良い。


 彼女には幸せになってもらいたい。


 最後に、友人達当てにメールを送った。

 記憶が消えた後はそのメールの文章すら認識されなくなるようだが……それでも良かった。自己満足でも何でも良い。自分がここに居た証を残しておきたかった。俺がエンデュミオンではなく、牧田俊樹であるという事実を、この世界に。

 静香にだけは皆とは違う文章を送った。本当はもっと書きたかったのに、言葉が出てこなかった。携帯を前にすると手が止まる。何を書けばいいのだろう、言いたいことが多すぎて逆に書けない。

 結局短くて素っ気ない文章しか作れなかった。

 最後まで情けない男だ、と苦笑いする。


 さようなら。


 保健室の先生に「今日は家に帰る」と告げ、部屋を出る。二年もいなかった学校だけれど、一生来られないと思うと矢張り寂しい。全て忘れればそんな思いも消えるのだろう……。


 桜町に、この世界に静かに別れを告げて通しの鬼灯片手にあの男のいる館を目指した。


 そして、今に至る。あの女と出会ってからまだ約一週間しか経っていないのか、と思う。人間として生きてきた日々を懐かしく感じる。あれは数十年前のことではなかっただろうか、とさえ思った。

 あの女は今、外にいる。彼女と対峙しているのはあの臼井と、同じクラスだった井上一夜の妹であるらしい。臼井は知っていたのだ、この世界のことを。

 俺がこちらの世界と関わっているかもしれないということにも、薄々気がついていたのだろう。


 男はカーテンを閉めた窓を見つめていた。きっとその向こう側には臼井達がいて、あの女と話をしているのだろう。


「気づいたからって何が出来るわけでもないのにね。それが分かっているくせに、こうして私の所へやってくる。そしてこちらの世界との縁がますます深まっていく。彼女達自身が、こちらとあちらを繋ぐ『道』になっていくんだ」


「どうせあんたがそうなるように仕組んだんだろう」


「まさか。彼女達の方から手を差し伸べてきたんだ。私は差し伸べられた手を握り返しただけだよ」


「どうだか」


「つれないねえ。もう少し信じてくれてもいいじゃないか」

 あんたのことなんて信じられるか。心の中で言ってやった。

 俺がどう思っているのかなどすっかりお見通しであろう男は何も言わず、ただふふっと楽しそうな笑い声をあげる。


「君みたいに望んでいないのに巻き込まれる人間もいれば、彼女達のように進んで巻き込まれる人もいる。面白いよね、世界っていうのは」


「面白い……」

 そんな感情、今の俺には無い。どこか遠くへ行ってしまった。きっとこれからも……心の底から楽しむことなど無いのだろう。


「……時間を戻すことは出来ない。時を遡って過去にやったこと、過去に起きたことを変えたり抹消したりすることは出来ない」

 男が話し始めた。独り言のような、そうでないような――微妙な大きさの声で。


「星條との出会いをやり直すことは出来ない。あの時逃げていればとどれだけ思っても、それはもう叶わない」

 男が振り返る。初めて見る、優しげな笑みを浮かべて。


「けれどね、哀れな少年。君が牧田俊樹として生きてきた時間もまた……消すことは出来ないんだ。例え皆が君のことを忘れてしまっても、君が牧田俊樹として生きた日々を忘れてしまっても。君があの世界で確かに生きていたという事実は消えない。誰にもその事実を消したり変えたりすることは出来ないんだ」


 かっと体が熱くなった。忘れていた、いや、忘れようとしていた何かが蘇る。


「それが、それだけが救いだよ。……忘れることと消えることは同義じゃない。『牧田俊樹』を、牧田俊樹として生きた人生を奪うことは誰にも出来ない。星條にも、私にもね」


 気づけば頬を暖かいものが伝っていた。


「そう思いながら最後の時を迎えるといい。まあ気休めでしかないけれど」


 そうだ。この男の言う通りだ。忘れることと消えることは同じじゃない。

 似ているけれど、限りなく似ているけれど、違うのだ。

 

「さあ、もうそろそろ始まるよ。心の準備はいいかい?」


 目を瞑る。溢れる思い出。


 運動会、修学旅行、遠足、文化祭、合唱コンクール。

 山に登って見た桜の花、蝉の声。二人で見た花火、金色の向日葵。

 夕焼けを映したような真っ赤な紅葉、熱いねと言いながら頬張った焼き芋。

 クリスマス、雪、静香から貰ったマフラー。家族で食べた年越し蕎麦、お年玉、皆から届いた年賀状。


 家族、友達……そして、静香。

 小さい頃からずっと一緒に遊んでいた。時に喧嘩して彼女を泣かせたこともあった。俺は謝るのが苦手で、何日も口をきかなくて……でも結局参ってしまって、不器用ながら謝った。

 いつの間にか一緒にいることが当たり前になっていた。彼女が何を考えているのか何となく分かって、彼女が心地良いと思う距離感とかも分かるようになって……それは彼女も同じで。

 告白とおよそ呼ぶことは出来ないようなものをして、それで。


 いつも、一緒だった。ああ本当に、いつも、いつも。

 二人で手を繋いで空を見た。その空に自分達の未来を見た。きっと彼女も同じものを見ていたのだと思う。


 暖かいものが、体中を流れる。失ったはずの体温が戻った気がする。

 彼女や皆と過ごした日々……その日々が消えることは無いんだ。

 

「静香……ごめん。さようなら」


 笑っていて欲しい。幸せになって欲しい。隣に俺はいなくていい。

 俺のせいで随分辛い思いをさせてしまった。……でももう大丈夫だから。


「渡さない」

 彼女への想い、彼女からの想い。

 沢山の思い出。忘れたって離すものか。誰にも渡さない。


 星條。一緒に生きたいとあんたが言うなら、一緒に生きてやる。恋人として、エンデュミオンとして、あんたが望む俺になってやる。

 俺の体も心もくれてやる。


 けれど『牧田俊樹』は絶対に渡さない。静香や友人達を想う気持ち、彼等と過ごした日々の思い出は、絶対に。


「絶対に渡さない」

 口に出して、そう言った。目の前に居る男は楽しそうに笑っている。


「きっと彼女は気がつかないだろうよ。……欲しいものを手に入れる為に必要なのは、力だ。力があれば色々なものを手に入れられる。けれど、手に入れられないものだってあるんだ。可哀想に。そのことを知らないまま、彼女は生きていくんだ」

 俺の味方でも、あの女の味方でもない男。

 この男はいつだって自分の味方なのだ。彼は俺を救う為にあの言葉を吐いたわけじゃない。その言葉を聞いて大切なことに気がついた俺と生きる彼女を可哀想にと笑いたいから、言ったのだ。


 何でもいい、それでも良い。


「静香」

 最後に、一言。

 頭がぼうっとして、立っていられなくなる。

 どさっという音を聞いた気がした。多分、俺が倒れた音。


 目を、覚ました。なんだか頭がぼうっとしている。俺は……。

 美しい女が目の前に立っていた。女は俺の方へ手を差し伸べる。


「行きましょう。我が愛しのエンデュミオン」

 ああ、そうだ。俺の名前は確かそんな名前だった。何で自分の名前を忘れていたのだろう。

 差し伸べられた手を、とる。体が熱くなる。


 俺はエンデュミオン。そしてこの女は俺の……確か……。

 何かが引っかかった。何だろう、この違和感は。しかしその奇妙な違和感は瞬時に消え失せた。多分、気のせいだろう。


 俺は彼女と共に館を出た。長い髪の男が笑みを浮かべながらこちらに手を振っている。彼の名前は何と言っただろう。覚えていない。まだ頭がぼうっとしている。


「行ってらっしゃい。さようなら」

 そう言った後、更に口を動かした。声は発していない。だから彼が何と言おうとしたのか、分からない。

 どうでもいい、そんなことは。


 空には綺麗な月が浮かんでいる。


「行こうか」


「ええ、行きましょう」


 月に抱かれながら、足を踏み出した。

 前へ、前へ。


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