そして羊飼いは月に抱かれて消える(4)
*
ろくに睡眠もとれないまま、朝が訪れた。しかし不思議と目蓋は重くなく、全く眠くもなかった。だるさも感じない。
まさか食事だけでなく、睡眠も必要としない体になってきて……いや、そんな、考えすぎだ。俺は人間だ、化け物なんかじゃない。
リビングのテーブルにはパンと目玉焼きが置いてある。腹は減っていない。
食べなくても全く問題は無い。けれど食べなければ親に不審がられるだろう(最近朝食を食べない若者が増えているらしいが、俺は毎朝かかさず食べている)。それにこちらの世界の食べ物を口にせず、月片だけを食べ続けるというのは今までの生き方や自分が人間であることを否定し、化け物となってあの恐ろしい世界の住人になることを受け入れる行為となるのだと思った。
認めたくは無い。そうだ、認めちゃいけないんだ。
パンを口に押し込み、牛乳で無理矢理流し込む。腹が空いていないから、そうでもしないと食べられなかったのだ。腹いっぱいの時にそれなりの量を食べるのは誰だって辛いと思う。
何でこんな思いをしなくちゃいけないんだ。朝食を普通に食べることさえ許してくれないなんて。いらいらしながらテーブルをたち、洗面台へ向かう。顔を洗い、歯を磨く。いつも通りにしていれば、認めたくない現実から目を背けることが出来るような気がする。
顔をあげ、鏡を見る。やっぱり変わったところなんてない。大丈夫俺は今まで通り……いや、何かが、違う。どうしてそう思ったのかは分からない。ただ鏡に映る自分の姿が今までとどこか違うような気がしたのだ。大きな変化ではない――小さな何か……。
「いや、気のせいだ。そうに決まっている」
もう一度顔に水をかける。水が下らない考えを洗い流してくれた。改めて鏡を見てみる。やっぱりいつもと同じじゃないか。少しも変わったところなんてない。
自分にそう言い聞かせながら蛇口を閉め、二階へあがる。
家を出る時間が近づくにつれ、心臓がばくばくしてきた。自分は今まで通りに振舞うことが出来るだろうか、怪しまれることはないだろうか、俺とあの女が二人で歩いていたところを見ていた奴はいなかったか――そんな不安が心臓の鼓動を早くする。
大丈夫。今まで通りやればいい、あの女も流石に学校には来ないだろう。俺が愛してやまない平凡ながら幸せな日常。学校にはそれがある。あそこにいる間は大丈夫なはずだ。
いつもよりのろのろと階段を降り、靴も丁寧に履く。
意を決し玄関のドアを開けた。
「……おはよう」
いつものように静香が待っていた。こちらを不安そうな表情で見つめる彼女の姿を認めた途端、土日の悪夢が甦る。
俺は静香を裏切った。どんな理由があっても、決して許されるものではないことをした。嫌でもそのことを思い出してしまい、心が鉛のように重くなる。
重くなった心が胸を圧迫する。重いし痛いし、苦しい。
「おはよう、静香。もう元気になったから……心配かけたな」
改めてそう言い、無理矢理笑みを浮かべた。
「良かった。あのままだったらどうしようかと思った」
「うん。俺もあの日はあせったよ。でももう大丈夫。……いこうか」
「そうだね」
ぎこちない会話の後に訪れたのは沈黙。いつもとは違う、重苦しい空気が俺と彼女の周りにだけ立ち込めている。あの、静かで穏やかな海に浮かんでいる心地の良い感覚は一切無い。何か喋らないといけない、と思ってはいる。けれど口が動いてくれない。そうさせているのがこの重苦しい空気なのか、それとも彼女に対する罪悪感なのか……或いはその両方なのか、それは分からない。
「この前一昨日見に行った映画……楽しかったね」
「え、ああ、うん」
そう言ったはいいが、あの時見た映画がどんなものだったのか一切思い出せない。結末さえ思い出せない。静香が話題に出すまで一昨日映画館へ行っていたことすら忘れていた。
彼女だって俺がろくに映画を見ていなかったこと位十分承知しているはずだ。
ただ話す内容が無いから仕方なく。静香はまた饒舌になった。沈黙を、気まずい空気を払拭する為に、映画のことを延々と語る。けれど彼女が喋れば喋る程空気はより悪くなっていく。静香が悪いんじゃない。悪いのは……あの女だ。あの女さえ現われなければこんなことにはならなかった。
自然と早足になる。早く教室へ入ってしまいたかった。そうすればこの重苦しい空気から解放されると思ったからだ。そう思っているのは俺だけではないらしい。静香もいつもより早く歩いている。
二人で過ごす時間。最も愛しく心休まる時間――だった。今まではずっとそうだった。
何かが少しずつずれ始めている。そんな嫌な「現実」から逃れるように二人して教室へ入った。いつもと変わらない風景が目の前に広がっている。それを見てほっと安堵の息をもらす。教室中を満たす「日常」の空気が硬くなった体を少しだけほぐしてくれた。
俺も静香も、友人と夢中で話した。現実から目を背けるにはそれが一番効果的な方法だったからだ。
いつも通り適当に力を抜きながら授業を受ける。あの化け物共がやっていないことを俺はやっている。あいつらは学校になど通ったことがないだろうし、授業を受けたり宿題をやったりしたこともないだろう。
俺はあいつらとは違う。違うからこそ、こうして教科書や黒板とにらめっこしているのだ。そう思ったら元気が出てきた。このままあいつらに屈服するわけにはいかない。きっと勝てる。俺はあいつらに勝てる。
確かに勝てると思っていた。昼休みがくるまでは。
「よし、今日はここまで。明日の授業までに今配ったプリントをきっちりかっきりしっかりやってくること、いいな」
姫――こと姫野晶先生のありがたい言葉と共に授業は終わった。彼女の作るプリント(通称姫プリ)は授業を真面目に聞き、ノートをしっかりとってさえいれば簡単に出来るものだ。
プリントやノートをしまい終わる前に静香がやっていた。手には弁当箱が二つ。彼女はいつも俺に弁当を作ってくれる(その代わり――というのもなんだが――時々うちの親が篠宮家に色々おすそわけしているらしい)。彼女は料理が上手だった。多分俺の母さんより、上手い。「あんたいいお嫁さんもらったねえ」と母さんはよく言う。まだ結婚はおろか婚約すらしていないのだが……そうツッコミを入れながらも、その言葉を聞くたび俺は何だか嬉しくなる。彼女を褒められることがとても嬉しかったのだ。
片づけを終え、腰をあげる。その時俺は月片のことを思い出してしまった。
それは今、カバンの中に入っている。一気に気分が重くなった。
腹は減っていない。別段今食べなくても問題は無い。けれど。
あの時の――何を食べても満たされず苦しんだあの短いながらも地獄の様な時間のことを思い出した。空腹があれ程までに恐ろしいものだとは思いもしなかった。二度とあんな恐怖は味わいたくない。今食べなかったからといってすぐあんな風に腹が減り、喉が渇くということはない……分かっている、それは分かっているのだが。
静香のご飯を食べている時、もし腹が減り始めたら?美味しいものを食べているのに腹が全く満たされないあの感覚を再び味わうことになってしまったら?嫌だ、怖い、怖い……。冷や汗が出てきた。気のせいか、喉がからからな気がする。嫌だ、嫌だ……。
気がつけば、カバンの中に入れていた月片入りの袋を手にしていた。
「ごめん静香、先に行っててくれないか。ちょっと、ね」
静香は目をぱちくりさせた後、素直に頷いた。恐らくトイレにでも行くのだろうと思っているのだ。弁当袋を手に教室を出る静香を見送ってから、俺も外へ行く。トイレで何かを食べるのは嫌だった。なるべく人目につかない場所へ行こう。腹の虫が鳴っている気がする、気のせいだ、腹は減っていない、いやもしかしたら減っているのかもしれない、早く、早く食べなければ。
どの教室にも人がいる。廊下や階段も人がいっぱいいる。かえって外へ出たほうがいいみたいだ。
外へ出、あまり人の通らない辺りで立ち止まる。まっすぐそびえたつ校舎によって作られた、温もりの無い黒い陰。その中にふらふらと入り、校舎に向かい合うようにして立つ。
袋を開け、そこから月片を取り出す。食べたくない。けれど空腹になる事も耐えられない。毒物に対する恐怖より、生きようと思う動物の本能の方が圧倒的に勝っていた。
口に入れるとあの甘いような、酸っぱいような、なんともいえない香りがふわっと広がった。とても人間を化け物にする毒物とは思えない味だ。この味はなんだろう、一度食べたら忘れられない……多分これは麻薬と同じようなものなのだ。
勝てる。……そんな思いは一瞬にして砕け散る。いや、まだだ。まだ負けてはいない。諦めてどうする。
今はそう自分に言い聞かせることしか出来なかった。
ふと誰かの視線を感じ、振り返る。見知った顔がそこにあった。
見られてしまった。いや、でもいい。静香に見られなければ……。用は済んだ。俺は逃げるようにその場を立ち去る。
静香はいつものベンチに腰掛けて待っていた。俺が来るまで食べるのを待っていたらしく、弁当には一切箸をつけていなかった。
「おかえり。……早速食べましょうか」
「うん。今日はどんなおかず?」
「見てみれば分かるわよ」
俺の分の弁当箱を差し出しながら静香が困ったように笑った。この時だけ、いつもと同じ穏やかな時間が流れた気がした。
弁当箱を開くと、中にはねぎ入りの卵焼き、鶏のからあげ、ほうれん草とコーンのソテーが入っていた。
「からあげは昨日の夕飯の残りなんだけれど」
「いいよ、残りでも何でも。俺から揚げ大好き」
静香の家のから揚げは、美味い。和風の味つけで口の中に入れるとしょうがの香りがぶわっと広がるのだ。しかし味は決して濃すぎず、丁度良い。
いただきます。二人で手を合わせる。
からあげを一つつかみ、一口。……何故か変な味がする。ああ、そうだ。
先程食べた月片が邪魔をしているのだ。飴を舐めた直後に食べるご飯というのは美味しくない。月片は飴ではないが、口の中は飴を舐めた後と同じような状態になっている。もう一口。矢張り、奇妙な味がする。甘味と苦味、酸味……色々なものが、混じっている。そういえば初めてこれを食べたのは夕飯直前だった。あの時も少しの間味覚がおかしくなっていたっけ……。
『日常』がぐらりと揺れる。食前にあれを口にしてしまったことを後悔した。
あの女の笑い声が頭の中で響いた。
――貴方は私のものよ――
夏、騒ぎ出すセミ以上にうるさく、腹の立つ笑い声。弁当箱を支える手に力が入る。俺の理性が完全に爆発していたら、きっと俺は手に持っているこの弁当箱を思いっきり地面に叩きつけていただろう。
弁当を食べ終わる頃には味覚も元に戻っていた。矢張り静香お手製の弁当は大変美味しかった。食べても腹の足しにはならない、俺の体を生かす糧には決してならない……そんな現実に無理矢理蓋をして、俺は笑った。
「ごちそうさま。今日も美味しかった。鶏のから揚げが特に」
「あのから揚げは母さんが作ったものなんだけれど?」
ぶう、と頬を膨らませて拗ねるふりをする。その表情があまりに滑稽で、また可愛らしいものだったから思わず声をあげて笑った。
「いいねその表情。携帯カメラで撮りたいなあ」
「やだ、俊樹ったら。気持ちの悪いこと言わないでよ」
とか言いつつ、顔は笑っている。俺のせいで暗くなっていた表情が少しだけ明るくなって……ほっとした。彼女に辛い思いをさせない為にも俺は頑張らなければいけないと思った。
その後はいつものように、ぼうっと空を眺めながらぽつぽつと喋る。
お喋りな人間は好きじゃない。大声で話す人も好きではない。穏やかで静かな時間を過ごす。それが何より幸せなことだった。
とても、幸せだった。
昼休みが終わる寸前になって、また熱と激痛に襲われた。トイレの個室に閉じこもり、それが収まるのを待つ。昨日より収まる時間は短くなっていたし、耐えられない程酷いものではなくなってきていた。
それでも、自分が毒を食べていることを自覚するには十分すぎるものであったが。何でこんな目に合わなくてはいけないのか。
――貴方は私と『同じ』になるの。同じになるのよ……――
またあの女の笑い声が頭の中で響いた。戸を殴りつける。一刻も早くその笑い声を消し去りたかったから。そんなことをしても無駄だと分かってはいたけれど。
授業中も、女の声が幾度と無く聞こえた。もしかしたら俺の隣にいるのではないか、とちらちら隣を見る。そこには見慣れたクラスメイトが座っていた。
いるはずがない。あの女はここには来られない。ここは『日常』の世界。あの女が足を踏み入れることは、出来ない。
それでも何度も確認してしまう。隣を、前を、後ろを。
――エンデュミオン、エンデュミオン、エンデュミオン――
謎の名前で俺のことを、呼んでいる。また今日もあいつと会わなければいけない。頭が痛くなった。胃が焼けるように熱い。ここから出たくない、あの女と会いたくない。
授業の内容は一切頭に入らなかった。ノートには訳の分からない文字が沢山、書かれていた。
吐き気をこらえながら掃除をし、きりきり痛む腹を目立たないようにさすりながら放課後を迎えた。
このまま学校を出る――のは嫌だった。部活を少しやってから帰ろう、そう決める。そうしたからといって、あの女とデートしなければいけないという現実から完全に逃れることは出来ないのだが……少しでも、あの女と顔を合わせるまでの時間を延ばしたかったのだ。
部室のある校舎へ向かう途中、同じく部室へ向かっていた友人と顔を合わせる。あまり暗くて辛そうな表情を浮かべていたら、怪しまれる。無理矢理笑顔をつくり軽く右手を挙げた。
「よお、珍しいじゃん。お前が部活に参加するなんて」
九割方部活をさぼっている友人はへへへと笑う。
「ま、たまには顔出そうかなと思ってさ。……実は最近、超可愛い後輩ちゃんが入部してきてさ。前はテニス部に入っていたんだけれど、想像以上に辛かったからやめたんだと」
成程、理由はそれか。鼻の下伸ばしながら語る友人の姿を見て自然な笑みがこぼれる。
「不純な動機だな」
「うるせえやい。妻子持ちのお前には恋人いない暦十七年の俺の気持ちなんて、分からないだろうさ」
「子供はいないよ」
「妻って部分は否定しないのかよ」
「あ、そうか」
素でぼけていた。妻とか夫婦とか……言われ慣れているせいか、違和感が全くといっていい程無かったのだ。少し、恥ずかしい。友人がわざとらしいポーズと共に大きなため息をついた。
「全く羨ましい限りだよ。あんな可愛い奥さんがいるなんて……弁当まで作ってもらって……デートとかして……さぞかし楽しく充実した日々を……あ!」
一人ぶつぶつ愚痴っていた彼は、突然大きな声をあげた。忘れていた何かを思い出したかのような様子だった。
「なあ、篠宮と……臼井って仲、良いのか?」
唐突な上に訳の分からない問いかけに俺はぽかんとする。臼井?誰だっけ?頭を捻る。脳内を占拠していたあの女を追い出し、臼井という単語を頭に思い描く。その単語が一人の人間に姿を変えるまでそう長い時間はかからなかった。
臼井。臼井さくら。俺と同じ桜町の人間だ。無駄に大きな眼鏡と、あちこち跳ねた髪の毛が特徴の……読書ばかりしている地味な女だったはずだ。
「さっきさ、篠宮と臼井が二人で歩いているところを見かけてさ。所属している委員会とか部活が同じってわけでもなかったよな? だからちょっとだけ気になって」
「二人で?」
静香が臼井と遊んだり、喋ったりしているところなど見たことがない(そもそも臼井が誰かと喋っているところをあまり見たことがない)。
「やっぱり友達じゃないよな。じゃあ何でだろう? 篠宮の方は元気が無さそうだったし、臼井の方も暗い感じの表情でさあ……。まさかお前、浮気していて、その相手が臼井で……それがばれて……いや、そんなわけないよなあ」
「ある訳ないだろう!」
思わず声を張り上げる。慌てた友人が全力で謝ってきた。冗談のつもりで言ったのに、俺が眉を吊り上げて怒鳴ったものだからびっくりしたのだろう。
そう臼井と浮気などしていない。……臼井とは。
胃が痛む。心臓が早鐘を打っている。
「悪い悪い。お前が浮気なんてするはずないよなあ。ましてや相手があんな地味な上に脳内お花畑ちゃんな奴なわけないよなあ」
浮気をするはずなんてないよな……その言葉が胸をえぐる。気持ち悪い。いっそ何もかも吐き出してしまいたい。
友人は変なこと言って悪かったと重ねて謝罪すると、逃げるように俺の前から姿を消した。助かった、と思った。秘密を暴露せずにすんだからだ。
しかし何故静香が臼井なんかと。元気が無い原因は俺にある。……待てよ。
あの時――公園であの女を見かけて、全力で追いかけていた時――静香の隣に見知った顔の誰かが立っていたような。曖昧で霧がかかったかのようにぼやけていた脳内映像。それが少しずつはっきりとしたものになっていく。
そうだ、あの時静香の隣に居たのは……臼井だった。おしゃれで女の子らしい静香とはほぼ真逆な格好をしていた彼女。臼井も当然女を追いかけている俺の姿を見たはずだ。
静香はもしかしたら俺の様子がおかしいこと等を臼井に話して――それで、今日もそのことについて話そうとしているのかもしれない。
「それがいい。それで、良い……」
他人に余計なことを喋って欲しくない、とは思わなかった。抱え込んでいるものを吐露することで少しでも楽になってもらいたい。心から、そう思う。彼女が苦しんでいる原因である俺にはそう思う資格なんてないのかもしれないけれど。
*
少しの間部活に参加し、用事があるといって学校を後にした。何故か校門の近くで教師数人がうろうろしている。何かを警戒しているような目つき。それを見て言いようのない不安がこみ上げてくる。何となく嫌な予感がした。
そんな思いを振り切るかのように校門を出た後は、牛のようにのろのろ歩いた。俺は今家がある桜町とは正反対の方向に足を運んでいる。舞花市の中心に、駅がある。そこから電車に乗り、また適当なところまで行くのだ。今はまだ同じ学校の人間が駅にはうじゃうじゃいるだろう。あの女をどうにか説得し、せめて目的地に着くまでは他人のフリをしてもらわなければいけない。
視線を落とす。灰色の道が延々と続いている。硬くて熱などなさそうな、道。
いつまでこんなことが続くのだろうか。いつになったら『日常』に戻れるのだろうか。自分で自分を嘲るかのような笑みと情けない声がこぼれる。
そんな日は訪れない。俺はもう……。
「馬鹿野郎、考えるな。俺は人間だ……人間である以上、いつかあいつらと別れられる日が来る」
俺は救いようのない、馬鹿だ。
人通りの少ない狭い路地に入り、足元さえよく見えない程位道をとぼとぼと歩く。出来るだけ人目につきたくなかったから、集合場所は一応ランプ等を販売しているらしい(こんなところに客が来るのかどうかは怪しいところだが)店の前にした。これからはここで女と落ち合い、どこかへ行くのだ。
「エンデュミオン、遅かったわね」
声が聞こえ、顔をあげる。出雲という男の使い魔とやらに道案内されてここまで来たらしいあの女が立っていた。仄暗い場所にいても、女の姿ははっきりと目に映る。星を散りばめた夜空を思わせる髪が風に吹かれてさらさら揺れていた。その髪をじっと眺めていると永遠の闇の中へ吸い込まれてしまいそうな気がして、ぞっとした。
「でも、いいわ。許してあげる。私は心優しいから。貴方を、許すわ」
その瞳は俺を見下していた。この女は相手を許す自分の優しさに酔っているのだ。この女はそういう性格なのだ。貴方を生かして「あげる」貴方を許して「あげる」貴方を愛して「あげる」……自分が優位に立つことで得ることが出来る快楽に酔いしれているのだ。相手の都合などどうでもいい。だからこの女は人の話など聞かない。
「さあ、行きましょう。今日はどこへ連れて行ってくれるの? 勿論、どこでもいいけれど。貴方とならどこまでも」
笑う女を置いて俺はさっさと先に進む。この女の言うことにいちいち突っかかっていたら、エネルギーが幾らあっても足りない。
「素直になればいいのに。そうすれば楽になるわよ。貴方はもう私がいなければ生きていけない」
放っておく。
「貴方はシノミヤシズカを死なせたいの?」
足を止め、振り返る。女は予想通りの反応に満足したのか、くすくすと笑い声をあげた。俺の日常を奪っただけでなく、俺の大切な人の日常すら侵そうとしている(いやもうすでに侵されている)この女。頭が熱くなり、びりびりとしびれてきた。
「あの子は、邪魔。私と貴方の仲を邪魔している。あの子さえいなくなれば、貴方は」
「やめろ」
「そんな言葉だけじゃ許してあげない」
意地悪がなにより好きないじめっ子のような笑み。体が、頭がぎゅっと締め付けつけられているような気分がした。
「……俺が愛しているのは貴方だけです。だから、彼女に手を出さないで下さい」
俯き、小さな声で屈辱の台詞を吐く。そんな俺の頬を、女の冷たくいやらしい手が撫でた。気分が、悪い。
「そうよ。貴方のセレネは私。永遠の時を共に過ごす伴侶は、私」
歌うように囁かれたその言葉は、呪いの言葉のようだ。逆らいたいのに、逆らえない。女の言うことを素直に聞くしかない自分を情けなく思った。
女は一応電車の中では他人のフリをしてくれた。助かった。視界には俺と同じ制服を着た奴らが十人は映っていたから。その中に同級生も混じっている。
体を小さくし、俯く。見られたくなかったからだ。
空は灰色で、街の色も灰色だった。行きかう人々の姿さえ灰色に見えた。
「本当、人が沢山いるのね貴方達の世界は。おまけにとても賑やかだわ。麗月京にはここまで多くの人はいないわ。あそこは、ずっといると息が詰まるの。皆冷たくて人形みたいで、お喋りも嫌いで……例外がいないわけでもないけれど。音が無い世界って、とても恐ろしいものよ。ずっといるとどうにかなってしまいそうになるの。何百年も、あそこでずっと生きてきたけれど……いつになってもあの静寂には慣れないわ。私、笛を吹くのが好き。笛を吹けば沈黙から逃れられるから」
女は当たり前のように俺と手を繋いでいる。そうしながら一人でぺちゃくちゃ話している。俺はそれを適当に聞き流す。あんたが住んでいるところになんて興味は無い、とはっきり言えればこの胸のむかつきも少しは収まるだろうに。
「でもうるさすぎるのも困ったものね。エンデュミオンはうるさいと思わないの」
「別に」
あんたの話す声はうるさいと思うけれど、という言葉を飲み込み素っ気なく答える。女は慣れると気にならなくなるものなのかしら?私はあの静寂にいつまで経っても慣れないのに……と一人首を傾げていた。心底、どうでもいい。
「ねえエンデュミオン、私に何か贈り物をして頂戴」
「何で?」
「決まっているでしょう、私と貴方が恋人同士だからよ。麗月京では歌を贈ることになっているけれど、こちらの世界はそうではないのでしょう? 出雲から聞いたわ。私、貴方からまだ一度も贈り物を貰ったことが無い。何だっていいのよ、貴方がくれたものなら何だって大切にするわ」
あの男はこの女に余計なことしか教えないのか。
「シノミヤシズカには、色々あげたのでしょう? 彼女にあげて、私にはあげないなんて道理はないわよね」
静香にもあげたからこいつにもあげなければいけない、という道理もない。
脅迫者に渡すプレゼントなど無い。俺は「金が無い」と言って適当にあしらおうとした。しかし女は納得しなかった。またあの嫌な笑みを浮かべた。
「シノミヤシズカにはあげたのでしょう。シノミヤシズカには」
静香の名前の部分をわざとらしく強調する。
「……安いものなら、やる」
自分で自分を殴りたくなった。悔しい、情けない。俺や静香の『日常』に笑いながら侵入し、ぶち壊していく女に尻尾を振ることしかできない自分が。
でも、しょうがない。静香を守る為にはこうするしかないのだ。
俺は女に指輪を買い与えた。といっても本物の宝石がついた立派なものではない。小さな女の子向けの、おもちゃの指輪(が何個か入った箱)だ。デパートのおもちゃ売り場で売っていたもので、サイズはとても小さいから指にはめることは出来なかったが……それでも良いと言うので買ってやった。
「妹さんにでもプレゼントするの?」
レジのおばさんがにこにこ笑いながら話しかけてきた。
「ええ、まあそんなところです。あ、でもラッピングとかはいいんで」
本当のことを言う気にはならない。話を合わせ無理やり作った笑みを顔に貼りつける。
しかし空気を読まないあの女は首を傾げながら一言
「何を言っているのエンデュミオン、それは私への愛の証である贈りものでしょう?」
レジのおばさんはどう見ても小さな女の子には見えない彼女を見て、一瞬呆けた表情を浮かべた。まあすぐ営業スマイルに戻ったが……。
会計を済ませ、急ぎ足でその場を離れた。おばさんはきっと俺のことを変な客だと思っただろう。エンデュミオンと呼ばれた、大の大人におもちゃの指輪を贈ろうとしている俺のことを……。
その後入った喫茶店で女は俺から貰った指輪を満足気に眺めながら、大声で『麗月京』の話を延々とした。皆他人の話などろくに聞いてはいないだろうが、それでも矢張り恥ずかしい。
この女といると疲れる。心安らぐ時間が一秒たりとも無い。
「エンデュミオンは桜町というところでずっと暮らしていたの?」
「ああ……」
「ずっと居て、飽きない? 私は麗月京に飽きてしまったわ」
「別に」
物足りないとか少し寂しいとか思ったことがないわけじゃない。けれど俺はあの町が好きだ。飽きたとか……そんなこと、考えたことなかった。あの町の雰囲気は俺に合っている。ずっとあそこで静かに暮らしていきたいと思っているのだ。
この女さえやってこなければ、そうなるはずだった。また弱気になり、ぶんぶんと頭を振る。
女の方はふうんと一言。
「十数年位じゃ、飽きないのね」
そういう問題じゃない。何故飽きる前提なのか。自分がそうなら相手も当然そうであると思っているのだろうか。
「でも安心して。もうすぐ貴方はあの町とお別れすることになる。飽きる前に去ることが出来る。それってとても幸せなことだと思うわ」
お別れ。その言葉が胸に突き刺さった。
「……俺をあそこから引き剥がすつもりか」
「あそこでずっと生きるつもりなの? 良いことないわよ? 月の民に近い存在になれば、貴方は老いることがなくなる。周りの貴方を見る目も変わるわ。そんなの嫌でしょう? 辛い思いをする前にお別れした方がずっと楽よ。貴方は私と『同じ』になるの。幸せ、私とっても幸せよ。エンデュミオン」
胸がむかむかする位甘い声と笑顔。吐きそうになって、俺はトイレへと逃げ込んだ。
桜町に帰った頃にはもうすっかり辺りは暗くなっていた。
夕飯を食べる気は全くしない。無理矢理少しだけ口にした後、救いを求めるように二階へとあがろうとする。階段に足をかけた辺りで親が大丈夫かと尋ねてきた。大丈夫ではない。しかし本当のことも言えないから、大丈夫と一言だけ。
怒りはエネルギーに変わり、そのエネルギーを外に放出する為に物を投げ、蹴飛ばし、そして泣いた。
涙はいつになっても枯れなかった。