そして羊飼いは月に抱かれて消える(3)
*
汚い血で汚れた顔は水で洗い流し、服は赤い着物を着た少女(鈴、というらしい)に軽く洗ってもらった。
服が乾くまでの間俺はソファに座り、女と話をした。いや、話をしたというのは正確な言葉ではない。正しくは女の話を延々と聞かされていた……いや、これも正確とはいえない。俺は女の話等ろくすっぽ聞いてはいなかったのだから。適当に相槌は打ったが、あの女が具体的にどんな話をしていたのか何一つ思い出せない。
月片も、食べた。毒であると知りながら口にするのは辛かった。だが食べなければ死ぬ。一刻も早く空っぽになった腹を満たし、喉を潤したかった。
口にした瞬間、涙が出た。様々な感情がそれと一緒に外へと流れ出る。
美味しい、満たされる、世界中のどんな食べ物より美味しく感じる、これで俺は死から逃れることが出来る、俺は化け物に一歩近づいた、隣に座っている忌々しい女と同じ存在になっていく、生きたい、死にたくない、でもこんな現実を受け入れたくは無い、いっそ死にたい、でも死にたくない……。
食べてからしばらくしてあの痛みと熱が襲った。昨日に比べれば若干ましだったが、それでも辛く苦しいことに変わりは無かった。
「大丈夫?」
女が心配そうにじっと顔を覗き込む。大丈夫なものかと怒鳴ってやりたかったが、溢れ出る色々な感情がそれを邪魔する。言葉にならない呻き声がむなしく口から漏れ出すだけだった。
「苦しそう。でも大丈夫よ、しばらくすればそんな風に苦しむこともなくなるでしょうから。ねえ、エンデュミオン外へ行きましょう。貴方と一緒なら、あの世界も素敵なものだと思えるような気がするの」
「エンデュミオン? 誰だよそれ」
「今の貴方に最も相応しい名前。貴方は私のエンデュミオンよ」
「俺には牧田俊樹っていう名前がある」
「そんな名前より、エンデュミオンの方が貴方には合っているわよ」
女は笑った。悪意など微塵も含まれていないものだった。だから余計腹が立つ。
乾いた服を着、鈴から光を放つ不思議な鬼灯を借りて俺は自分の世界に戻った。身の毛もよだつおぞましい『道』を通り抜けて。あれほどまでに美しく、また恐ろしい風景など見たことが無かった。
「非現実的……」
そう呟かずにはいられない。自分が今まで信じてきた『常識』を木っ端微塵にする程の破壊力がその『道』にはあった。
鬼灯を手から離す。今目に映っているのは何の変哲も無い鳥居と石段。
桜山神社を後にし、二人で電車に乗り数駅先にある街へ行く。三つ葉市や舞花市には知り合いが沢山いる。この女と一緒に居るところを誰かに見られたくない。
「こういうのをデートというのよね? 嬉しいわ、貴方と一緒に歩けるなんて」
「あんた俺のこと好きらしいけれど……俺、あんたと会ったことあったか?」
「貴方は気がついていなかったでしょうけど、私は貴方と何度も顔を合わせているのよ」
「ふうん」
「私貴方のことを一目で気に入ったのよ。どうしてなのかはよく分からないけれど……」
これだけ迷惑で面倒で恐ろしい一目惚れがこの世に存在していたとは。
心底うんざりしたが、今は怒鳴り散らす気にもならない。自分でも驚くほど気持ちは落ち着いていた。でもそれもきっと一時的なもので、しばらくすれば色々な感情が再び湧きあがってくるのだろう。落ち着いたり、暴れ狂ったりを繰り返した先に待っているのはなんなのだろう……ぼんやりとそんなことを考えていた。
俺の気も知らず女は色々なものに興味を示し終始はしゃいでいた。自分よりもずっと長生きしている者とは到底思えない位に。幼稚園児でも知っているようなことを大声で聞きまくる女は周りの注目を集めた。なまじ顔が良いだけに余計目立つ。当然、女の話し相手である俺にも好奇の眼差しが向けられる。
出来ることなら逃げ出したい。恥ずかしいし――もし知り合いに見つかりでもしたらえらいことになる。
「あまり大声で変なことを聞くな。怪しまれるだろう」
「別にいいじゃない怪しまれたって。私にとって、貴方以外の人間なんてどうでもいい存在なの」
「お前は困らないかもしれないが、俺は困るんだ。俺のことが本当に好きだというのなら、俺を困らせるようなことはしないでくれ」
そう言うと、女はがっくりと肩をおとした。
「ごめんなさい……」
女は素直に謝罪した。
しかしその後入った喫茶店で再び騒ぎ始め、俺は痛む頭を抱え一人唸った。
しばらく街の散策をし、程ほど満足したらしい女はそろそろ帰ろうと言い出した。俺はその提案を聞き、ほっとする。
桜町へ向かう電車を待っている時、女が俺の右手を握ろうとする。俺は反射的にその手を引っ込め、彼女を睨んだ。
「手なんて繋ぎたくない」
はっきり拒絶する俺を女がじっと見つめる。その瞳はぞっとする位冷たかった。
「私のお願い聞いてくれないの……?」
これは脅しだ。彼女の声と瞳が言っている。「月片を貰えなくてもいいのね、死んでもいいのね」と。
忘れようとしていた事実を思い出し、歯軋りした。
「聞いてくれるわよね、勿論。貴方は私の、私だけのエンデュミオンなのだから」
俺が首を横に振るわけが無い。確信に満ちた瞳が深く胸をえぐる。
こちらに抵抗の意思が無いことを確認した女がゆっくりと俺の手に自分の手をからめる。女の手が触れた途端吐き気がした。
「私は貴方に命を与えることが出来る……貴方の生死を握っている……あの娘には出来ないことが、私には出来る」
歌うように呟く女。ああそうだ、静香にはこんなことは出来ない。俺の生死を握ることも、俺を貶めたり脅したり苦しめたりすることも、出来ないのだ。
化け物め。一人勝手に『愛する人の命を手中に収めている私って素敵』とか思っていればいい。
俺は女を心の中で蔑むことで平常心を取り戻そうとした。だが考えれば考えるほどむかむかした感情は激しさを増していく。
程なくホームへとやってきた電車に乗って桜町に向かう。駅前で女から月片を貰い(自分でも情けなくなるくらい必死にお願いして)、逃げるように家へ帰った。家という『日常』の世界へ、全ての災厄から身を守ってくれる結界が張られているような不思議と心落ち着く空間へ、一刻も早く帰りたい。
乱暴に扉を開け、転がり込むように家の中へ入った。そのまま洗面台へ直行し、不快な感触残る手を念入りに洗う。鏡には自分の顔が映っている。ぱっと見変わったところは無い。出雲とかいう男と、星條とかいう女のような異様さも感じられない。大丈夫俺は化け物なんかじゃない。人間だ。人間なのだ……。
自分の部屋に入ってすぐベッドに体を預け、大きく深呼吸する。吸い込んだ部屋の空気が心を少しだけ落ち着かせてくれた。緊張の糸がぷつんと切れるのと共にやってくる疲労感。
何も考えられない。……その方が幸せかもしれない。色々考えられる余裕が出てきたら自分はどうなってしまうのか。そんなことを思ったら余計に疲れた。
とりあえず寝よう。そう思って目を閉じる。だが眠りにつくまえにやらなければならないことがあることを思い出し、慌てて目を開けた。
携帯をとりだし電話をかける。電話の相手は勿論静香だ。具合が悪いから帰るといって彼女を公園に置いていってしまったことをすっかり忘れていた。静香のことを忘れてしまう位、俺の頭はぐちゃぐちゃになっていたのだ。
「……俊樹?」
程なくして静香の声が聞こえる。小さなその声に不安や心配といった感情がぎゅっと込められている。
それを聞いて散々彼女に心配をかけさせた挙句、逃げるように彼女を置いて去ってしまった自分の馬鹿っぷりを激しく後悔した。後悔だけじゃない。彼女に対する罪悪感も沸きあがってくる。俺はあの後……いや考えるな。今は考えちゃ駄目だ。
今は静香の不安を少しでも拭わなければ。
「あの、今日は本当ごめんな。公園に置いてきぼりなんかにして……あの時の俺、どうかしていたんだ。具合もさ、滅茶苦茶悪かったんだけれど……今は大丈夫。ゆっくり休んだら自分でも驚く位良くなったんだ」
不味い、心なしか声が上擦っている。もっと心を落ち着かせて喋らなければ……駄目だ、上手くいかない。普段自分はどんな風に喋っていただろう。平常心でいよう、落ち着こうと思えば思うほど気持ちがあせっていく。
「だから今は大丈夫。きっと今日明日ゆっくり休めばよくなる。今度また一緒にどこか行こうな」
「……本当?」
疑っている。矢張り静香に対して下手なごまかしはきかない。とはいえ本当のことを話すわけにはいかない。言ったところで信じてくれるはずがない。……当事者である俺だって未だ信じられないのだから。幾ら静香でもあんな荒唐無稽な話、絶対信じてくれないだろう。
ごまかすしかないのだ。
「本当だよ。大丈夫」
「そう。……ねえ、俊樹。貴方公園で誰に会ったの?」
「え?」
「貴方、誰かを追いかけていたわよね。必死になって……誰を、追いかけていたの? 知り合い?」
どきりとした。絶対逃がすもんかと思いながら追いかけていたから、大声をあげて叫んだり、すさまじい形相になっていたりしていたのかもしれない。
「別に大したことじゃないよ。気にしないで」
「そういう風には見えなかったけれど……」
静香は疑うような口調でそう呟く。何度も繰り返し「一体誰だったのか」「本当に何でもないのか」と聞かれた。その度俺は嘘を吐いた。
大丈夫、別に大したことじゃない、あの時の俺は疲れていてどうかしていたんだ……そんな言葉を繰り返す。
「分かった。……俊樹がそう言うんなら、そうなんだね」
静香はとうとう諦めたようだ。元々彼女はしつこく問い詰めることを好んでいない。俺もそうだ。いつも相手が話すのをじっと待っているのだ。今回のように何度も同じ問いを繰り返すことの方が珍しい。それだけ心配なのだろう。
「また、月曜日会おうね」
「うん。本当、今日はごめんな」
改めてそう言うと、急いで電話を切った。疲れが体を一気に重くする。先程までの出来事が夢ではないことをその疲労感が教えている。
信じたくはない。けれど。カバンに入れた袋を取り出す。その中に月片が入っている。食べ物という名の毒物、或いは化け物の素。
「俺は人間だ、化け物なんかじゃない……」
その時はまだ信じる余裕があった。そう、まだこの時は。
それから少しの間、眠りについた。母親の呼ぶ声で目を覚まし夕食をとる。
いつも通り美味しいと感じた。けれどこの食べ物が自分を生かす糧には決してならないのだと考えた途端、急に味を感じなくなった。
不味そうに食べてはいけない。そんなことをしたら親に怪しまれる。それも避けなければいけない。何でもないフリをしながらご飯を口に押し込む。
何でこんなことに。
夕食を終え、部屋に戻った俺はベッドの上で今日自分の身に起きたことを思い返していた。
思い出せば出す程頭が痛くなってきた。同時に激しい怒りと憎悪がこみ上げてくる。
「くそ、くそっ!」
人を騙し、変なものを食わせておきながら幸せそうに微笑む女。こちらが逆らえないのをいいことに調子に乗ってべたべたくっついて……きっと日を追う毎にどんどんエスカレートしていくに違いない。
あれ程までに自分勝手で危ない女に会ったのは初めてだ。あの女を許すことなど絶対に出来ない。
このままではあの女の思い通りにことは進んでしまう。そんなのは絶対に嫌だ。しかし俺には抗う術が無い。明日も、明後日もこんな思いを抱えながらあの女と付き合わなければいけない。
そして最後には……。
「嫌だ、絶対に、嫌だ!」
怒りを部屋にある物達に次々とぶつける。一度ぶつけだしたら止まらなくなり、自分でも意味が分からない叫び声をあげながら枕やカバン等を投げたり床に叩きつけたり蹴飛ばしたりした。
気がつけば部屋中ぐちゃぐちゃになっていて、俺は肩を上下させていた。体が熱い。
ひとしきり暴れ、怒りを吐き出し終えた体は虚脱感に襲われた。
こんなことをしても何の意味もないのに。自分は何をやっているのだろうと思ったら、涙が出てきた。
異変に気がつき部屋までやってきた両親に一体何があったのかと聞かれた。俺はただ「何でもない」と答える。繰り返し、そう言った。
そう言うしか、なかった。
風呂に入り、さっさと眠った。自分の身に起きたことを忘れるにはそれが一番だと思ったから。ほんの一時の間だけでも、忘れていたかった。そうしなければ頭がどうにかなってしまいそうだった。
その夜笛吹き魔は現われなかった。
*
「そりゃそうだろう。……笛吹き魔にはもうあそこで笛を吹く理由が無いのだから」
今俺は昨日連れて行かれた(どうも俺が気を失っている間に男――出雲の使い魔とやらが運んだらしい)館にいる。二度と訪れたくないような場所だったが、女に「明日ここに来て」と言われたから仕方なく来ているのだ。
そんな俺の真正面に座っている男は琥珀のようなゼリーをつついている。女は今その辺をふらふらしているらしくじき戻ってくるという。いっそこのまま戻ってこなければいいのにと心の底から思う。というか、一刻も早く帰りたい。
視線を落とす。そこには今男が食べているのと全く同じゼリーが置かれている。ここが友人や静香の家だったら遠慮なく食べているところだが……第一、食べたところで満たされやしない。食べればその現実を嫌でもつきつけられることになる。だから、食べたくは無い。
「どういうことだよ、それ」
桜町に最近出没している笛吹き魔がひょっとしたらこいつらと『同じ』化け物なのではないかと思い、男に彼(?)の話を振った。その答えが「もう笛を吹く理由がない」というものだった。
「君達が笛吹き魔と呼んでいたのは、あの娘――星條だ」
「なっ……」
あの女が笛吹き魔?驚き思わず目を見開いた。男は俺に目もくれずゼリーをすくっては食べる作業を繰り返しながら話を続ける。
「そう。一目見て君のことが好きになってしまった彼女は、君の後をつけて家がある場所を突き止めた。それでもって毎晩君の家の前までやってきては笛を吹き、自分の思いを告げていたんだ。……まあ吹いていた曲が愛を告げるものだということが分かるのは彼女と同じ月の民だけだから……君が聞いても意味が分からなかっただろうけれど。彼女もそれで自分の思いを知ってもらえるとは思っていなかったようだし」
笛吹き魔が俺の家の近くで止まっていたことにはちゃんと意味があったのか。
「そうそう。君達がコスプレ女と呼んでいた人も、星條みたいだよ」
「あれも……?」
「今は普通の人間らしい格好をさせているから、仮装しているようには見えないと思うけれどね。コスプレって仮装って意味なんだろう? まあ、君達からしてみれば彼女の本来の姿は異様に映っただろうねえ……」
今でも十分異様だ。服を人間風にしてもまるで意味が無い。格好だけではごまかせない何かがこいつらにはあるのだ。
「ところで……食べないの」
「は?」
「そのゼリー。美味しいよ。毒も入っていないしねえ、それには」
意地の悪い笑みを浮かべ、少しも手をつけていないゼリーを指差す。
「欲しいなら、食えば? 俺はいらない」
「食べても満たされないから?」
妖しく歪む口元、瞳。視線が俺を鋭く突き刺す。この男の目は、嫌いだ。見つめられただけで心臓が止まりそうになり、冷や汗が出るから。
「確かに食べても満たされないっていうのは辛いことかもしれないねえ。……けれど仕方がないじゃないか。君はあれを口にしてしまった。口にした以上、もう引き返すことは出来ない」
「あんたはあの女の友人か何かか? あいつの片棒をかついだみたいだけれど」
目の前に居る男もまた心の底から憎むべき相手なのだった。男は頬杖をつき、ため息を漏らした。肯定の意でないことは明確だ。
「友人でなければ、手伝ってはいけないのかい?」
「別にそういうことを言っているわけじゃない」
自分の怒りをこの男は微塵も感じていない。いや感じてはいるが気にしていないのかもしれない。男は静かに流れる小川のような、透き通っていてさらさらとしている髪を弄る。男の指の間をさらりと抜けるそれはとても髪には見えない。
「私は彼女の友人でも、味方でもない。私は私の為に彼女の手伝いをしているんだ」
「どういうことだ」
俺とあの女をくっつけることに何のメリットがあるというのだろう。
訝しがる俺の顔を見て、また男は笑った。時間の流れや怒り、全てを一瞬忘れさせる位妖しく、冷たく……ぞっとする笑み。
「深い意味は無いよ。単なる暇つぶし。退屈しのぎさ。私は人間が醜くもがき、苦しむさまがとても好きなんだ。決して関わってはいけない世界に関わり、なす術もなく堕ちていく……」
愕然とした。頭の中が痺れ、熱を帯びている。暇つぶし?退屈しのぎ?目の前にいるこの男は自分が楽しむためだけに、俺の人生を滅茶苦茶にする手伝いをしたというのか。
だん、という音が聞こえた。気がつけば俺は立ち上がり、テーブルを強く叩きつけていた。考えるより先に、体が動いていた。
男は笑っている。ただ楽しそうに笑っている。人に怒りをぶつけられることも彼にとっては娯楽に過ぎないのだ。その笑みを見ると余計腹が立つ。
「怒っているね。……ふふ、友達の恋路を手伝って何が悪いと言えば君は怒らなかったのかな? いいや、そうではないね。答えの内容が何であれ、君は怒っただろう」
「当たり前だ!」
「でもさあ……最終的にこの道を選んだのは君なんだよ? 好きでもない女の恋人になること、生きる為に毒を喰らい続けることを選んだのは」
「選択肢なんて、あってないようなものだったじゃないか! 誰だって苦しみながら死ぬのは嫌だし……それに、下手に断ったらあの女……!」
「君の恋人に危害を加えるかもしれない……そう言いたいの? そうだね、あの娘なら平気でやるかもしれないねえ。それだったらいっそ、君の彼女にも月片を食べさせればいいんじゃない? 二人仲良く化け物になったところで、愛の逃避行へ……とか。月片を食べ続け、月の民もどきになってしまえばもう食事は必要なくなる。つまり、月片を食べる必要もなくなる。星條の呪縛からも解き放たれるし、恋人ちゃんが殺される心配もなくなる。……うん、なかなか名案かも」
「静香を……化け物にしろっていうのか!? そんなこと、出来るわけないだろう!」
「でもそうしない限り、君は彼女と一緒に居られなくなってしまうよ? 坊や、本当に手に入れたいものはね、どんな手を使ってでも手に入れなくちゃいけないんだ。力でねじ伏せ、縛りつけて――そう、星條のようにね。そうしなければ離れていってしまうから。私は別に星條の味方というわけではないから、止めやしない」
「あんたは……そうやって自分が欲しいものを手に入れてきたのか。そうしてまで手に入れたいものが、あんたにもあったのか?」
「さあ、どうだろうね? それで、どうするんだい?」
俺の質問を適当に流し、男は俺に問う。男の視線を浴びている体が痛い。まるで鋭いガラス片が飛び散っているところめがけてダイブしたみたいだ。
きっと男にとってはどちらでも良いのだ。俺にふざけた選択肢を突きつける……その行為も彼にとっては一つの娯楽、遊びに過ぎないのだろう。
「ふざけるな。俺は静香を化け物なんかには絶対しない」
「あ、そう。まあそれならそれでも構わないさ。馬鹿みたいに喚きちらし、怒り、憎みながら堕ちていけばいい。私はその様子を笑いながら見ているとしよう。……楽しみだ……怒り憎む気力も失せ、生ける屍と化した君の姿を見るその日が」
ふざけている、狂っている、この男は!見た目も常識外れ、思考回路も常識外れだ!
頭が熱い、何かが頭の中で膨れ上がっている。今にもそれが破裂しそうだった。それ位、腹が立った。
ドアが開く。入ってきたのはあの女だった。女は俺の姿を認めるとぱあっと顔を輝かせる。こいつのせいで俺は散々な目にあっているのだ。
「エンデュミオン、まあ、もう来ていたのね! ごめんなさいね、遅くなってしまって」
俺は軽く頷くだけだった。すると女は頬をぷうっと膨らませ、口を尖らせた。
「駄目よエンデュミオン。こういう時は『いや、俺も今来たところだから気にしないで』って言わなくちゃ。恋人らしい会話貴方といっぱいしたいのよ」
どこでそんな知識を手に入れてきたのか。しかし何でこの女は俺のことをエンデュミオンなどと呼ぶのだろう。
俺は牧田俊樹なのに。それ以外の誰でもないのに。当たり前のように変な名前で呼び、恋人を気取る女。この女は絶対に……昨日から何度そう思っただろうか。もう両手では数え切れない位、思った。
「早速だけど、デートに行きましょう? 昨日とはまた違うところに行きたいわ。ねえ、今日はどこへ連れていってくれるの?」
「さあ。適当」
「行ってらっしゃい、お二人さん。楽しんできてね?」
楽しめるものか。満面の笑みを浮かべ、手を振る男を睨みながら俺は部屋を出た。
今日は昨日よりもっと遠い街まで電車を使って行った。知り合いに会ったり、目撃されたりする可能性を少しでも減らしたかったからだ。
女は電車に揺られている間ひっきりなしに声をかけてくる。俺の左手の上に自分の右手をのせながら。思いっきり振り払ってやりたかった。しかしあまり反抗的な態度ばかりとっていると、機嫌を損ねた彼女が何かしでかすかもしれない。それは避けたかった。今はただじっと我慢するしかない。
「ねえ、エンデュミオン」
「だから、その呼び方やめろよ」
大声でその名を呼ぶ女を、小声でたしなめる。周りにいる人達の視線が痛い。
黙っていても目をひく女の容姿。更に大声で訳の分からない名前を連呼すれば……注目を浴びることは避けられない。穴があったら入りたいとはこのことだ。恥ずかしさと苛立ちがつのる。
「どうして? 貴方は私のエンデュミオンなのに」
「兎に角、やめてくれ!」
「いやよ。貴方はエンデュミオンよ。……それ以外の名前なんて、もう捨ててしまいなさい。ねえ、今はどこへ向かっているの? どんなところなの?」
女の声は大きい上によく響く。どこまでも迷惑な女だ。出来ることなら首を絞めて黙らせたい。
目的地(適当に決めた。一度も足を運んだことは無い)に着いた俺は吐き気を催しながらも女の手を掴み、引っ張り、逃げるように電車を降りて駅を出る。
「そんなに急がなくてもいいじゃない。時間はまだたっぷりあるのだから」
人の気も知らないでこの女は。もういい、無視してやる。俺は無言のまま目についた大きめの百貨店まで彼女を引っ張っていく。
女は目についた店にどんどん入っていき、物珍しそうに商品の数々を眺める。
只大人しく眺めているだけなら良いのだが、これはどういうものなのかとか、これの名前は何だとかいちいち質問してくるものだから、面倒臭い。電車に乗っている時同様、声も大きい。何度も客や店員の視線を浴びることとなった。
「これじゃあ昨日とまるっきり同じじゃないか……」
確か俺が困るようなことはするなと昨日言ったはずなのだが。意図的に人を困らせて楽しむタイプの奴(あの出雲とかいう男がまさしくこのタイプだろう)も厄介だが、こういうタイプの奴も非常に面倒臭い。
今俺達は薬局にいる。まず病気にはかからないらしい月の民にとっては薬というのは随分珍しいものであるらしい。
「ねえ、これはどういう時に飲むものなの」
女が手に取っているのは下痢止めの薬だった。
「げ、下痢の時に飲むんだよ」
「下痢ってなあに?」
目をぱちくりさせながら首を傾げる。近くにいた店員が訝しげな表情を浮かべながらこちらをちらちら見ている。
「……説明したくない。とても下品な話になるから」
「下品? ああ、もしかして」
女は具体的な言葉を述べた。実に下品な……いやらしい……そんな言葉を。
恥ずかしい、という思いとこの女ふざけるな!という思いが混ざり合い、顔を真っ赤にする為の燃料が出来上がった。なりふり構っていられない。俺は女の口を塞ぎ、薬局から離れた。
薬局が視界から消え去るのを確認してから、手を離す。女は暢気に笑う。
「エンデュミオンの手、とても暖かかった。ねえ、もっと触れて?」
「断る」
こちらは気持ち悪くて仕方が無かった。
結局女の奇行及び奇妙な言動は百貨店を出るまで続いた。
フライパンをかぶろうとしたり、TVに映っている人間に話しかけたり、ガラスの置物を美味しそうなどと言って食べようとしたり……。言い出したらキリがない。
店を出た時、よくこの地獄を耐え抜いた俺と自分に自分で賞賛の言葉を送った。半強制的に好きでもない女とデートをさせられる――それだけでも苦痛なのに……。この女が大人しければもう少し楽だっただろう。憎悪の炎燃やす心に蓋をし、何も考えず、何も思わず行動するだけで済んだだろうから。
女は俺の腕に抱きつき、暢気に鼻歌を歌っている。
俺の隣にいるべき人は、こいつではないはずなのに。たった一つ選択肢を誤っただけで、俺は全てを失おうとしている。
平凡な毎日も、人間としての生も、静香もみんな……。
「貴方は永遠に私のものよ。私をこんな幸せな気持ちにしてくれるのは、貴方だけ。そして貴方を幸せに出来るのも、私だけ」
女は歌うように言う。こいつはそう本気で思いこんでいるのだ。一体何をどうすればそんな風に思い込むことが出来るのか不思議でたまらない。
全ての元凶であるこの女に、今にも爆発しそうな思いをぶつけてやりたい。けれどそうすれば俺は。まだ多分、俺は月片無しで生きることが出来ない。
「明日も一緒にこうして出かけましょうね。この世界のこと、色々教えて頂戴ね?」
昨日と同じ地獄のような一日はこうして終わっていった。色々あった。語りたくもないようなおぞましいことが、沢山。
長い間使っていた枕を夜、びりびりに引き裂いた。新品のノートをカッターでぐちゃぐちゃにした。行き場のない怒りをぶつける方法はこれしかなかった。
明日は学校だ。静香や友人と顔を合わせる。俺は果たして今まで通りの学校生活を送ることが出来るだろうか?