第十四・五夜:そして羊飼いは月に抱かれて消える(1)
自分のものとは到底思えない、恐ろしく白くなった手を眺めていた。血が体内を巡っているはずの手。なのに全くといっていい程温もりを感じなかった。
今はもう、色々考えることすらむなしく思える。先日まで暴れていた感情は、どこかへ消え失せていた。考え、怒り、憎み、苦しむことをやめた自分は最早人形と変わらない存在なのだと思う。人形と同じ。その事実さえも、魂を激しく燃やす燃料にはもうならない。
俺は今、ある館の部屋に居る。椅子に腰掛け、自分という存在が完全に死ぬ時を静かに待っていた。
カーテンがかかった窓の前に、一人の男が立っている。薄い紫――藤色というのだろうか――の美しく長い髪。人間のものとは思えない……いや、実際そこに立っている男は人間ではなかった。
そして俺もまた、人間では無い。ほんの一週間程前までは、人間だった。でも今は違う。今の俺は人形であり、化け物であった。
俺はすっかり白くなった手を眺めながら、こんなことになってしまった経緯を思い返していた。
『そして羊飼いは月に抱かれて消える』
涼しく心地よい風に撫でられながら、俺は静香と一緒に橙と紺の入り混じった空の下を歩いていた。静香は俺の幼馴染であり、恋人でもある。
部活を終え、いつものように昇降口前で落ち合い学校を後にした。手は繋がない。そういうことは滅多にしなかった。だって、恥ずかしいから。幼稚園や小学校に通っていた頃(未だ恋人同士にはなっていなかった頃)はしょっちゅう手を繋いでいたけれど……。
会話も殆ど無い。少し喋っては無言になり、しばらくしてまた口を開く。それの繰り返しだった。静香はそこ等に居る女子に比べると大人しい方で、ぺちゃくちゃ際限なく喋るということは滅多にしなかった。彼女が饒舌になるのは、不安や悩みごとを抱えている時や、ものすごく興奮している時位のものだ。
かくいう俺もまた、友人達ほど喋ることが好きでも、得意でもなかった。暗いとか、人付き合いが悪いとか無口な奴だと思われない程度には喋っているが。
二人してそうだったから、会話が途切れて静かになっても全然気にならなかった。
静香が今喋りたい気分なのか、そうで無いのかというのは何となく分かる。
だから彼女が喋りたそうにしている時は、積極的に口を開いた。そうで無い時は口を閉じ、ただひたすら道を進む。
そのことを苦痛だと思ったことは無い。むしろとても楽だった。
彼女と一緒に居て体や心に大きな負荷を感じたことは殆ど無い。穏やかで心地良い――喩えるなら殆ど波が無い海に身を任せ、ぷかぷか浮かんでいる時のような感じがするのだ、静香といると。
そんな俺達のことを、友人等は「長年連れ添ってきた夫婦みたい」だと言う。
まだ恋人として付き合っていなかった中学時代から、そんなことを言われていた。
理由はよく分からない。聞いても「何となく」とか「上手く説明出来ないがそう思う」などという答えしか返ってこないのだ。
ただ俺も静香も、そう呼ばれることを嫌だとは思わなかった。そう言われてからかわれる度、よせよ恥ずかしいと相手をたしなめながらも心は弾んでいた。
幸せだった。きっと自分はこの先もずっと、穏やかな海の上を漂い続けるのだろうと当たり前のように思っていた。
そう思って「いた」のだ。
全国どこにでもありそうな、平凡で地味な風景広がる道を二人で歩きながら、部活のことや来月行われる文化祭のこと、そして最近この町――しかも俺達が住んでいる辺り――に出現している笛吹き魔のことなどについて話した。
笛吹き魔。それは決まって夜現われる謎の怪人(?)だ。
舞花市方面から桜町にやってきて、笛を吹きながら町を歩き(どうも毎晩同じルートを辿っているらしい)最終的に俺の家近くに止まり、しばらく笛の演奏をし、帰っていく。笛の音は決して小さくはなく、はっきりと聞こえる。普通なら安眠妨害となるはずなのだが、不思議とそうはならない。耳に入り込んでくるというよりも、頭に直接響くという感じで……。上手く説明出来ないが、兎に角普通の笛の音といった感じではないのだ。
俺は、その音色を聞くと夢を見る。それはいつも同じ夢だった。誰かが何か喋っている夢なのだが……何を言っているのか、どんな人が言っているのかはさっぱり分からない。モザイクがかかっている上に映像が常にぐにゃぐにゃ動いているせいで意味が分からない感じになっているのだ。同じく笛の音を聞いている両親や静香は、そういった夢は見ないらしい。
ここ一週間ちょっと毎晩笛吹き魔は現われていた。
ところが、だ。昨晩はいつもと様子が違った。笛吹き魔が演奏を途中でやめたのだ。しばらくして男と女の話す声が夢の彼方で微かに聞こえた。その声はしばらくして消えていき、また笛の音が再び聞こえることもなかった。
「どうしたんだろうな、笛吹き魔」
俺が呟くと、静香が肩をすくめる。
「さあ? 私としてはさっさと笛吹き魔には消えてもらいたいわ。案外今夜は来ないかもしれないわね。その方が良い。あの笛の音色……何だか気味が悪いんですもの。とても綺麗だけれど……何だか不安な気持ちになるの。俊樹はそういう気持ちにならない?」
少し苦しげな表情を浮かべる静香を見ながら、俺は首を横に振る。
嫌だとか気味が悪いとか……そんな風に思ったことはなかった。
「まあ、居なくなってくれれば良いなとは思うけれど。平凡でとても地味だけど平和な日常がぶち壊されるの、俺は好きじゃないからさ」
平和が何より。そんな言葉を付け加えて笑うと、静香の表情が柔らかくなっていった。小さな笑みを浮かべた彼女は、こくりと頷く。
「そうそう。平和が一番」
俺も笑顔を浮かべる。そしてまた無言の時間が続く。結局静香と別れるまで、その沈黙が破られることはなかった。
別れ際、彼女は右手を小さくあげて「また明日」と一言だけ口にした。明日は世間一般でいうところの『デート』というやつをする予定だった。
「おう、また明日」
こちらもそれだけ言って、家を目指して歩く。俺の家まではここから歩いて二分もかからない。小さく鳴る腹の虫。空腹を訴える切実な鳴き声に苦笑いしつつ、足を進めていった。
曲がり角を左に折れると、視界に自分の家が入る。今日の夕飯は何だろうか、そんなことを考えながら仄暗い空を見上げた。
だから、最初は電灯の下に立っていた『あの女』に気がつかなかった。あの女が俺に話しかけていなかったら、多分気がつかないまま家へ帰っていただろう。そのまま気がつかなかったらどれだけ良かっただろうと後悔することになるのだが……。
声がした方を向くと、そこに二十代半ば~三十歳程と思われる女が立っていた。
まず目に飛び込んできたのは、ぎょっとする位白い肌だった。その肌が月光のように辺りを照らしていた。その体とは正反対に、長い髪はとても黒い。
育ちが良い感じで、どこぞのお嬢様ではないだろうかと思った。少なくともこの辺りに住んでいる人間では無い。
整った顔立ち。正直に言えば、ほんの少しときめいた。半身とも呼べる大切な恋人が居ることを一瞬忘れさせる位、その女は美しかった。だがときめきはすぐ恐怖心へと変わっていった。
顔が整いすぎていて、逆に気味が悪かった。人間ではありえない完璧な(しかも見た感じ化粧は殆どしていない)、美貌をもつ――精巧な人形を思わせた。
目の前に居る女は、人間なのだろうか。俺はここから逃げた方が良いのではないだろうか。そんなことを俺は考えた。頭が警報を鳴らしているような気がする。俺は少し身構えながら、女をじっと見つめる。
女は俺が立ち止まったのを認めると、やや緊張しているような面持ちで口を開いた。
「あの、ちょっと宜しいかしら。道をお尋ねしたいのだけれど」
その言葉を聞いて少しほっとした。妙な不安が拭い去られていくのを感じる。
俺は「いいですよ」と言って頷く。この辺りのことなら何となく分かる。女はほっとしたような表情を浮かべた後、微かに笑んだ。
女が聞いてきたのは、ここからそう遠くない場所にある店までの道。そこまでの道順は別に複雑なものではなかったから、説明はすぐ終わる。女は俺の顔をじっと見ながら、何度か理解したことを示すように頷いた。
一通り説明が終ると、女は満足気に微笑む。どうやら一度で飲み込んでくれたらしい。
「ありがとう」
「いいえ、それじゃあお気をつけて」
俺は女の傍から離れ、再び歩き出そうとした。だがまたすぐ女に呼び止められ、上げた足を慌てて地面につける。
見ると女は箱のようなものをこちらに突き出していた。その箱は女子がアクセサリーや小物を入れるようなもので、可愛らしいデザインであった。
何でそんなものをこちらに突き出すのかと訝しがる俺を見て、女ははっとした表情を浮かべると恥ずかしそうに俯いた。
「いやだわ、突然ごめんなさいね。あの、その、ちょっとしたお礼を差し上げようと思って」
何故か妙に震えている手で箱を開ける。箱の中には歪な形をした、透き通った水色の石らしきものが詰まっていた。夏祭りの屋台である『宝石すくい』に使われるうそっこの宝石にどこか似ている。
「これ、飴なの」
「飴?」
俺は箱の中に詰まっていたそれを凝視する。言われて見れば、飴に見えないこともない。
「少し珍しい飴なのだけれど。もし良かったら、お一つどうぞ。ほんのお礼の気持ちよ、是非受け取って」
飴のような、それとは全然違うもののような……何ともいえない見た目のそれを前に、俺は受け取ろうか正直少しだけ迷った。
けれど最終的に折角の厚意は受け取っておこうと思い、ありがとうとお礼を言ってそれを一つ手にとる。それは少しだけひんやりしていて、肌触りはつるつるしている。
俺がそれを取ったのを見ると女は幸せそうな表情を浮かべる。飴一つ受け取った位で何故そんな表情を浮かべるのだろう……その時の俺には分からなかった。
女は改めて礼を言い、会釈するとその場を立ち去った。
「さて……この飴どうするか」
手のひらにのった飴。多分夕飯の支度は殆ど終わっているはずだ。ご飯を食べる直前に飴を舐める気にはなれない。しかしその飴は包装されていないから、カバンなどに入れておくわけにもいかない。
結局今舐めることにした。噛んで砕くなりなんなりしてさっさと終わらせておう。
口の中に放り込んだ飴は、何とも言えない味がした。不味くはない。むしろ美味しかった。けれど何味なのかさっぱり分からない。何種類かの果物が混ざっているのか?何の味なのか推理しながら、家のドアを開ける。
その飴はなかなか口の中で溶けなかったから、仕方なく俺はそれを噛み砕いて飲み込んだ。少しもったいなかったかなと正直思ったが(それ位美味しかったのだ)。飴で余計刺激されたらしい腹がけたたましい音を立てる。正直な腹だと苦笑した。
*
異変に気がついたのは、夕飯を終えて自分の部屋に戻った後だった。俺は部屋に入るなりベッドにダイブし、買ったばかりの雑誌を開いた。
それから数分後のこと。俺はぐううと何かが唸るような声を聞き、起き上がる。近所の犬が唸っているのだろうかと始めはそう思った。だが、実際はそうではなかった。
先程も聞いたような気がする、音。俺はおそるおそる自分の腹に手を当てる。
ぐうう。腹から、空腹を訴える音が聞こえてきた。
「嘘だろう?」
しかしその音は間違いなく自分の腹から聞こえているのだった。
その事実を認識した途端、俺は異様な空腹感を覚える。そんな馬鹿なと思った。俺はついさっき夕飯を食べたばかりだ。少量しか食べていないのならともかく、今夜はいつもより多めの量を食べていた。にも関わらず腹が全く満たされていないのだ。むしろ夕飯を食べる直前より腹が減っている感じがする。
更に俺は喉に手をやる。水を沢山飲んだはずなのに、喉が異常に渇いていた。
頭が熱くなってきた。おまけに、痛い。脳内で花火が打ち上げられているような感覚に襲われる。動悸もした。
骨が熱した鉄のようになってきて、体中の筋肉が悲鳴をあげている。
痛い、熱い、苦しい。悲鳴さえ、出てこなかった。思考も完全に停止した。
ベッドで悶えながら、どうにか親に助けを求めようとするが、上手くいかない。このまま自分は死ぬのかと思った。
しかししばらくして――自分が思っていたよりは短い時間だったようだが――痛みや熱が唐突に消え失せた。
汗が体中を伝う。深呼吸をして息を整えた。苦しくは無くなった。だが、空腹感や喉の渇きは変わらない。
たまらず、買ってあった菓子に手を伸ばす。祈るような気持ちでそれらを平らげるが、矢張り腹は満たされない。
一階に下りて冷蔵庫を開ける。そこに入っていたウーロン茶をがぶ飲みした。けれど少しも喉は潤わない。
頭の中が真っ白になる。浮かび上がっては垂れていく汗。
どうしてこんなことになってしまったのか。早足で部屋に駆け込み、真っ白になったりぐちゃぐちゃになったりする頭をベッドに押しつける。
何の前触れもなく起きた体の異変。その変化をもたらしたものは何なのだろうと「動揺」「混乱」という名の空気によって膨れ上がり、今にも爆発しそうな頭を無理矢理回転させながら、原因を探ろうとする。
病気?それともこれは夢?現実的な考え、非現実的な考えが頭の中を巡る。
考える間にもどんどん頭の中は膨れ上がっていき、空腹感や喉の渇きの度合いは酷くなっていった。
考えた。考えた末、訳が分からない、原因など分かるものかと思考を停止させようとしたその時、俺の脳裏にある光景が浮かぶ。
可愛らしい箱、宝石にも似た『飴』そしてそれを俺に差し出した女の姿。
人間とは到底思えない、美しい顔立ちと白く輝く肌。俺はそんな彼女を見た時、この女は人間ではないかもしれないから逃げた方がいいかもしれないと、彼女が口を開くまで思っていた。
普通なら、幾らものすごい美人を目の前にしてもそんなことなど考えないかもしれない。けれど。……俺の住む桜町は基本的には平和なところだ。だが、時々常識では考えられないようなことが起きる。この辺りには今も妖怪等が住んでいるのだという話を何度か聞いたこともある。
そういうところに住んでいたから、俺は彼女を見た時そんなことを考えたのだ。馬鹿馬鹿しいとは思った。妖怪とか、そういった類のものなど居るわけが無いと俺は思っている。それでも俺は思った。思ってしまった。妖怪等の存在を信じない俺が、そんなことを考えてしまう位に道を尋ねた女の容姿は異様に映ったのだ。
「もしあの女が真実、人間じゃなかったとしたら……俺にくれたものが本当は飴ではなかったとしたら……」
貰った『飴』は初めて口にした味だった。そしてその『飴』は舐めてもなかなか溶けなかった。あれを『飴』だと思ったのは、それをくれたあの女が「これは飴だ」と言ったからだ。あの言葉が嘘だった可能性だってある。
そうだとして、何故女は嘘を吐いてまで俺に飴を食べさせたのか(まさかこれが飴じゃないとは知らなかったなどというパターンではないだろう)。そもそも、あの女が俺に話しかけてきたのは本当に「道を聞く為」だったのだろうか。
女の目的は「道を聞くこと」ではなく「飴(と偽った何か)を食べさせること」だったのではないだろうか。俺が飴を受け取ったのを見て、少しほっとしたような表情を浮かべたのは目的を達成することが出来たからだったのでは……。
そこまで考えた後、俺は苦笑した。その笑いは、少ない情報を組み立ててファンタジックで馬鹿馬鹿しい物語をつくってしまった自分に対して向けたものだ。この町が妙なことなど一切起こらないところで、かつあの女の顔がいたって平凡なものであったら絶対にこんなことは考えなかっただろう。
そんなことを考えるために、無駄なエネルギーを使ってしまった。腹の音がますます大きくなっているのを感じ、ため息をつく。色々考えている内に心は少しだけ落ち着いた。
原因を推測するより、これからどうするべきか考える方が大切かもしれない。
まあ何をするといっても、事態が良い方向に向かいそうになければ親に相談して病院へ連れて行ってもらうということ位しか思い浮かばないが。或いは駄目元であの飴をくれた女を探して問い詰めてみるとか……。
「あんまり心配かけたくないな……それに明日は」
明日は静香とデートの予定だ。まあ具合が悪いといってキャンセルすることは出来る。無理をして彼女に迷惑をかけてしまうのなら、そうした方がずっと良いとは思う。
だが、最終的に俺が下した決断は「とりあえず様子見。のっぴきならない状態になったら言う」というものだった。何故そんな判断を下したのか。エネルギー不足で脳が正常運転をしてくれなかったからなのか、それとも下らない意地だったのか。理由は分からない。
結局その日は風呂に入ってさっさと寝た。といっても空腹のせいでまともに寝られなかったが……。
自分の身に一体何が起きているのか。それを知ったのは、翌日のことであった。
*
朝目が覚めたらすっかり体調が良くなっていた……そんな展開を、ほんの少しだけ期待していた。だが現実はそんなに甘くは無い。いつもより多めのご飯を食べたが結局腹は満たされず、水を大量に飲んでも喉は少しも潤わない。
空腹感と喉の渇きは酷いものだったが、それでも体をいつものように動かす位のエネルギーは残っているようだった。これなら倒れることもないだろう……そう思った。
でも、この状態がいつまでも続いたらどうなるか分からない。栄養分や水分がきちんと吸収されていないのだとすれば……いずれは倒れてしまうだろう。
それが分かっていながら、親に話す決心がつかず着替えを終えると逃げるように家から飛び出す。
「あ、おはよう」
勢いよく玄関前の階段を飛び降りた俺を、静香が出迎える。大体彼女の方が先に家を出て、俺の家の前で待っているのだ。
清楚な服装がよく似合う彼女は、微笑みながら歩き出す。
「今日はどこ行く?」
「うーん、三つ葉市でいいと思う」
正直あまり遠出はしたくなかった俺はすぐ隣にある街の名をあげる。あそこまでならバスで簡単に行けるし、色々あるからそこそこ遊べる。
「あの、私見たい映画があるんだけど……いいかな?」
三つ葉市に向かうバスに乗り、ぽつぽつとお喋りを始める。静香が見に行きたいと言った映画は今話題になっているものだった。拒否する理由は特になかった。俺がいいよと頷くと、静香は満足気に微笑む。
「俊樹ならきっとそう言ってくれると思った。ふふ、ほら」
静香がカバンから取り出したのは映画の割引券。上映時間もすでに調べてあるらしい。
街を適当に歩いて、お昼を食べた後映画を見ようと彼女は言う。
今日一日の予定を簡単に立てた後は、いつものように無言になる。俺は腹の音が彼女に聞こえないことを願った。だが隣に座っている彼女に聞こえないはずもなく。手で覆った口から笑い声が少しだけ漏れていた。
笑ってくれるのなら、それでいい。兎に角今日は彼女を心配させないようにしなければと心に固く誓う。
しかしそう誓ったからといって腹の虫や喉の渇きがおさまるはずもなく。
我慢できず、何度もジュースを買ったり水を飲んだりした。意味がないことは分かっていた。それでも飲まずにはいられなかったのだ。自動販売機へ足を運ぶ度、静香の視線が体に突き刺さる。
頭の中でペットボトルや好きな食べ物がぐるぐる回っている。静香の話、自分が話している内容、どれも頭の中に入ってこない。体を動かすのがしんどい。
静香が俺の異変に気づかないわけがなく、最初の内は輝いていた表情がだんだん曇っていくのが見てとれた。声も段々小さく、暗くなっていった。しっかりしなければ、そう思った。けれどどうしても自動販売機から目を逸らせなかったし、話にも集中できなかった。
昼にしようと入ったファミレスで、いつもなら絶対に食べられない位の数のメニューを頼んだ。ついでにドリンクバーも頼む。俺は「寝坊して朝食をとれなかったから、腹が減っているのだ」とか「喉が少し痛くて、水分をとっていないと落ち着かない」などと苦しい言い訳をした。勿論そんな言い訳が彼女に通じるはずは無く。
静香が段々と饒舌になっていく。いつもの五倍は話している。それが何を意味するのか分からない俺ではない。どうにか彼女の不安を拭い去ってあげたいのだが、そんなことをする余裕が無い。俺は彼女のサインに気がつかないフリをしながら、ひたすら腹に水分と固形物を入れる作業を繰り返していた。
ファミレスを出て、映画館へ向かう間も彼女は喋り続けた。静香が普段これだけ喋ることはまずない。だが俺には彼女が喋ったこと半分も理解出来てはいなかった。頭がぼうっとしていて、耳から入ってきた言葉をすんなり受け止められない。
腹が減った。喉が渇いた。何か食べたい。何か、飲みたい。静香を心配させたくない。けれど食べずには、飲まずにはいられない。
映画を見ながらポップコーンやチュロスを食べ、ビッグサイズのジュースを飲み干す。映画の内容は一切頭に入らなかった。EDテーマがどんな曲だったかさえ、思い出せない。
映画館を出た後、色々な店へ行った。どこへ行ったのか思い出せない。ただ、静香が服を見ている間ジュースを何本も飲んだことだけは覚えている。
「公園で……休もうか」
静香が顔をあげ、じっと俺の顔を見つめる。苦しげなその表情に俺は胸が締め付けられる思いがした。彼女がそんな顔をする原因が自分にあることは分かっていた。分かっていながら、何も出来なかった。それがたまらなく辛かった。
三つ葉市にある大きな公園には、休日だけあって沢山の人がいた。目の前で空いたベンチに二人で腰掛ける。
「……笛吹き魔、昨日の夜来なかったね」
話題が尽きたらしい彼女はしばらくの間黙っていたが、やがて沈んだ声でぼそっと呟いた。それを聞いて俺は小さく「ああ」と答えた。
そういえばそんな奴いたっけ。すっかり忘れていた。空腹感等がその奇怪な存在から目を逸らさせていたのだった。
確かに言われてみればそうだ。昨日の晩、笛吹き魔は現われなかった。静香の言葉を聞いて、ようやくその事実に気がついた。
「このまま来なければいいよね」
「うん、そうだな……」
また沈黙が続く。それを時々破るのは、腹の虫が鳴く音だった。
静香が俺の方をじっと見つめている。一体どうしてしまったのか――彼女の目はそう話していた。音無き言葉が次々と投げかけられるのを感じる。それでも俺は話さなかった。
しばらくして、静香は震えながら立ち上がった。
「ジュース、買ってきてあげる」
声も震えていた。俺に向けた笑みは硬く、目は心なしか潤んでいた。
逃げるように離れていった彼女の背中に俺は「ごめん」と小さな声で謝罪の言葉を投げかける。彼女が消えたのを見て、深いため息をついた。
今日のデートは矢張りキャンセルした方が良かった。そう心の底から思った。
静香のせいなんかじゃない。全部俺が悪いのだ。こんな状態でどこかへ出かけようとするなんて、馬鹿のすることだ。
彼女がどんな思いをしながら喋り続けていたか。それを考えるだけで苦しくなる。苦しくて、辛い。でもそんな思いは腹を満たす糧には決してならない。
彼女が戻ってきたら、ちゃんと言おう。幾ら食べても飲んでも満たされないという部分は言わない。でも具合が悪いということはちゃんと言おう。そして帰ろう。……帰ったら、親に相談しよう。
静香の悲しそうな表情を見て、ようやく正常な判断を下すことが出来た。
俯きながら考えていた俺を、誰かの影が包み込んだ。ああ静香が戻ってきたのだ、そう思った。
ちゃんと言わなければ。俺は顔をあげた。
だがそこに立っていたのは静香ではなかった。長い髪と細い体が目に映る
女かと思ったが、よくよく見てみるとどうやら男であるらしいことが分かった。昨日の夜会ったあの女によく似た雰囲気を漂わせている。
見た者の心臓を凍りつかせる化け物ではないだろうか、と思う位美しい顔立ちをしていた。
男の瞳はつららに似ていた。鋭くて冷たくて……。その瞳でじっと見つめられた俺は空腹を忘れた。心臓を掴まれる思いがし、頬を冷や汗が伝う。
「見てごらん、あそこに君のお姫様がいるよ」
顔立ち、瞳と同様に声もまた美しく、冷たい。男は細く白い指でどこかを指した。
俺のお姫様?静香のことだろうか?訳が分からないまま、男の指した方を見た。指差した先には沢山の人が居たが静香の姿は無かったし、見知っている人もいなかった。
「一体誰のことを指して……あ!」
見知らぬ人が誰一人いないわけではなかった。
見覚えのある白い肌が俺の目に映った。まさか、あいつは。長く黒い髪、白い肌、どこぞのお嬢様っぽい服装。
背筋を凍りつかせる位美しい、あの女だった。俺に『飴』を渡したあの。
「お前!」
俺は勢いよく立ち上がり、叫んだ。女は子供の様に無邪気な笑みを浮かべながら背を向け、舞うように逃げる。逃げられた以上、追うしかない。
あの女は何かを知っている。俺の動物としての本能が叫び声をあげた。追いかけろ、追いかけろ、あの女を追いかけろ!と。
足が思ったように動かない。自分がきちんと走れているのかどうかさえ、分からない。腹が減って気持ち悪い。叫ぶ度喉が枯れていく。
「待て!」
女は公園の出口へ向かって走っていた。どう見ても足が早いようには見えないのに、なかなか追いつけない。女が見た目以上に早いのか、それとも俺の脚がいつもより遅いのか。
追いかける途中、ジュースを持っている静香の姿が見えた。彼女の隣に見たことがある人が立っていたが、その時の俺にその人物の名を思い出す余裕は無かった。
「悪い、今日は俺帰る! 本当ごめん! また後でメールするよ!」
振り返り、呆然としている静香に最低限伝えたいことだけ言い、また走ることに集中した。途中何度も吐きそうになったが、懸命にこらえた。
俺の体内に残る僅かなエネルギーがみるみるうちに消えていく。だがここで止まるわけにはいかないのだ。あの女を追いかけ、問い詰めるまで倒れるわけにはいかない。
公園を抜けると左右に分かれた道が現われる。どっちへ行ったのだろう。まず左を見る……居ない。次に右……こちらにも、居ない。
「くそ、どっちへ行ったんだ……!」
まさか、見失ったのか?絶望と疲れが大波となって一気に押し寄せ、俺の意識を彼岸へさらっていこうとする。
「一体、どっちへ……」
「こっちよ」
あの女の声だ。声は――背後から聞こえてきた。振り向こうとした俺の目を白い手が覆い隠す。冷たい……覆われた目が痛い。
それと同時に意識が遠のいていく。立っていられない、何も考えられない。
俺は多分、その場で崩れ落ち、意識を失った。