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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
優しい君へ
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第十二夜:優しい君へ

『優しい君へ』


「野良犬にからまれている猫を助けようとしたら、自分が今度は野良犬に襲われそうになって、それから逃げようとして思いっきりこけて……そのこけっぷりを見た野良犬が呆れて退散した……。はあ、そんなこと本当にあるのねえ」


「あるのよ。誰かがどこかで書いた物語のような――実際にありそうで、無い、そんな感じの出来事が」

 櫛田ほのりと昼食を食べるさくらの膝と肘にはばんそうこうが貼られており、右頬も心なしか、赤い。恥ずかしいのか体を気持ち小さくさせていた。ほのりは、さくらの弁当箱に入っている卵焼きを一つつまみ、口に入れる。


「葱が入っている卵焼きもいけるね。今度作ってもらおうっと。……しっかしまあ、転んだだけで済んでよかったわねえ。犬にがぶっと本気で噛みつかれたら大変なことになっていたわよ」


「それを考えるとぞっとするわ。けれど、猫ちゃんが無事で良かったわ。三毛猫だったの。三毛猫ってとても素敵だわ。古き良き日本の風景に一番馴染むもの。大人になったら猫を飼って、縁側で一緒にひなたぼっこをしながら本を読みたいわ」

 そう言いながら恍惚の表情を浮かべ、空想、もとい妄想の世界へと一瞬にして入り込む。

 

「原稿用紙に向かう私の傍らに猫……っていうのも絵になるわね。書斎には犬よりも猫の方が合うと思うの。本棚とか机の上を荒らされないように気をつけなければいけないとは思うけれど。やせているより、少しふくよかな子の方がいいわ。特に理由は無いのだけれど、その方がずっと良いと思うの」

 弁当を食べるのも忘れ、夢想したことを口走っている彼女はかなり浮いており、異様な空気を放出している。ほのりはそんなことは慣れっこなので、特にツッコミを入れることもなく、適当に頷きながらおかずを口に運び続ける。


「いいわねえ、猫。ああ、あの猫ちゃんとまた会いたいわ。あの猫ちゃんが恩返しに来てくれたら、私そこら中を飛び跳ねてしまうでしょうね。猫の恩返し、鶴の恩返しのような悲しくて切ない結末にはならない気がするの。猫ってどうやって恩返しするのかしら? 大量の魚を家の前に置くのかしら。それともにゃあにゃあ歌うのかしら。小判でも持ってきてくれるのかしら。ねえ、どう思う」


「さあ、猫に恩返しされたことなんてないから分からないわ。それより早く食べちゃいなさいよ、また図書室へ行くんでしょう」

 もう殆ど食べ終わったほのり。対して、さくらの弁当箱にはまだおかずやご飯が結構残っている。


「それもそうね」

 慌てて食べるのを再開するさくらの耳に、校内放送が入ってくる。放送委員会の女子が、十月に行われる後期生徒会役員選挙について話していた。しかし教室中騒がしいので、具体的に何を言っているのかいまいち分からない。


「そっかあ。もう後期の選挙があるのかあ。まあ、生徒会長は御影要でほぼ決定でしょうね」

 最後の一口を食べ終え、ほのりは弁当箱を片付ける。御影要というのはさくら達と同じ二年生の男子で、一年の頃から生徒会役員の活動をしていた。


「掲示板見る限り、生徒会長に立候補している人は御影君だけだしね。他の人がこれから立候補する様子も特に無いし……」


「ま、あの真面目だけが取り柄の堅物優等生君に任せておけば問題ないでしょう。あいつは学級委員か生徒会役員をやっていないと死んじゃう病気にでもかかっているのよ」

 と言って、大きなあくびを一つ。


「櫛田さんと御影君は幼馴染なのよね」


「家が近いからねえ。まあ小学校低学年位までは一緒に遊んでいたかなあ。……でも小さい頃から堅物君でねえ、あいつと遊んでいると疲れたわ、本当。ごっこあそびの設定にまでツッコミを入れてきてさ。それは現実的じゃないとか、そんなこと出来るはずが無い、とかそんな星は無い、とか夢のないようなことばっかり言って……」


「御影君らしいわね……」

 とさくらは苦笑いする。何故かほのりはにやりと笑う。


「あの時は私や、他の友達が主な被害者だったけれど。今一番被害を受けているのはサクよねえ?」


「そ、そんな被害だなんて」


「あれを被害と言わずに何と言う。他人の会話に首を突っ込んできた挙句、ブリザードワードを連発し、空気を悪くした後去っていく。あいつは空想とか、非現実的な物を好むサクにとっては天敵みたいな存在よね」

 天敵って、大げさよと言う一方心の中ではひっそりと「そうかもしれない」とさくらは思った。


(御影君はどうも私のことを嫌っているらしい。すうっと会話に入り込んできて、私の言葉を全て否定して、そして嵐のように去っていく……)

 さくらは彼のことを決して嫌ってはいない。しかし若干苦手に思っている。

 どう答えればいいのか分からず困惑しているさくらを見て、ほのりはため息をつく。頬杖をつきながら何事か呟いているようだったが、さくらには何と言っているのか聞こえなかった。


 さくらはその後急いでご飯を食べ終え、借りていた本を返したいというほのりと共に図書室へ行った。


 東雲高校の図書室は、あまり大きくない。三つ葉高校のようなセキュリティゲートも無く、図書ノートに借りた本の名前、日付、学生番号と名前をいちいち書かなければいけない。本も新しい物はあまり入っていない。校舎の端っこにぽつんとあり、室内も地味で床に敷かれているカーペットからは独特な匂いがする。

 しかし三つ葉高校の図書室が、開放感がある代わりに周りの音が聞こえてきてうるさく、いまいち落ち着かない空間になっている一方で、東雲高校の図書室は心が落ち着く、静かな空間となっている。

 がらがら、と戸を開けるとカーペットの臭くは無いがちょっと妙な臭いが鼻の中に侵入する。テーブルには本を読んでいる人、自習をしている人が数人居る。


「あら、新刊が入っているわ。……あら素敵、面白そう」

 さくらの目に留まったのは、日本の中ではそこそこ有名な作家の新作だった。


「ある学校には森があり、その森の奥にはおしゃれな家がある。そこでは定期的に放課後お茶会が開かれており、幾人かの生徒が招待される……自称魔女の女性に、うさぎの被り物をしたタキシード姿の男の人、背中に翼に似た模様がある猫達が登場……オニムバス形式の作品。面白そうだわ」


「いかにもサクが好きそうなお話ね」


「ええ。私これを借りることにするわ。学校に森があって、そこでお茶会が開かれる……素敵だわ」


「君は相変わらずそんな夢物語が好きなんだね」

 本を抱きしめるさくらと、肩をすくめるほのりの背後から、体をぐさりと突き刺すような冷たい上に鋭い声が聞こえる。さくらはその声にぎくりとし、恐る恐る後ろを振り返る。


 そこに居たのは、御影要であった。

 さくら程では無いがややクセのある髪、吊り上がる眉、日の光を浴びる氷の如く輝く瞳、黒縁眼鏡。一番上のボタンまできっちり留めてあるブラウス。当然のことながら、裾はズボンの中に入っている。

 要はまるで憎き仇でも見るかのような目で、さくらを睨みつけていた。さくらはその剣幕におされ、一歩後ずさる。


「うさぎの被り物をした男にお茶なんて出されたらたまったものではないな。そんな奴、十中八九危ない人だ。猫の背中に翼に似た模様が? だから何だっていうんだ。たまたま、何となくそう見える模様があっただけの話だろう。君は、背中についた模様の翼でその猫が空を飛ぶとでも思っているのかい? 馬鹿馬鹿しい。大体、生徒達をどんな危険があるかも分からない森に入らせるなんて、その人達とんでもない神経の持ち主だ。放課後に茶会なんて始めたら、帰りは夕方、或いは夜だ。冬なら、帰る頃には真っ暗になっているだろうしね」

 淡々とした口調で、次から次へと夢を叩き壊していく要。


「僕がもしその学校の生徒会長をやっていたら、即刻そのお茶会をやめさせるよ」


「あんたねえ……。ったく、紙の上の物語にまでいちいち文句言わないでよね。ていうか、あたし達が何を読んでいようとあんたには関係ないでしょう」


「ああ、関係ないさ。ただ僕はそういう風に夢物語ばかり愛する、現実を見ない愚かな人間のことが嫌いなだけだ。そろそろ現実に目を向けたらどうだい。来年には受験生だというのに、全く……」


「あたしもあんたみたいに空気読まずに会話に割り込んでくるような奴って大嫌い。ねえ、サク」

 話をふられたさくらはどう答えてよいものか分からず、おろおろしている。正直苦手です、とは言えないし、かといって嫌いじゃありませんと言っても信じてもらえないような気がして、答えに困る。

 要はその沈黙を肯定の意ととったらしく、むっとしながら視線を逸らす。


「素敵な回答どうもありがとう」

 明らかに不機嫌そうだったので、さくらはどうしようとおろおろする。が、ほのりは少しも気にしていないらしく小声で「馬鹿ねえ」と呟く始末。


「ま、こいつのことは放っておいて、本借りてきなさい」

 ぽん、とほのりに背中を押されてさくらはカウンターへ逃げるように向かった。

 カウンターに居たのは後輩の御笠環で、さくらが来るなり何やっているんですか、と呆れ気味に呟く。どうやら三人のやり取りを見ていたらしい。


「図書室では静かにして下さいよ。私語厳禁、火気厳禁です。……確かこの前もここで口論始めていましたよね。あの先輩、生徒会副会長の人ですよね? 大体あの先輩から話しかけてきて、臼井先輩を口撃して、櫛田先輩がそれをたしなめるというか、彼の火に油を注ぐというか……」


「私、嫌われているみたいで。目を合わせる度あんな感じなの」

 さくらはノートに名前などを書き込みながら、困ったような表情を浮かべる。余程私、嫌われているのね……と呟く。しかしその事実が彼女の心を傷つけることは、無い。美しい幻想を追い求め続けることが出来るのなら、誰に嫌われても構わないと思っているのだ。


(櫛田さんや御笠君、一夜や紗久羅ちゃんに嫌われたらちょっと辛いけれど)


 ほのりは本を返却するついでに、新しい本を借りさくらと二人して図書室を出た。


「櫛田さんは何を借りたの」


「ん、ちょっと今書いている小説の参考になりそうな本をね。部誌に載せるやつの構想がようやく出来てきてさ。まあ、別に大勢が見るものでもないけれど、載せるからには出来るだけちゃんとしたものを書きたいし。あたし、ざっくばらんなようで意外としっかりしているのだよ」

 さくらはくすっと笑い、ああ確かにそうだと思った。ほのりは一見適当な性格に見えるが実はしっかり者で、細かいことにも気がつくタイプ。絶対やってやると思ったものに対しては妥協を許さないのだ。

 教室に戻る頃には、要にブリザードワードアタックをされたことなどすっかり忘れていた。早く本を読みたいという思いが、そんなことなどあっという間に吹き飛ばしてしまったのだ。


「あの馬鹿も可哀想に」


「あの馬鹿?」


「ううん、こっちの話」

 ほのりがどうしてそんなことを言ったのか、意味が分からずさくらはきょとんとする。

 その意味をさくらが知ることになるのは、大分先のことである。


 放課後、部活が終わり皆と別れたさくらは、昇降口を出たところで立ち尽くしていた。

 今日は朝から雨であり、夕方になって更にそれが強くなっている。

 勿論さくらも傘を持ってきており、それを傘立てに入れていた。


 ところが、だ。

 何度探してみても自分の傘が見当たらないのだ。誰かが間違えたのか、或いは……。


(朝はそんなに降っていなかったし、傘を持ってこないで来た人が居たのかもしれない。……きっと盗まれてしまったのね)

 折りたたみ傘をカバンの中へ入れておけばよかった、と後悔する。


(けれど、困ったわ。どうしましょう。こんな雨の中流石に傘もささずに歩きたくないわ。そりゃあ確かに自然の恵みを体で感じ取るってとても素敵なことだけれど……帰った後が大変だし。一夜を待ち伏せして傘に入れてもらおうかしら。けれど一夜が家を出た時って雨が殆ど降っていなかっただろうし……もしかしたら一夜も持っていないかも)


 珍しく腕を組み、うーんどうしましょうと考え込んでいたさくらの肩を誰かが叩いた。びっくりして振り返ると、そこにはいつも通りむすっとした顔をした要が立っていた。


「……傘、忘れたのか」


「あ、いえ、その……誰かに持っていかれちゃったみたいで……」

 鋭い目で睨まれ、息が詰まる。また何か嫌味でも言われるのではないかと思い萎縮した。出雲のそれとはまた違う冷たい視線が突き刺さる。

 しかし要の口から飛び出してきたのはブリザードワードなどではなかった。


「これ、使って」

 そう言って彼が差し出したのは黒い傘だった。さくらは驚いて目をぱちくりさせる。


「え、でも」


「僕はいつも鞄の中に折り畳み傘を入れているから、そちらを使うよ」

 さくらは要の申し出に喜ぶ反面、親切心で声を掛けてくれた要にびくびくしてしまったことを少しだけ申し訳なく思った。

 差し出された傘、受け取らぬ理由などどこにもない。さくらは要からゆっくりと傘を受け取る。少し手が触れた瞬間要が何故かびくっと体を震わせる。さくらはそのことに気づかないまま、暖かな笑みを浮かべた。


「ありがとう、御影君」

 笑みと共に素直に感謝の言葉を述べる。途端要の体が強張り、心なしか頬が赤くなる。しまいに視線を逸らしてしまった。

 それじゃあ、とぶっきらぼうに別れを告げると折りたたみ傘を広げてさっさと行ってしまう。


「本当に有難う」

 雨に負けない位の声をあげ、改めて礼を言う。そしてさくらも借りた傘を広げて歩き出し、家へと帰っていった。


 家へ帰り、夕食までの間自分の部屋で宿題をする。大した量ではなかったので、それはすぐに終わり、本を読み始める。今日の昼休みに借りたあの本だ。

 幻想的な表現や単語、固さのない柔らかで心地の良い文体、優しく暖かな内容……何もかもさくらの好みだった。あっという間に物語の世界に入り込み、想像の旅へと出かけていく。さくらは素敵な作品に出会えて良かったと幸せな気持ちでいっぱいになった。


 こん、こん。


 何かを叩く音が聞こえた。想像の旅へ出ている最中だったさくらは最初「きつつきが木をつついているのだ」などと思っていた。

 その音が何回か続くうち、ようやく自分が今居るのは家の中であり、美しい森の中ではなかったことを思い出す。旅を一時中断し、顔をあげる。音は部屋のドアからではなく、窓から聞こえた。


 さくらは窓にやり、えっと驚きの声をあげる。

 窓の外に、人が居た。しかも見慣れぬ人間だ。


 歳は自分と同じ位の男性で、白いパーカーを着ている。髪は黒いがところどころ明るい茶色が混ざっていた。そんな男の人が窓に張りついていれば、さくらでなくても驚く。

 しかもその男は両手に大量の傘を持っていた。どうやら玄関上部についている屋根の上に立っているようだ。


(何で傘を持った男の人が……。というかここ、二階よね。あの数の傘を手にしたままここまで上ってきたの? 誰にも気づかれず? そんなこと普通の人に出来るかしら)

 もしかしたら『向こう側の世界』の住人だったのかもしれない。そう思ったさくらは、思いきって窓を開けた。普通の人なら絶対開けず、家族に助けを求めるなり、警察に通報するなりするのだが。


「ああ、良かった。やっと気づいてくれた。いやあ流石に大変だったよ、これだけの傘を持ってくるのは」


「貴方、誰なの?」

 恐る恐る聞いてみるが、男はにこにこ笑うだけだった。敵意や害意がないことは確かなようだったが、気味が悪い。


「ほら、これ。君にあげるよ」

 と明るい声で言い、戸惑うさくらに大量の傘を押しつけた。思わず受け取った傘は十本以上はあった。何が何だか訳が分からずぽかんとしていると、男は目をぱちくりさせ、首を傾げた。


「あれれ、嬉しくないの?」


「一体、これ誰の傘なの。貴方は誰なの?」


「嬉しくないの? おかしいなあ……」


「だから、貴方は」

 男はさくらの言葉に耳を貸そうとしない。急に表情が暗くなり、がっくりと肩を落とす。何でだろう、どうしてだろうと小声でぶつぶつ呟いているのが聞こえる。さくらもどうすればいいのか分からず、おろおろする。兎に角男から渡された傘を返さなければ、そう思った途端、男の表情がぱっと明るくなった。


「そっかあ。さっきのやつみたいなのがいいんだね。ちょっと待っていてよ、必ず同じような物を見つけてみせるからさ。それじゃあ、またね」

 男は立ち上がり、くるりと背を向けたかと思うとさくらの制止も聞かず、背中に翼でも生えているかのように優雅に、そして軽々屋根から塀へ飛び移り、あっという間に消えていった。


 残されたのはぽかんとその場に立ち尽くすさくらと、誰の物かも分からない傘だけだった。


(ど、どうしよう。困ったわ。必ず同じ物を? 何のことかしら。よく分からないけれど、また来る……のよね。けれど、どうして……?)


 次の日、曇り空ではあったが雨はすっかり止んだ。さくらはもやもやした気持ちが消えぬまま、目を覚ます。処分に困ってとりあえず置いている多くの傘。その辺りだけ異様な空気を漂わせている。

 一体あの男は何者なのか。調べたい気持ちは山々だったが、手がかりは無いし、学校だってある。夏休みほど好き勝手に動けないのだ。さくらはそれを酷くもどかしく思ったが、どうしようもない。


 制服に着替えて一階に下りると、気難しい顔をして唸っている母と目があう。


「どうしたの、母さん」


「ああ、さくら。おはよう。いや、それがね……傘が」

 傘、という言葉にさくらはどきりとした。同時にとても嫌な予感がした。

 

「傘が五本……塀に立てかけてあったの。しかも塀の外、じゃなくて塀の中に。誰かが夜中に勝手に入ってきて、置いたみたいなんだけれど」

 曰く朝起きて庭に面した窓のカーテンを開けたら、黒い傘が塀に立てかけられているのを見たとか。


(きっと、昨日のあの人だわ。けれど、どうして……)

 昨日の出来事を話すわけにはいかないから、結局「気味が悪いわね。誰かの悪戯かしら」とだけ言ってご飯を食べ、家を出た。


 一体何なんだろうと色々考えながら歩いていたので、丁度塀から降りてきた猫とぶつかりそうになる。猫はじっとさくらを見てからあっという間に立ち去った。


(あの猫、昨日犬に襲われていた子に似ているわ。ああ、それにしても可愛いわね、猫)


 そして再び書斎と猫の妄想で頭をいっぱいにさせ、結局今度は電信柱にぶつかるのだった。


 借りた傘は丁度下駄箱に居た要に返した。彼は相変わらずにこりもせず、むすっとした顔で傘を受け取った。


「そんな礼を言われることじゃないよ。……僕だって困っている人を放っておく程冷たい人間じゃない。例え相手があの口だけは達者な櫛田だったとしても、僕は傘を渡しただろう」


「ええ、分かっているわ。本当に有難う。おかげで濡れずに済んだわ」


 そう、とだけ言って要はさくらから離れる。要とさくらが話しているのを見ていたほのりは妙ににやにやしながら、ぽんとさくらの肩を叩く。


「どうしたの? 随分仲良さそうに話していたじゃない」


「ああ、傘を。昨日御影君から借りた傘を返したのよ。彼、優しいのね。嫌っている私にも傘を差し出してくれるのだから」


「あはは、意外とお人よしだしねえ、あいつは。まあ他にも理由はあると思うけれど」


「え?」


「何でもない、こっちの話よ」


 部活が終わるまで、特に変わったことは起きず、男と出会うこともなかった。

 何故あの男は傘にこだわるのか。そして何故傘をさくらにあげようとしているのか。

 靴箱に上履きを入れ、靴をとりだす。


(私はあの人のことを知らない。けれどまるであの人は私のことを知っているかのようだった。さっきのような物って何かしら。さっき、という言葉を使っていたからにはつい最近のことを指していたのだとは思うけれど。傘、傘……)

 考え込んでいた時、さくらは今日の朝庭に立てかけられていた傘のことを思い出した。傘の色は全て黒。そして大きさも同じ位で。


「御影君から借りた傘……」

 要から借りた傘の色は、黒だった。


(けれど、どうして……?)

 靴を履きかえようとしたさくらだったが、出入り口の方を見た途端、その場で立ち止まった。

 昨日の男が、そこに立っていたのだ。服装も昨日と同じで白のパーカー。 フードを被っている男はさくらの姿を見てぱあっと明るい表情を浮かべた。

 下駄箱に居たのはさくらだけではない。他の生徒も数人居た。だが彼等は男の存在に全く気づいていない様子。どうやら彼の姿はさくらにしか見えていないらしい。


「ここで待っていたらきっと君に会えると思って。昨日ぶり……あ、違う。今日の朝にも会っていたね、そういえば」


 朝?さくらは首を傾げる。少なくともさくらには彼を今日の朝見かけた覚えはなかった。見かけていたら声をかけるなり、追いかけたなりしていたはずだ。


「ねえねえ、今日のはどうだった? 本当はさ、直接君に渡したかったんだけど。君、寝ていたから。適当な場所に置いておいたんだ。今度は喜んでくれるよね?」

 期待に満ちた眼差しをさくらに向け、彼女の答えを待つ。


「あの無愛想な男に貰った時、とっても嬉しそうな顔をしていたもんね。ありがとうって言ってさ。あの時君には僕の姿は見えていなかっただろうけれど……あの時実は、僕、居たんだよ」


「え……」

 確かにさくらは要から傘を借りた時、微笑みながら礼を言った。それは彼の優しさに対する感謝の言葉。

 ところがどうやら目の前に居る男は「ありがとう」の意味を微妙に履き違えているようだった。彼は恐らくさくらは黒い傘が好きで、それを要から貰った(実際は借りただけ)から嬉しくてありがとうと言ったのだ、と思っている。



「あ、あの、あのね。私は別に傘が好きってわけじゃなくて」

 男がきょとんとする。


「その……あ、ええと。ここだと人が居るから……別の場所で話しましょう?」

 恐る恐る彼を手招きする。すると彼は驚く位素直にかけてきて、さくらについてきた。


 さくらは「忘れ物をした」と言って部室の鍵を借り、殆ど人が通らない場所にある部室へと向かう。その間男は校内を興味深そうにきょろきょろ見ている。

 途中教師や生徒達とすれ違ったが、矢張り男の存在には気がついていないようだった。それが分かっていてもさくらは「もし誰かに見つかったら」と思うと気が気でなく、終始はらはらしていた。


 部室の鍵を開け、部屋の中に入る。そして扉を閉めるとほっと安堵のため息をついた。


「それで、どうだった? あの傘、気に入ってくれた?」

 さくらが先程「傘が好きってわけではない」と言ったことをもう忘れている様子で、彼女に詰め寄る。


「あのね、だからね。私は黒い傘……というか傘全体――が好きってわけではないの。あのまま行けばびしょ濡れのまま帰るところだった私に、手を差し伸べて助けてくれた御影君の優しさが嬉しくて、それでありがとうといったのよ。だからね、あんなに傘を貰っても……困るだけなの。それにあれ、他人の物でしょう? 他人から盗ったものを貰っても、少しも嬉しくないのよ」

 男はそれを聞くと、残念そうにうなだれた。


「何だ、そうだったのか。……ああ、残念だなあ! 僕、君に喜んでもらいたくて、笑ってもらいたくて……ありがとうって言ってもらいたくて、それで、そこら辺にあったやつを拝借したのに」

 徒競走でビリになった子供のように落ち込む男に、さくらは優しく語り掛ける。


「ねえ、どうして貴方は私に喜んでもらいたかったの? 貴方は誰?」


「君は昨日、久々に『こちらの世界』へ来た僕を助けてくれようとしてくれた。正直、あんな奴僕の敵ではなかったんだけれど……それでも嬉しかったんだ。まあ君は僕を助けようとしたせいで思いっきり転んで、怪我しちゃったんだけれどね」


「助けた……転んだ……」

 そこまで話してもらって、ようやくさくらは理解した。

 目の前に居るのは昨日犬に襲われそうになっていた三毛猫だったのだ。言われて見れば髪の色とパーカーの色は、その猫の毛色そのもので。

 

「君の優しさが嬉しくて、仕方が無かったんだ。兎に角、嬉しかった。だから君にお返しがしたかったんだ。僕を暖かい気持ちにしてくれた君を、今度は僕が暖かい気持ちにさせようと思った。けれど、どうすれば君が喜んでくれるのか分からなかったから、君の後をついていった。それで夕暮れ時、君があの男から傘を貰っているのを見て。ああ、これだと思ったんだ。けれど、違ったんだね。ごめんよ、僕ってそそっかしいからさ。早とちりばかりするんだ。おまけに、馬鹿だしね」

 そう言って、照れくさそうに微笑む。

 さくらは彼の、その心からの言葉を聞いて、心が温かくなるのを感じた。今まさに、彼の願いは成就したのだ。


「貴方、あの時の三毛猫だったのね。……貴方、男の子なの?」

 三毛猫の殆どはメスだと聞いていたから、何となく気になってそんなことを尋ねてみた。男は「うん」と言って頷く。


「何か珍しいらしいね、すごく」

 ええ、そうね。とっても珍しいわと言いながらさくらは微笑んだ。そして彼の頭を優しくなでる。男はびっくりして顔をあげる。


「ありがとう」

 昨日要に見せたのと同じ微笑を浮かべ、心から感謝の言葉を述べた。


「どうして? どうして、僕は、間違っていたのに」


「そうね。けれど、嬉しかったの。貴方の想いが、とても嬉しかった。方法はちょっと間違っていたけれど……。物とか、行為とか、そんなものは良いの。そういう風に心から思ってくれたことが、嬉しいの。だから、私はお礼を言うのよ。本当に、そう思っているのよ」


「本当? 本当に」


「ええ、本当よ。ありがとう」


 男はそれを聞くと、今まで以上の笑顔を浮かべさくらから離れ、やったあと両手をあげて喜んだ。さくらの言葉が嘘ではないことを感じ取ったからこそ、彼は心の底から喜んでいるのだろう。


「そうか。うん、うん。良かった。ああ、とっても今気持ちがいいな! 嬉しいな、嬉しいな。……あ、君にあげた傘……後で元の場所に返しておくね。君を困らせたくないもの」


「そうしてもらえると嬉しいわ。そういえば貴方、名前は何というの?」


「名前なんてないよ。必要なかったし、あっちの世界でも名前なんてなくても困らないしね」


「それじゃあ、私がつけてあげようか」


「本当!? ありがとう、僕、君のこと大好きだ!」

 男は感極まったのか、さくらに勢いよく抱きついてくる。さくらは驚いたが、恥ずかしいという気持ちには不思議とならなかった。相手が猫だということが分かっているからだろう。

さくらは微笑み、彼の名前を呟いた。


「ユウ。(ゆう)にしましょう。優しいって意味よ」


「ユウ、ユウか。うん、有難う。なかなか良い名前だ。というか君からもらった名前なら、きっとどんなものだって良いものだと思っただろう。あ、そういえば君の名前を知らないや」


「私はね、さくらっていうの」


「さくらか! うん、覚えた。さくらだね! さくら、また会おうね。僕は君のことが大好きだから、何度だって君に会いにいくよ。それじゃあね、さくら」

 そう言うとさくらの返事も聞かず、部室の窓を開け、そこから一気に飛び降りた。相手が妖で、ちっとやそっとのことじゃあ死なないということが分かっていても、心臓が止まりそうになる位衝撃的な光景だった。


 さくらは再びユウと会う日を楽しみにしながら部室を出、家へと帰っていった。


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