表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
桜町幻想奇譚  作者: 里芽
鬼灯夜行
6/360

第二夜:鬼灯夜行(1)

 昔々、桜村に桜という巫女がいた。


 滝の様にさあっと地へと流れる、日を浴びると眩しく輝く黒髪、見た者の心を奪う黒真珠の瞳、雪を思わせる肌――とその容姿は大層美しかったとされる。

 その身に秘めているのは強大な力。世に蔓延り(はびこり)、人々に害を成す奇妙(きみょう)奇天烈(きてれつ)摩訶不思議、奇奇怪怪(ききかいかい)魑魅(ちみ)魍魎(もうりょう)共を滅する力を持っていたという。その時使っていたのは、霊験あらたかな神木から作られた弓であったそうだ。

 また、人々の傷を癒したり、薬では治せないような病を治したりする癒しの力、天候を操る力、人の運命を見る力等もあったとされている。


 強い力だけでなく、どんな強い相手にも臆することなく立ち向かうことのできる強い心も持ち合わせていたという。またかなり気は強く、怒ると非常に怖いことで有名だったとか。彼女の前では、どれだけ粗野で凶暴な男も赤子同然の状態になったといわれている。

 彼女に関する逸話、彼女の英雄譚などは今もこの地に多く残されている。


 さて、以前は桜村と呼ばれていたこの町には桜山、という山がある。

 この山にはかつて一匹の化け狐が住んでいた。どうやら雄であったらしい彼は桜が生まれるずっと前からこの山におり、桜以上に多くの物語を残している。

 彼の名前は出雲といった。誰かにつけてもらった名前なのか、自分でつけたものなのかは分からない。普通の狐より一回りか二回り大きく、桜の肌より白い体、柊の実のような色をした瞳のそれは美しい化け狐だったという。


 しかし容姿こそ美しかったが性格は狡猾、凶悪、残忍。昔から桜村や桜山、その他周辺集落に現れては人を傷つけたり貶めたりからかったり、村の畑を荒らしたり、作物や貴重な財産を奪ったり……とろくでもないことばかりしていたようだ。

 また、人や動物、妖達を襲って殺してはその肝を喰らい、霊的な力を蓄えていき、時が経つ毎にどんどん厄介な存在になっていった。


 桜も彼には手を焼いていたらしい。いつかこの手で殺してやると息巻いていたが、出雲は彼女の前に姿を決して現すことはしなかった。桜とまともにやりあえば返り討ちにあうだろうということを理解していたからなのかもしれない。

 そんな出雲がある日、桜村に現れた。その目的は桜の肝。彼女の肝を喰らうことでその絶大な力を手に入れようとしたのだろう。今まで彼女と対峙することを避けていた彼が何故突然そのような行動をおこしたのかは分からない。


 出雲は村へ来るなり、次々と村人達を襲った。用事があり少しの間社を空けていた桜が村へ戻ってきた時には、多くの村人が出雲に噛まれて倒れていたという。

 恐らく守るべきものが傷つき倒れている姿を見せつけることで、彼女を動揺させようとしたのだろう。或いはただの気まぐれであったのかもしれない。


 しかし桜はそれ位のことでは決して怯まず、きっと彼を睨み「おのれ化け狐、今日こそ貴様の息の根をとめてくれる」と叫び、出雲に弓矢を向けた。

 それから桜と出雲は三日三晩戦い続けたそうだ。戦いの舞台を村から山へ移したので一体どんな戦いであったのか知る者はいない。しかし恐らく飲まず食わず眠らずの、少しの気も抜けぬものであったことは確かだろうとされている。

 桜の放った矢が出雲に当たれば、すぐにでも決着はついていただろう。しかしそう簡単にはいかなかったようだ。出雲だって死にたくなかっただろうから、きっと必死だっただろう。悪知恵を働かせ、逃げたり、隠れたり、桜を術や言葉で翻弄しつつ少しずつ彼女を攻撃したに違いなかった。


 結果、初めに倒れたのは桜の方であるらしい。強い力を持っている彼女だったが、その体は人間の娘と何ら変わらないもの。長い戦いに身がもたなかったのだろう。

 きっと悔しかったに違いない。


 その日、村に出雲の喜びに満ち溢れた声が響き渡ったという。そして彼は、桜の肝を食べた。


 だが、喜びに溢れる声が聞こえてからしばらく経った後、今度は彼の悲鳴が村中に聞こえたそうだ。その声は相当苦しげであったらしい。

 後日比較的怪我の度合いが軽かった村人数名が山の方へ行くと、出雲に肝を喰われた桜の変わり果てた姿が見つかった。更に上へ上っていくと、今度は出雲の死体が見つかった。


 彼の胸にはぽっかりと大きな穴が空いていたそうだ。そしてその穴は火か何かで焼かれて出来たものらしく、黒く焦げていた。彼の肝――心臓は焼かれて微塵も残っていなかったという。

 村人達は、恐らく出雲の体内に取り込まれた桜の魂が彼の心臓を焼き、息の根を止めたのだろうと思い、彼女に感謝すると共に涙を流した。


 その後村人達は桜山に一つの小さな社を建てる。命をかけて人々を守った桜を人々は神格化し、この辺り一帯の土地を守る神様にした。この地に作り上げた神社はそんな彼女を祀るものであり、桜によって

倒された出雲の魂を鎮める為のものでもあった。


 この神社は『桜山神社』と名づけられ、今もこの地に残っている。





 

『鬼灯夜行』

 

 作文 題『おもしろいひと』 いのうえ さくら

 わたしのおかあさんとおばあちゃんは、おべんとうやさんです。

 いつも、はやおきしておべんとうをつくっています。おばあちゃんは、ずっとまえから、おべんとうやさんです。おばあちゃんは、おにぎりとにものがじょうずです。


 おべんとうやさんには、まいにちたくさんひとがきます。おにいちゃんやおじちゃんやおばちゃんが、おべんとうをかっていきます。


 おきゃくさんのなかに、いずもというひとがいます。いずもさんは、まいにちやってきて、いなりずしをかいます。いずもさんは、いなりずしがすきです。おばあちゃんのいなりずしがすきだといっていました。


 わたしもおばあちゃんのいなりずしはおいしいからすきです。でも、まいにちたべたらきらいになります。いっぱいたべてもきらいにならないなんて、へんなひとだなとおもいました。


 このまえ、テレビでおんなのひとがきつねのいるじんじゃにいなりずしをあげているのをみました。おかあさんが「きつねはいなりずしがすきなの」といいました。だから、いずもさんはきつねです。きつねはいろんなものにばけます。いずもさんはにんげんにばけています。


 きつねがいなりずしをかいにくるなんて、おもしろいなとおもいました。


 おもしろいけど、わたしはいずもさんがすきではありません。ちょっと、こわいからです。                  

 おわり



 あたしの名前は井上紗久羅(いのうえさくら)。十六歳高校一年生。四月六日生まれのB型。性格は短気凶暴にして超がつくほどの男勝り。考えるより先に口が開く手が出る足が出る。女などという単語など、小学校の三年生位の時にジュースの空き缶と一緒にゴミ箱へぽいっと捨ててしまった。


 あたしに残っている女らしさといえば、ポニーテールにした長い髪、慎ましい胸の膨らみとか。そしてばあちゃんと母さんから受け継いだ料理の才能。多分それくらいだ。


 頭の良さは多分標準。馬鹿でもないけど、特別かしこくもない。得意教科は体育、家庭科(料理関係オンリー)。苦手教科は数学、理科、英語、美術、その他諸々。所属している部活は帰宅部。活動内容は、授業終了後、下校中に事件に巻き込まれることなく、できれば寄り道もせずに家へと帰るという至極単純なものだ。


 好きな食べ物は婆ちゃんの作る散らし寿司。シュークリームとか、カルボナーラとかも好きだ。嫌いな食べ物は、セロリとさやえんどう、あとインゲン豆。 


 好きな奴は特にいない。よって、彼氏もいない。野郎に興味はない。かといって別に女に興味があるわけでもない。そこそこいる友人である女子数人のことは好きだが、恋愛感情ではない。あたしは同性愛主義者じゃない。かといって別に異性のことを好きになって、そいつの嫁になって家庭を持って、子どもを産んで、という女の大多数が望んでいる(かどうかは実際のところはよく分からないが。これはあくまであたしの勝手な考えだ)未来も別段強く望んではいない。

 嫌いな奴はまあそこそこいる。時々首を絞めたくなっちまう奴もまあそこそこいる。


 そんなそこそこいる嫌いな奴の中でも、群を抜いて、ぶっちぎりで、ダントツで、他の追随を許さない位嫌いな奴は、ほぼ毎日あたしの前に現れる馬鹿狐、もとい化け狐……出雲だ。


 あいつがあたしの前に現れるのは、大体空が熟れた柿のような色になった頃だ。柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺。以前あたしがふとその言葉を口にした時「柿を食べるたびに鳴る鐘か、一度見てみたいものだね。柿を食べるたびに鳴るとなると、秋は法隆寺の鐘は大忙しだろうね」などとニコニコ笑いながら、あの化け狐はそんな馬鹿な事を言ったっけ。

 全く、あの化け狐はわびさびとか、風流って言葉を知らないのか、馬鹿者め。いや、まあ「花より団子」「鯉のぼりより柏餅」「鶯の鳴き声よりうぐいす餅」なあたしが偉そうに言えることじゃないけどさ。


 あいつは、あたしが、というかあたしの婆ちゃんと母さんがやっている弁当屋『やました』に毎日のようにやってくる。


 『やました』は桜町のほぼ中心にある、桜商店街の北側から入って十五軒目、左にある小さな弁当屋だ。二階の壁にとりつけてある『やました』と書かれた看板はさびていて、読みにくい。曇ったショーケース、白と橙色のビニール製の屋根。右奥には妙な匂いを放つコンクリート製の階段がある。そこをのぼると二階。あたし達の家へとたどり着く。


 あたしは、お小遣い欲しさにほとんど毎日店番をやっているから、嫌でもあいつと顔を合わせることになる。あいつが、あたしが学校に居る時間に店にやってきて買い物をしてくれれば万々歳なのだが、残念、真に残念なことにあいつはあたしが店番をしている時間にやってくるのだ。あいつはあたしが自分のことを嫌っていることくらい重々承知だろうから、きっとわざとあたしが店番をしている時間にやってくるのだ。嫌がらせだ、いじめだ、何かの陰謀だ、おのれ化け狐。


 しかし、どんな悔しがっても、どんなに嫌でもあたしは店番を続ける。お小遣いが欲しいからだ。お小遣いの為だったら、仕方がない。諦めるしかない。いっておくがあたしは、あいつのことが嫌い嫌いっていっているけれど、実は心の底ではあいつのことを想っていて、あいつと毎日顔を合わせて喋りたいから店番をしているなんていう、素直じゃない恋する乙女ってわけじゃないからな。絶対に、断じて、確実に。誰があんな奴のことを好きになるもんか。何?素直じゃない恋する乙女度の高い奴ほどそういうことをいうものだって?ふざけるな、今度そんなこと言ってみろ、ただじゃおかないからな!


 あいつは、今日もここ『やました』へとやってきた。法隆寺の鐘を鳴らす柿と同じ色に空が染まった時。いつもと同じだ。


 季節は夏。ミンミンという聞くだけで暑苦しいセミの鳴き声というBGMが商店街中に鳴り響く。もう夕方だというのに、暑い。体内にある水分を根こそぎ奪うような暑さで、拭いても拭いても汗は一向に止まる様子がない。こういう時は冷たいジュースをぐいぐい飲みたくなる。気を利かせて母さんがもってきてくれた冷たい麦茶は、あっという間にあたしの胃の中へと消えていった。喉元過ぎれば涼しさなくなる。あたしの身体から、みるみるうちに麦茶が与えてくれた冷気が消えていく。


 あたしは、あまりの暑さにいらいらしながら、ショーケースにひじをつきながらぼうっと目の前を歩いていく人々を見ていた。


 目の前にある、クリームがやたら甘いクレープ屋で女性高校生がきゃあきゃあいいながら、クレープを買っている。商店街の中では自転車運転は禁止だということになっているにも関わらず、当たり前のように自転車に乗ってぐねぐね運転をしているクソじじい、二人乗りをしてわあぎゃあ言っているバカップル共。白いビニール袋がはちきれそうになるくらいに詰め込まれた食品や生活用品の数々をひいひい言いながら、持って家に帰るおばちゃん。週間漫画雑誌を読みながら歩いているクソガキ。とまらない汗をハンカチで必死にぬぐいとっている中年のおっさん。特に何をするわけでもなく、ふらふらと歩いている人。


 いつもと変わらない、少しも変わらない光景だ。少しも変わらないから、見ていても何にも楽しくない。


 鈍い痛みとかゆみを感じ、右腕を見ると、そこに蚊がとまっていた。これ以上血を吸われてたまるかと、そいつめがけて手を振り下ろす。惜しくも、敵は逃げてしまった。くそ、忌々しい。あたしは舌打ちしながら、顔をあげる。


「やあ、こんばんはお転婆紗久羅姫」


 目の前に、あいつが立っていた。

 あいつの、気味が悪いくらい綺麗な顔と体が、高熱でどろどろに溶かされた鉄のような色をした日の光に照らされている。あいつの雪のように白い肌も、腰位まで伸びている、墨のように真っ黒で長い髪の毛も、藤色の着物も全部赤みを帯びた黄金色に輝いている。人を馬鹿にしているような笑みも今は、この世にある全てのものを暖かく包み込んでいるようなものに見える。


 悔しいが、今のあいつは神様仏様のようにみえる。神様仏様を実際に見たことがあるわけじゃないから、神様仏様のようだっていうのもなんなのだが、まあ多分こんな感じの雰囲気なんじゃないかとは思う。普段は見るだけでむかっ腹の立つ笑顔も、日の光があたるだけで神秘的なものになるのだから、不思議なものだ。夕日の魔力というものは恐ろしいものだ。こんな化け狐でさえ、美しく見せる。いや、こんな化け狐だからこそ、夕日を浴びて美しくなるのかもしれない。


 あいつがそこに立っているだけで、この世界が非現実的な世界に変わる。あいつの放つ異様な気のようなものが、この弁当屋を現実世界から切り離してしまうらしい。実際、さきほどまではっきり見えていた自分の目の前を通る爺さんやばあさん、おばちゃんや同年代の子供たちの姿が急に見えなくなった。確かに自分の目の前を歩いているはずなのに、あたしの目に映るのはあいつだけになるのだ。


 周りの音も、急に聞こえなくなった。地球にとりつけられたスピーカーのボリュームをミュートにされてしまったようだった。あれほどあたしをイライラさせていたセミの合唱も今は聞こえない。


 ところでこの化け狐の姿は、あいつが店の前に立つまで見ることができない。あいつが、商店街の通路を歩いているところを見たことがない。いつも、あいつは気がついたときにはもう店の前に立っているのだ。今だって、商店街を歩く人の群れの中にあいつの姿はなかった。だが、あたしが蚊にきをとられているわずかな時間の間に、あいつはここまでやってきて、店の前に立っていたのだ。


 でも、これもいつものことだ。何も驚くことじゃない。流石に十年もこんな光景を見続けていれば、流石に慣れる。


 あいつ……出雲が、にこりと微笑む。相変わらず人を馬鹿にしたような笑みだ。


「やあ、こんばんは。お転婆紗久羅姫。今日も君が店番かい? 偉いね」

 出雲が、やや首を横に傾け、肩に頭をのせながらにこりと笑う。あいつの、すくえば水のようにさらりと手からすり抜けてしまいそうな髪の毛が、白い顔にいくらかかかる。あいつは、自分の美貌を十分に理解していて、自分がより美しく見える仕草や格好もよく分かっている。そして、その格好や仕草をさりげなく、それでいてわざとらしくやってみせるのだ。


 あたしは、急に気分が悪くなって真下にあるパイプ椅子にどかっと座った。ああ、もう胸糞が悪いったらない。もし許されるのなら、奴のすました顔に某頭がアンパンなヒーローよろしく強烈なパンチを食らわせてやりたい。が、悔しいが奴は、この店の常連客の一人であり、婆ちゃんにとってはかけがえのない友人なのだ。おまけにこいつは化け狐だ。下手な攻撃をしたら、世にもおぞましい呪いをかけられたり、祟られたりするかもしれない。


「ふん、心にもない言葉、どうもありがとよ。ほら、どうせいつもの奴だろう? すぐ用意するから、さっさと買ってあたしの前から消えちまえ」

 あたしは、出雲がいつもこの店で買ういなり寿司六個入りのパックを、ショーケースから乱暴に引っ張り出し、ビニール袋にぶちこみ、レジを乱暴に叩いた。頼むからレジを乱暴に扱わないでくれ、と母さんと婆ちゃんには何度も言われているけれど、この化け狐の顔を見るとイライラしてレジを乱暴に扱わないわけにはいかなくなってくる。出雲が困ったような表情を浮かべる。少し眉を下げ、艶やかな唇を開くその仕草もまた綺麗だから腹が立つ。


「なんて乱暴なんだい、君という子は。腐っても鯛、枯れても桜、腐っても女の子なんだよ、君は。美しさは私に比べて遥かに劣っているけれど、そこそこ見られる程度にはかわいらしいのだから」


「うるさい! うるさいうるさい! 別に女に生まれたからって、女の子らしくしていなくちゃいけない法律なんてねえだろ! あたしはあたしらしく生きるんだ。とにかく、さっさと金を払って消えちまえ!」


 そうあたしが怒鳴っても、出雲は表情一つ変えずくすくすと笑っている。小刻みに揺れる肩が、あたしを余計にイライラさせる。人差し指を添えた唇は、艶かしくて見ていられない。下手に見れば、視線をそらすことが出来なくなる。そしてその唇に魂が引き込まれていって、しまいには魂をその艶やかな唇に吸い取られてしまいそうになる。


 出雲は、ショーケースの上に、青い巾着からだしたお金をぽんと置く。あたしはその金をひっつかみ、おつりを渡した。出雲は細く、簡単に折れてしまいそうな指でつつっとそのお金を引き寄せ、巾着に入れた。ショーケースの上をなぞる様子は、女の白い背中を艶かしくなぞるそれに見えて、いやらしかった。もしあの指で背中をなぞられたら……ダメだダメだ、想像するな、想像したら終わりだ、気持悪くなって死んじまう!


「全く、本当に短気だね。仮にも私はお客さんだよ? あまり失礼なことばかりしていると、私だって怒るよ? もしかしたら、君の息の根を止めてしまうかもしれない」


 あたしを見下すような笑みを浮かべ、あいつは白く細く、そして氷水の中にずっと浸かっていたかのようなひやりとした右手をあたしの頬に当て、顔をぐいっと近づけた。奴の瞳と、艶やかに光る唇があたしの眼前にある。出雲の吐く息があたしの頬にかかる。桜のような香りがする。出雲が舌なめずりすると、あたしの身体が急に熱くなって、ふらっとした。


 あたしの頬を凍らせた手は、少しずつ下へとおりていき、やがてあたしの首へといく。あいつは、あたしの首を右手で軽くしめた。あいつの、氷の瞳があたしをとらえる。瞳の奥底に、殺意のようなものが一瞬ちらつき、あたしの身体は固まった。あたしの身体は氷漬けにされたように動かなくなり、冷たくなった。

 しかし、その殺意のようなものはすぐに瞳から消えて、同時にあたしの身体は自由と体温を取り戻した。


「ふふふ、冗談だよ。君のような素晴しいおもちゃをそう簡単に殺しやしないよ。それにしても、私が触れただけで随分とおとなしくなったものだね。あるいは私がずっと君に触れ続けていたならば、君は女の子らしく、しおらしくなるのかね」

 

「うるさい! 黙れ! この変態化け狐!」


「変態化け狐なんて心外だなあ。私はいたってまともだよ。大体、その化け狐というのはなんだい?」

 出雲は着物の袖で口元を隠し、心外だなんて少しも思っていないような表情を浮かべる。

 

「化け狐は化け狐だ。狐の化け物、ありとあらゆるものに化ける狐。元狐、現化け物。お前は人間にあらず、人間の皮かぶった化け物だ!」

 そういってあたしはびしっと勢いよく出雲を指差した。あいつは、指差されてはあとため息をついた。


「あのねえ、いくら私が人間とは思えないくらい美しくて性格がよくて、おまけに稲荷寿司ときつねうどんが好物だからって、勝手に化け狐扱いしないでおくれよ」


「お前のように何十年たっても少しも外見が変わらない人間がいるというなら、一度見てみたいものだねっ」

 

「はいはい」

 出雲はそう笑って言った。苦笑いにも見えるし、こっちを見下している笑みにも見える。どちらにも見えるのがまた腹立つ。まだ言いたりないあたしを無視して奴はばいばい、と細い手をしなやかに振って、あたしに背を向けて店から離れていく。

 そして、あたしが瞬き一回する間にあいつの姿は、風の前の塵のように消えてしまった。


 いつものことだ。何も驚くことじゃない。あたしは、覚えてろよと捨て台詞を吐いた。そして、思いっきりショーケースを叩く。自分の背後にある調理室から、ショーケースを叩くんじゃない!という婆ちゃんの怒鳴り声が聞こえてきた。


 あいつの姿が消えたとたん、目の前に再び広がりだす世界。店も、通行人もあいつがいる間はほとんど見えないし、会話も音も何も耳に入らない。しかし奴が消えたのと同時に、だらだらとゾンビのように廃れた商店街という名の墓場を徘徊する人々の姿が目に入る。続いて客を呼ぶ声、他愛もないおしゃべり、カラスの嘲笑、五月蝿いセミの合唱が耳に入ってくる。


 いつものことだ、何も驚くことじゃない。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ