表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
桜町幻想奇譚  作者: 里芽
我が愛しのエンデュミオン
62/360

そして羊飼いは月に抱かれて消える(2)

 冷たい。とても、冷たい。何かが頬を触っている。氷だろうか?

 その冷たさが、俺の意識をはっきりさせていく。そうだ俺はあの女に目隠しされた途端、意識を失って。


 重い目蓋をこじ開け、上体を起こす。ついた両手は柔らかくてふかふかしたものに触れていた。どうやら自分はソファの上に寝かされていたようだった。

 俺の傍らに、あの女がいた。頬を冷やしたのは彼女の手だったようだ。その事実に気がついた途端湧き上がる嫌悪感。気持ちが悪い。わずかに残る女の体温を消そうと、頬を激しくこすった。


「おはよう。目が覚めたようね」

 お気に入りの人形を眺めるかのような目で俺を見、微笑む女。胃が痛み、気持ち悪くなったのは果たして空腹のせいか、それとも。

 女はテーブルに置いてあったカップを手に取り、俺に差し出す。中に入っているのは珈琲のようだ。そこから漂う良い香りが、俺の胃を刺激し締め付ける。


「飲む? 喉が渇いて仕方が無いでしょう? ああ、でも飲んだところで何の意味もないわね」

 全身の骨が凍りつき、そして燃え上がるのを感じた。その言葉の意味を理解したからだ。

 この女は知っている。俺の体がどんなことになっているかを。矢張り体に異変をもたらしたのは、あの飴だったのか。


 腹が立った。訳の分からないものを初対面であるはずの人間に食わせておきながら、暢気に笑っている女が憎らしくて仕方が無かった。俺は差し出されたカップを手で払いのける。カップは宙を舞い、黒に近い茶色の液体を吐き出しながらカーペットの上へ落ちる。女は驚いたように目をぱちくりさせていた。


「何のつもりだ」

 ソファから体を離して立ち上がり、近くに転がったカップを手に取った女を睨みつけた。


「あんた、俺に何を食わせたんだ。あれは本当にただの飴だったのか?」

 ここがどこであるか。今はそんなことどうでもいい。この女に今聞きたいのは、俺が昨日食わされた『飴』のことだった。

 睨みつけられた女は、一瞬戸惑いの表情を見せた。まあすぐ笑顔に戻ったが。

 女はカップをテーブルに戻すと、すっと立ち上がり俺の瞳を真っ直ぐ見つめた。


「飴じゃないわ。……あれは月片(げっぺん)というの。月の欠片(かけら)という意味よ」

 月片?月の欠片?何だ、それは。意味が分からず眉をひそめる。そんな名前の食べ物(或いは薬か)など、聞いたことも無い。


「貴方達の世界には存在しないものよ、あれは。月光を浴びて成長するツキイワを砕いたもの……ツキイワは今レイゲツキョウにしか存在していない。だからあれは、レイゲツキョウでしかとれないものなの。レイゲツキョウというのは私の住んでいる京の名。麗しい月の京と書いて、麗月京」

 この女は何を言っているのだ。麗月京?ツキイワ(恐らく月岩と書くのだろう)?私の住んでいる京の名?そんな場所、俺は知らない。今この女が喋っているのは妄想話か?しかし冗談を言っているような顔には見えない。けれど……。


「私は貴方とは『違う』存在。本来なら一生貴方と会うことはなかったであろう存在。……私の名前は星條(せいじょう)。かつて月に住んでいたとされる『月の民』の末裔です」

 スカートの裾をつまみ、誇らしげな表情を浮かべながら名乗りをあげる。

 その姿は気高く美しかった。……美しかった。姿は。だが言っている内容は全く理解出来なかった。


 麗月京の次は、月の民だと?この女の頭……大丈夫か?私のご先祖様は月に住んでいました……?いや、いや、いや。月って。


 やばい。この女は色々とやばい。常識外れの美貌を武器に、月片とかいう変なものを食わせた挙句、私は月の民ですって……。

 こんな危ない人間に会ったのは初めてだ。俺は星條と名乗った女の言うことを全く信じようとしなかった。信じてはいけないような気が、信じたら何かが音を立てて崩れるような気がしたから。

 桜町では不思議なことがよく起こる。それでも俺は信じなかった。


 女は俺の顔をまじまじと見つめた後、残念そうな表情を浮かべため息をついた。俺はそんな分かりやすすぎる嘘を簡単に信じてしまう程愚かではない、ざまあみろ。

 

「人間っていう生き物は、認めなければいけないもの程認めたがらないものなんだよ。自分が信じてきた世界を壊したくないんだ、彼らは」

 これはあの女の言葉ではない。氷の塊を背中に押しつけられたような感覚にぎょっとしながら後ろを振り向く。

 ソファを挟んだ向こう側に居たのは、先程公園で会ったあの男――に似ていた。いや、恐らく同一人物なのだろう。しかし目と髪の色が先程とは違う。


 冷たく俺を見下ろす彼の目は真っ赤な色をしている。白目の部分が充血して赤くなっているのではない。黒目の部分が赤いのだ。赤「っぽい」のでも、赤みがかった茶色でもない。誰が見ても「赤」と答えるような、とても鮮やかで綺麗なものだった。

 髪は、青味が強めの紫と大量の白を混ぜたような――どこかで見た藤の花に似た――色になっていた。

 目にカラコンを入れ、髪を染めた(もしくはカツラでも被っている)のか?

 いや、恐らく違う。不思議とそういう風には全く見えなかった。人工的に作られた不自然なものではなく、ごく自然な色をしていたからだ。そしてその色は男に馴染んでいる。黒い髪、黒い瞳よりしっくりきている。

 自然で、しっくりきていて……だからこそ美しく、また怖かった。

 そんな男が人間であるはずなかった。それなら、この男は。いや、考えたくない。認めたくない。         

 

 男はソファから離れ、俺が手で払ったティーカップが落ちた辺りまで歩く。

 カーペットについてしまった染みを見つめた彼の口から、小さなため息がもれた。どうも俺が居るのはこの男の家であるようだ。


「ああ、染みになっている。後で綺麗にしないと……はあ、面倒臭い。まあいい、怒らない、怒らないともさ。私の心は海より深いから」

 抑揚も温もりも無い声、見た相手の魂を抜き取ってしまいそうな瞳。それを見た俺は今更になってティーカップを手で払ったことを後悔する。体が小刻みに震える。頭の中が氷水を注がれたかのように冷たくて、ずきずき痛む。


「私が人間に見えるかい、哀れな少年」

 冷たく見下ろすその姿。……人間にはとても見えない。彼が人間であるなら、人形や恐ろしい姿の化け物も人間ということになる。この男を見て怖いとか人間じゃないと思わない人間など、居るはずがない。そう断言できる。

 それでも頷きたくは無かった。認めるということは、自らを絶望の淵へと追いやるということと同義であると思ったからだ。


 男の哀れむような、蔑むような視線が俺を苦しめる。

 変な物を食わされて体の調子がおかしくなった上に見知らぬ所へ連れて行かれ、更に気味の悪い男女に囲まれ、冷たく鋭い視線を向けられたり非現実的なことをぺらぺら話されたり……涙が出そうになった。出来ることなら助けを求めたい。

 けれど男は容赦しない。優しさのかけらも無い声で俺を追い詰めていく。


「……無駄なことを。真実から目を背けたところで、救われはしないのに。私達の存在を拒絶したってお腹は膨れやしないよ、坊や。彼女は月の民、私は化け狐。……ここは君達が『異界』とか『あちらの世界』とか呼ぶような世界。そして君が食べたのは」


「やめろ! 嘘だ、嘘だ……そんなもの、信じない! 人間じゃない? 元は月に住んでいた一族? 化け狐? おまけに異界だのなんだの……馬鹿も休み休み言え!」

 そうして叫ばなければどうにかなってしまいそうだった。

 俺が顔を真っ赤にしながら睨みつけても、男は少しも動じない。……人形のようだった。いや、人形の方がまだしも温かみがあるかもしれない。


「本当、人間って頑固だねえ。おまけにとても器が小さい。……真実一つ受け入れられない器など、器とは呼べないと思うよ私は。さっさと諦めれば楽になるのに。君はあれ――月片を口にしてしまった。口にした以上、もう後戻りは出来ないんだよ。早く認めた方がいいと思うよ? 死にたくなければ」

 死、という物騒な単語にどきりとした。死にたくなければ?どういうことだ。

 男が笑った。俺が予想通りの反応をしたことを喜んでいるかのようだった。


「気になるようだね。それならば教えてあげよう。……もっとも、私達の存在等を全く信じていない君に話したところで何の意味もないかもしれないけれどね。……君が昨日口にした月片は、毒物なんだよ。星條を始めとした月の民以外が口にしてしまうと、大変恐ろしいことになる。私とて例外ではない」


「毒、物?」


「そう、毒物。といっても食べた者を死に至らしめる……というものではないのだけれど。まあでも、ある意味ではそういったものより恐ろしい代物かもしれない」

 何だ、一体どうなるというんだ?俺はどんな毒物を食わされたのか?視線は自然と昨日俺に月片とかいうものを食わせた女に向かう。女はほんの少しだけ申し訳無さそうな表情を浮かべている。


「月片――というか月の民のみが食べられるもの全般――を食べるとねえ……本来自分達が口にしていたものを食べても、お腹が膨らまなくなる。水を飲んでも喉が潤わなくなる。体が月の民の食べ物以外受け付けなくなってしまうんだ」


「な……」


「心当たり、あるんじゃないかな。君今猛烈にお腹が空いているだろう」

 俺は思わず腹に手をやる。忘れかけていた空腹感が甦ってきた。


「もう君はね、今まで食べていたものを受け入れない体になってしまったんだ。お腹に入れたものはそのまま消えていく。生命を維持し、体を動かす為に必要な力……ええと、エネルギー……だっけ? そういうものを食べ物で補給することが出来なくなる。エネルギーを補給する方法は只一つ、月の民の食べ物を摂ることだ」

 夕飯を食べても、朝食や昼食をいつもより多めに食べても腹が満たされなかったのは、そのせいだった……?

 泣き喚き叫ぶ腹を満たし、からからになった喉を潤すにはもう、月片なるもの等を口にする以外方法が無い?


「それさえ食べていれば、大丈夫。死ぬことは無い。……死ぬことは、無いよ。けれど」


「な、何だよ……」

 男は微笑んだ。その笑みは悪意に満ちていた。


「食べれば食べる程、君は人間から程遠い存在になっていく。食べ続ければやがて……月の民に限りなく近い存在となるんだ。今の君はねえ……人間という枠から半歩程出てしまっている。残念ながら枠の外へ出してしまった足を戻すことは出来ない。君が生きる為にはもう、月の民が居る枠に向かって歩き続けるしかないんだよ」


 この男は何を言っているのだ。ばらばらに分解された言葉が頭の中を縦横無尽に駆け巡っている。それらを再構成して男の言ったことを理解しようとするけれど上手くいかない。

 自分は何を言われたのか。分からない、意味が全く分からない。


「月片を食べた後、急に苦しくなったり体が痛くなったりしなかったかい?」

 俺は頷かなかった。だが肯定の意が顔に出ていたらしく男は話を続ける。


「君の体の構造等は、月片を食べたことで変わったはずだ。相当大きな変化のはずだから……当然痛みや苦しみを伴うものだったろうね。体が悲鳴をあげただろうねえ」

 確かに昨日夕飯の後、息が出来なくなる位の激痛や熱に襲われた。


「そういう変化には、大きな力……ええとエネルギー……であっているよね――を使う。恐らくそれまで体内に溜まっていたエネルギーは全て消えただろう。まあ普通だったらその時点で、良くて意識不明悪くて死んでいただろう。けれど君は死んでいない。月片がもたらしたエネルギーだけは体内に残っていて、かつ君の体が人間のそれとは違うものになったからかな。普通の人間よりかなり丈夫になったんじゃないかなあ」

 人差し指でそっと触れた口元が妖しく歪む。


「まあでも、そのエネルギーにも限りがある。体を動かす力が完全に消えてなくなれば……いずれ死に至るだろうね」


「死……?」


「そう、死だ。飢えと乾きに苦しみながらじわじわと……ね。病院などに行っても無駄さ。人間にはどうすることも出来ない。救いを求める相手を間違えてはいけないよ?」

 男はこれ以上無い位邪悪で冷たい笑みを浮かべ、聞きたくもない言葉で俺を強く締めつける。

 ここから逃げ出したいと強く願った。手足を動かし、ドアを開けて……ここから逃げたい。ここにはもう居たくない、この男の視線から一刻も早く逃れたい。俺は女の存在をすっかり忘れていた。星條と名乗った女のことを考えたり、彼女の方を見たりする余裕がなかったからだ。


「選択肢は三つ。一つ目は私達の存在を認めず、現実から逃避し飢えと乾きに苦しみながら死ぬというもの。二つ目は現実を受け入れ、月の民の食べ物を口にし続けるというもの。そして人間をやめ『こちら側』の者になる。三つ目は自ら命を絶つというもの。全てを終らせたいならこれが一番良い選択肢かもしれないけれど……普通の人間より死ににくい体になっているだろうから、これまた結構大変かもね? さあ、どれにする」


 何を言っているんだ。一体この男は何を。死ぬか人間やめるかどちらか選べ?

 ふざけるな、ふざけるな!俺は絶対に認めない。こんなふざけた現実があるはずない!これは夢だ、夢なんだ!

 恐怖を吹き飛ばし、怒りを吐き出すように俺は叫ぶ。大声で。それが体力を奪う行為だったとしても叫ばずにはいられなかった。


「うるさい、俺は選ばない、信じない! 妖怪とか月の民とか……そんなものがこの世に存在する訳が無いんだ! これは夢だ……現実じゃない!」

 

「往生際の悪い子だねえ」


「往生際が悪くて結構! 誰が何と言おうと俺は信じない!」


「お願い、信じて頂戴。私は貴方を死なせたくないの」

 しばらくの間ずっと黙っていた女が口を開く。死なせたくない?『毒物』と称するものを食わせておいて何を言っているんだこの女は。

 腹が立ち、俺は女の胸倉を掴んだ。こんな乱暴で汚い真似をしたのは初めてだった。恥ずかしい、けれど服を掴む手を離すことは出来なかった。

 女は悲しげな表情を浮かべながらこちらを見ている。そういう顔をすれば許されるとでも思っているのだろうか?腹が立つ。


「そんなに言うんだったら、証拠を見せろよ! 自分が人間じゃないっていう証を!」


「この期に及んで……全く。お転婆紗久羅姫にも負けない頑固っぷりだ。まあ証を見せること自体はそう難しいことではないけれど……」

 面倒臭いんだよねえとため息混じりに語る男。自由を奪われている女の方は随分困惑しているようだった。

 勢いでそんなことを言ってしまった俺はすぐ後悔した。もしこの二人が本当に証拠を――俺を納得させることが出来るレベルのもの――を見せてきたら?

 どうしよう。俺は今自ら逃げ場を消し去ろうとしているのではないだろうか?


「証拠を見せれば良いのね? そうすれば私達の言うことを、信じてくれるのね」

 憂いに満ちていた瞳に、希望の色が映し出されていくのを俺は見た。女は自分の胸倉を掴んでいる俺の手にそっと触れる。あまりの冷たさに俺は震え、思わず手を離してしまった。

 自由になった女は男に何か耳打ちした。男の顔が歪む。


「まあ確かにそれは一番手っ取り早い方法かもしれないけれど……また汚れてしまうじゃないか。困るんだよね、面倒なんだよね、そういうのって。まあでもこのままじゃ埒があかない……その方がずっと面倒だ……分かったよ。君がお望みのものを持ってきてあげる。視覚だけでなく嗅覚にも訴えてやれば、これは夢だとか喚くこともないだろうしねえ」

 男は君の負けだ、と言わんばかりの笑みを浮かべると部屋から出て行く。

 部屋に居るのは俺と、あの女だけ。男が戻ってくる間俺は一言も喋らなかった。女はしきりに話しかけてきたが、無視した。


 沈黙を破ったのはドアが開く音。男は右手に何かを握っている。それはぎらぎらと銀色に輝いていた。一体あれは何だろう?暴れ狂う心臓の上に手をやりながら男の手元を凝視する。男が笑いながら近づいてくる。心臓が張り裂けそうになり、腹が警鐘を鳴らす。これから何が始まるというのか。

 男が女の傍らにやってきて、手に持っていたものを彼女に渡す。それは……ナイフだった。銀色の月みたいな色で、男の瞳位鋭く、女の肌のように冷たそうな……。


「彼女――月の民は、不老不死の一族らしい。妖とはまた少し違う存在だ。妖は老いるし、死ぬ。まあ君達よりはずっと長生きだし体も丈夫だし、歳のとり方もかなり緩やかだけれど」


「だから、何だ」

 嫌な予感がした。


「目を瞑ったり、意識を失ったりしたら駄目だよ?」

 男は女に視線を向け、にたりと笑った。女はそれを受けて無邪気に微笑んだ。


 一瞬のことだった。


 真っ赤な……彼岸花や夕陽よりずっと鮮やかで赤いものが飛び散った。生温い何かが頬にかかる。とても嫌な匂いが鼻を、喉を深くえぐった。

 何が起きたのか理解できなかった。非日常的な光景が俺の頭の中にあった一切のものをかき消したのだ。頭の中は真っ白で、けれど視界に映っているのはとても赤いもので。

 吐くことも叫ぶことも出来なかった。何も、出来なかった。


「流石に、痛い、な……」

 弱弱しい声と笑み。真っ白だった肌には今鮮やかな彩色がされている。

 銀色の刃も元の色が分からない位汚れていた。


「やりすぎだよ、君。何もそこまでしなくても。可哀想に、とっても痛そうだ」

 何一つ表情を変えぬまま男は淡々と述べる。異常な光景を間近で見ていながら、眉一つ動かさない男の異常性が俺を正気に戻させる。


 女は自らの体をナイフで切り裂いたのだ。その傷はかなり深いだろう。普通の人間なら……死んでいる。誰がどう見てもそう思える位、刃を深く突き刺していたのだ。

 俺はただ、呆然としていた。


「……とても痛い、痛いわ。でもいいの。痛くても、いいの。手に入るのなら……願いが叶うのなら、どんな痛みにだって私は耐えてみせるわ」

 女は笑っていた。何故この状況で笑っていられるのかさっぱり理解できない。

 息を荒げながら、自分が切った部分を手で抑えている。それからしばらくして女はゆっくりその手を離した。


「もう、大丈夫よ。思った以上に回復が早いわ。私達月の民って本当、すごいのね」

 もうけろりとしている。呼吸もすっかり元通りで、痛みをこらえている様子も全く無い。そんな馬鹿な、心の中でそう叫ぶ。


「出雲が言ったでしょう? 月の民は不老不死の種族だと。傷の回復も早いのよ――妖さん達よりずっとね」

 女は呆然としている俺の手を取り、自分がさっきナイフで裂いた部分に触れさせた。

 嘘だ。触れた瞬間そう思った。……傷が無い。すっかり塞がっている。血も止まっていた。あるのはみみず腫れのようなもののみ。そのみみず腫れも俺が触れている間に消えていき、ものの数分で完全に消えて無くなった。


 ナイフで裂いたのは演技だった?いや、そんなはずは無い。女は確かに裂いていた。おびただしい量の血も、偽物には到底見えない。あらかじめ本物の血の入った袋を隠しもっていて、それを切り裂いた?いや、そんなものは全く見えなかった。彼女が裂いた辺りに血糊等が入った袋を隠せる場所はなかった。

 夢?いやそれも違う。……この匂い、感触……全てが本物だ。どう考えても夢なんかではない。なら、それなら。


「これで分かったかい? 私達が人外の存在であるということが。それともタネや仕掛けがあるんじゃないかとか、これは夢だとか……まだ言い張る?」

 言い張れたらどれだけ良いか。強烈ですさまじい光景は俺の体から一瞬で魂を引き抜いた。目の前で起きた出来事を否定するだけのエネルギーはもう俺の体内に残っていない。

 何も言えなかった。


 再び扉が開き、一人の少女が中に入ってきた。カーペットや女の肌を染めているものに似た色の着物を着ている。十歳位の娘だと思う。頭のてっぺんにつくったお団子を愛らしく飾っているリボンの色も赤い。

 少女は手にタオルの様なものを持っていた。


「……汚れ、これで少し拭けばいい」

 それを差し出す娘はこの異常な光景を見ても顔色一つ変えず、淡々とした声だった。この娘も矢張り『普通』ではないということか。

 女はタオルを受け取るとそれを傷口があった場所にあてがい、ごしごしとこする。肌は何度もそうしているうちに少し綺麗になったようだが……それでもまだ、白とは程遠い色をしていた。

 自分の体を拭き終えた女は俺の頬にタオルをあてがった。


「血、ついているわ。ごめんなさいね……思った以上に飛んでしまったみたい」

 恍惚な表情を浮かべながら優しく俺についた血を拭き取る。そんな女からはとても嫌な匂いがした。

 しばらくして女はタオルを床に落とし、両手で俺の頬に触れた。


「改めて言うわね。貴方が生きていく為には、あの飴が必要になる。あれが無ければ、死んでしまうわ。生きる為に食べ続けるしかない。最終的に貴方は人間ではなくなるの。私と同じ存在になるのよ。私のエンデュミオン。死にたくなければ、私に従いなさい」

 押さえきれない喜びを笑みにのせながら、残酷な言葉を口にした。エンデュミオンというのが何であるのかは分からない。けれどそんなことはどうでも良かった。

 俺は昨日とんでもない物を口にしてしまった。それを食べ続ければいずれ目の前に居る奴等と同じ化け物になってしまう。だが、食べなければ飢えて死ぬ。

 どちらを選べばいい?おぞましい化け物になるのと、死ぬのと、どちらが楽だ?


 こいつらは――というよりはこの女――は俺を月の民とかいう奴に近い存在にしたがっている。親切心を逆手にとってこんな卑劣な真似をした女。はい分かりましたといえばそれこそこの女の思う壷だ。

 ならばいっそ、死を選ぶか?死をもってこいつらの鼻を明かしてやろうか。

 いや、駄目だ。そんなこと出来ない。自ら死を選ぶなんて……。死の苦しみはきっと耐えがたいものだろう。何故自分が苦しい思いをしてまで死を選ばなければいけないのか。


 死にたくない。……死にたく、ない。今だって異常な飢えと渇きに苦しんでいるのだ。これ以上苦しい思いなど、したくない。


「お前の言うことを聞けば……俺は生きていられるのか」

 女は微笑んだ。俺の答えなど最初から分かっていたかのように。


「勿論よ。今みたいに苦しむこともないわ。私は貴方を愛している。だから、貴方を殺したりなんかしないわ、絶対に」

 愛している?何でこの女が俺のことを?……それでこんなことをしたっていうのか?ふざけるな、こんなことしておいて……。

 ふっと思い浮かんだのは、静香の笑った顔だった。


「静香……」

 その名を静かに呟く。あの月片というものを食べ続ければ、俺はいずれ化け物になる。そうなれば彼女とはもう一緒に居られなくなるだろう。死を選んでも、生を選んでも彼女を苦しめることになる。それが何より辛い。それにもしかしたらこの女達は彼女のことを知っているかもしれない。もしここで頷かなければ……彼女の身に危険が及ぶかもしれない。それは絶対嫌だった。

 俺は静香を裏切る。そして目の前に居る女の手を取る。


 でも、絶対に目の前に居る化け物のことを心の底から愛したりはしない。断じて、しない。

 俺はゆっくりと頷く。女は俺の思いに気がつくこともなく嬉しそうに笑った。


「交渉成立だね。良かったねえ、愛しい羊飼いが手に入って」


「ええ、とても嬉しいわ。ねえエンデュミオン。私を愛してね。心の底から。貴方の恋人は今日からあの子ではなく、私になるのよ」

 矢張りこの女は知っていたのか。静香のことを。


「あいつに……静香には指一本触れるな。俺の友人や家族にも、一切関わるな」


「ええ、ええ分かっているわ。私の言うことを聞いてくれるのなら、あの子を傷つけたりはしないわ」

 脅迫じみた言葉を笑いながら吐き、そしてゆっくりと顔をこちらに近づけて。


 柔らかく、冷たく、気持ち悪いものが俺の唇に触れた。


 これが地獄の始まり。

 


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ