第十四夜:我が愛しのエンデュミオン(1)
ああ、愛しい貴方。貴方こそが私の伴侶。
永遠に貴方は私のもの。
『我が愛しのエンデュミオン』
十月も半ばを過ぎ、大分過ごしやすい気候になってきた。東雲高校は文化祭に向け少しずつ準備を進めている。十一月に入れば祭が始まってもいないのに学校中お祭りムードとなる。学校全体で行われるビッグイベントがこれと体育祭位しかないのだから、まあ無理も無い。
ちなみにさくらのクラスはホットケーキとジュースを出す喫茶店をやることになっている。
授業が終わり、昼休みの始まりが告げられたのと同時に、生徒達はポップコーンのように弾け飛び、四方八方へ散っていく。ある者は友人の居る教室へ、ある者は食堂、そしてある者は購買のパン争奪戦へと向かう。
さくらとほのりは教室に残り、食事の準備をする。準備といっても机を合わせて持参した弁当をカバンから取り出すだけだ。
ほのりは大あくびをしながら弁当箱をつつく。先程まであった英語の授業中も寝ていたのに、まだ眠いらしい。或いは寝起きだから眠そうなのか。
さくらは昼食が終わったら本を読もうと思いながら卵焼きを口にする。
何となく教室の出入り口に目をやると、クラスメイトの一人、篠宮静香(ちなみにさくらは彼女の名前を思い出すのに三十秒以上かかった)が弁当を包んだものを片手に一つずつ持ちながら、いそいそと出て行くのが見えた。
何故二つも?とさくらは疑問に思う。静香はとても大食漢には見えないのだが。
「二つ……?」
「はい?」
さくらの呟きにほのりは目をぱちくりさせる。
「あ、いやその……篠宮さんがお弁当を二つ持って出て行ったから、何でかなと思って」
ほのりはまるで1+1の答えって何だっけ?と聞かれたかのような表情を浮かべている。さくらにとっては難問でも、ほのりにとっては超簡単なものだったらしい。
「何故って、そりゃあ愛しい王子様の為に決まっているじゃないの」
「王子様?」
「か・れ・し・よ」
一文字ずつ丁寧に区切り、その単語を強調する。ああ、成程とさくらが納得したように言ったのでほのりはほっと息をつく。
だがしかし。
「篠宮さんって恋人が居たのね」
という言葉を聞き、ほのりは余程驚いたのか素っ頓狂な声をあげる。さくらは驚いてびくっと肩を震わせる。
「サク、あんた知らないの? はあ……信じられない。この学年で知らない人は居ないって位有名よ。……まああんたは知らなかったみたいだけれど。相手は、同じクラスの牧田俊樹。東雲高校のおしどり夫婦なんて呼ばれているのよ、あの二人。知らない?」
さくらがぶるぶる首を横に振ると、ほのりは頭を抱えた。
「あんたねえ……」
「牧田君ってどういう人だったっけ……」
「あんた、一年の時も同じクラスだったはずなんだけれど」
「え、あれ、ああ、そ、そうだったっけ……」
「というか、そもそもさあ。二人共小学校、中学校も同じだったはずだけれど?」
「え、ええ……あ、ああ……う、うう」
さくらは人の顔や名前を覚えるのが苦手だった。本に出てくる登場人物の名前はよく覚えるのだが。彼女には女子の顔が皆同じに見えるし、基本的に関わることのない男子のことなど殆ど記憶に残らない。そんな訳だから、牧田俊樹と言われても顔が全く思い浮かばなかった。
誰と誰の仲が良いとか、どことどこのグループは仲が悪いだとか――そういったものにも興味を殆ど示さないから、静香と誰かが仲睦まじそうに話していたとか、そういうところを見た記憶も一切無かった。
人の会話にもあまり興味を示さないから、噂話などにもかなり疎い。
首を傾げながらうーんと唸っているさくらを、ほのりは弁当に箸を刺しながら、呆れたように見守っている。
「あんたねえ、もう少し周囲に目を向けなさいよ。読書や創作活動に夢中になるのもいいけれど。まあ兎に角……篠宮さんと牧田は本当、仲が良いのよ。何でも幼稚園あがる前から家族ぐるみの付き合いがあったんだって。あんたと井上みたいなものよ。で、いつの間にか異性としてお互いを見るようになり、高校をあがる前には恋人同士になっていたらしいわ。何かこう、五十年以上共に人生を歩み続けてきた夫婦みたいな感じになっているのよね、あの二人」
「櫛田さん、詳しいのね」
「あんたが知らなさ過ぎるのよ! 全く、この脳内お花畑娘、しっかりしろ!」
割と真面目にほのりは言うのだが、さくらは暢気にえへへと笑っているだけだ。ふざけて言っているだけなのだと思っているのだろう。ほのりは頭を抱えるしかない。
結局ご飯を食べ終え、読書をする頃には静香と俊樹のことなどすっかり忘れていた。
*
授業が終わり、放課後となる。さくらとほのりは仲良く部室へと向かった。
文芸部は文化祭に向けて着々と準備を進めている。文化祭は普段の活動成果を色々な人に見せることが出来る絶好の機会だ。唯一の、といった方が正しいかもしれない。それゆえ自然と力が入る。
原稿と睨めっこを続け、しばらくは殆ど誰も喋らずに自身の作業に没頭する。部誌を見たり、買ったりしてくれる人はそこまで多くは無いがそれでも適当なものは作りたくないのだ。
しかしずっと集中していれば、やがて疲れてくる。五人は息抜きにお喋りを始めた。
お喋りのお供は、佳花が持ってきたクッキー。彼女はよく手作りのお菓子を持ってきては皆に分けてくれる。彼女は三年生なので、この文化祭を最後に表面上は部活を引退する(ただ、彼女は進路が決まっている為これからも部室に顔を出すという)。
「そういえば最近さ、舞花市とか桜町にコスプレ女が出没しているんだよね」
「あ、その話は僕も聞いたことがあります。何人か見たらしいですね」
「コスプレ女?」
あまり人と話さないさくらはその話を知らず、首を傾げる。その様子を見たほのりが、さくらに話してやる。
「そう、コスプレ女。着物――といってもごく一般的な奴じゃなくて――あんたは大昔の王族か、と思わずつっこみたくなるようなものを着ているんだって。それでもって、ものすごく重そうなかつらをつけている」
「地面にくっつきそうな位長い髪のかつらをつけているらしいですね。まあかつらかどうかははっきりしないそうですが……まあ、そこまで髪の毛伸ばしている人なんてまずいませんし……かつらなんでしょうね。目撃した人の話によれば若い女性とのことなんですが」
ほのりの説明を、環が補足した。女は夕方から夜にかけて主に出没するとのことだが、詳しいことは不明。何が目的でそんな格好をして歩いているのか皆目見当がつかないという。
「私の友達も、そのコスプレ女さんを見たらしいです。その友達漫画が好きなんですが……ある漫画の登場人物に似ていた、と言っていました。ですから、もしかしたらその人のコスプレをしているのかも……と」
「へえ、何ていう漫画?」
ほのりが聞くが、陽菜が困ったように笑う。友人から聞いたには聞いたが、全く知らない作品だったので忘れてしまったらしい。
さくらは本当にその女性が(コスプレをした)人間だったのか疑問に思った。
最近『向こう側の世界』の人物が深く関わっている出来事が頻繁に起きているからだ。
(けれど、深沢さんのお友達は漫画の登場人物に似ていたと言ったらしいし……考えすぎかしらね)
と考えを改める。
「まあ、何か悪さをしているというわけではないらしいのですが……何か気味が悪いですよね」
「気味が悪いと言えば。笛吹き魔の話、知っている?」
ほのりが話題を変える。環がぽんと手を叩き、頷く。
「あ、聞いたことあるかもしれないです。それも最近聞くようになった話ですよね」
「それは私も知っているわ」
こちらはさくらも聞いたことがあった。昨日の夕飯時、それが家族内でちょっとした話題になっていたのだ。
深夜の笛吹き魔。ここ最近桜町に出現する謎の怪物。
笛を吹きながら桜町を決まったルートで歩き、ある地点で立ち止まる。そこでも笛を吹き続け、三十分程してから再び元来た道を辿って消えていく。
笛吹き魔が立ち止まる地点近くに住む男が、一体誰がこんな時間に笛を吹いているのだろう?と思い、カーテンを開けて外の様子を覗いたらしい。すると道路の真ん中辺りに黒くて大きい、不気味な塊が立っていたのが見え、男は腰を抜かした……らしい。
黒くて大きな塊。それが恐らく笛吹き魔の正体なのだろう。男の目撃証言はあっという間に町中に広がっていった。
だがこの証言を真に受けている人間は殆ど居ない(小さな子供は別として)。
「まあ、夜遅くのことだったらしいし……寝ぼけて幻影を見たか、何かを見間違えたか、夢でも見ていたか……ってところでしょうね。実際は」
大抵の人はほのりと同じようなことを考える。
「けれど、毎晩笛の音が聞こえてきたらたまったものじゃないですよねえ。安心して眠れやしない」
「話によれば、安眠妨害には意外となっていないらしいわよ。ただ聞くと金縛りみたいに体が動かなくなるらしいけれど。結局笛吹き魔を見たって言っているのはその男の人だけみたい」
だから余計に彼が笛吹き魔を見たという話は胡散臭く感じるのだ。他の人は笛の音を聞くと動けなくなるはずなのに。何故彼だけ笛吹き魔を見ることが出来たのか。
陽菜はその疑問を口にし、考え込む。
まあもしかしたらその時イヤホン耳に突っ込んで、音楽とか聞いていて……笛の音色が耳にあまり入ってこなかったから自由に動けたのかもねえとほのりが返す。
「それにしても奇妙な話ですよね。僕は化け物なんて存在しないと思っていますが……けれど、ううん」
「まあ、迷惑であることに変わりは無いと思うけれど。それにしても本当、変なことが続くわねえ」
片手でペンを弄くりながら、参ったようにほのりが呟く。黙って話を聞いていた佳花も、出来ればこういうことは頻繁に起きて欲しくないと言いたげだ。
「しばらくすれば大抵の場合落ち着きますがね。神隠しにあう人も居なくなりましたし、変な雨も止みましたし、鏡から変な女が出てきたって話も聞かなくなりましたし……」
「またすぐ別の奇妙な出来事が起きやがるけれどね」
ほのりのその言葉を聞き、一同うんざりしたように頷いた。
こうしてしばらくお喋りに花を咲かせた後、再び作業に取りかかる。さくらも今は笛吹き魔やコスプレ女のことは考えず、ひたすら原稿に文字を刻み続けた。
時間はあっという間に過ぎていき、部活の時間が終わる。
また明日も頑張ろうと思いながら五人は別れた。
学校帰り、さくらは弁当屋『やました』に寄る。そこにはいつも通り店番をしている紗久羅がおり、さくらを見ると微笑みながら手を振ってきた。
「よお、さくら姉」
「こんばんは、紗久羅ちゃん。……今日はもう出雲さん、来た?」
何であいつのことなんて聞くんだよ、と出雲の名前を聞いただけであからさまに不機嫌そうな表情を浮かべる紗久羅だったが、問いには律儀に答える。どうやらもう来て、いつも通りいなり寿司を買っていったらしい。
「そういえば……さくら姉はコスプレ女と、笛吹き魔の話って知っている?」
さくらはこくりと頷く。先程までやっていた部活で話をしたばかりだ。
「その話をあいつにしてやったんだ。まあどうせ『で、それがどうかしたの? そんな話はどうでもいいからさっさといなり寿司をおくれ』とでも言われるんだろうなとか思いながらさ」
「それで、出雲さんは何て?」
「あたしが思い描いていた言葉を寸分違わず言いやがった」
ショーケースに肘をつきじと目でそう言う紗久羅を見て、さくらは笑う。
どうでも良いと言われることが分かっていながら、出雲に話す紗久羅は何て可愛いのだろうと内心思う。まあ口に出せば怒られるので、言わない。
「また向こう側の世界の誰かが、こちらで何かをしようとしているのかしら?」
「コスプレ女の方はどうだか知らないけれど、笛吹き魔は怪しいよなあ。噂によれば、同じ道を辿り、同じ場所で立ち止まるらしいけれど。何でだろうな?」
「誰か特定の人に演奏を聞いてもらいたいのかしら? そうだとして、夜に笛を聞かせる理由が分からないわ。目撃者の話によれば、笛吹き魔は大きくて黒い化け物だってことらしいけれど……その情報が正しいのかどうかははっきりしないわよね」
「だなあ。あの情報はぶっちゃけ微妙だよな。けれどもし笛吹き魔が向こう側の世界の住人だったら……また面倒なことが起きるかもな。全く次から次へと」
紗久羅はうんざりしているようだった。一つの事件が終わるとまたすぐに次の事件が起きるのだから、まあ無理もない。
何か他に変わったことが起きたらお互い報告し合うことを約束し、さくらは『やました』を後にした。
*
翌朝さくらは目を覚まし、小さくあくびをしながら階段を下りる。
テーブルにはこんがり焼けたパンと、バターの香りがするスクランブルエッグ等が置いてあり、父は新聞片手にコーヒーを飲んでいた。
TVで流れているのはニュース番組。この辺りの地域で起きた事件についてとりあげている最中だった。
何気なく見始めてすぐ流れたのは、三つ葉市で盗難事件が発生したというニュース。
深夜、三つ葉市の洋服店に何者かが侵入した。防犯カメラには何も映っていなかったが、カウンターに「服や小物を頂戴いたします」と書かれた紙が置いてあったらしい。実際に何をどれ位とられたか、については明言されなかった。
「物を盗んだことを紙に書いて残すなんて、珍しい泥棒だね」
驚きの混じった穏やかな声でそう言っているのはさくらの父・春樹だ。
そんな彼に似た娘、さくらも同様のことを思っていた。
「漫画とかに出てくる怪盗みたい。けれど、何故洋服……三つ葉市なら、宝石店とかもあるのに。高級な洋服を扱うお店だったのかしら?」
「さあ……。どの洋服店がどんなものを扱っているか、私はよく知らないから何とも。けれどニュースの映像を見る限り、高級な服を扱っているという風には見えなかったけれど」
春樹は不思議そうに首を傾げた。確かに映像に映っていた店に高級感はあまり無かったが……。父子揃ってファッション関係には相当疎い。そんな二人が話し合ったところで答えなど出るはずがない。
少し不思議な話ではあったが、盗難事件にはあまり興味が無いさくらはそのことについて考えるのをすぐ止め、母の作った朝食を味わう。
それからしばらくして家を出、学校へと向かった。
教室に入って自分の席に着くと、さくらはすぐ本を取り出して机の上に開く。そしてあっという間に物語の世界へ入り込む。生徒達が喋る声などあっという間に聞こえなくなった。……さくらの場合、本を読んでいなくても他人の声など殆ど耳に入らないのだが。
その為、彼女は俊樹が笛吹き魔について話していることにも気がつかず、彼が興味深いことを話していたことも知らないまま、自分だけの時間を過ごした。
彼がどんなことを話したか。それを聞いたのは昼休みのこと。
情報源は勿論というかなんというか――ほのりであった。彼女はさくらが夢の世界に浸りまくっていることを悲観しつつも、彼女が喜ぶような話をしてやるのだった。
「笛吹き魔についての新しい情報、知りたい?」
「え?」
にたりと笑うほのりを見て、さくらが目をぱちくりさせる。
「実はさ、笛吹き魔が立ち止まる地点って……牧田俊樹の家のすぐ近くなんだって」
さくらは牧田君って誰だっけと一瞬素で思った。少ししてから回路がつながり、その人物が篠宮静香の彼氏であり、同級生であることを思い出す。
「あたしはあんたと違って、他人のお喋りもしっかりはっきりきっかり聞こえちゃうのよね。今日の朝牧田が喋っていたのを聞いたの。でね、また夜に例の笛吹き魔が現われて、いつもと同じ演奏をしていたらしいんだけれど……」
「けれど?」
「何かさ、途中で笛の音が止まったらしいんだよね。今まで笛を吹くのを途中でやめたことなんてなかったのに。でさ……その後、男の人と女の人が喋っている声が微かに聞こえてきたんですって」
ほのりは何も掴んでいない箸をかちかちさせる。結局その後笛の音は聞こえず、男と女の声もフェードアウトしていったらしい。
「笛吹き魔と誰かが話していたってことかしら? 何かを話した結果、笛吹き魔はその場を去った」
「ということになるわよね。まあ、マジ情報かどうかまではあたしには分からないけれど」
「そうね。でも今まで無かった展開っぽくて……気になるわ」
笛吹き魔は誰と喋っていたのか?もし彼(なのかは分からないが)が真実黒くて大きな化け物だったとすれば、そんな者と(恐らく)平気で話していた相手もまた人では無い可能性が高い。
「笛吹き魔の正体は人間か、それとも化け物か。サク的には後者であって欲しいのよね?」
その言葉にそうねとさくらは返し微笑んだ。
一方コスプレ女についての話も部活中色々聞いた。陽菜のクラスメイトが彼女を目撃したらしい。
「散歩をしていた犬に思いっきり吠えられていたそうです。そのわんちゃん、とても大人しくてまず吠えることなどないそうなのですが……」
「犬が吠える位奇抜な格好ってことか……。犬さえびびるなんて、恐るべしコスプレ女」
ほのりは感心すればいいのか、呆れればいいのか良く分からず頬を掻く。
話を聞いて苦笑いしていた環は何故か急に真顔になり、おずおずと手を挙げた。何か言いたいらしい。四人は一斉に彼を見た。
「実はですね……僕、昨日例のコスプレ女らしき人物を見たんですよ」
それを聞き、噂話が大好きな女子共(佳花は除く)が驚きの声をあげた。彼曰く、噂通り妙ちくりんな格好をしていたという。
「大昔からタイムスリップしてきたんじゃないかと思う位すごい格好でしたよ。現代日本の風景に笑っちゃう位合っていませんでした。髪の毛も本当すごく長くて……地毛だとは到底思えません、あれは。地面につきそうっていうのは決して大げさな表現ではありませんでしたよ、ええ」
ちなみに環が彼女を見たのは桜町と三つ葉市の境位だったらしい。
「何というか、ものすごく気味が悪かったです。ふらふら歩きながら『愛している、愛している、貴方が欲しい、欲しい、どうしても私は貴方が欲しいの、愛している、愛している』ってずっと低い声で呟いていて。恍惚の表情を浮かべたり、急に暗い表情になったり……下手な怪談より怖かったですよ、本当。僕がすぐ近くを歩いていることにも全く気がついていない様子でした」
それ見てみたかったなあ、とほのりは興味津々。陽菜はと言えば、噂になる位すごい格好をしているコスプレ女さんも、私達と同じ乙女さんなんですねえ、と一人勝手に納得している。
「思わぬところで新情報ゲットね。コスプレ女は誰かに恋をしている。しかし色々危ないコスプレ女ちゃんに惚れられているなんて……。その誰かさんは可哀想ねえ」
「もう、櫛田さん。そうやって人を貶すようなことを言っては駄目よ?」
特に口を挟むわけでもなく静かに会話を聞いていた佳花が、ほのりをたしなめる。ほのりはごめんなさいと返したが、その口からぺろっと舌が出ている。反省などしていないことが見え見えだ。
「でもあれじゃあ惚れた相手に何をするか分かったものじゃないですよ。刃物を手に、貴方を殺して私も死ぬとか言いかねない感じでしたし」
それを聞き、そんなにすごかったのか。見てみたかったとほのりが呟いた。怖いものみたさというか何というか。そう言われるとますます興味がわいてしまうのが人間というもの。
「でも確かに怖いわよね。何か恐ろしいことを引き起こさなければ良いけれど……」
さくらは不安な気持ちを顔に出しながら呟いた。佳花もその言葉に深刻そうな表情を浮かべて頷く。他の三人だって同じ気持ちだ。彼等は人の不幸を心の底から喜ぶような人間では無い。
「実際にやらかすかどうかは分からないけれど、コスプレ女には注意した方がいいかもねえ。無闇に近づかない方がいいかも?」
「そうね。詳しいことは分からないけれど」
しばらく沈黙が続く。その沈黙を佳花が手を叩いて終わらせる。嫌な気持ちを拭ってくれる、優しい笑みを浮かべて。
「さあ。お話はそれ位にしておいて……それぞれの作業に取りかかりましょう。早いうちに終らせてしまえば、クラスでの作業により集中できるしね」
佳花の言葉に全員が同意し、再び静かな時間が部室に流れるのだった。
*
次の日は休日。さくらが向かったのは三つ葉市にある図書館。高校の図書室や桜町にある図書館は蔵書数が少ないから、大抵の本はここへ行って借りている。借りるだけで本を買うことは無いのかといえば、そうでもない。帰りに書店に寄って気に入った本を買うことだって多い。本棚など幾つあっても足りなかった。
日本文学と児童文学(子供向けだからといって侮ってはいけない。大人だって楽しめる作品が沢山あるのだ)の本が並ぶ棚を物色し、面白そうなものを選ぶ。
本を数冊借り、幸せな時を過ごしたさくらは図書館を後にした。
図書館の次は書店に寄り、面白そうな新刊が出ているかどうか見てみる。少しだけ……のつもりだったのだが、結局一時間以上書店をうろうろしていた。
特に買いたい本は見つからなかったが、授業用のノートを買わなくてはいけないことを思い出しいつも使っているものを購入した。
図書館、書店へ行けばもう三つ葉市に用は無い。他にもお気に入りの店が無い訳ではなかったが……。高いビルが並ぶ、建物が密集したこの街にさくらはあまり魅力を感じない。ごみごみしていて、騒がしく、美しい色彩が殆ど無い所に長時間居ても只気が滅入るだけだった。
さっさと家へ帰ってしまおうと思うさくらだったが、歩いているうちに喉が渇いてきた。家に着くまでにはまだ時間がある。
(そういえばこの近くに公園があったわよね……あそこで何か飲みながら少し休もうかしら)
三つ葉市の南側――桜町に近い方――には大きな公園がある。確かそこには自動販売機もあるはずなのだ。そこでお茶でも買って飲もうとさくらは考えた。
公園は歩いて五分程の場所にあり、あっという間に着いた。
背の高い木々に囲まれたその公園は二つのエリアに分かれている。一つはレモン色の石を地面に敷き詰め、脚や肘掛の部分以外が木で作られているベンチを並べた憩いの場。もう一つはそこよりもやや広く、地面が土の運動にもってこいの場所。その二つの場所を隔てているのが木とフェンスだ。
公園の入り口近くには自動販売機が三台程ある。その内一台はアイスの販売機。アイスもいいが、今はジュースを飲みたい気分だったからさくらはジュースの販売機の前に立つ。
カバンに入っている財布を探している内、隣の自販機に人が立った。何気なく隣に視線をやると、そこには篠宮静香が立っており、お札を自販機に突っ込んでいた。さくらは偶然自分の隣に同級生が来たことに驚き、財布を探す手を止める。
彼女は可愛らしいワンピースの上に白のカーディガンを羽織っており、普段より少し大人っぽく見えた。
さくらに気がつかない彼女は、ジュースを二本買う。
(何で二本……ああ、そうか)
彼女が牧田俊樹と付き合っているという話を思い出し、さくらは一人納得した。恐らく彼とデートでもしているのだろうと思った。
けれどちょっとした疑問がわきあがり、さくらはカバンの中に手を突っ込んだまま首をひねる。
(けれど、普通そういう時って彼女の方ではなく、彼氏さんの方がジュースを買いに行くような……そうでもないのかしら)
ジュースを両手に持った静香は何故か沈んだ顔をしながらため息をつく。それから程なくしてようやく自分のことをじっと見ているさくらの存在に気がついた。彼女はさくらを見て「あっ」と小さな声をあげる。
「う、臼井さん?」
「ああ、やっぱり篠宮さんだったのね。びっくりしたわ。……あの……やっぱり、その、恋人さんと?」
「う、うん。まあ……その、そんなところ」
少しだけはにかみながら、笑う。だがしぼむ風船のように、少しずつ表情が沈んだものへと変わっていった。楽しいデートのはずなのにどうしたのだろうとさくらは心配になった。
「どうしたの? 何だか元気が無さそうよ」
さくらがそう聞くと、静香は口をもごもごさせた後、ちらりと後ろを見る。
そうしてから再びさくらを見、先程と同じようにため息を吐いた。
「それがね……。彼――俊樹の様子がちょっとおかしくて」
「おかしい?」
「ええ。何かちょっと元気が無いというか――水とかジュースをがぶがむ飲むの……しかもかなり頻繁に。それにお昼ファミレスへ行った時も……いつも以上の量を食べていて……それでもまだ足りないって風な顔をしているの」
「確かに、ちょっと妙ね。昨日とかはそんなことは無かったの?」
さくらの問いに静香は重々しく頷く。
「昨日まではいつも通りだったわ。でも今日になって……。お昼を食べた後、映画館に寄ったのだけれど」
「映画を見ている時も何か食べたり、飲んだりしていたの?」
「ええ。しかもまるで昨日から何も食べていないかのように、ものすごい勢いで。大きなサイズのポップコーンとジュース、後チュロスだったかな……。映画になんてまるで集中していなかったわ。何か変だと思って、とりあえずここでちょっと休憩しようって言ったの」
「今もまだ調子が悪そうなの?」
その言葉に今度は力なく頷いた。
「ぼうっとしているか、水を飲んでいるかのどちらかしかしていないわ。おまけに散々食べたはずなのに……さっきお腹の虫が思いっきり鳴って……。もう何が何だかさっぱり」
そう言って、黙り込む。一体何が原因でこんなことになったのか考えているようだった。さくらも考えてみる。
(単純に具合が悪いから? けれど食欲が無くなったわけではなくて、逆にものすごい量を食べているみたいだし……具合が悪くなって食べても飲んでも満たされなくなる……そんなことってあるのかしら?)
何も思い浮かばず、口元に人差し指を添えながら唸る。
「……笛吹き魔のせいかな」
沈黙を破ったのは静香の方だった。さくらは予期せぬ言葉にぽかんとする。
彼(?)の名前が何故そこで出るのか。
(ああ、そういえば櫛田さん――笛吹き魔は牧田君の家の近くで止まっているらしいって言っていたっけ。けれど、それと今回のことがどう関係していると言うのかしら)
返事が無いさくらを見た静香は、俊樹の家の近くに笛吹き魔が現われていることを話してくれた。彼と家が近い静香もまた、笛吹き魔の演奏を毎晩聞いていたらしい。
「どうもね、俊樹は笛吹き魔の笛を聴くと変な夢を見てしまうようなの。目を覚ますと内容は殆ど忘れてしまうらしいのだけれど。兎に角変な夢なんですって。私や、私の家族はそういう夢なんて見ないのに。……その変な夢を見るせいで調子が悪いのかなと思う……それ位しか心当たりが無いし……あ、でも」
「どうしたの?」
「今回、いつもの時間に笛吹き魔が現われなかったの。だから、久しぶりに笛吹き魔の笛を聞くことなく眠ったのよ。その前の夜も途中で演奏が終わって……俊樹曰く男の人と女の人が喋っている声をその時聞いたとか……」
笛吹き魔が現われなかった?その事実にさくらは驚いた。ここしばらく毎晩現われていた彼が。
「笛の音が聞こえなくなった途端具合が悪くなる……そんなこと……やっぱり笛吹き魔は関係ないのかしら?」
さくらに問いかけているというより、独り言に近い喋り方。
「笛吹き魔はもう現われないのかしら」
「さあ……でも、まあ居るより居ない方が断然いいわ。眠りが妨げられて寝不足になったということはないけれど、やっぱり……気味が悪いし。それより今は俊樹の方が心配で」
大切な人を心配する彼女の顔は、長年連れ添ってきた夫の体調を案ずる妻のようであった。さくらは二人がラブラブカップルではなく、おしどり夫婦と呼ばれている理由が何となく分かった気がした。
(それにしても、牧田君はどうしてしまったのかしら? 笛吹き魔と彼の体調は関係しているのかしら。笛吹き魔が夜現われなかったという話も気になるけれど)
考え込むさくらに「ごめん、変な話をして。聞いてくれて有難う」と一言礼を言った静香はジュースを手に俊樹の所へ戻ろうとする。
「待て!」
その時大声で誰かがそう叫んだ。
「俊樹?」
その声を聞き、静香は彼の名を呟く。叫びながら走っているのは男で、自分達と同じ歳位に見えた。
こちらに近づいてくる内顔がはっきりと見えてくる。その顔は教室内で見かけた覚えがあった。彼はさくらの曖昧すぎる記憶が正しければ、静香が呟いた名前を持つ少年……牧田俊樹であった。
彼は必死な形相を浮かべながら走っている。どうしても捕まえたい相手を追いかけているようだった。その相手が誰であるのかさくらには皆目見当がつかないが、静香でないことは確かだろう。
「ちょっと、俊樹?」
静香が彼に声をかけたのは、丁度二人がすれ違う瞬間だった。彼女に声をかけられて振り返った俊樹が手をぶんぶん振る。
「悪い、今日は俺帰る! 本当ごめん! また後でメールするよ!」
隣に居るさくらになど目もくれず、静香の制止も聞かず、公園を歩く人々の間を縫いながら、あっという間に立ち去った。
さくらは俊樹の顔を間近でちらっとしか見なかったが、静香の言う通り少し具合が悪そうだった。本当は全速力で走れる程万全な体調では無かったのかもしれない。
(何だか気合で走っているって感じだった……)
それにしても彼が、自分のことを心配してくれている彼女を放ってまで追いかけたい相手とは誰なのか。
何が何だか訳が分からず、顔を見合わせ、二人仲良く首を傾げるのだった。
*
あの人が私を呼んでいる。今、私だけを見つめてくれている。
嗚呼、その真っ直ぐな瞳、耳を痺れさせる声、少し癖のある髪!その全てを私は手に入れたい。全て、全て。
手に入れたい……いいえ、手に入れる。きっと、手に入るわ。
悲恋なんかには絶対にしないわ。体が蕩けてしまう位甘くて熱い恋にしてみせる。
きっと出来るわ。私にだったら、出来る。