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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
我が愛しのエンデュミオン
60/360

我が愛しのエンデュミオン(5)

「そう、私は星條。麗月京に住まう月の民。貴方達は私を――そして私の愛するエンデュミオンを探していたのでしょう? それとも、あても無く探しても見つかるわけがないと思って、あの人に助けを求める為にここへ来たのかしら?」

 女はあっさりと自分が星條であることを認めた。つまり、さくら達の推測は当たっていたのだ。

 彼女は背にそびえる満月館をちらりと見る。その何気ない仕草さえ、とても魅力的で美しい。月の化身、月の女神……そんな言葉が相応しい姿に思わず二人は見惚れてしまった。彼女が静香から俊樹を卑怯な手を使って奪った(であろう)人であるということも忘れて。

 しばしの間訪れる静寂。


(あの人……って出雲さんのこと、よね。満月館を見ながら言ったのだから。星條さんと出雲さんは、知り合いだったの?)


「彼と知り合ったのはつい最近のことよ。私は彼のお陰で全てを手に入れることができたの」

 さくらの思いを見透かすように、星條が答えた。

 その答えを聞いて紗久羅がはっとした表情を浮かべ、彼女を指差した。


「ま、まさか、牧田先輩の家の前で話していたっていう男って」


「貴方の想像通りだと思うわ」

 目蓋を閉じ、くすりと星條が笑う。


(笛吹き魔――星條さんと話をしていたのは、出雲さんだったの? そういえば)

 さくらは、紗久羅が出雲に笛吹き魔とコスプレ女の話をしてやったと言っていたことを思い出した。彼はどうでも良いと答えたらしかったが……。出雲は気まぐれな性格の持ち主だ。後になって少し興味を持ち、夜笛吹き魔を探しにふらりとこちらへ出てきたのかもしれない。


 紗久羅が出雲に話をした日の夜、男と女が喋っている声が牧田家周辺で聞こえた。……そして物語は大きく動きだした。

 さくらは不安になって紗久羅を見る。さくらが思った通り、その事実に気がついたらしい紗久羅の顔は真っ青になっていた。

 自分が出雲に笛吹き魔の話をしたせいで、こんなことになってしまったと思っているのだろう。


(でも紗久羅ちゃんは悪くない。悪くない……)

 さくらは満月館を見上げる。カーテンがかかった二階の窓に、誰かの人影が映っていた。細長いそのシルエットの主が誰であるのかは一目瞭然だった。

 立ち尽くす紗久羅を、星條が楽しそうに眺めている。さくらは星條をきっと睨んだ。


「貴方は出雲さんと話をし、その後牧田君と接触した。そして月の民以外にとっては毒物である食べ物を彼に食べさせた」

 さくらは自分の考えを一気に語った。こみあげてくる怒りが口をよく動かしてくれる。

 しかしどれだけ激しい怒りも、彼女の前では無意味のようであった。太陽のような温もりなどどこにもない、月の様に静かで、涼しげな瞳を二人に向けるのみ。

 星條はそんな目で二人を見ながら、小さく拍手した。


「すごいわね。殆ど正解よ。大きく間違っている部分は殆ど無いわ。……昨日したことも、あまり意味が無かったわね」


「昨日したこと?」


「こちらの話よ、お嬢ちゃん。ふふ……折角だから、私のお話を貴方達に聞かせてあげましょう。ちゃんとした答えを、貴方達も知りたいのではなくて?」


「牧田君はどこ」

 彼女の物語よりも、彼のことの方が気になる。


「今はあの館の中に居るわ。まあ、もうじき私と一緒に遠くへ行くことになるけれど。そしてずっと二人で幸せに暮らすのよ」

 俊樹を返してくれる気は毛頭ないらしかった。

 星條は微笑みながら、二人に「答え」を聞かせ始めた。それは長い長いお話だった。


*女神の告白

 私は麗月京が「開かれる」と、貴方達の住む世界へ遊びに行くの。適当な「道」を進んで、出たところをふらふら当てもなく彷徨うの。

 あの京にずっと居るとね、息が詰まって苦しくなるのよ。温もりも笑顔もないし、面白味もない。静かで淡々としていて、とてもむなしい時間が流れるだけ。

 私、あの京のことあまり好きじゃないの。明るくてお喋りで、いつも元気な子……そういう子が全く居ないわけじゃない。でもね、そんな子以上に無口で無表情で、冷たい人が多いの。眩しい陽の光も重く暗い沢山の雲に隠れてしまえば、何の意味も成さないわ。


 だから、私は麗月京を出る。二度と帰るものかと心に誓いながら、人間達の住む世界へ足を踏み入れる。

 けれど、結局私はすぐ京へ戻ってしまうの。あちらの世界へ足を踏み入れて間もない時は、興奮して、心が弾んで……とても愉快な気分になるわ。でもね、すぐそんな気持ちも消えてしまう。

 貴方達の住んでいる世界はとても汚くて、色が無くて、高い建物が沢山並んでいて……広いのに、まるで狭い牢獄のようで……息苦しくなるのよ。すぐ気持ち悪くなるし。ああ、でもエンデュミオンや貴方達が住んでいる町は今まで足を踏み入れた所に比べるとまだ長閑(のどか)で落ち着く場所だったわ。


 外へ出ては絶望し、逃げるように帰る。結局あちらの世界はつまらないものなのだと思い、今度は妖達世界へ遊びに行くだけにしようと決意をする。けれどもしかしたら本当はあの世界は楽しいところなのかもしれないって考えてしまって……また行ってしまう。同じことを私は何度繰り返したのかしら?自分でも、もう分からないわ。


 私は愚かでどうしようもなく馬鹿な娘。けれど、愚かで馬鹿だったお陰で私はエンデュミオンと巡り会うことが出来た。

 月の民の食事と笛をお供にして、私は麗月京を後にしたわ。今度こそあちらで長い時間を過ごすのだと心に決めて。……別に食べ物や笛を持って行く必要はなかったのだけれど……見知らぬ土地へ行く時、自分にとって馴染み深いものとかを持っていると落ち着くでしょう?何も持っていないと、不安になる。だから、持っていったの。


 私は貴方達が舞花市と呼んでいる土地を訪れた。気配を消して、人に気づかれないようにしながら散策をした。何故気配を消す必要があったのかって?……別に。只、その土地に慣れるまではそうしていようと思っただけよ。しばらくしたら姿を見せようと思った。

 最初の内は楽しかったわ。麗月京とは全く違う雰囲気が新鮮で……それがとても魅力的なものに見えて。


 でもね、結局いつものようにすぐ飽きてしまったの。もういいやってすぐ思った。……さっさと帰ろうって思った。

 その時だったわ。私は『彼』と――エンデュミオンと出会ったの。誰か……あの人が「かつて」愛した娘だったのでしょうけれど――と一緒に歩いているのを、見たわ。

 私、ひと目で彼のことを好きになったわ。今まで感じたことがなかった位の熱が全身を一瞬で駆け巡り、胸がうるさい位ざわついて、瞳に彼の姿が鋭く突き刺さった。あんなこと、初めてだった。自分でも驚いたわ、本当。

 それが恋であることに私はすぐ気がついた。彼は特別顔立ちが綺麗というわけでもなかった……直接言葉を交わした訳でもなかった……それなのに私は彼のことを好きになった。どうしようもない位、好きになったの。


 彼は気配を消している私に気がつくわけもなく、彼女と楽しそうにお喋りしながら私の横を通り過ぎて行き、あっという間にその姿は見えなくなった。

 けれど彼の顔や声はいつまでも私の目と耳に焼きついて離れなかった。


 そして私は、麗月京へ帰るのをやめた。


 それから私は彼と会った場所に立ち、彼が来るのを待った。一人何をするわけでもなく、ぼうっとしながら。気配を消すのをやめようとも思ったわ。けれど心の準備がなかなか出来なくて……結局姿を現すことは出来なかった。

 通りすぎる姿を見るだけでは我慢できなくなって、私は彼の後を追うことにしたわ。そして彼が住んでいる場所を突き止めたの。あの家の中に入りたいと強く思ったわ。やろうと思えば出来たわ。え?……そんなことしてはいけない?ジュウキョフホウシンニュウだから?何それ、魔よけの呪文か何かかしら?


 彼に姿を見せる勇気がなかなか出なかったわ。すぐにでも姿を現して、彼に抱きつきたいと、私は貴方のことを愛していると言いたかったけれど。出来なかった。

 そう。……だから笛を吹いたのよ。私が彼に聞かせたのは、月の民の間で人気だった愛を告げる曲だった。貴方を心の底から愛している人がいるのよって教えたかった。私の存在を、知ってもらいたかったの。緊張して上手く動かせない足を、笛の音色で励ましながら、彼の家の近くまで歩いていったわ。


 どうしたの、お嬢ちゃん。ん?何故毎晩同じ道を通っていたかって?それは……だって、私……彼の家へ行く為の道……あそこしか、知らなかったんですもの。下手に知らない道を通っていって、迷ってしまったら大変でしょう?だから、彼の後をついていった時に覚えた道だけを使ったの。納得してくれたみたいね。顔を見れば分かるわ。

 

 姿を消すのもやめたわ。私の存在に気がついて欲しかったから。……けれど、彼を目の前にするとどうしても気配を消してしまうの。意気地が無いでしょう?まあそれもあの人と会うまでの話だったのだけれど。

 そう、出雲という名の妖に。化け狐さんなんですってねえ。


 あの夜も私はいつものように笛を吹いていた。自分はこんなことをいつまで続けるつもりなのだろう、と思いながらね。

 彼には恋人がいる。……彼はその女の子のことを心の底から愛している。今まで本気で恋をしたことなど無かった私から見ても、あの二人はとても仲が良さそうだった。妬ましい位に。愛し合っていたのでしょうね。


 それが分かっていて、何故彼女からエンデュミオンを奪ったのかって?

 決まっているじゃない。私もまた、彼を愛していたからよ。彼を私の伴侶にしたかった。永遠に近い日々を、彼と共に生きたかった。だからこそ私は彼を手に入れる為行動したの。

 酷い?あら、どうして?好きな人を自分のものにして、何が悪いの?シノミヤシズカという恋人がいることを知っていて奪ったから?……貴方達人間っておかしなことをいうのね。


 愛した人に恋人がいれば諦めなければいけない……そう貴方達は思っているの?諦めず、奪ってしまうような行為は許されないことだとでも言うの?変な人達。恋人がいたら諦めなければいけないなんて。

 順番とか、共に過ごした時間の長さとか、そういうのってそんなに大事なの?

 些細なことじゃない。いやね、どうしてそんな怖い顔をするの?


 あの人――出雲も言っていたわ。

 手に入れなければ、意味が無いって。欲しいものはどんな手段を使ってでも手に入れろって。私もその通りだと思うわ。


 話を元に戻しましょうか。こんなつまらないことで無駄に時間を使うことはないわ。


 私はあの夜、出雲と出会った。夜、月の光を浴びて輝く藤の花の様な髪がとても印象的だったわ。何て美しいのかしらと思った。

 

――ふうん。お前がこの町で噂になっているっていう笛吹き魔なのか。……もう一つ噂があるって言っていたなあ、私のお転婆姫様は。何だっけ……訳の分からない言葉だったことは覚えているのだけれど――

 扇で口元を隠しながら彼はそんなことを言ったわ。私には何のことだかさっぱりだった……その時の私は、自分が噂の的になっていることを知らなかったんですもの。


――それは愛を告げる曲、かな。この辺りに君の愛する人が居るのかい?――


 私は彼に話したわ、今までのことを。彼が私と同じ向こう側の人間であることは一目みて分かったから、安心して話せたわ。

 彼は自分で聞いておきながら、さして興味も無さそうに聞いていた。まああの人はいつもそんな感じみたいだけれど。月の民と似ているわ、彼。

 話を聞き終えた出雲は、ふうんと一言。それから少しして、話を始めたわ。


――君は人間を愛したのか。可哀想に。人間はすぐに死ぬよ。瞬き一回分位の時間しか生きられないんだ、彼等は。そんな者と恋をしても、ろくなことにはならないよ。それだけじゃない。色々な点で彼と君は『違う』んだ。『違う』者同士の恋なんていうのはね、大抵上手くいかないものなんだよ――

 私にだって分かっていたわ、そんなこと。『違う』ってとても残酷な響きのする言葉よね。私は愛した人が自分とは『違う』存在であるという事実を呪ったわ、心の底からね

 そんな私に、出雲が月の女神セレネと羊飼いの青年エンデュミオンの話を聞かせてくれたの。君にぴったりの話だって。あの人、人間の世界で作られた本を集めて読むのが好きなんですって。人間は愚かで弱い生き物だけれど、面白いことを考えたり、言ったり、やったりする素敵な玩具でもあると語っていたわ。こら、舌打ちなんかしないの。はしたないわ。女の子でしょう?


 まあそれは置いておきましょう。一人こうして話し続けるのって大変ねえ。

 ええと、そう。出雲は私にお話を聞かせてくれたの。そして私を指差して、笑ったわ。


――月の民である女と月の女神。老いて死ぬ運命を持つ羊飼いエンデュミオンと君が愛しているらしい人間の男。……ぴったりだね。……さて、セレネは美しい彼と永遠の時を過ごす為、彼を不老不死にしてもらった。まあ、その代わり彼は二度と目覚めぬ体となったわけだけれど。悲しいねえ……いや、でも女神自身は悲しいとは思わなかったようだから……別に悲しい物語ではなかったのかも。まあでも、そんなことはどうでもいい。……君は、これからどうするの?馬鹿の一つ覚えみたいに、ただ笛を吹き続けるだけなのかい?――

 そう言われた時、私の心は激しく揺さぶられた。

 あの人の声には魔力がある。……ただ彼の姿を見ているだけで、彼に笛の音を聞かせているだけで満足だと思い込もうとしていた愚かな私を一瞬で目覚めさせてくれたような気がしたわ。


――このまま続けていても、君と彼は結ばれない。彼に恋人がすでにいるのならなおさらだ。そもそも君と彼は『違う』存在だし。笛を吹いているだけじゃ、何も得ることは出来ないだろうよ。残酷な運命を断ち切る為に必要なのは、海より谷より深い想いではない。……力だよ。大きな力があれば、何だって手に入れられる。セレネは巨大な力を持つ神の助けを借りたことで、永遠に美しいままのエンデュミオンを手に入れることが出来た――

 その、静かで……それでいて恐ろしく邪悪な笑みを見た後、私は視線を月の民の食べ物が入った袋に移したの。

 あれが自分達以外にとっては強力な毒物であることを、私は知っていたわ。

 それを人間が食べればどうなるかも、知っていた。


――君はそれをちゃんと持ってきていたんだね。それなら話は早い。……もし持っていなかったら、私のをあげようと思ったのだけれど。私は珍しいものを集めるのも好きだから……麗月京へ遊びに行った時、ほんの少し失敬したんだよ。月の民の目を盗んでね。……その食べ物は、人間にとっては脅威だ。そして君にとっては強力な力となる。それをたった一口彼に食べさせてやれば、運命は大きく変わる。……少しだけ手伝ってあげようか?――

 彼はとても楽しそうだったわ。小さな笑い声をあげる彼の姿は、とても綺麗で、とてつもなく恐ろしかった。あんな恐ろしい思いをしたのは初めてだったわ。


 怖かった。けれど、どうしようもない位惹きつけられたわ。


 人間の世界のことをよく知っているらしい彼の言うことを聞いて行動すれば、きっと上手くいくと思った。この絶大な『力』を以ってすれば、セレネとエンデュミオンのような悲恋物語には決してならないと、思ったわ。


 笛を吹いているだけじゃ、何も変わらない。全てを変えるには、恐ろしく残酷な手を使うしかない。

 少しだけ、迷ったわ。けれど、シズカって子と楽しそうに笑うエンデュミオンの顔が思い浮かんだ時、その迷いは消え去った。

 手に入れたい。どんなことをしても、彼を手に入れたいと思ったの。


 そして私は出雲の手をとったのよ。

 私のこの気持ち、お嬢ちゃん達には分かるかしら。……分からないみたいね。

 まあ、貴方達恋したことなんてないって顔しているものねえ。そういう問題じゃないって?ふうん。まあ、どうでもいいわ。お嬢ちゃん達に理解してもらおうだなんてこれっぽっちも思っていないもの。


 さて。私は出雲と、三つ葉市という土地へ足を踏み入れたわ。何の為かって?


 出雲は言ったわ。まずエンデュミオンと接触することが必要だって。けれど、この格好のままじゃあ不味いと言われたの。絶対怪しまれるって。……私は姿を変えることが出来るわ。でも、貴方達の着ている衣――洋服とかって言うんだっけ?――の構造とかよく分からなかったし、そういうものを着ている自分を想像することも上手く出来なかったから、思うように変化出来なかったの。……髪を短くすることが出来たけれど。


 だから仕方なく、そういうものが沢山売られているお店に入って……ちょっとばかり、洋服や小物を頂戴したの。気配をちゃんと隠していたから、誰にも見つからなかったわ。

 あら、随分驚いた表情を浮かべているのね。どうしたの、お嬢ちゃん。犯人は貴方だったのって?意味がよく分からないけれど……まあ、そうだったんじゃないの?

人間の着るものって軽くていいわね。この格好ってとても動きにくし、重いのよ。

 

 次の日私はエンデュミオンを家の近くで待ち伏せしていたの。彼の姿を待ちながら、私は出雲に言われたことを何度も思い出していた。


――いいかい、見知らぬ人にいきなり『この飴を食べてください』なんて言っても、気持ち悪がられるだけ。まず、彼に道を尋ねるんだ。ちょっとごめんなさい、ここへの行き方を知っていますかって。聞く場所は……これにしよう。ちょっと待ってね、今紙に書くから――


 やがて、私の前にエンデュミオンが現れた。彼はシズカと別れて自分の家を目指した。

 ものすごく、緊張した。手が汗で濡れる位に。あんな量の汗なんてかいたことなかったわ。体中が熱を帯びて、月の民でありながら太陽になってしまったかのようだった。

 言葉が口からなかなか出なかった。でも喋ることが出来なければ、先へは進めない。私、頑張ったわ。


――あの、ちょっと宜しいかしら。道をお尋ねしたいのだけれど――

 彼は私の声を聞いて立ち止まって、どちらですかと微笑みながら聞いてくれた。涙が出そうになったわ。彼が私に気がついてくれた。微笑んでくれた……!

 幸せな気持ちでいっぱいになったわ。ああ、やっぱり私はこの人のことが好きなんだと思ったわ。この幸福な気持ちをずっと味わっていたいと思ったわ!

 私は色々な思いを必死にこらえながら、道を聞いたの。

 彼は親切に教えてくれたわ。とても親切に。彼の優しい声が、私の体を駆け巡った……嬉しかったわ、幸せだったわ。


 私はお礼を言って、彼に飴と称して月の民の食べ物をあげたの。


――少し珍しい飴なのだけれど。もし良かったら、お一つどうぞ。ほんのお礼の気持ちよ、是非受け取って――

 そう言って彼に箱を差し出したわ。……その箱もお店で頂戴したものだけれど。

 彼は有難う、と一言言って、一つ手に取った。その時私の――箱を持っていた両手は震えていたわ。これで彼を手に入れることが出来るという喜びからなのか、それとも彼を私と『同じ』存在にしてしまうことへの罪悪感からだったのか、今ではよく分からないけれど。

 お嬢ちゃん達、顔が真っ赤よ。……怒っているの?酷いと、思っているの?

 そうね、酷いわね。でもだから何だっていうの?酷いことってどんな理由があってもしてはいけないの?


 私は笛を吹くことはやめた。吹いても意味が無いことに気がついたから。私は出雲の家に少しの間お邪魔することになったわ。

 エンデュミオンと初めて言葉を交わした時のことを、何度も彼に話してあげた。彼はとてもうるさそうな表情を浮かべていたわ。その表情がおかしくて、私は笑った。


 次の日、私はエンデュミオンと会うことにした。出雲の使い魔だという可愛らしいカラス君が、家の外へ出て行ったエンデュミオンの後をつけていたらしくてね……私はもう一羽のカラス君と一緒に貴方達の世界へと再び足を踏み入れた。

 彼はちゃんと月の民の食べ物――月片(げっぺん)というのだけれど――を食べていたらしく、とても具合が悪そうだった。……少し可哀想になったけれど、けれどそれ以上に嬉しかった。彼が私に少し近づいた。そのことが、たまらなく嬉しかった。

 私は彼と接触しようと、わざと彼の前に姿を現したの。

 彼は私に気がつき、私を追ってきた。嬉しかったなあ……他の誰でもない。私だけを追ってきたんですもの。彼は体の異変の原因は私が渡した飴にある……そう思ったのでしょうね。実際そうなのだけれど。


 エンデュミオンは昨日とはうって変わってとても険しい形相をしていたわ。

 そういう顔も魅力的だったけれど……やっぱり少しだけ悲しかったわ。


――あんた、俺に何を食わせたんだ。あれは本当にただの飴だったのか?――

 

 出雲と私は、彼に色々説明してあげたわ。自分達のこと、月片のこと……色々。

 最初、彼はそんなの嘘だ、冗談だと言ったわ。まあ信じるわけがないわよねえ。信じさせるの、大変だったんだから。……一生懸命説明したり、証拠を見せたりして……ようやく彼は信じたわ。



――貴方が生きていく為には、あの飴が必要になる。あれが無ければ、死んでしまうわ。生きる為に食べ続けるしかない。最終的に貴方は人間ではなくなるの。私と同じ存在になるのよ。私のエンデュミオン。死にたくなければ、私に従いなさい――


 呆然と立ち尽くす彼の姿はとても愛おしいものだったわ。ぞくぞくしちゃった。彼とは違って、私には余裕があったわ。彼の答えは聞くまでもなく分かっていたから。

 飢え死にを彼が選ぶとは思えない。出雲もそう言っていたわ。

 

 しばらく続いた沈黙を破って彼は口を開いた。


――お前の言うことを聞けば……俺は生きていられるのか――


――勿論よ。今みたいに苦しむこともないわ。私は貴方を愛している。だから、貴方を殺したりなんかしないわ、絶対に――


 彼は悲しげな表情を浮かべて俯いたわ。小声で何か言っているようだったけれど、何と言っているのかまでは分からなかった。

 答えは、彼が口にした答えは予想通りのものだったわ。陳腐な感想だけれど、私とっても嬉しかった。


 私は彼と街中を歩き回ったわ。色々なお店に行った。人間の世界には、素敵なお店が沢山あるのね。飲み物も大変美味しかったわ。紅茶っていうのが特に気に入ったわ。お菓子も可愛らしくて、まるで精霊の住処のようなものが沢山あって。衣……服も種類が豊富で。けれど着てみたいと思うものは少なかったかな。だって、手や足をあんなに露出するなんてはしたない真似、出来ないもの。


 素晴らしい時間を過ごしたわ、私。人間の世界の素晴らしさを知ったわ。出雲はその話を聞いて、悪戯の成功を喜ぶ子供の様な笑みを浮かべたっけ。


 それから私は毎日のように彼と会ったわ。彼は月片を手に入れる為、最初の内は仕方なく私に付き合っているようだったけれど……え、今もいやいや付き合っているはずだって?そんなことない、今はあの人、私のことだけを見つめてくれている!

 月片をくれと懇願する彼の顔、とても素敵だったわ。今はそういった顔を見せないけれど。

 私はとても満たされた気分になったわ。ああ、彼の命を握っているのは私だと!シノミヤシズカには出来ないことを私はしているのだと!私だけが彼を生かし、彼が私を求めている!体を痺れさせ、蕩けさせる甘くて濃厚な蜜が、体中を巡った。貴方達はそんな快楽を味わったことがあって?一度味わってみるがいいわ、きっと忘れられなくなるだろうから。


 そういえばお嬢ちゃん達、先日この館の前まで来たわよね?そうそう、エンデュミオンに私が月片の事などを話した次の日のことだったわね。

 ふふ、あの時私……この館の中に居たのよ。

 門前払いされてしまった理由が、何となく分かったかしら。……まあ、別に貴方達と私があの時点で顔を合わせたからって何が変わるというわけでもなかったのだけれど……出雲が、お楽しみは最後までとっておかなくちゃって。こうも言っていたわ。わざと現時点で会わせ、交流を深める。そして最後に種明かしをして、二人を苦しめる……そういうのも魅力的かもって。私はどちらでも良かったけれど。


 俊樹が通っている学校とやらにも何度か足を運んだわ。そこから出てきた人間達にもお話を聞いたわ。皆まともに答えてくれなかったけれど。

 月の民流の挨拶をしようとしたら、ぽかんとした表情を浮かべられちゃったわ。そんなにおかしい挨拶なのかしら?


 ……エンデュミオンはあっという間に人間から、月の民になったわ。あんなに早くなるものだとは思わなかった。

 最初の頃は私のことなんて目にもくれていなかった彼が、私に近い存在になっていく毎に、私のことを、私のことだけを見つめてくれるようになったわ。

 あの人は私のことを愛していると言ってくれたわ。本当よ。言ったわ、あの人は、確かに。無理矢理言わせた?そんなことは無いわよ、ふふふ。


 一度、シノミヤシズカともお話したわ。可愛らしい子だった。そして、可哀想な子だった。

 もうエンデュミオンはあの子のことなど見ていない。あの人は私だけを見つめてくれている。そのことが彼女には理解出来ていないようだったわ。

 シズカは私に会ったなんて一言も言っていないって?そりゃあそうでしょうよ。あの子は私と会ってお話をしたこと、忘れちゃっているんですもの。

 私には貴方達が持っていないような力がある。強大な力がね。

 

 彼はもう私を拒まない。私と共に生きると約束してくれた。

 愛していなければ、そんなことはしないでしょう?私のことを愛しているからこそ……。


 悲恋にはならなかった。私達は永遠に愛し合う。誰にも邪魔はさせないわ。

 これから私とエンディミオンは旅立つの。麗月京へは当分の間戻れないけれど、あそこ以外でも私達は生きられるから何の問題も無いわ。


 星條は一気に喋り終えた後、ふうと一息ついた。話し終えてすっきりしているようだった。

 紗久羅は拳をぎゅっと硬く握りしめながら話を聞いていた。自分のせいだという思いと、ふざけんなこの馬鹿女がという怒りの感情。その二つの激しい感情が彼女の体を小刻みに震わせる。星條がもう少し長く話を続けていたら、彼女は星條に殴りかかっていたかもしれない。

 一方のさくらは暴力を好まない。だが、紗久羅の気持ちは痛いほどよく分かった。


(目の前に居る人は人間では無い。人間の尺度で測ることが出来ない存在。そんなことは分かっている。分かっているけれど)

 静香のことを思うと、胸が痛くなり、嫌な感情が体中を巡る。

 

「酷い。こんなの、酷すぎる……」

 やるせない思いが言葉となり、外へと吐き出される。紗久羅はその言葉に同意するかのような視線をさくらへ向けた。


「酷い?」

 星條は微笑みながら首を傾げる。


「酷いわ。貴方は篠宮さんを傷つけ、牧田君を傷つけた。いいえ、その二人だけじゃない。牧田君のことを大切に思っている人全員を、貴方は笑いながら傷つけたのよ」


「私は傷つけたつもりなどなかったのだけれど。エンデュミオンは自分から、私に愛していると、私と共に生きたいと言ったのよ。そこに関しては強制などしていない。……つまり彼は私のことを愛している。彼は傷ついてなどいないわ。むしろ私と一緒に居られて、幸せではなくて?」


「違う。それは心からの言葉ではないわ。確かに貴方はそう言えとは言わなかったかもしれない。けれど……。……牧田君は貴方のせいで、心を殺されてしまった。生きる場所を奪われてしまった。そんな彼が生きるには、貴方を頼るしかない。貴方にもし嫌われたら、彼は途方に暮れてしまう。だからきっと、貴方にそんなことを」


「違うわ。違う! あの人は私のことを心から愛しているのよ!」

 星條は首を横に振りながら、さくらを睨んだ。彼女の白い頬が桃の色に染まっている。

 さくらも負けてはいない。星條を睨みつけ、口を真一文字に結ぶ。


(影月さんは、月の民は食事をしなくても生きていけると言っていた。多分牧田君も今はもう星條さんから月片を貰わなくても生きていける。少し位の怪我などで死ぬこともない。……だから、星條さんの下を離れても死ぬことはない。牧田君もきっとそのことは分かっているはず)

 星條の束縛から逃れることが出来ないことはないとさくらは思う。


 だが、俊樹は異界に関しての知識は殆どないはずだ。右も左も分からない世界で一人生きていくのは相当辛いことだろう。

 かといって、人間の世界で今まで通りの毎日を過ごすことも、もう出来ない。

 暫くの間はごまかせるかもしれないが、いずれ周りの人々は違和感を覚え、最終的に俊樹が異質な存在になってしまったことに気がつくだろう。……そのことに俊樹は耐えられるだろうか。いや、耐えられないだろう。

 追い詰められた俊樹が選ぶ道は、一つしかなかった。彼は星條を選ぶしかなかった。

 

(それに、牧田君が一緒に生きることを拒否すれば、星條さんは何をするか分からない。記憶を消すだけならまだしも、もっと酷いことをするかも……)

 唾を飲み込むさくら。

その彼女に代わって口を開いたのは紗久羅だった。


「あんた、人の記憶を操作する力があるみたいだけれど……最初からその力を使っていれば、まどろこしい手を使わなくても簡単に牧田先輩を手に入れることが出来たんじゃないか?」

 自分が人間であることや静香のことなどをさっさと忘れさせて、更に私は貴方の恋人ですと嘘の情報を吹き込み、その上で月片を与えて月の民にするなりなんなりしてしまった方が、ずっと楽だったのではないかと紗久羅は思ったのだ。

 星條は非常につまらなそうな表情を浮かべた。


「それじゃあ面白くないじゃない。簡単に成就出来ちゃう恋なんて、つまらないでしょう? 出雲も言っていたわ。私もそう思ったからこそ、ちょっとまわりくどい方法を使ったのよ」

 それを聞いた紗久羅は二階の窓をぎろっと睨みつける。カーテンの向こう側に見える陰は彼女に睨まれても、一切動くことはなかった。


「あの野郎……余計なことばかり言いやがって!」


「まあ彼が現われなかったとしても……そう遠くない未来、私は動き始めたでしょうよ。エンデュミオンを手に入れる為に。……さて、お嬢ちゃん達。私はそろそろ行くわ。彼と一緒に。でも安心して、彼が居なくなってもシノミヤシズカや貴方達が悲しまないようにしてあげるから」

 その言葉を彼女が口にした瞬間、場の空気が一気に変わった。闇の色をした木がざわつき始め、見えない氷の鎖がさくら達を縛りつける。


 彼女が何をしようとしているのか、二人はすぐに察した。


「てめえ、ふざけんな……!」

 我慢できなくなった紗久羅は星條に殴りかかろうとする。だが体が動かない。

 星條は悔しがる紗久羅を面白いものでも見るかのような目で見つめながら、笑っていた。


「私って優しい人でしょう? 忘れてしまえば、何の問題も無いわ。誰一人悲しんだり、苦しんだりすることがなくなる。私の力が、全て打ち消してくれるわ。さようなら、お嬢ちゃん達。私やエンデュミオンのことなどすっかり忘れて、楽しい毎日を送りなさい」

 さくらは首を激しく振ろうとした。だが矢張り体は思うように動かなかった。

 悔しい。忘れてしまえば何もかも解決すると思い込んでいる星條に何も言えず、出雲さんの馬鹿と叫ぶことも出来ず、俊樹を助けることも出来ず。

 結局何も出来なかったことが、悔しくて仕方なかった。


 空から、黄金の光の粒が落ちてきた。眩しい光の雨が、さくら達を包み込む。

 その光を浴びてはいけないこと位は二人にも分かった。だが抵抗することは出来なかった。

 きっと星條はこの後、一度さくら達の住む世界へ行き、同じようなことをして静香や俊樹の両親達の記憶も奪っていくのだろうとさくらは思った。


(ああ。牧田君は『話しても意味が無い』と言っていた。……あの言葉にはもしかしたら。話したところで、どうせあんたは近々俺のことを忘れてしまうだろうから意味が無い……という意味も込められていたのかもしれない)

 そのことを察したからといって、事態が良い方向に進むわけではない。


「さあ、この光に抱かれて全てを忘れなさい。あ、ちなみにこの光の粒子は只の演出なのよ。こっちの方が綺麗だと思って。さようなら、ばいばい」

 星條の笑みは黄金の光にも負けぬ位眩しいものであった。手を振る彼女は今きっと、とても幸せなのだろうとさくらは思う。

 頭が段々ぼうっとしてきた。真っ直ぐ立つことすらもうままならない。

 さくらは自分の頬を何か暖かなものが伝っていくのを感じた。微笑みながら手を繋ぎ合う静香と俊樹の姿が脳裏に浮かんだからだ。

 有名な位仲が良かった二人が、人間の常識を超える力によって離れ離れになってしまう。そのことが分かっていながら、さくら達にはどうすることも出来ない。


(ごめんなさい、篠宮さん。ごめんなさい、牧田君)

 さくらと紗久羅はその場に崩れ落ち、束の間の眠りについた。


 静香は部屋の中一人うずくまっていた。俊樹が見つかったという連絡は未だ無い。彼は携帯の電源も切っているらしく、電話で連絡をとることも叶わなかった。

 暗くて冷たい部屋。膝を抱え、顔をそこにうずめながらただ泣いていた。

 そんな彼女を見つめる、机の上に置いてある写真立て。そこには幸せそうに微笑む静香と俊樹の姿があった。

 静香には分かっていた。もう二度と俊樹が戻っては来ないことが。恐らく彼に想いを寄せているらしい女と共に、どこか遠くへ行くのだろうと思った。

 認めたくは無い。これは悪い夢なのだと思いたかった。だがこれは夢でも幻想でもない。現実なのだ。


「俊樹……」


 ただ一言大切な人の名を口にした。魂の半分と呼べる存在である、彼の名を。


 刹那、窓の外が俄かに明るくなったのを感じ、静香はゆっくりと顔を上げた。

 真っ赤になった瞳を刺激する、眩い光の粒子が降り注いでいるのが見え、静香はぽかんと口を開ける。やがてその粒子は窓をすり抜けて彼女の部屋の中にまで入り込んでいく。

 美しい光だった。この世のものとは思えない、とても美しい……。


「いや」

 だが同時にその光はとても恐ろしいものに見え、静香は後ずさった。だが足は思う通りに動かず、数歩下がったところでバランスを崩し、尻餅をついた。

 あれに触れてはいけない。直感的にそう思った。それは果たして生物としての勘だったのか、それとも女の勘だったのか。


「来ないで」

 泣きすぎてすっかり枯れてしまった声で、懸命に彼女は叫んだ。だが光の粒子は哀れな兎を狙う獣のように、じりじりと近づいてくる。

 ドアの前まで追い詰められた静香は、とうとう捕らわれてしまった。


 降り注ぐ光。それを浴びた瞬間、気が遠くなった。

 俊樹との思い出が怒涛の勢いで頭を駆け巡る。


(俊樹……)

 目蓋が重くなる。頭の中が真っ白になっていく。

 静香がまさに糸の切れたマリオネットの如く倒れそうになったその時。


――静香……ごめん。さようなら。――

 俊樹の声が聞こえたような気がして、静香は一際大きな涙を零す。それが床へ落ちるかどうかというところで静香の意識は完全に消え、彼女は床に倒れこみ、眠りについた。


 しばらくして目を覚ました時には、彼女の頭から牧田俊樹という存在は消えてしまっていた。


「あれ? 私は何で床に眠っていたのかしら……やだ、私泣いていたの? どうして」

 腫れた目蓋や、涙の通り道となった頬をごしごし擦る。自分がものすごい勢いで泣いたらしいことは分かったが、何故泣いたかについては全く思い出せなかい。

 首を傾げる静香の目に、写真立てが映る。それには静香が一人笑っているだけの写真が飾られている。


(何で自分しか写っていない写真なんかを、こんなところに……)


 今の静香にその理由を推し量る術は無い。

 実のところ、写真から俊樹の姿は消えていないのだ。星條の力は写真やメール等にまでは流石に及んでいなかった。だから静香の隣には前と変わらず、幸せそうに微笑む彼の姿がある。

 だが、静香は写真に写る彼の姿を最早『認識』出来なくなっていた。目で見てはいるのに、脳がそれを認識してくれないのだ。

 牧田俊樹という存在(そして星條という存在)を脳が認識することを、拒絶させる。星條が人々に施したのは、そういった術であった。


 静香はしばらくその写真を眺めていた。


「あれ……?」

 静香は自分の頬が再び涙で濡れるのを感じた。何故かその写真を見たら、胸が苦しくなったのだ。

 涙は止まることなく、静香の頬を、膝を、心を濡らし続けた。


「どうして、どうして……苦しい……」

 何気なく外を見る。窓の外から、美しい月が見えた。

 その月を、何故かとても憎らしいと思い、静香は素早く立ち上がると乱暴にカーテンを引き、月を拒絶する。

 月を見ていたくなかった。


 明かりを失った部屋の中、静香は只泣き続けた。


 それ以後、静香が他の男性と付き合うことはなかった。告白されたことも何度かあったが、全て断り、独り身を貫いた。

 何人かの友人は彼女に「どうして恋人を作らないのか」と聞いた。静香の答えは「よく分からないが、何となくそうしなければいけないような気がした」というもの。


 彼女は純潔を守り続けた。

 月の女神アルテミスのように……。

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