表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
桜町幻想奇譚  作者: 里芽
我が愛しのエンデュミオン
65/360

そして羊飼いは月に抱かれて消える(5)

「ガキンチョ共、恐怖の不審者情報が入ってきたぞ」

 そのことを告げたのはクラス担任である姫野先生だった。にやりと笑いながら教卓に手をつく彼女の姿はとても教師のそれには見えない。

 不審者。普段ならその単語を聞いた時「物騒だな」とか「変態気持ち悪いな」とか色々思っただろう。けれど今はそんな話を聞いても何も思わなかった。

 そこらにいる不審者よりも物騒な人間につきまとわれているからだ。不審者なんて可愛いものだ、そんなことさえ考えてしまう。


 心底どうでもいい話としてそのまま聞き流してしまおうと思ったのだが。


「それが違うんだなあ。その不審者っていうのはむさ苦しいおっさんでも、強面の兄ちゃんでもなく――若い女だったらしい」

 男子の下らない質問に律儀に答えた姫野先生のその言葉を聞いた時、頭の中が氷をぎっしり詰められたような状態になった。若い女……その単語に不吉なものを感じたのだ。

 姫野先生は生徒といつものように漫才のような掛け合いをした後、その不審者女についての詳細を語りだす。彼女の口から出てくる言葉一つ一つが頭を、胸をきつく締めつけた。


「――私の愛する人を恋人にしていた幸福な女性はどういう人なの、とか私の――何か外国人っぽい名前だったらしいが――はどんな人なのか教えてとか、よく分からないことをしつこく聞いてきたらしい――」

 まさか。そんな。

 情報をまとめたプリントが配られる。それを受け取る手の震えが止まらない。


 不審者である女は見た目二十代後半位、細身で背丈は普通。髪の毛は長く、お嬢様っぽいおしとやかな雰囲気。あの女と一致する。着ていた服の情報も簡潔に載っていた。その情報もぴったりと合っている。

 朝のSHRが終わり、皆一時間目の授業の準備を始めた。といっても授業はこの教室で行われるものだったから、準備などあってないようなものだったが。


 プリントを凝視する。間違いない、ここに書かれている不審者女というのはあの女のことだ。じっと見ている内に、紙に印刷されている文字があの女に姿を変えていく。紙の上にいる女は笑っていた。

 ぐちゃぐちゃに紙を丸め、机の中につっこむ。


 あの女は学校まで侵そうとしている。今は俺との関係を知っている者はいないだろうからいいが、このままではいずればれてしまうかもしれない。そうなれば当然静香にも彼女との関係を知られてしまうだろう。静香を傷つけたくはない。あの女に強く言い聞かせなければいけない。素直に俺の言うことを聞いてくれるか怪しいが……。


 頭の中はあの女のことで満たされている。まるで臭くて汚くてどろどろしているヘドロを詰め込まれたかのような気分。重いし、気持ち悪い。

 そのヘドロは『日常』の象徴である家や学校にも少しずつ流れてきている。

 あの女の存在が、家や学校に居る人達を少しずつ飲み込んでいるのだ。


また激しい感情に体を揺さぶられ、授業中ノートにあの女に対する呪いの言葉を書き連ねる。シャープペンの芯が何度も折れ、ノートに小さな穴が幾つか出来た。

休憩時間中、誰かが俺に話しかけていた。誰が何を言っているのかその時の俺には分からなかった。ただ、曖昧な返事をし、無理矢理笑みを作ることしか出来ない。そうしている間も、女の笑い声が絶えず聞こえてきた。


 逃げ出したい。そう思っているくせに、月片を口に入れることをやめられなかった。昼休み、また静香を先に行かせて腹が立つ程綺麗なそれを噛み砕く。

 弁当を食べてからにすればいい、いやそもそも食べる必要がない。頭ではそう思っていた。けれど体が勝手に……。

 ベンチに座っている静香はうなだれていた。ちらっと見える瞳は少し潤んでいるようだった。隣に座った俺の存在にも少しの間気がつかなかった。


「あ、ああ俊樹来ていたのね。ごめんね……ちょっとぼうっとしていて」


「大丈夫だよ。今日のお弁当は、何?」


「ふふ、今日はものすごく頑張っちゃったの。ウケるといいんだけれど」


「ウケる?」

 何だろう。静香に渡された弁当箱を開く。

 見ればごはんやおかずで出来た、子供にも大人にも人気のアニメキャラクターがこちらを見て笑っていた。いわゆるキャラ弁というやつだ。これがまたよく出来ていて、キャラクターの特徴をよくつかんでいる。


「うわ、これすげえ」

 素直な感想を漏らし、思わず声をだして笑った。しかしどうにも上手く笑えない。顔の筋肉がすっかり強張っているようだった。

 静香はそんな俺の顔を見て微笑む。けれど矢張りその表情もどこかぎこちない。


「パソコンでレシピを見てね、面白そうだなと思って作ってみたの。とっても大変だったんだから。少なくとも学校がある日はもうやりたくないわね」


「残念。いや、でもこれ本当よく出来ているよ。食べるのが勿体無いくらい。携帯、携帯」

 携帯についているカメラで撮ってやろう、と思った。そう言えば昨日は静香の拗ねた顔をこれで撮ってやりたいとか思ったっけ。ああ、これが日常の姿。 今まで日常がどうとかこうとか、意識したことは無かったのに……。


「失ったり、壊れそうになったりすると意識するようになるんだな……こういうのって」


「何か言った?」


「あ、ううん。何にも」

 声に出していたのか。慌てて首を振る。

 口に出した通り携帯カメラで静香作キャラ弁当を撮り、それから何か惜しいなあと思いながら、食べる。腹が減っていない上に月片を食べたばかりだったから、味が分からなかった。箸を動かし、口に入れ、飲み込む作業を淡々と繰り返す。まるでロボットのように。


 ご飯やおかずを少し口に入れ飲み込んでは、喋る静香。彼女はここ数日間で普段の数か月分喋っているような気がする。そうさせているのは自分だ。

 静香が喋っている、助けを求めている。助けなければいけない、せめて話だけでもきちんと聞いていなければいけない、そう思っているのに彼女の喋っている内容が全く頭に入ってこない。


「……それにしても、女の変質者なんて珍しいわよね」

 そのくせ、あの女に関する話題だけはきちんと聞こえた。静香があの女のことを口にしている……多分今俺は変な顔をしているだろう。それはいけない。


「それとも、そんなに珍しくもないのかな? 一体どんな人なのかしら……大分危ない人みたいだけれど。俊樹はどう思う?」

 口は笑っていたが、目は笑っていなかった。まさか静香はおれとその不審者女が知り合いであることに気がついているのだろうか。いや、そんなはずは。

 兎に角話題を逸らさなければいけない、そう思った。


「そんな危ない奴の話なんてやめようぜ。もっと楽しい話をしようよ。ほら、文化祭のこととかさ。今年の出し物も決まったし……ものすごく楽しみだよな」

 実際は楽しみでもなんでもなかった。数日前まではとても楽しみだったのに。

 俺の答えを聞いた静香の顔に微かに絶望、あるいは失望という文字が浮かび上がった。


「そうだね、楽しみだね……」

 その後静香は黙ってしまい、結局教室に戻るまで一言も喋らなかった。


 気がつけばもう放課後になっていて、帰りのSHRも終わっていた。自分は今日ここで何をしただろうか?勉強したこと、クラスの様子、友人が話していたこと、どんな風に決められた場所の掃除をしたか……何一つ思い出せなかった。

 吐き気をこらえながら静香に「今日も一人で帰って欲しい」と告げる。彼女は理由を聞くことも、責めることもせず、ただ「分かった。気をつけて帰ってね」とだけ言ってくれた。


 帰り際、中庭に足を運ぶ。そこには静香と臼井、二人の姿があった。きっと今日も俺のことについて話しているのだろう。あそこは放課後、あまり人が通らない。胸に秘めている思いをぶちまけるには絶好の場所だろう。

 今日も少しだけ部活に参加した。適当なところで切り上げ、部室から出た。

 下駄箱で丁度静香と会った。俺と同じく半帰宅部状態のところに所属している彼女もまたこれから帰ろうとしていたらしい(普段は事前に帰る時間を決め、下駄箱近くで合流して帰っていた)。


「一緒には……帰れない?」


「あ、うん。あの……用事あるから。ちょっと時間がかかるものだし……」


「そう。ごめん。また明日ね」

 泣きそうな声でそう告げて、静香は笑った。俺も泣きたくなった。

 彼女に背を向け、足早に去る自分は本当に情けない人間だ。


 暗く細い路地を通り抜けていく。段々気分が重くなり、ため息が増えていった。周りの音は何も聞こえない。何気なく上を見ると、建物によって切り取られた空がそこにはあった。ああ、空はとても遠いなあと訳の分からないことを思った。


 暗い道を抜けた先もまた暗く、光といえばぽつんと建っている店の中を照らす灯りと、俺を待っていた女の体が発しているもの位。女は俺の姿を認めると顔を輝かせ、勢いよく飛びついてきた。ひんやりとした女の肌が俺から体温を奪う。髪から漂う甘い匂いのせいで胸やけがし、思わず呻き声をあげた。


「エンデュミオン、今日も遅かったわね。貴方を待っている時、とても胸が苦しかったわ。貴方が傍にいないと私、どうにかなってしまいそうになるの。ああでも今は大丈夫。貴方が目の前に現われた途端、苦しみも切なさも全て吹き飛んでしまったわ」


「ふうん」

 女はまたぺらぺらと喋り始めた。こうなるとなかなか止まらない。喋っている内容は全く分からなかったが、とりあえず相槌をうっておく。

 延々と続く雑音。このまま放っておくとここでずっと喚いていそうだったから、途中で話を無理矢理切った。


「それより、早く行こう。こんなところにいたって仕方ないだろう」


「そうね。ねえエンデュミオン、私この世界のこと色々調べたのよ。出雲の家には沢山本があるの。この世界に関して書かれた本もあったわ。……でも読むのはなかなか難しかったわ。正直殆ど読めなかった。漢字というものは何となく読めるのだけれど……カタカナというものは全然駄目。あんな文字見たことなかったし……出雲もその辺りはあまり読めないらしいし」


「そんなことはどうでもいいよ」


「だから本を持ってきたの。エンデュミオンなら絶対読めるだろうから……気になるところには印をつけて……ねえ、この中で行けそうな所はある?」

 どうでもいい、という俺の話など全く聞いていない彼女は本を開き、印がついている箇所を指差した。

 それを見るにどうもこの女はゲームセンターや映画館、カラオケ店やボウリング場に興味があるらしい。ようは娯楽施設だ。


「一応行けるよ、殆どの場所には」


「まあ、本当!? 嬉しいわ。それじゃあ今日はこの印がついているところに連れて行って。今日行けなかったところは明日行きましょう」

 女はまた俺の腕に抱きつこうとする。


「だから俺はそういうの、嫌なんだ」

 冷たく振り払い、さっさと歩き出した。俺も静香も辛い思いをしているのに、この女だけは楽しそうに笑っている。そのことがどうしても許せない。

 罵詈雑言を頭の中で巡らせていた俺は、女があの場で立ち止まっていたことに気がついていなかった。

 店の前から動かなかった女がそこで何をしていたのか……その時の俺は全く知らなかった。


 そういえばさっきからあの女の声が聞こえないような?聞こえない方が嬉しいのだが、聞こえなかったら聞こえなかったで不安になる。おそるおそる振り返ってみたら、数十メートル先に女はいた。長いスカートをふわふわなびかせながら近づいてくる彼女は無邪気な笑みを浮かべていた。


「ごめんなさい、少し余所見をしていて」


「別に。……それと昨日も言ったけれど、目的地に着くまでは」

 言葉の続きをさえぎるように、女が口元を耳に寄せる。


「他人のフリをしていればよいのでしょう? 分かったわ。貴方の頼み、断るわけにはいかないもの」

 よく言う。俺の願いや訴えを笑いながら蹴飛ばし続けたくせに。

 数駅先の街に着くまでは、他人のフリをした。知り合いに見つかりませんように、あの女といるところを見られませんように、静香にばれませんようにと必死にお願いしながら電車に揺られる。

 実際はすでに静香には俺とこの女の関係を知られていたのだが……。


 横目で女の顔をちらっと見る。笑いながら聞き馴染みのない歌を歌っていた。

 この女と電車に乗ってどこかへ行くのが日課になりつつある。一緒にいるのが当たり前になってきている。そして当たり前だったことが段々当たり前ではなくなってきている……。


 当たり前だったことや自分が信じてきた常識が崩れ落ちていく。崩れたそれらは取り払われ、そこに新たな常識や日常が築きあげられて、俺は今度は新しく出来たそれの中で暮らすようになる。最初は居心地が悪く心落ち着かないだろうがいずれは慣れ、以前住んでいた場所を懐かしく思うように……或いは忘れてしまうのかもしれない。

 嫌だ。そんなのは絶対に嫌だ。今の俺は崩れ落ち、撤去されようとしているそれらを抱えられるだけ抱えてその場に居座っている。抱え込んでいるそれがこの場から消えれば、すぐにでも新たな常識や日常という名の家が建てられてしまう。


 崩れ落ちたものをそっくりそのまま再生することは出来るのだろうか。俺は新しい家に住みたくない。今まであったあの家でのんびり暮らしていたいのだ。


 街中を歩いている途中昨日出没した不審者女のことを思い出し、女にそのことを聞いてみた。女の答えは予想通りのものだった。


「そうよ。だって貴方のことをもっと知りたかったんですもの。愛しい人のことを知りたいと思うのは当然のことでしょう? でも結局何も分からなかったわ」

 当たり前だ。俺の名前はエンデュミオンなどではないのだから。まあちゃんとした名前を出していたとしても、具体的な情報を得ることは出来なかっただろうが。


「兎に角、学校の周りをうろうろするのはやめてくれ。家の周りとかもだ」


「そうして欲しい?」


「ああ」


「分かったわ。そうしてあげる」

 その答えを聞いてほんの少しだけ安心した俺はまた無言になった。女はその後もぺらぺら喋っていた。


 後少しで帰れる、後少しで女と別れられる……そう自分に言い聞かせながら、女と街中を散策する。わくわくとした気分にはならない。ただもういらいらした。

 それでもこの時はまだ抵抗したり拒絶したりする余裕がほんの少し残っていただけましだった。怒り、憎み、拒絶する……その行為が俺を守ってくれていたし、人間のままでいさせてくれていた。


 あの女と桜町で別れるまでは、まだ大丈夫だったのだ。


 町に着いた頃にはもうすっかり外は真っ暗になっていて、気味が悪い位しいんとしていた。微かに吹く風は少しだけ冷たい。小さな駅を照らす電灯はぶんぶんと不吉な音を立てていた。大きな蛾がその周りをくるくる飛んでいる。

 本当はもっと早く帰るつもりだったのに。あまり遅くまで外をうろうろしていると面倒なことになるから帰りたいと俺はあいつにちゃんと言ったのに。


「ああ、とても楽しかった。今日は今までで一番楽しいデートだったわ。エンデュミオンもそう思うでしょう?」


「まあな」

 お望みの言葉を口にしてやる。女は「当然」と言いたげな笑みを浮かべた。

 俺の言葉に隠された本当の気持ちを汲み取る気はさらさらないらしい。


「それじゃあ、俺はもう帰る。あまり親に心配をかけたくない」


「そんなこと気にしなくてもいいじゃない。近い未来赤の他人になる人達じゃない。私と貴方が幸せならそれでいいと思うけれど」

 赤の他人になる。その言葉に戦慄を覚えつつ、反論する。


「あんたにとってはそうかもしれないけれど、俺にとってはそうじゃない」


「もう貴方は彼らとは『違う』存在なのよ。そんな人達のことを気にしたって仕方がないと思うわ」


「俺は人間だ」


「違うわ。もう貴方は人間では無い。……私には分かるわ」


「違う! 俺は人間だ、あんたとは『違う』んだ!」

 必死に否定する。肯定したら負けだ。唸り、睨む俺を見て女は肩をすくめほぅと小さな息を吐いた。

 そして艶やかで冷たい……氷の微笑を浮かべた。その笑みは人間には決して真似できないようなものであった。


「違わないわ。……ふふ、エンデュミオン、大分肌が白くなってきたわね」


「な……何を」

 女の言っている意味が最初、理解出来なかった。脳がぐわんぐわんと揺れる。

 そういえば。昨日洗面台についていた鏡を見た時違和感をおぼえて……。あの時は気のせいという結論をだし、早々にそのことは忘れたのだが。

 慌てて腕を見る。言われて見れば確かに少し白くなっているような……。


「体温も大分冷たくなってきているわ。思った以上に早く変わるものなのね。今度試しに手を少し切ってみたらどうかしら。きっとすぐに傷口が塞がって、きれいさっぱりなくなると思うわ」


「そんな」


「今日も貴方に月片をあげるわ。ちゃんと食べてね? 私のことを愛しているのなら、食べるわよね絶対。ねえ?」

 女の笑顔が、怖い。逃げなければ。心が折れてしまう前にこの場を去らなくてはいけない。くすくすという笑い声をあげる女に背を向け、石のように硬くなっている体に鞭打ち、走り出す。


 どれだけ離れても、家に入っても、女の笑い声が消えることは無かった。


 帰宅後は夕食も食べず(親には外で食ってきたと言った。随分帰りが遅かったねと言われたが適当にごまかした)風呂場に直行した。手を見る、矢張り少し白くなっている気がする、風呂のお湯がいつもより熱い気がする……心臓が暴れ、痛む。

 風呂から出て、試しに体温計で体温を測ってみた。画面に映し出されたのは見たことがない数値だった。はかり間違いだと思い、同じことももう一度やる。矢張り結果は同じだった。


「嘘だ、こんなの嘘だ……」

 枕を壁に叩きつける。


「こんなの、嘘だ、あり得ない!」

 机の上に置いてあったペンや教科書等を手で払い落としたり、机に叩きつけたりした。ここ数日間で部屋にあったものの多くがぼろぼろになった。


「認めるもんか、絶対に認めるもんか、俺は……」

 あいつらとは違う。俺は化け物なんかじゃない。しかし自分の口から出てきた声には絶望という文字以外含まれていなかった。

 

 気づかなかった事実、気がつこうとしなかった事実を目の前に突きつけられ、精神がぼろぼろと崩れていくのが自分でもよく分かる。

 もう……もう、駄目だ。言い逃れなど出来るはずがない。


 俺はこのまま化け物になってしまうのだ。人が決して口にしてはいけないものを食べてしまったが為に。化け物に愛されてしまった為に。


 次の日、また洗面台の鏡を見た。昨日よりその肌は白くなっている。親にその姿を見られたくなかったから、朝食も食べずに家を飛び出した。静香にはメールで一緒に学校へ行けないことを告げていたから、家の前には誰もいない。

 彼女には絶対に気づかれたくなかった。距離を置けば俺の変化に気が付かないかもしれない。そんな虫の良いことを考えて。

 一緒に登校することが当たり前だったのに。彼女がいないその場所には毛づくろいをしている猫がいた。心にぽっかりと穴が空いた気持ちになり、小さな呻き声をあげる。


 体の変化に気が付いた途端、行き交う人達の視線が怖くなった。周りの人達の目に自分がどう映っているのか気になるようになったのだ。人に触れたくも無い。体温の低さがばれてしまうから。

 校舎の中に入るとその度合いはますます酷くなっていき、教室に入り席についた頃には意識が遠のく位苦しくなっていた。自分が思う程周りはこちらの方なんて見てはいない、そう思い込もうとしても無理だった。


 友人達の会話も、先生の声も耳に届かない。それでも視線だけは強く感じていた。それが気のせいなのか、現実なのか今の俺には分からなかった。

 気を紛らわせようとノートに色々なことを書いた。呪いの言葉、心の叫び、意味を成していない文字の羅列……。書いて、書いて、書いて、そして少ししてからそのページを見返す。吐き気がして、慌ててその部分を引きちぎり、びりびりに破ってゴミ箱に捨てる。

 『日常』が地獄へと変わっていく。女と一緒に居る時よりも辛いとさえ思った。皆の視線が、存在が今はとてつもなく怖い。目を背け続けていればこんな苦しい思いをしなくてもすんだのに。


 そんな俺を嘲笑うかのように、頭の中で女の笑い声が響く。その声を遮断しようと、机を思いっきり叩いた。一斉に視線が集まったのを感じ、慌てて俯く。

 あまり苦しかったから、とうとう三時間目の授業をさぼり、保健室へ逃げ込んだ。カーテンで覆われたベッドに横たわったら少しだけ落ち着いた。昼休み中もずっとそこでそうしていた。静香は今頃一人で弁当を食べているのだろう。

 それを思うと、胸が苦しくなる。


 頑張って五時間目の授業には顔を出し、恐怖に身を震わせながら残りの時間を過ごした。そして帰りのSHRが終わるのと同時にロケットのように学校を出て行った。人の視線を少しでも感じないようにする為、全速力で走り、女のいるあの場所を目指す。50メートルを走るペースで足を動かしているのに、殆ど疲れない。その事実がまた俺の心を打ちのめす。

 誰の視線も届かない暗く狭い道を進む。嫌で仕方なかった道が何だか心地良いものに思えてきた。


 道を抜けた先にある店。その前にあの女が……いなかった。

 代わりに居たのは、山伏みたいな格好をした俺より少し年下っぽい男が二人。

 その背には黒い翼が生えていて、バックにあるランプの灯りを受け不吉な輝きを放っている。

 少年の一人――赤い勾玉のついた首飾りをしている――が口を開いた。


「待っていたよ。さあ、出雲の旦那のところまで行こう」


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ