我が愛しのエンデュミオン(3)
*
その言葉を聞いて、さくらは愕然とする。
(女の人と? 手を繋いで歩いていた?)
「それって……」
「……と思うでしょう? 私も聞いた時、そう思った。頭の中、真っ白になった。けれど、どうもそうではないらしいの」
え?とさくらは聞き返す。浮気でないとしたら、一体何だというのだろうか。
「いつもは一緒に帰るのに、昨日は一人で帰るって言って……一足先に帰ったはずの俊樹。でも俊樹は真っ直ぐ家に帰ったわけじゃなかった。彼が家に帰ったのは夜遅くのことだったみたい。……俊樹は数駅先の街に居たらしいわ。その街に住んでいる友達の一人が、偶然彼を見かけたみたい」
その友人が彼を見かけたのは、夕方頃。俊樹は少し年上らしい、見覚えの無い女性と歩いていた。
「これはもしかして……そう思った友達は、上手く人ごみに紛れて俊樹に気づかれないようにしながら……二人の様子を見ていたらしいの。その友達曰く……俊樹は、ものすごくうかない顔――というか、それはもうとてつもなく嫌そうな表情を浮かべていたらしいの。罪悪感というより、あからさまな嫌悪感……。嫌々その女の人と手を繋いでいる感じだったって」
「その女の人の方は?」
「ものすごく幸せそうな表情を浮かべていたらしいわ。しきりに俊樹に話しかけていたらしいけれど、俊樹は殆ど聞き流していた感じだったって」
「つまり……女の人の方は牧田君に好意をもっているけれど、牧田君の方は全然そういう感情を抱いていない――てこと?」
分からないけれど、多分そうだと思うと静香が頷いた。
友達はしばらく彼らの後をつけていたが、終始そんな様子だったらしい。
やがて二人は駅へ向かっていったという。恐らく帰ったのだろう。
「……他にも、俊樹とその女の人を見たっていう人が居たの。駅や三つ葉市にある喫茶店とかで見かけたんですって。けれど皆口を揃えて言うの。あれは浮気とかそういう感じには見えなかった――無理矢理付き合わされている感じだったって。言い争っているような場面を見たって人もいたし」
無理矢理。その言葉にさくらは恐怖を覚え、息を呑む。目撃した人全員がそう言うのだから、嘘ではないのだろう。
「何故、俊樹がその人と一緒に行動したのか、理由は分からない。もしかしたら断ることが出来ない理由があったのかもしれない。……ねえ、臼井さん。この前の土曜日――俊樹が追いかけたのは、その女の人だったんじゃないかしら」
ああ……さくらは思わずそう呟いた。そしてそうかもしれないわね、と続ける。
「金曜日までは、あんなに元気で、少しも悩んでいる様子はなかった――とすれば、金曜日の夕方――私と家の前で別れてから――その人と何かがあったんじゃ……そうとしか考えられない……でも一体何が」
これは静香の独り言だ。かなり混乱しているようで、さくらは見ていて辛くなる。
気のせいよ、そんなの。そんな風に言って。
そうよね、きっと気のせいだよって答えて、笑って。
そんな風になれば、どれだけ良いだろう。
「……昨日、不審者が出たって先生言っていたよね」
「え、あ、ええ……」
「その人にはどうも好きな人が居るらしいって話だけれど。それ、もしかしたら」
さくらをじっと見つめる静香の瞳。その瞳を見れば、彼女が何を言おうとしているのか容易に想像できる。
不審者の女性――彼女の想い人は、牧田俊樹かもしれない……そう、言いたいのだ、静香は。
「二十代後半位で、長い髪で、お嬢様みたいな雰囲気の……そうか書いてあったわよね、プリントに。俊樹と手を繋いでいたっていう人もそんな感じだったみたいなの。それでね……お昼、一緒にお弁当食べている時さり気なく不審者の話をふってみたの。そしたら、表情が――体が一瞬で凍りついて……。しばらくした後、無理矢理笑顔を作って、そんな奴の話なんかやめて、他の話をしようって言った――その声が、とても、上擦っていた……」
おまけに今日も俊樹は、弁当を食べる前にどこかへ行ったらしい。恐らく今日も『飴』を食べたのだろう。口元に飴のかけらはついていなかったが、吐き出す息が微かに甘い匂いをだしていたという。
おまけにいつもは幸せそうに食べるお弁当も、全然美味しくなさそうに食べたのだという。機械的に箸を運び、口に入れ、適当に噛んで飲み込む。静香はそれを見て背筋が凍りつき、涙が出そうになったと語った。
「具合が悪いのって聞いても、そんなことはないの一点張りで。そんなわけ、ないのに。一目で、分かるのに。私が何も気づいていないと……そう思っているはずなんて……ないのに」
「牧田君が食べていたっていう飴も――その……牧田君と手を繋いでいたっていう女の人から貰ったのかしら」
そうだと思う、と静香は頷いた。絶対に食べろと脅されているのかもしれないと続け、沈黙する。
(お弁当を食べる前に食べろって、その女の人が言ったってこと……? 大量の飴を……)
それは静香に対する嫌がらせだろうか。
静香が作るお弁当を、俊樹に美味しく食べさせないようにするために。甘い飴で口の中をおかしくさせておいてから、お弁当を食べてもらう。
(もしそうだとしたら――酷いわ)
普段のんびりほわわんとしているさくらにだって怒りの感情はある。自分の推測通りだとしたら――そんなの――許せないと、思った。
しかし仮にさくらや静香の考えた通りだとして。何故俊樹は素直に女の言うことを聞いているのだろうか。弱みを握られたからだろうか。だが、飴を昼食の前に食べたかどうかなど、彼女には確認しようがない。飴を食べるタイミングは特に指定されていないのだろうか。それなら何故お昼の前に飴なんかを。
考えても、答えは出てこない。
「その女の人が誰なのか分かれば良いのに。その人の頬一発でも叩いてやらなければ、気が済まない」
ぐっと拳を握りしめる。俊樹を尾行してでもその女の正体を突き止めてやる、という強い意志が現われているように見えた。確かに直接その女にあって追及するのが一番だとさくらは思う。だが、一方で素直に彼女の考えに賛成できない自分も居た。
もし俊樹と手を繋いでいた人物が不審者女やコスプレ女と同一人物だとすれば、彼女はかなり危ない人間ということになる。そんな人相手に変なことをすれば、何が起きるか分かったものではない。
「篠宮さん、お願い。無茶はしないで。相手がどんな人なのかはっきりしないんですもの。牧田君と一緒に居るためなら、何でもするという人なのかもしれない。もしそういう人だったら――危険よ。篠宮さんに危害を加えるかも……親御さんや先生に相談した方が、良いと思うの」
「優しいのね、臼井さん。心配してくれて有難う」
彼女は感謝の意を述べる。だが、無茶なことはしないで欲しいという願いに対する答えは返ってこなかった。彼女はまた明日、とだけ言ってその場を去る。
さくらは不安で仕方が無い。彼女が何もしないという保証があれば安心できたのだが。
静香の代わりに自分が先生にこのことを話せば良いのだろうか。だが赤の他人がそんなこと勝手にして良いものだろうかと思う。そもそも現状を他人に上手く説明出来る自信がない。
結局その足が職員室に向かうことは無く、さくらは真っ直ぐ部室へ向かうのだった。静香が危ないことをしないことを願いながら。
今日は全く部活動に集中できず、他の部員が心配する位沢山のため息をついた。
*
(臼井さん、ごめんね)
さくらの願いに反して、静香は今俊樹の後をつけていた。今の所彼は気がついていない。俊樹は桜町のある方へ背を向けて歩いていた。その足取りは見ているこちらが辛くなる位重いものだ。
俊樹はなるべく人目につかないよう、わざと人通りの少ない道を選んでいるようだった。大きく広い道から伸びる狭く、日の光も殆ど伸びないような道はさびしく、その道に隣接する家から木の香りがする。静香は胸の辺りを押さえながら彼と一定の距離を置いて歩いた。今の所気づかれてはいないようで、彼が後ろを振り返ることもなかった。
(それとも、周りの音が聞こえない位追い詰められているのかしら)
複雑なルートを歩いているせいで、今自分がどの辺りにいるのかさっぱり分からない。中心部に向かっていることは確かなようだったが。そもそも静香は学校へ行く以外では殆ど舞花市に足を運んだことが無かった。だからこの街のどこに何があるのか、どの道を進むとどんな場所に出るのかということが殆ど分からないのだ。
古い建物に挟まれた細く暗い道を俊樹は進む。誰も通らないような道を、静香はゆっくりと歩く。その道の先には幾つかの民家や店が並んでいた。そこは日の光もまともに当たらぬ、暗く静かな場所で人など殆ど居ない。
だが、一つの店――オレンジや黄色の光で満ちた、照明器具か何かが売られているらしい――そこにだけ、人が居た。
ショーウインドウに背をもたれかけていたその人物は、俊樹の姿を認めると顔を輝かせ、彼に勢いよく飛びついた。静香はどきりとしながらも二人に姿を見られぬよう、丁度よく道の終点に高く積まれていた箱の後ろにその身を隠した。どうやら気づかれてはいないらしい。
そこから顔を出し、様子を伺う。
(あの、あの女の人が……)
俊樹に飛びついた女性は見た目二十代半ば~後半位。
腰近くまである黒髪は緩いウェーブを描いていた。すらっと長い手足は、薄暗い場所であるにも関わらず白く輝いている。
水色がかった白のブラウスに、紺色の長くゆったりとしたスカート。友人が「お嬢様みたいだった」と言ったのも頷ける。
女は月光の様な笑みを浮かべ、彼の訪れを歓迎しているようだった。
綺麗な人だ。……素直に静香はそう思った。悔しいが、月がよく似合いそうなその女性は、とても綺麗だったのだ。
だが。彼女が美人かそうでないかということは、今全く関係が無い。
彼女が自分にとって最愛の人を苦しめているのだとしたら。絶対に、許せない。
女と俊樹は何かを話している。……といっても女がほぼ一方的に喋っているという感じではあったが。時々口を開く俊樹の声には棘と毒が含まれていた。
友人達の言う通り、彼は相当女と一緒に居るのが嫌なようだ。
女が俊樹の左腕に抱きつこうとする。その行為を静香は何ていやらしいのだろうと思った。彼女はそんなことをしようなんて、一度も考えたことがなかったからだ。ただ、手を繋ぐだけで幸せだったから。
俊樹は彼女の腕を乱暴に振り払い、早足で先へと進む。女は立ち止まったまま動かない。
(……?)
俊樹の乱暴な態度を見て、流石に傷ついたのだろうか。静香は首を傾げる。
だが、その予想は大きく外れていた。
「居るんでしょう……? 出てきなさいよ」
女が静香の隠れている辺りを見て、幸せそうに微笑みながらそう告げる。
静香の心臓が大きく揺れ動く。頭は一瞬で真っ白になり、頬を汗が伝っていることにも気がつかないくらい動揺した。
「大丈夫。彼は気がついていないから。ねえ、顔を見せてよ。小さなお嬢ちゃん」
先程までは女と俊樹の後をつけ、機会があれば女を問い詰め、一発ビンタでも食らわせてやろうと思っていたのに。いざ女にそう言われると、どうすれば良いのか分からなくなってしまった。
どうすればいいのだろう。静香は後ろを振り返る。今思いっきり走れば、彼女に捕まることはないはずだ。だが本当にそれでいいのだろうか。女に真実を聞く絶好のチャンスだというのに。
俯き、頭を抱えながらどうしようかと思案している彼女の近くに、誰かが来た。顔をあげれば、しびれを切らして自らやってきた女が立っていた。
近くで見ても、綺麗な人であった。その顔に邪気はなく、とても俊樹を追い詰めているらしい人物には見えない。
「あら、可愛らしい。ふふ……私の世話をしてくれている女童に少し、似ている。彼に愛されていた娘」
彼、というのは間違いなく俊樹のことだろう。
静香は胸の辺りに左手をやりながら、女を睨みつける。だが体が震えて眼に力が入らない。女は何か異質なオーラをまとっているような気がした。そのオーラが、静香を上から押さえつけているのだ。
駄目だ、怯んではいけない。立ち向かわなくては。静香は呼吸を整え、口を開く。
「貴方……俊樹に何をしたの。貴方のせいで、俊樹はおかしくなってしまった。……貴方といたら、きっともっとおかしくなる。そしてうんと苦しむ……。何が楽しくて、彼をそんなに苦しめているの」
どうにかこうにか思いを口にするが、女はただ無邪気に首を傾げるのみだった。静香の気持ちを微塵も汲み取っていないようだ。
「苦しめている? どうしてそんなこと、言うの? 私はあの人を苦しめてなどいないわ。私はあの人を愛しているのよ。そして、私と彼は愛し合っている」
「ふざけないで。どう見たって俊樹は貴方と居ることを望んでなどいない。貴方のことを、愛してなんかいない。私には分かるわ。長い間――十数年間、ずっと一緒だったから……私には分かる。彼が苦しんでいることが……。はっきり言うわ。俊樹が貴方を選ぶことなんて、絶対に、ありえない」
静香は女をさっと指差す。
その静香の言葉を聞いて、女がふっと笑った。静香のことを馬鹿にするかのように。それがどうしたの?と言わんばかりに。
「たったの、十数年でしょう。お嬢ちゃん、十数年なんていうのはね――刹那と呼ばれる程度のものなのよ。少しも長くなんてないわ。……十数年ずっと一緒だった? それが何だっていうの?」
静香は、呆然とする。女の言っている意味が分からなかった。
女にとって十数年というのは刹那――一瞬――という言葉で喩えるものらしい。長生きしているおじいちゃんおばあちゃんがそう言うなら、まだ分かる。
だが目の前に居るのはどう見ても三十前の女。十数年を「刹那」と呼ぶにはあまりにも若すぎると静香は思った。大体この女に「お嬢ちゃん」と呼ばれるほど、静香は幼くない。
口をぱくぱくさせている静香を見、女は満足気に笑い、彼女に顔を近づける。
「お嬢ちゃん。全てはもう手遅れなのよ。貴方にはもうどうすることも出来ないわ。ねえお嬢ちゃん。『違う』人との恋は必ず悲恋となるわ。けれど私、この恋を悲しいものにしたくなんて、なかった。『違う』から結ばれないなんて、あんまりでしょう? けれどもう大丈夫……彼はもう少しで私と『同じ』人になる。そうすればエンデュミオンは永遠に私のもの……」
狂っている。訳の分からないことを言うこの女は、狂っていると静香は思った。だが不思議なことに、彼女の笑みから狂気というものを微塵も感じなかった。自分が狂っていることに気がついていないからだろうか。
(違う、とか同じとか……どういう意味なの。それより、エンデュミオンって誰のこと? 俊樹のことを言っているの?)
じわじわと込みあげてくる恐怖が、涙となって体から溢れ出そうになるのを、静香はどうにかこらえていた。兎に角、怖い。
彼女の言動が、彼女が放つ異様なオーラが、彼女の笑みが――全てが、怖かった。
「残念だったわね。貴方と彼は『違う』人になるの。だから貴方とエンデュミオンはもう一緒には居られないのよ。彼は私と一緒になるの。長い時間を、過ごすのよ。とても長い時間を……ね。ああ、あまりぺらぺらと喋っちゃいけないわね。貴方一人抗ったところで何が変わるというわけでもないけれど。……お嬢ちゃん、今日の事は忘れなさい」
女はそう言うと、どうすればいいか分からず固まっている静香の頭に手をのせた。驚くほど冷たい手に、静香は肩を震わせる。
(ああ、この人。この人はきっと……)
静香は薄れゆく意識の中、女が何者であるのか悟った。だがもう時すでに遅し。
軽い立ちくらみ、ぼうっとする頭。我に返った時にはもう女の姿はなかった。
そして。
(あれ、私ここで何を……そうだ、俊樹を追いかけて……見失ったんだった)
彼女と会ったこと、そして彼女と話した内容の全てを忘れてしまった。
静香は落胆し、肩を落とす。
(今日は諦めるしかない。けれど、明日こそは……)
そう決意し、踵を返す。だがその瞬間、何故かふっと力が抜けて尻餅をついてしまう。小さな悲鳴をあげ立ち上がろうとするが、上手く足に力が入らない。
(どうしてだろう。明日も同じように俊樹の後をつけて、女の正体を暴いてやろうと思ったら……怖くなった。力が入らない。体中が叫んでいるような気がする。もうこんなことをしてはいけないと)
突然訪れた恐怖に、静香はただ戸惑うことしか出来なかった。
(私は、何か大切なことを忘れてしまった気がする。けれどそれが何だったのか、思い出すことが出来ない)
結局頭の中にかかったもやが消えることはなかった。
彼女がこの日起きたことを全て思い出すことは、永遠に、なかった。
静香は次の日さくらに「無茶はしていないわよね?」と問われ、そうしようと思ったが途中で見失ってしまったと説明する。
本当にそうだったのかは分からなかったが……。
*
時間が流れと共に、俊樹は生気を失っていく。その変化には誰もが気がついていた。
誰もが気がつく位、彼はおかしくなってしまっていたのだ。
月曜日はまだ(見た目)元気そうであったのに、金曜日にはもう元気のかけらもなくなっていた。約一週間で俊樹は生きる屍へと姿を変えた。
教室に入り、席につくと口を閉じ、生気の無い瞳でぼうっとただ机を見つめる。友人達に話しかけられてもまともに返答しようとせず、ゼンマイがきれた人形のように動かない。かと思えば急に唸り声のようなものをあげながら机をバシンと叩いたり、ボールペンを握りしめながらノートに何か書き出したり、そのページを破って丸めたりする。
授業をさぼるようになっていき、昨日にいたっては体調不良を理由に早退してしまった。だがどうも真っ直ぐ家には帰らなかったらしい。
俊樹の母も彼の変化に気がつき、静香に心当たりは無いかと聞いてきたらしい。
「ご飯もろくに食べなくなって……殆ど喋らなくなって……おまけに時々、部屋の中で暴れているらしいの。あのデートから帰った後も、すごかったらしいわ。この前聞いた時は特におかしいことはなかったって言っていたけれど……本当は……私に心配かけたくなかったんだですって。それでね……昨日は俊樹、部屋の中で泣いていたって……ドア越しにそれを聞いたっておば様が。何があったのか、どうしてしまったのか、おば様やおじ様は俊樹に聞いたけれど、何も答えてくれなかったって。姫ちゃん先生も、俊樹のことを心配して彼に色々聞いたらしいけれど……」
結果は同じだったらしい。そして晶もまた、静香に心当たりはあるかと聞いてきたという。
静香は晶に、俊樹に言い寄っているらしい女の存在を話そうとした。だが、上手く言葉にならず結局よく分からないと言ってしまったと語る。
「最近、殆ど俊樹と話していない。というか俊樹は今、誰とも話したがらない。皆と距離をとって、一人でいようとして……。無理して笑うこともなくなった。元気な自分を演じる気力すらなくなる位参っているみたい。俊樹と手を繋いでいたっていう女が関係していることは間違いないと思う。けれど具体的に何があって、こんなことになったのかは……全く分からない」
さくらに悲しく辛い現状を語る静香は、顔を歪めながら頭を押さえる。
「どうしたの? 頭痛?」
「うん。そうみたい。俊樹をあんな風にしてしまったかもしれない女のことを考える度、頭がぼうっとしたり、痛くなったりするの」
苦笑いする彼女の目は少し腫れている。気のせいか、声も少しかれているような気がして、さくらは切なく苦しい思いを体内から出すかのように息を吐いた。
(弥助さんは今笛吹き魔やコスプレ女のことなどを調べている。牧田君のことと、その二人のこと――何か関係しているような気がする……その関係が分かれば、牧田君を……篠宮さんを救うことが出来るかもしれない)
そう思わなければ、不安に押し潰されそうだった。だからさくらは信じた。信じるしか、なかった。
「……心だけじゃなくて、体の方もおかしくなっているよね、俊樹。俊樹の肌の色……白くなっている。青白いとかそういうのじゃなくて」
その静香の言葉に、さくらは頷いた。
俊樹の肌は目に見えて白くなっていた。恐らくさくらや静香に限らず、他の人も何となく気がついているだろう。
最初は体調が悪くてそうなっているのだろうと思った。だが後になってどうもそうではないらしいと思うようになってきた。そう思う理由はよく分からなかったのだが。
陶器のような、月光を浴びたかのような色になった肌。それだけではなく、どこか他の人とは違う空気を漂わせているような気さえした。
(まるで、出雲さんの肌みたい。人ならざる者の……けれど牧田君は人間だわ。出雲さんとは違う。違うはず…ああ、けれど。今の牧田君は、まるで)
さくらはそこまで考えて、頭を振る。それ以上のことを考えるのがたまらなく怖かったのだ。
二人、そうして話した後四時間目の授業――さくらが大の苦手とする体育が始まった。
さくらは運動場のトラックを下手なお笑い芸人のギャグより笑える走り方で周る。
「ちょっとサク、あんたもう少しまともに走ることは出来ないの!?」
さくらに比べればずっと速く走れるほのりだが、あまりに走るのが遅すぎるさくらを放っておけず、一緒に走っているのだ。
しかしほのりが幾ら言ってもさくらの足は速くならない。
「だって、私、走るの、苦手」
まだノルマの半分も走っていないのに死にそうになっているさくら。息は荒く、足はへろへろだ。
「気合でどうにかなさいよ、あまり遅いと置いていっちゃうわよ」
「い、いいわよ、櫛田さん、もっと、速く、走れる、でしょう。私に、か、かまわず……行って。私も、頑張るか、ら」
気持ち足を先程より早い感覚で動かしてみる。だがなかなか早くならない。
終いに無茶したのが原因で躓き、思いっきり転んでしまった。
いたたたた、とひざをさするさくらを見下ろしながらほのりがため息を吐く。
「全くちょっと足を速く動かしただけで……ほら、大丈夫? 先生に行って水道で足洗いなさい」
ほのりの手をとり立ち上がったさくらは、膝を綺麗にする為に体育館の傍にある水道へと向かった。
体育館にぴっとりくっつくように設置されている水道へ行く。よく見ると、その近くに誰かが立っているようだった。
(あれって……)
蛇口の前に立ち、横目でちらりと見てみればそこに立っていたのは俊樹だった。彼は制服を着ている。どうやらさぼりらしい。
俊樹は石で出来た流し台を何故かじっと見つめている。一体どうしたのだろうとさくらはただ首を傾げるしかない。体育館によって出来た巨大な影に飲み込まれているこの辺りは、やや暗い。その仄暗い闇の中、彼のすっかり白くなった肌だけがはっきりと見えた。まるで光っているかのようだ。
俊樹がポケットから何かを取り出す。それはこういう場――外等で使うことはまずないものだった。
俊樹が手に持っているもの。それは、カッターだった。刃を出したそれを彼は死んだ魚の様な目で見つめている。刃を出したり引っ込めたりを繰り返すその姿はとても危ういものだった。
放っておけば何をするか分からない。最悪の場面がよぎり、さくらは背筋が凍りつくのを感じた。
「牧田君!」
思わず、そう叫んでいた。その声を聞いてようやく俊樹はさくらの存在に気がついたらしい。ゆっくりと体をさくらの方へ向けると、にたりと笑った。幸せそうなものとはかけ離れたその笑顔。
「牧田君、それ……何をする気なの?」
「これ……? ああ、心配するなよ。そういうの、無理だから。やったところで何の意味も無い。これで首とか切ってもさ……手首を裂いても、意味は無いんだ」
そう言って、自らを嘲るような笑みを浮かべる。そこには諦めという感情も混ざっているように思えた。
「俺は、化け物なんだ」
彼はそう断言した。さくらは何も言えず、口を押さえる。
「化け物なんだよ」
言うと、彼は手に持っていたカッターを右頬へ向け……そして、勢いよく振り下ろした。
「牧田君!?」
さくらは悲鳴をあげた。短く出された刃が彼の頬を傷つけ、赤い血を流させる。深く切ってはいないようだが、さくらの心臓を飛び上がらせるには十分な衝撃的すぎる光景であった。
赤い血の線。白い頬を染める赤い血。痛くないわけがないのに、俊樹はただ笑っているだけだった。その瞳には生気がない。
「大丈夫だよ。こんなの」
そう言うと俊樹は蛇口をひねって水を出し、それで頬を洗い流す。そうしたところでまた血が流れてくるだろうに……そうさくらは思ったが、不思議なことにそんなことはなく、綺麗なままだった。
俊樹がゆっくりさくらに向かって歩き始め、顔をぐっと近づけた。どうだ、と見せつけるように。
(そんな……)
ナイフで切られたはずの頬。血が流れていたはずの頬。当然切った跡があるはずなのに、それらしきものが見当たらない。血も出てきていない。
恐る恐る彼の右頬に触れてみる。だが、傷らしきものは矢張りないようだった。
(それに、どうしてだろう。牧田君の肌、とても冷たい。氷みたい……)
「臼井。お前最近静香とよく話しているよな。……俺のこと、話しているんだろう」
そのことを怒っているわけではないようだった。恐らく、だが。
「あいつが心配してくれていることを、とても苦しんでいることを俺は知っている。分かっている。本当は俺のこと、問い詰めてやりたいと思っているだろう。でもあいつはそうしない。俺達昔からそうだった。辛いことがあるんだろうな、悩みがあるんだろうなと思いながらも、無理に聞くことはしないんだ。ただ、傍に居て、寄り添っているだけで。相手が自分に話してくれるのを、ずっと待っている。それが正しいことなのか、間違っていることなのか……人によってはそんなのおかしいと言うかもしれないけれど。でも、俺達にとってはそれこそが正解だった」
色々な思い出を頭の中に映し出しているのだろうか。一瞬だけ、優しげで人間らしい……生き生きとした表情になった。だがすぐに元に戻ってしまった。
「結局最終的には、話すんだ。実はこういうことがあったとか、こういうことで悩んでいるとか……ちゃんと、話すんだ。話していたんだ。けれど、今回は話せない。話したからってどうなるものでもない。もう全てが遅すぎたんだ。……俺が、馬鹿だったんだよ」
俊樹は血がついたままのカッターをポケットに戻し、力なく笑った。少し笑っただけで魂が抜け出して死んでしまいそうな、そんな儚い存在に見えて、さくらは胸が苦しくなるのを感じた。
「俺はもうあいつの傍には居られない。何だかなあ……あいつとこれから先もずっと一緒に居るものだと、当たり前のように思っていたのに。気持ち悪いと思われるかもしれないけれどさ……魂の半分だって、思っていた。あいつのこと。好きとか愛しているとか、そういうのを超えて……傍に居るのが当たり前だと。二人で一人だって……考え方が女々しいかな。女でもそんなこと考えないかもな……はは……でも、本当にそう思っていたんだ」
心からの言葉だろうとさくらは思った。静かで、それでいて激しい声色に彼の思い全てがこもっていた。
(けれど、傍に居られないってどういうこと? 他の女の人と手を繋いだから? 自分自身、そのことを許せないから? 違う、きっとそんな問題なんかじゃない……もっと恐ろしい理由が、あるんだわ)
「俺は化け物になった。もうあいつとは違う……でも、それでも俺は牧田俊樹だ。俺はこんな風になりたくなんてなかった、俺はずっと俺のままでいたかった……けれど今はもう……でも、違う、俺は違う。何度も言っているだろう……俺は違う、違う……俺はエンデュミオンなんかじゃない!」
激しさを増し、最後にはきっとさくらを睨み大声で叫んだ。怒りと憎しみのこもった、声で。
(エンデュミオン? それって……)
一体彼は誰に言っているのだろうか。今の彼はさくらを見ていない。ここには居ない誰かに向けて言い放っているようにさくらは思えた。今自分がどこに居るのか、何を話しているのか、それすら分からなくなっているように見える。
感情と生気をその時彼は確かに取り戻していた。憎しみが彼を『こちら側』に戻した。ほんの少しの間だけだったが……。
強い憎しみさえ、俊樹を人にすることが出来なくなっていた。
「はは、あんたに話したからってどうなるわけでもないのに……話したって意味は無いんだ。どれだけ話しても、意味が……」
俊樹は独り言に近いものを呟きながら、さくらに背を向けた。そして手を軽く振ると、校舎の方へと向かっていく。そんな彼の後姿が、何故か出雲と重なり、さくらは息を呑んだ。
(牧田君のことを好きらしい女の人――その人はきっと、人間では無い。そして今の牧田君も……)
彼と彼女の間に何があったのか今のさくらには見当もつかない。
だが、彼女との出会いが彼を『化け物』にしてしまったことは確かだと思った。
さくらは色々な思いを無理矢理洗い流すかのように蛇口を捻り、膝を洗って皆のところへ戻った。
「随分遅かったじゃない。保健室でばんそうこうでも貰いに……行ってないみたいね」
さくらの膝を見、今度は顔を見る。その顔を見て、ほのりは眉間にしわを寄せた。
「どうしたの? 何か元気なさそうだけれど」
「え、ううん。何でもない。運動場を走って疲れただけ」
笑ってごまかすさくらにほのりがあげたのは超ド級のため息だった。
彼女がその言葉を信じてくれたかどうかは分からないが、それ以上特に何も聞いてこなかったので、さくらはほっとした。
だが彼女が深く追及しようとしてこなかったからといって、不安や恐怖は少しも消えることは無く、さくらの胸の中で青と黒が入り混じった炎となって心を焼き続けた。
(このままじゃ、いけない。何もかも手遅れになる前に、どうにかしたい)
だが、もう全ては手遅れだった。
牧田俊樹が言った通り。
*
事件が起きたのは、掃除が終わった後のことだった。
掃除を終えてさくらは教室へと戻る。放課後、一応晶に今日起きたことを話しておいた方がいいだろうかと考えていたさくらは、教室の様子がおかしいことに気がついた。
いつも通り騒がしくはあった。だが楽しそうな声が少しも聞こえてこなかったのだ。悲鳴のようなもの、パニックを起こしたような声、そして女子の泣いている声。さくらは同じ班の人と顔を見合わせ、首を傾げた。
恐る恐る教室の中へ入ると、教室へ戻ってきた生徒の殆どが一箇所に集まっており、何か話していた。
「どうか、したの?」
さくらの姿を認めたほのりが彼女を手招きする。それに従ってほのりの傍に行った。
「何かね……牧田から、変なメールが届いたらしいの。どうもあいつとメアドを交換していた人全員にきているみたい」
「変な、メール?」
「たった一言さ『俺はエンデュミオンなんかじゃない』って書かれていたらしいわ」
エンデュミオンなんかじゃない。それは四時間目の授業の時彼が叫んだ言葉と同じものだった。
そのメールに最初に気がついたのは、クラスの男子だった。まだどうせ晶は来ないだろうから没収されることもないだろうと思っていた彼は、携帯電話に俊樹からメールが届いていることに気がつき、そのメールを開けた。
だが書かれていたのは『俺はエンデュミオンなんかじゃない』という言葉だけだったから、その男子は首を傾げる。そして他の男子にそのことを話した。その男子も俊樹とは仲がよく、メアドを交換していたから、もしかしてと思いながら携帯を開くと、矢張り彼にも俊樹からメールが届いていた。内容は、全く同じ……ということらしい。ほのりが説明してくれた。
「篠宮さんにも、届いていたんだって。メール。でも、内容は他の人とは違うものだったらしい」
教室に入る前聞いた女子の泣く声。その主は静香であったらしい。
静香はさくらに気がつくと、泣きながら携帯をさくらに寄越す。手の震えを懸命に抑えながらそれを手に取る。
画面に映っていたのは『俺はエンデュミオンなんかじゃない』という文よりかは幾分長いものだった。
『ごめん。俺は、もう今までの俺じゃない。お前とは違う存在になってしまった。一緒に居られない。居たって苦しめるだけだから。俺は牧田俊樹だ。エンデュミオンなんかじゃない。けれど、俺はもう俺であって俺じゃない。さようなら』
さようなら。……それは恋人関係を破棄するという意味なのだろうか。それとも……。
静香は泣きじゃくりながらさくらを見た。
「エンデュミオンって何? 誰なの? 訳が分からない……けれど、その名前をどこかで聞いたことがある気がするの。思い出せない、どこで聞いたのか思い出せない……臼井さん、私とても大切なことを忘れている気がする。ああ、私どうしたらいいの。怖いよ、このままじゃあ、俊樹、どこかへ行っちゃう……無理矢理でも聞けば良かった……そうすれば、こんなことには、ならなかったかもしれないのに」
「篠宮さん……」
「エンデュミオンって誰よ、俊樹はエンデュミオンなんかじゃない。俊樹は俊樹よ……!」
エンデュミオン。その名前には聞き覚えがあった。
「エンデュミオン……ギリシャ神話にそういう名前の人が登場するわ」
静香が顔をあげる。他の人もまたさくらに視線を向けた。
「その人は羊飼いの青年で、とても美しい顔立ちをしていたらしいの。そんな彼に月の女神、セレネが恋をした。彼女は深く彼を愛した。けれど彼は自分とは違い、老いていく。それを嫌がった彼女は全知全能の神であるゼウスにお願いをしたわ。彼を不老不死にしてください、と。その願いは、叶えられた。でもその代わり、エンデュミオンは永遠に眠り続けることとなった……。彼女は夜になる度地上に降り立っては、眠っている彼に寄りそうの。そういう悲恋の物語に出てくる人なのだけれど……」
さくらが知っているエンデュミオンの物語はそういうものだった。
エンデュミオン、と聞いて連想できるのはそれ以外にない。
さくらの話を聞いた生徒達はそういう話があるのかと頷きつつ、だから何だというんだという表情を浮かべていた。さくらだって同じだった。
だがこのままでは不味い、ということは誰もが分かっていた。静香に届いたメールに書かれていた「さようなら」という言葉。それが「もう二度と会わない」という意味だったとしたら……。
しばらくして教室に入ってきた晶は、生徒達の様子がおかしいことにすぐ気がついた。
「おいお前等どうしたんだ? 何かあったのか」
そう問われ皆が口々に事情を話し始める。
「ちょっと待て、あたしは聖徳太子じゃねえんだから大勢の話を一度に聞くことなんて出来ないんだ。誰か一人、代表して話せ」
そこで一歩前に出たのは学級委員長。彼は晶に先程起きた出来事を話したり、生徒達にメール画面を見せるよう促したりした。
話を聞き終えた晶は口元に手をやり、どうすべきか考えた後
「特に連絡事項は無いから、今日はこれにて解散! もし分かったこととかがあればあたしか他の先生に言ってくれ。以上!」
それだけ言って、教室を足早に出て行く。
「姫野先生!」
さくらは呆然と立ち尽くしている生徒達を残して晶を追いかける。
そして先程――四時間目の授業に起きたことを話した。ただ彼がカッターで頬を傷つけたこと、その傷が何故かすぐ消えてしまったことなどは話さないでおいた。
「……そうか、分かった。ありがとうな臼井」
「……いえ」
さくらは晶を見送った後、教室へ戻る。荷物を持って部活へ行くためだ。
泣き続ける静香は女子達に慰められていた。他の人達は気まずそうな表情を浮かべながら、のろのろと教室を出て行く。皆俊樹のことが心配だった。だがだからといって部活をさぼるわけにもいかない。
静香のことは仲が良いらしい子達に任せ、さくらはほのりと共に再び教室を出るのだった。
(部活が終わったら、弥助さんの所へ行こう。……時間が、無い)
まだ間に合う、きっと間に合う。そう信じながら部活の時間を過ごすのだった。