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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
鏡女
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鏡女(6)

 町が襲われている……そう叫んだやた吉は、地面に着地し主人である出雲を見上げる。興奮しているやた吉、やた郎と違って出雲は冷静だった。冷静を通り越して、冷たい。そういった反応には慣れっこである彼らは構わず話を続けた。


「三つ葉市と桜町の人達が大勢襲われているんだ。鏡から出てきた女が、人から生気を吸い取っている」


「外に居る人達も襲われている。……その妖怪、鏡を自分で作り出す力があるみたいなんだ。町中鏡だらけで――そこから現われた女が」


「町は襲われて倒れている人だらけだよ! 命に別状無いみたいだけれど……このままじゃあ、三つ葉市や桜町に居る人全員倒れちゃうよ。もしかしたら舞花市とかにも現われるかもしれない」

 やた吉とやた郎は交互に語る。相当興奮しているのか、早口になっていた。

 

「相手はどうやら着実に力を取り戻しているようだね。……もしかしたら、封印される前以上の力を手に入れているのかもしれない」


「こんなに早く力って取り戻せるものなのか?」

 鏡女が力をどんどん取り戻している……そうなればますます柚季の魂を侵食するスピードも速くなるのではないか、と紗久羅は不安になり、痛む胸を強く抑えた。或いはもう柚季の魂は、などと最悪の結末が頭をよぎる。

 出雲は紗久羅に背を向けたまま、町の中心へと向かって歩き始めた。


「普通はここまで早くないだろうねえ。しかしまあ、この辺りの土地には酷く歪んだ力……私達『向こう側の世界の住人』にとっては心地よいものだけれど――が流れているから。三つ葉市へ引っ越してきたことで、急速に力を取り戻していったのだろうね。まあ、とりあえず力の中心を目指そう。そこに君のお友達がいるはずだ。……もっとも、お友達の魂が今も残っているかどうかは分からないけれどね」

 気を利かせた言葉を出雲の口が紡ぐことは無い。聞きたくもない現実を美しく冷たい声で、平気で語る。もう全てが手遅れなのかもしれないと唇を噛み締める紗久羅。

出雲はやた吉とやた郎に語りかける。


「結界を。……どうせ君達もついてくるのだろう?」

 紗久羅と奈都貴を見る出雲。二人は迷うことなく頷いた。弥助は店に残ると言う。


「この店を襲ってくる可能性だってある。秋太郎を守らなくちゃな。……朝比奈さんは少し遠くの町へ行っているから大丈夫だとは思うが……」

 出雲と違い、何と優しく人間思いな妖怪なのだろうと紗久羅は思った。


 やた吉とやた郎がその身を人間の姿へ変える。手に持つ錫杖で地面をつくと結界が現われ、紗久羅と奈都貴を包み込んだ。


(柚季、お願い、お願いだから……無事でいてくれ)

 もう駄目かもしれない、という思いを振り払いながら紗久羅は願う。


「走っていこう!」


「そうだな」

 奈都貴も同意する。やた吉とやた郎も頷いた。その意見に納得していない様子なのは出雲だけであった。紗久羅の言葉に驚いたような表情を浮かべる。


「え、走るの?」


「当たり前だろう、一刻を争う状況でちんたら歩いていられるか!」

 

「君達って馬鹿みたいに元気だねえ……」

 出雲は酷くうんざりしたような様子だった。絶対走りたくない、という感情が思いっきり顔に出ている。紗久羅と奈都貴はそんな出雲に構わず(全速力ではないが)走り始めた。


 やた吉とやた郎が体の負担を軽くする術をかけてくれたお陰で、随分と楽に走ることが出来た。一方出雲といえば、同じく術をかけてもらったのにもかかわらずへろへろ走りであった。


「何でお前そんなに遅いんだよ! あっちの世界へ通じている階段を上るときは涼しい顔をしている癖に!」


「階段は毎日のことで慣れたけれど、走るのは慣れてないんだよ。それに君達ほど動きやすい格好をしていないしね、私は」

 早くも息を切らしながら出雲はどうにか答える。呆れた二人は彼を無視して走ることにした。

 鏡女――柚季目指して走りながら、奈都貴がぽつぽつと話し始めた。


「九段坂さんとは、随分前から妖のこととかを話していたんだ。……美沙さんと初めて会った時、思いきり抱きつかれて――それで、俺が『向こう側の世界』と関わりがあったことがばれた、というかなんというか」

 彼女に抱きつかれた時のことを思い出したのか、奈都貴の顔がさっと赤くなる。まあ無理もないだろう。


「……俺、小学校五年の時……塾の帰りに変な化け物に追いかけられたんだ。一反木綿ブラックバージョンみたいな奴に」

 奈都貴は自分が『向こう側の世界』の存在を知った経緯についてぽつぽつと語り始めた。


「必死に逃げている間に、お化け通りの前まで行って――そこで、出雲に出会った。俺は出雲に通しの鬼灯を渡されて、お化け通りへと入っていった。そこはもうお化け通りじゃなかった。……似てはいたけれど。俺は『向こう側の世界』へ行き、そこにある居酒屋へ逃げ込んだ。弥助とはその店で出会った。他の妖とも出会った。それで、そこで美味しい物を沢山食べて……それで、帰った」

 紗久羅よりずっと前に彼は『向こう側の世界』のことを知っていたのだ。時々呼吸を整えながら、奈都貴は話を続ける。


「……その後も、時々弥助と会った。あの喫茶店で。出雲とはあまり会うことは無かったけれど。……出雲が毎日のように行っているっていう弁当屋が井上の家であることもずっと前から知っていた。俺は気になっていた……ずっと……井上は知っているのだろうか、って。出雲の正体も、あっちの世界のことも……」

 奈都貴はそのことをずっと聞きたがっていたのだ。そして、自分が『向こう側の世界』のことを知っていると紗久羅に告白したいと思っていた。しかし相手が全くそんなことを知らなければ、ひかれてしまう。だから聞けなかったし、話せなかったのだ。

 紗久羅は胸のもやもやの一つが晴れてややすっきりしたのを感じながら、彼の問いに答える。


「……知ったのは最近のことだよ。夏祭りの時に、知った。小さい頃からずっとあいつのことを『化け狐』とは呼んでいたけれど。でもそんなもの本当は居ないってずっと思っていた」


 住宅街に入り始めると、家のあちこちから人の悲鳴が聞こえてきた。ガシャンと何かが割れる音も時々聞こえる。二人は思わず耳をふさぎたくなった。


「これじゃあ無事な人の方が少ないかも……」


「これが原因で事故とか起きていないといいけどな」

 そう言って奈都貴は、気を紛らわせるために再び話を始めた。


「俺、井上から及川の前で三人もの人が倒れたって話を聞いただろう。あれを九段坂さんに話したんだ。そしたらあの人は最近この学校で妙な気配を感じる様になったと答えた。自分の使役する妖の一人を学校へ放ち、生徒が倒れた場所を調べさせた。……結果、鏡がどうも関係しているらしいことを突き止めた」


「その後も俺にもし変わったことがあったら報告してくれと言われた。……それからはちまちまとあの人に報告したよ。女子達のお喋りを何気なく聞いて気になる情報を手に入れたり、及川の様子を伺ったり……時々お前あの中の誰かに惚れているのか、と男子にからかわれてくそ恥ずかしい思いをしながらも頑張った」

 男子に弄られてまで……紗久羅はちょっとだけほろりとした。


「はっきりとした情報を掴むことは出来なかった。けれどあの人は学校で感じる気配が段々強くなってきていると言っていた。心なしか及川の様子もどんどんおかしくなっていっていた気もして……あの人は、及川に直接会えば何か分かるかもと言っていた」


「そんな時、あたし達が都合良く図書室に現われたって訳?」

 奈都貴がこくりと頷く。超ラッキーと二人共小声で呟いたという。喋っている紗久羅と柚季を指差しながら、奈都貴と英彦はきっと「あれが及川柚季です」「ほうほうあの子が」などと話していたのだろう。


「で、あの人は及川と井上の為に術をかけたしおりを渡したんだ」


「ああ、あのしおりか」

 奈都貴はまた頷いて話を続けようとした。しかし女の高らかな笑い声で邪魔された。声は頭上からした。

 見上げればそこには不気味に輝いた姿見。微妙に上下しながら浮いていた。

 これがやた郎の言っていた「鏡女が作った鏡」だろう。


 鏡に映っているのは女だった。それは昨日紗久羅を襲った女と同じ姿をしている。鏡女は何が楽しいのか、あはははとずっと笑い続けている。


「現われたな、鏡女! てめえ柚季からさっさと離れやがれ!」


「無駄だよ、紗久羅」

 少し遅れて追いついた出雲が息を切らせながら言う。葉を濡らす露の様な汗、顔につく髪。汗だくになってなお美しい。


「そこに居るのは本体ではない。……鏡女の分身だ」


「うふふ、あはは。もう手遅れよ。あの娘の体も、魂も、もうすぐ私のものになる」

 残酷な言葉を笑いながら突きつけた鏡女が、鏡の中から飛び出してきて紗久羅を襲う。結界が守ってくれることが分かっていても、矢張り怖い。

 鏡女の手が結界に触れる。結界は彼女の手を弾こうと、ばちばち音を立てて抵抗する。手は結界の中に入りそうで入らない。

 更に二つ目、三つ目の鏡が現われ、そこからも鏡女が出て来て結界を破ろうとする。


 だが、出雲が放った白い光の矢が鏡女の体を貫くと、彼女達は悲鳴をあげながら消滅していった。鏡も、綺麗さっぱり無くなる。


「消えた……」


「これで終わりじゃないよ。さっきも言った通り、彼女達は分身に過ぎない。核を消滅させない限り、半永久的に出現し続ける」


「その核っていうのが……」


「及川の体を巣食っている奴、か」


「先を急ぐよ」

 紗久羅達は再び走り始める。


 空や道路……ありとあらゆる所からひっきりなしに鏡は現われ、紗久羅達を襲おうとする。やた吉とやた郎は結界を維持する為に集中しなくてはいけないのだが、こうしつこく攻撃されるとなかなか集中できないようで、ちくしょうとかもう勘弁してくれとか、そんなことを言いながらひたすら走り続けている。

 出雲が光の矢を放てば容易に彼女達は消滅する。しかし数秒後にはまた新たな鏡女が現われ、紗久羅達を襲い、また矢を受けて消滅し……その繰り返しだった。

鏡女の笑い声がセミや蛙の合唱をかき消し、妖しく不気味な笑い声が町を包んでいた。走っても、走っても、その声から逃れることは出来ない。


「本当、きりが無いな! 何だよこれ……。ああもう、五月蝿い笑い声だなあ」


「確かに、頭がさっきからがんがんする。鏡女の核は――及川は――どこに居るんだ?」

 紗久羅は分からない、と首を振る。やた郎が後ろを振り返り紗久羅をちらっと見る。


「及川って子が誰なのか俺達はよく知らないけれど……一番強い力を桜町から感じるから、多分こいつらの核は今桜町に居ると思う」

 そう話している間にも鏡女が襲ってくる。結界に入り込もうとしても無駄だと察したのか、今度は結界を張っているやた吉とやた郎を襲うようになった。

 二人は錫杖を使い抵抗するが、集中力が切れれば結界が消える。そのためか本気を出して彼女達を追い出すことが出来ない。

 出雲が次々と光の矢や青い炎などを放って消してくれてはいるが、やた吉もやた郎も相当辛そうだった。


「あたし達滅茶苦茶足手まといじゃん。……もっと戦える人が居ればもう少しスムーズに進めるのに。なあ、九段坂のおっさんとは連絡つかないのか。化け物使いってやつなんだろう?」


「あの人は今無理だよ。……井上を助けたから」


「え、どういうことだよ」

 紗久羅がぎくりとして奈都貴を見る。彼は汗を拭った。


「遅かれ早かれ、井上は襲われるだろうとあの人は踏んで、あの場でこっそりしおりに術をかけて井上に渡した。……あのしおりが、鏡女を弾いて井上を助けた。その代わり、あの人は鏡女を弾いた時の反動をその身に受けたらしい。明日になれば動けるらしいけれど、今日はちょっときついってさ。美沙さんに学校帰りに会って教えてもらった。その他のことも、色々と」


「そっか……あたしを助ける為に」

 少しばかり責任を感じて気を落とす紗久羅の肩を、奈都貴がぽんと叩く。


「井上の所為じゃない。全部鏡女って奴が悪いんだ。あの人だって井上が落ち込むことを望んじゃいないはずだよ。ダメージを受けたのだって、自分の力不足がゆえって言っていたし」


「なっちゃん……なっちゃんはいい奴だなあ、愛してる」

 感謝しながらも弄ることは忘れない。奈都貴の顔がみるみるうちに赤くなっていく。


「お前こんな時まで……ちくしょう!」


「ああ、いいなあ、奈都貴。私でさえ愛してるって紗久羅から言われたことがないのに」

 しっかりちゃっかり聞いていたらしい出雲がため息をつき、そんなことを言いながら矢を放つ。

 鏡女の笑い声に混じって聞こえる、彼女に襲われた人達の悲鳴。道路でたおれている人達。紗久羅や奈都貴の知り合いもその中におり、二人は痛む胸を抑えながら先へ進んだ。早くしなければ柚季も、桜町や三つ葉市に住んでいる人達も危ない。

 幾ら術をかけられているとはいえ、走りながら喋り続けるのは相当辛い。五人は徐々に無言になっていく。鏡女だけが腹が立つ位元気であった。


 気づけば五人は町の中心まで来ていた。住宅が密集するエリアゆえに、人々の悲鳴が先程より先程より頻繁に聞こえる。鏡女の数もより多くなっているようだった。


 紗久羅は後方に居る出雲の様子をちらりと見る。

 矢を放ち再び鏡女を消滅させた出雲は、汗でへばりついた髪を払っていた。彼の顔にはあからさまに疲労という文字が浮かび上がっており、息も絶え絶えといった風だ。再び前を向きやた吉とやた郎を見る。彼等がどんな表情を浮かべているのかは、紗久羅には分からない。ただ精神的に参っている……そういった空気は何となく伝わってきた。


「全く、忌々しいったら無いね」

 低い声で恨み言を吐く出雲だったが、ふと何かに気づいたのか急に立ち止まった。


「近い……」


「え?」

 紗久羅と奈都貴が聞き返し、彼等も走るのをやめた。

 よく見ると、前方に人が居た。鏡女に襲われた様子は無い。


 紗久羅は唾を飲み込んだ。


 その人間はどんどん近づいてきている。女のようだった。やた吉とやた郎が錫杖を強く握りしめる。奈都貴は「来た」と小さく呟いた。


 厭な風に吹かれてなびく黒髪。その髪を彩る真っ赤なカチューシャが光を受けた鏡のようにぎらぎら輝いている。

 裾や袖にレースのついた、真っ白のワンピースが薄暗い空間によく映えている。

 

「柚季……」


 目の前に居るのが彼女であって彼女でないことは紗久羅にも分かっていた。しかし自然と口からこぼれ出た名は、大切な友人の名であった。

 柚季は――鏡女は――紗久羅を見て、笑った。愉快そうに、妖しく、不気味に。


「やっと見つけたぞ。お前達のことを探していたのだ」

 妖しく輝く瞳を紗久羅達に向けながらゆっくりと鏡女が語った。ぞっとする喋り方に胃を締めつけられながらも、紗久羅は彼女を睨み叫ぶ。


「それはこっちのセリフだ。探していたぜ、あんたのことをな!」


「おや、そうだったの。それは嬉しい」


「その体、さっさと柚季に返せ」


「いきなり本題? もう少し話をしようではないか」

 呆れたような様子の鏡女を紗久羅がびしっと指差した。


「時間稼ぎしようたってそうはいかないぜ。さっさと消えやがれ、くそばばあ」

 柚季を、そして桜町や三つ葉市を滅茶苦茶にした彼女が許せず紗久羅は大声で怒鳴る。しかし鏡女は怯む様子を見せない。


「口の悪い娘。お前の様な娘は大嫌いだ」


「大嫌いで結構だ。……いいからさっさと消え失せろ」


「断る。……折角手に入れた体なのだから。ふふ後少しで全てが私のものになる。この体もしばらくすればより使いやすい体になるだろう。あははっ」

 高らかに笑う鏡女。そこに柚季の面影は残っていない。そんな彼女を一発殴ろうと結界から今にも飛び出していきそうな紗久羅を、奈都貴が抑えた。

 そんな紗久羅達に構わず、鏡女は一人話を続ける。


「窮屈で居心地の悪い鏡の中で、私は長い間眠り続けていた。私を封印したあの男を恨み、憎みながら。……しかしある時、私の眠りは覚めた。封印が解けかかっていることに気づいた。だが鏡から解放されたところで私には力も肉体も無い。……結局何も出来ぬまま惨めに消えるのみのはずだった。けれど、そのまま大人しく消えてやるのはどうしても嫌だった……だから私は呼び続けたのだ。器となる者を、な」

 その声を聞き、彼女に導かれるようにして物置部屋にやってきたのが柚季だった、というわけだ。鏡女に惑わされ、感情を爆発させ、鏡を壊した。そして鏡女はまんまと柚季の体を手に入れたのだ。


「正直、上手くいくとは思っていなかった。弾き返されるものと思っていた。だが私の魂はこの娘に拒絶されることなく入り込むことが出来た。……元居た土地を離れ、あの三つ葉市という名の地に来てから……魂は一層この体に馴染むようになった」

 鏡女が話している間も、分身達は笑い続けている。紗久羅は笑い声で頭がどうにかなりそうになった。


「それでも最初の内は辛かったぞ。器を手に入れたとはいえ、私の力は無いに等しいものだったのだから。忌々しい封術師の男によって傷つけられた我が魂を癒し、力を取り戻すには人の――特に若い娘の生気が必要だった。だが、分身を作り出す力も、一度に多くの生気を奪う力も、その時の私には無かった。この姿を鏡に映し、道を作り、私が直接鏡に入り込むことでようやく少量の生気を奪うことは出来たが……あんなまどろっこしいことなど一生やりたくない」

 むかむかする気持ちを抑える一方で、紗久羅はああそれで、と思った。

 当初、人は柚季がすぐ傍に――鏡の前に居る時に倒れていた。倒れたといっても軽い貧血程度のものですぐ目覚めた。

 だがしばらくしてからは、柚季がその場に居なくても人は倒れるようになったし、症状もどんどん重くなっていった印象があった。


「鏡女の器となってしまった及川が三つ葉市に引っ越してきたことで、事態は余計悪化した。この辺りの土地の力が鏡女に力を与えてしまったんだ」


「最初の内は出雲ですら気づかなかった位、しょぼい力しか持っていなかったのに」


「及川の魂と同化することで、あの鏡女は及川の一部になった。だから余計に判別が難しかったらしい。おまけに井上が言う通り初めのうちはそこまで強い力を持っていなかったから……。単純にとり憑いていただけだったら、すぐ分かったかもしれない、とも言っていたな」

 紗久羅を待っている時にそんなことを話したのだろう。奈都貴は小声で補足した。二人の前に居る出雲は口を開くことなく、只そこに立ち続けている。


「まあ、話はこれ位にしておこう。話しているだけではつまらないだろう? 遊びましょう?」

 遊びましょう、という部分だけ柚季の声色になる。鏡女が両手を広げ、指揮するかのように、軽く手首を振った。


 誰がてめえなんかと遊ぶか、と言い返そうとした紗久羅だったが口から出かかった言葉は口の中から一瞬で蒸発して消えた。

 先程までとは比べ物にならない数の鏡が一度に出現し、辺りを覆いつくしたからだ。鏡同士がしっかりとくっつき、下以外の全てを囲む。ぎらぎらと不吉に輝く鏡の空間が一瞬にして出来上がった。

空、道路、家……先程まで周りにあったものはあっという間に見えなくなった。世界からこの辺りの空間だけが切り離されてしまったかのようだった。邪悪で息苦しい空気が閉ざされた空間に充満しているのがよく分かる。


「この空間からは、私を倒さぬ限り抜け出すことは出来ぬ。鏡は壊してもすぐ元に戻る。私はこれほどの力をすでに手に入れているのだ。……あはは、驚いた?」


「おいこれ、マジかよ……」


「短期間で力つけすぎ……」

 紗久羅と奈都貴はもう驚くやら呆れるやら。出雲は小声で面倒臭いと呟きながら頭をかいている。

 鏡女の分身達はこれから起こることに胸躍らせながら笑っている。彼女達は核である鏡女の合図を待っているようだった。やた吉とやた郎は唾を飲み込む。


「お前なんて、私の矢で簡単に葬りさることが出来るのだがね」

 鏡女を睨むその瞳は、氷を鋭く削った作った刃のようである。弓を握る力が強くなっている。鏡女はにこりと笑いながらくるりとその場で回る。スカートの裾がふわりと舞った。風を受けて揺れる、草原を飾る可憐な白い花のように。


「お前にそれが出来るの? その娘の前で、私に矢を放つの?」


「出来なくはないね」

 そう言いつつも、出雲が弓を構えることは無い。鏡女が愉快そうに笑った。

 紗久羅は奈都貴の腕をつつき、彼に話しかける。


「なあ、何で出雲は矢を放たないんだ? さっきあたしにそう簡単にはいかないとか何とか言っていたけれど」


「……及川まで死んでしまうかもしれないからだ」

 言いにくそうに口をもごもごさせた後、はあ、と息を吐いて一気にそう言った。その言葉を聞いて紗久羅の心臓がどくん、と不吉な音を立てて大きく揺れた。


「柚季が、死ぬ?」


「鏡女の魂と及川の魂。二つの魂は今殆ど同化している状態なんだ。二人は同一の存在になろうとしているんだ。……今矢を放てば、鏡女の魂と一緒に及川の魂まで消滅してしまうかもしれないんだ。上手く切り離されて鏡女の魂だけが消滅する可能性が無い訳じゃない。でもどちらに転ぶかは実際にやってみないと分からない……らしい」


「そんな……!」

 それは鏡女自身も承知しているらしい。彼女が器としているのが柚季――紗久羅の友達でなければ、出雲も躊躇うことなく矢を放っていただろう。


「鏡女を柚季の魂から引き剥がすことは出来ないのか? 引き剥がした後、鏡女を討つとか」


「同化した魂を引き剥がすのは相当難しいことらしい。無理に引き剥がせば、何が起きるか分からない。……奇跡的に一命をとりとめたとしても、魂に大きな傷を負ってしまって……二度と目覚めなくなってしまったり、記憶を失ったりしてしまうかもしれないんだってさ。紙にしっかりくっついたテープを無理矢理剥がそうとすると、紙が破れてしまったり、テープと一緒に紙の一部もはがれてしまったりするだろう。……それみたいなものだって」

 紗久羅は何も言えず、ただ口をぱくぱくさせる。


 二人の会話を聞いていたのか、鏡女がくすくすと笑った。


「ああ、何て良い気分! あの男に封印された私が、あの男の子孫である娘の全てを手に入れる! 後少しすれば完全に! あはは、これ程素晴らしい復讐はない!」


 鏡女が右手を挙げ、そしてそれをゆっくりと振り下ろした。

 それが、合図だった。


 紗久羅達を閉じ込めている全ての鏡から、一気に鏡女(以降、分身とだけ表記する)が飛び出してきて五人を襲う。鮮やかな着物と、夜空を閉じ込めたような髪で空間がいっぱいになった。

 出雲は顔色を変えることなく、人差し指と中指だけを立てた左手を、右から左へ一気に走らせる。

 無数の青白い炎が出雲を囲む。今度は手を上から下へ一気に振り下ろした。

 炎は放射線状に飛んでいき、分身達を攻撃する。分身達めがけて飛ぶそれは、まるで空を駆ける彗星のようだった。


 今度は紅葉が描かれた黄金の扇を取り出し、手首をすっと捻る。すると燃える様な色をした無数の紅葉が現われ、分身の体を切り刻み、燃やしていく。彼の攻撃は霊的なものであるから、実体を持たない分身達にも有効のようだった。

 出雲の攻撃は核である鏡女を避けていた。柚季の体を傷つけないようにする為だろう、と紗久羅は思う。


(弥助がこの場に居ても役に立たなかっただろうなあ。あいつ物理的な攻撃しか出来そうにないし……。いや、そんなことはどうでも良い。これ、一体どうすればいいんだ? 柚季を助ける為には……)


 分身達は消えては現われ、そしてまた消されていく。これだけの分身を放ち続けているのだから、当然鏡女も消耗しているはずなのだが、彼女の顔に疲れという文字は浮かんでいない。町を襲って奪い続けている生気がそうさせているのかもしれない。或いはこの空間が彼女に味方しているのか。


 分身の一人がやた吉の頭をがっと掴んだ。彼の体が一瞬よろける。それを見た出雲が扇で鏡女をばん、と叩くと分身は悲鳴の様な笑い声のようなものをあげて消えた。


「しっかりおし。二人を守れなかったら、後で死ぬよりきつい罰を与えるからね」

 出雲の言葉にやた吉は申し訳なさそうに頷く。そうしている間にも無数の分身達が三人を襲う。

 出雲を襲おうと手を伸ばした分身。彼女の手は出雲の扇によって弾かれる。

 弓を構え、光の矢を鏡の一つに放つ。鏡は音を立てて割れ、一瞬だけ空の一部が見えたが、すぐに新たな鏡が現われ、そこを埋めた。


「これじゃあ、きりが無い。そうこうしている間に、柚季と鏡女が完全に同化しちまうかもしれない。……そしたら、出雲は矢を放つ。鏡女は死ぬ。柚季も、死んでしまう」


「……或いはその前に、出雲が矢を放ってしまうかも。今もものすごく我慢している状態っぽいし……」

 確かにそれはそうだ、と紗久羅は頷いた。出雲は割と短気なのだ。というより自分の思い通りにならないというのが大嫌いな性分なのだろうと紗久羅は思っている。簡単に切れる堪忍袋の緒……切れれば相手が紗久羅の友達であろうが何であろうが構わず彼は矢を放つに違いない。それを考えると頭が痛くなった。


 出雲に手を伸ばす分身の一人を、彼は扇で薙ぎ払った。そのままくるっと回り、彼の背後に居る分身の体を両断する。右足を軸にし、髪を揺らしながら分身達を消滅させてゆくその姿は、舞姫のようであり、恐ろしい鬼のようでもあった。分身達は彼に触れることすら出来ない。


「ああ、でもこのままじゃあどうしようもないよ。……核を討たなきゃ、ここから逃れることも柚季を解放することもできない。けれど、下手をすれば柚季も死んじゃう。だから矢を放つことが出来ない……あたし、約束したのに。助けるって、言ったのに」

 口ではそう言ったが、結局の所自分は何もしていない。かえって今は出雲達のお荷物になっている。拳を強く握りしめ、歯軋りする。しかしそうしたところで何が解決するわけでもない。

 悔しげな紗久羅を見た奈都貴は、首を横に振った。そして彼女の顔を真っ直ぐ見た。


「まだ、手はある。あの人は術をかけたしおりを、及川にも渡した。……井上が貰ったしおりにかけられていたものとは違う術だ。術は成功したはずだ、と聞いている」


 そして奈都貴は、最後に残った手段について紗久羅に話し始めた。


 目を覚ますと、柚季は暗黒の世界に居た。そこにあるのは果てない闇のみだった。暑くもなく、寒くもない。

 

「ここは、どこ?」

 友人である紗久羅に全てを話してすぐ、意識が飛んだ。意識が途切れる刹那、女の笑い声を聞いたような気がした。

 ゆっくり立ち上がり、改めて辺りを見回してみる。しかし何回見ても闇以外に見えるものは何も無い。


 闇は不安を煽る。夢も希望も喜びも、全て吸収されて姿を消してしまいそうな空間。柚季は自分の体を抱きしめながら、震えた。このままでは自分自身も闇に溶け消えて無くなってしまう……何となくそんな気がして、柚季は涙を流す。

 

(私はここでこのまま消えてしまうのだろうか。鏡を割ってしまったことを後悔しながら、一人寂しく消えてしまうのだろうか。嫌だ、そんなのは、嫌だ)

 だが、どうすればこの世界から抜け出すことが出来るのか柚季には分からなかった。嫌だ、怖い、寂しい……そんな思いがぐちゃぐちゃに混ざり合い柚季を襲う。


「助けて。誰か、助けて」

 そんなこと言っても無駄だろうけれど、などと思いながら柚季は必死で叫んだ。すると「大丈夫ですよ」という男の優しく暖かな声が聞こえ、柚季は肩を震わせる。

 恐る恐る振り返ると、そこには三つ葉高校図書館司書……九段坂英彦が立っていた。彼の体は眩い光に包まれており、柚季の心を一瞬で暖める。


「九段坂……さん? どうして……」

 震える唇でようやくそれだけ言うことが出来た。英彦は柔らかな笑みを浮かべている。


「私が貴方に差し上げたしおり。……あれは術のかかったしおりだったのですよ」


「術?」

 柚季は目をぱちくりさせる。一体何を言い出すのだろうと思った。しかし英彦は構わず話を続ける。


「貴方の魂は、妖の魂に侵食されています。このままでは貴方の魂は消滅し、妖――恐らく鏡女と呼ばれる者――に全てを奪われてしまいます」

 真剣な表情を浮かべ、先程より低い声で言う。柚季ははっとし、体を震わせる。


「しおりにかけた一つ目の術。それは妖が貴方の魂を侵食するスピードを少しだけ遅くする為のもの。そしてもう一つ。……私、九段坂英彦の魂の欠片を貴方の体内に注ぎ込む術」

 柚季は紗久羅と電話で話している間、ずっと握り続けていたしおりのことを思い出した。確かにしおりを握っていた時は少しだけほっとし、また意識を保ち続けることがどうにか出来ていた。ただそれも一時的な効果であったが……。

 しかし魂の欠片とはどういうことだろう、と柚季は首を傾げる。


「貴方を助ける為、魂のほんの一部を切り取って、貴方の体内に流し込みました。しおりを私から受け取った時、びりっと電流が流れるような感じがしませんでしたか?」

 言われてみれば、と柚季はゆっくり頷く。確かにしおりを貰った時そんな感覚に襲われたのだ。それに驚いて、しおりを落としてしまったことを思い出す。


「今貴方の目の前に居る私は、九段坂英彦のほんの一部なのです。……どうにか成功して良かった。専門外の術だったので……失敗してしまうかもと思っていました」


「術……そんなものを使える人間が本当に居たなんて……」


「居ますよ。まあ数は多くありませんが。貴方のご先祖様も立派な術師だったのでしょう。しかし、ご先祖様が術師であったゆえに子孫である貴方は苦しむことになってしまった。……人が本来持つべきではない力は、こうしてろくでもない事態を招くことが多い。まあそんなことはどうでもいい。……時間がない。ついてきなさい」

 英彦は手招きした後、柚季を導くように歩き始めた。柚季は彼の放つ光にすがるかのようについていく。

 暗闇の中歩いていると、自分がどの位のスピードでどういう道を辿って進んでいるのか分からなくなる。その奇妙な感覚はとても不気味なものに思え、柚季は肩を抱く。


「貴方が助かる為には」

 しばらく無言のまま歩いていた英彦が口を開いた。


「貴方自身も戦わなければいけません。むしろ貴方が一番頑張らなければならないのです。誰か助けて、と声をあげるだけではいけない」

 その言葉に柚季は俯く。


「……今の貴方は殆ど鏡女と同一の存在になりつつあります。貴方はこのままでは完全に鏡女となる。貴方という存在は消滅し、死を迎える。それを回避するには、鏡女の魂を引き剥がすしかない。けれど、外部から無理矢理引き剥がそうとすれば君の魂まで傷つくかもしれない。だから、今鏡女と戦っている人は下手に手を出せない状態にある」


「そ、それじゃあどうすれば……」


「外側から引き剥がすのではなく、内側から拒絶し、引き剥がす。君の体や魂は今や殆ど鏡女に支配されている。けれど、この体の本来の主は君だ」

 英彦が、柚季を指差す。柚季ははっとして息を呑んだ。


「君の強い意志があれば、鏡女を拒絶し、この体から弾き飛ばすことが出来るかもしれない。……いや、もうそれに賭けるしかない」

 そう言うと英彦はまた前を向き、歩き始める。柚季はそれにまたついていった。


(そうだ。私も戦わなければいけない。紗久羅達に任せっぱなしで、何もしないなんて……そんなことしてはいけないんだ。元はといえば、自分がまいた種なのだから……)


 どれ位の時間、どれだけの距離を歩いたのか。

 やがて目の前が明るくなった。


 気づけば辺りは灰色になっていた。くもり空のような暗くてぼやけた場所。

 

「あれを」

 英彦が指差した先には、巨大な卵のようなものが浮いていた。光の粒子が集まって出来たようなそれの左側には、紫がかった黒色のガラスの破片のようなものが突き刺さっている。光の塊に比べれば小さく、片手で握りしめられる位の大きさだ。しかし圧倒的な存在感がある。

 光の塊は時々真っ黒になり、また少しして白くなる。それを繰り返しているようだが、黒くなっている時間の方が圧倒的に長い。


 柚季は一目見て、それが何であるのかを悟った。


 ああ。ああ、これが、と思った。


「あれを、抜くんだ。只力任せに抜いただけでは抜けない。強く願うんだ。明日を、未来を、自由を」


 柚季はふらふらと前へ進み、その黒い破片の前に立つ。近くに居るだけで頭が痛くなり、体中から力が抜け、気持ち悪くなった。柚季はなかなか決心がつかず、その破片の前でごくりと息を呑む。

 否応無く体が震え、目から涙がこぼれ落ちそうになる。あまりに苦しくて、逃げたくなった。しかし逃げれば自分に明日は無いと思った。じきに自分の存在は消えてしまう。それを考えると、逃げることは出来ない。

 そんな柚季の肩に、英彦が手を置いた。優しく柔らかな温もりが柚季を包み込む。


「私がこうしてサポートします。……だから」


 柚季はおそるおそる手を伸ばし、それに触れた。

 それは酷く冷たかった。氷など比ではない位に。頭を鈍器で殴られたような痛みが襲い、体がよろける。それを英彦が必死に支えた。


「出来ることなら、代わってやりたい。けれど、それは出来ないんです」


 苦々しげに英彦が言う。柚季は彼に支えられながら、その破片を――鏡女の魂を握りしめる。

 悲鳴のようなものが口からこぼれたような気がしたが、最早自分で何を言っているのか分からなかった。

 

 彼女を支えながら、英彦は上を見る。


(この事態を収束させるための一つ目の鍵は及川柚季自身。そしてもう一つは……)


「それじゃあ、今柚季は戦っているんだな。……自分の体の中で」

 紗久羅は奈都貴から柚季が内側から鏡女を拒絶し、引き剥がすしか方法が無いことを聞いた。そして今柚季の体内に英彦の魂の一部が居ることも。


「ああ。……及川が鏡女を引き剥がすのが先か、鏡女が及川の魂を完全に侵食するのが先か。或いは、堪忍袋の緒が切れた出雲が矢を放つのが先か……。全ては及川の精神力……そして、井上。お前次第だ」


「ど、どういうことだよ」


「及川のサポート。それを井上、お前がやるんだ。お前は及川の友人だ。……お前は及川がこの世界から消えるのは嫌だろう。鏡女の思い通りになんて、させたくないだろう」


「当たり前だ」


「お前が鏡女の存在をよしとしない気持ち、及川柚季を必要だと思う気持ち……その気持ちがきっと及川の助けになる。及川の存在を強く肯定することで、及川の存在を守るんだ。……強く思え。願うんだ」

 

 分身が出雲の髪を掴む。その分身を出雲は弓で乱暴に払った。やた吉とやた郎は汗を流しながら、必死に二人を守っている。

 鏡女は相変わらず余裕そうで、勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。自分が完全に柚季と同化する前に全ては終わると確信しているようだった。万が一出雲達が倒れなかったとしても……逃げてしまえば問題ないと思っているかもしれない。

 ここでぼうっとしているだけでは、何も解決しない。鏡女のむかつく笑みを見ているだけなんて、嫌だと紗久羅は思った。

 紗久羅はポケットに入っている携帯電話に手を伸ばした。それを飾るストラップの一つに……柚季がくれた桜の花がついた物がある。


 桜は携帯をストラップごと握りしめ、目を閉じた。


『及川柚季を信じなさい。――貴方の友を想う気持ちがもしかしたら、彼女を救うかもしれないから』

 夢で誰かがそんなことを言っていたような気がしたのを思い出す。自分が強く想うことで柚季を救えるかもしれない。


 時間は無い。早くしなければ、と紗久羅は柚季に向けて語り始めた。


「柚季。あたしだ、紗久羅だ。聞こえるか? あたしは柚季の傍にいるよ。柚季が鏡女をぶっ飛ばして、笑ってこっちに駆けてくるのを、待っている。……柚季、あたしは未だ柚季と会って間もなくて……友達ではあるけれど、まだ柚季のことよく知らないし、柚季との思い出も殆ど無い」

 ただ自然と出てきた言葉を紗久羅は並べ続ける。


「なあ、柚季。十一月には学園祭があるんだ。クラス全員で店をやるんだ。何をやるかなんてまだ決まっていないけれど、でも絶対楽しいと思う。遅くまで学校に残って、看板とか作るんだ。夜の学校って、何かすごくわくわくしないか? 普段はそんな遅くまで居ないし。他のクラスがどんな店を出すかも楽しみだよな。学園祭とか初めてで、今から楽しみだ。……初詣に一緒に行くっていうのもいいなあ。幼稚園から仲の良い友達と毎年行っているんだけれど、結構楽しいぜ。電車に乗って、ちょっと遠くの街にある寺に行くんだ。ものすごくでかい寺なんだ。……二年になれば修学旅行や球技大会、体育祭もある。三年になったら受験とか、面倒臭いものもあるけどさ、でも、でも……これから先、楽しいことがきっといっぱいある」

 思いつく行事などを次々と並べた。


「クラスや学校にどんどん馴染んでいって、どんどん友達作ってさ、新しい学校生活を始めてほしい。……ああ、そういえばまだ柚季の家に行っていなかったっけ。美味しいお菓子、くれるんだろう。あたし、お菓子とか好きなんだ。お茶飲みながら食べるクッキーとかケーキって最高だよな。……それとさ、あたし結構料理が得意なんだ。バレンタインの日には友達たちに、手作りのお菓子をあげるんだ。自分でいうのもなんだけれど、美味しいぜ。柚季にも食べさせてやりたいな」

 それを隣で聞いている奈都貴は、笑うことも無くそれを黙って聞いている。そんな彼も心の中では柚季に語りかけているのかもしれない。

 色々喋っているうちに、熱い思いがどんどんこみ上げてきて、紗久羅の声は徐々に大きくなっていった。


「……良いのか、柚季。このままじゃあ、何も出来なくなるんだぞ。柚季の時間、止まっちゃうんだぞ。いいのかよ、それでも。しかも柚季がこの世界で最も忌み嫌っている存在に、奪われるんだぞ? 妖怪に乗っ取られて、柚季の体で好き勝手なことをやるつもりだ。いや、もうすでに好き勝手なことばっかりして、沢山の人に迷惑かけて……それを楽しんでいる。……そういう最低な奴なんだ。今、柚季から全てを奪おうとしている奴は。腹が立つだろう? 一番嫌いな奴の思い通りにことが運ぶなんて! 面白くないだろう? 嫌だろう? あたしだって嫌だ! そんなの絶対に……許さない!」


 紗久羅が大声で叫んだ。その声が、柚季に届くことを願って。


 柚季は鏡女の魂と戦い続けていた。今はもう平衡感覚も滅茶苦茶になって、自分が立っているのか、倒れているのかも分からなくなっていた。

 鏡女の魂を握る手の感覚はとっくに無くなっていた。油断すると手を離しそうになってしまう。

 そんな彼女を支えている英彦も辛そうで、歯を食いしばっている。


 何度も諦めそうになった。もうこんなことをしても無駄だと、思った。今手を離せば、きっと楽になれる……そう思った。

 全てを投げ出したくなる位、辛い。頭がおかしくなってしまいそうだった。


(ああ、こんなんじゃあ、勝てる訳が無い。この手を離して、そのまま消えてしまう方がずっと楽なのかもしれない。ああ、どうしてこんなことしか考えられないのだろう)


 もう駄目だ、自分はこんなにも弱かったのか……あまりに情けない自分を惨めに思いながら、手を離そうとした時だった。

 ワンピースのスカート部分についている左ポケットから、何か温もりを感じる。心なしか、ポケットが光っているように見えた。

 ぶるぶる震える左手をポケットの中に入れる。何か固い物が手に当たる。


「……?」

 恐る恐る中に入っている物を取り出してみる。


 それは、携帯電話だった。光は、携帯電話についている……紗久羅から貰ったストラップから発せられていた。


 幸運を呼ぶ四葉のクローバー。それが優しい緑色の光を放っている。柚季はあっと小さく声を上げた。

 更に驚いたことに、そのクローバーから紗久羅の声が聞こえてきたのだ。


(紗久羅の声だ……)

 紗久羅が、柚季を励ましている。これからあるだろう学校の行事について色々話している。柚季は、自分がクラスメイトと共に看板を作ったり、料理を作ったり、紗久羅や他の友達と店を巡ったりしている姿を想像した。

 学園祭だけでは無い。運動場のトラックを全速力で駆ける姿、テストの答案用紙に向かっている姿、旅行先で写真を撮っている姿。色々な姿を思い描く。

 紗久羅にお気に入りのティーポットを自慢する姿を想像し、おかしくなって笑った。この先あるかもしれない未来を思い描き、体が温かくなる。


 紗久羅の声が、言葉が、胸にすっと沁みる。それと共に、柚季の中で何か激しい感情が暴れ始める。


『腹が立つだろう? 一番嫌いな奴の思い通りにことが運ぶなんて! 面白くないだろう? 嫌だろう? あたしだって嫌だ! そんなの絶対に……許さない!』


 その叫びが、柚季の頭をがつんと殴った。


(ああ、そうだ。そうよ……このままじゃあ、こいつの、今私が握っているこいつの、思い通りになってしまう。逃げることは簡単だけれど……けれどきっと、後悔する。逃げた後、うんとうんと後悔する)

 そう思うと力がみなぎってくる。柚季はきっと目の前にある黒い破片を睨みつけ、そしてそれを握る手に力を込めた。

 鏡を割る前に感じた憎しみが、体中を巡る。そしてそれと共に、未来を思う気持ちが、巡っていく。


(何故逃げようなどと思ったのだろう。本当に私は馬鹿だ。まだやりたいことはいっぱいある。友達だって沢山作りたいし、出来れば恋人とかも作りたい。こんなところで終われない、終わりたくない)

 柚季は深呼吸をしてから、大きな声で叫んだ。人生の中でもこれほどまでに大きな声を出したことはないと柚季は思う。

 英彦はもう自分のサポートは不要と思ったのか、彼女から静かに離れ、行きなさいと一言言って消えていった。


「あんたなんて、大嫌い。この化け物め。……この体も、魂も、人生も、全部、全部、私の物よ。他人に……ましてや、お前みたいな化け物にあげるなんてこと……絶対に嫌。嫌ったら嫌よ」

 握りしめている鏡女の魂が、ばちばちと黒い火花を出し始める。手がとても熱い。だが柚季はそんなことおかまいなしにそれを握り続ける。


「出て行け、私の体から!」

 その言葉と共に、柚季は鏡女の魂を、一気に引き抜いた。

 

 途端、灰色だった世界は一面眩い光に包まれた。


 紗久羅が叫んだ直後、鏡女に異変が起きた。

 彼女の顔から笑みは消え失せ、苦しそうに胸を押さえ始めたのだ。出雲達を襲っていた分身達の動きも急速に鈍くなっていく。


「おのれ、これは、どういう……まさか、あの娘が……そんな、こんなことは……嘘だ……ああっ」


 柚季の体から、何かが勢いよく飛び出した。同時に柚季はその場に崩れ落ちる。

 何がなんだか訳が分からず、ぽかんとする紗久羅はふと上を見る。

 するとそこには……女が居た。恐らく鏡女の本体だろう。


 鏡女は動揺しているようだった。まさか自分が追い出されるとは思いもしなかったのだろう。

 柚季は成功したのだ。自分の体から鏡女を出すことに。


「ああ、力が……そんな、力が、出ない。まさか、あの娘に、全て」

 鏡女の分身達が消えていく。紗久羅達を包む鏡も心なしか透けてきていた。


 出雲が、鏡女に向けて静かに弓を構える。彼がものすごく腹を立てていることは、紗久羅と奈都貴にも容易に分かった。

 鏡女がびくっと肩を震わせ、少しだけ出雲から遠ざかる。しかしそんなことをしても無駄なのだ。


 藤色の髪が風も無いのにふわりと揺れる。赤い瞳が、鏡女の体を突き刺し、その場に縛りつける。恐ろしい程美しく、冷たい瞳から目を逸らすことは誰にも出来ない。


「や……や、めろ……」


 目が焼けてしまいそうな位眩しく、一点の穢れも無い光の矢が現われる。

 

「随分と舐めた真似をしてくれたね。私が何も出来ないのを良いことに……今更それを悔いても遅いよ。まあ悔いても悔いなくても、結果は同じだけれど。さあて。……さっさと私の前から消え失せろ。永久に」


 光の矢に、瞳よりなお冷たい言葉をのせて、放った。

 とてつもない速さで飛んだ矢は鏡女の体を貫いた。


「あ……ああ……お……おおお……」

 鏡女の体が、矢で貫かれた場所を中心にどんどん消えていく。


「おのれ、おのれ……おのれえ……」


 恨みの言葉を吐きながら、鏡女は消えていった。

 あまりにも呆気ない最後だった、と紗久羅は心の中で思った。


 紗久羅達を閉じ込めていた鏡達にヒビが入り、ものすごい音と共に砕け散っていく。

 ぱらぱらと降り注ぐその破片はまるで銀色の雨の様だった。何十分ぶりかに見た空はすっかり青くなっており、気持ち悪い風も消えている。

 もう結界を張る必要も無い、と出雲が言うとやた吉とやた郎はすぐに結界を解き、その場に座り込んだ。


「やった。……あ、そうだ、柚季!」

 降り注ぐ破片の雨を眺めていた紗久羅は柚季のことを思い出し、慌てて倒れている彼女のところまで駆けよる。


「柚季、柚季、しっかりして、柚季!」

 軽く頬を叩きながら彼女の名を呼び続ける。しばらくして柚季はゆっくりと目を開け、自分の傍らに居る紗久羅を見つめた。


「紗久羅……ああ、私、やったんだね……」


「ああ、そうだよ。あいつを追い出したんだ。あいつは、出雲に倒された。もう、居ないよ」


「出雲……ああ、紗久羅が話してくれた……」

 そう言って視線を動かした柚季は、出雲を見てぽかんと口を開けた。ものすごく驚いているようだった。


(まあ、無理もないよなあ……藤色の髪に赤い目の兄ちゃん見たら、誰だって驚くよな)

 柚季は困惑しながらも、小さな声で「有難う御座いました」とお礼を述べる。出雲は表情も変えずに「別に」と一言。

 ゆっくり起き上がった柚季は、今度は奈都貴に目を向ける。彼がどうしてこの場に居るのか、理解出来ないのだろう。


「えっと……深沢、君? 何で深沢君が」


「ああ、なっちゃんはあの司書のおっさんから色々聞いていたんだよ。柚季がどうすれば助かるか、あたしに教えてくれたのもなっちゃんなんだ」


「だからそのなっちゃんって呼び方やめろって」


「そっか。……有難う、深沢君。紗久羅も、有難う。紗久羅の声が聞こえていなかったら、今頃私は全部諦めていた。……紗久羅がくれたストラップから、紗久羅の声が聞こえたの。あの四つ葉のクローバーが私を守ってくれた」


「いや、あたしなんて大したことしていないよ」

 紗久羅は少し照れる。その様子を見て、柚季がくすりと笑う。


「後、九段坂さんにもお礼を言わなくちゃ。あの人が、私を導いてくれたの。……私、沢山の人に迷惑をかけた。そして沢山の人に助けられた」


「うん。けれど、最終的に柚季は自分で自分を守った。そして、あいつに勝った。それは誇ってもいいと思うよ」

 柚季はうん、と頷いた。


「楽しみだね、学園祭。……後修学旅行とか、球技大会とか。私、色んな人に助けてもらったこの命、大切に使う。そして、これからの人生を大切に生きたいと思う」


「うん、是非そうして欲しいな」


 そう言って紗久羅と柚季は笑った。

 その傍らで伸びをし、大きなあくびをした出雲が柚季をじっと見つめる。柚季はその視線にびくっと肩を震わせた。


「な、何でしょうか……」


「君、妖が嫌いなんだっけ」


「あ、え、ええ、まあ……」

 柚季は視線を逸らす。正真正銘の妖怪……しかも命の恩人の一人である出雲に聞かれ、気まずそうに答えた。


「まあ別に嫌いでもいいのだけれど。君、これからもずっと我々と深く関わり続けることになると思うよ」


「は?」

 柚季が目をぱちくりさせる。紗久羅と奈都貴も何のこっちゃと顔を見合わせた。


「……君は霊的な力を持っている。恐らく、先祖から受け継いだものだね」


「え?」


「今までその力が発現することはなく、君は普通の人間として生きていた。けれど、どうやら鏡女の魂と戦っていた時、その力を目覚めさせてしまったようだ。……君は鏡女を追い出すだけでなく、彼女の力を殆ど奪い取ってしまった。……一度目覚めた力は、余程のことが無い限り眠ることは無い。君の体から、そこそこ強い力を感じる。そういった霊的な力はねえ……妖を滅する力があるが、同時に彼等を惹きつけてしまうんだ。おまけに今回こういった事件に巻き込まれて、ますます『向こう側の世界』との縁が深くなってしまった」


「え、ええ……そ、そんな」


 淡々と語る出雲の言葉を聞き終えた柚季は、天に昇る煙のようにふらふらしながら倒れた。そんな柚季の体を揺らしながら、紗久羅は出雲を睨む。


「てめえ、余計なこと言いやがって! うわ、柚季、柚季、しっかり!?」


「今の内に覚悟してもらった方がいいと思ったのだがね」


「にしたってもう少し時間を置いてからにしろよな! この馬鹿狐!」


「酷いなあ、紗久羅は。もっと優しい言葉をかけておくれよ。今回私は相当頑張ったのだから」


「それとこれとは話が別だ!」


 言い合いになる紗久羅と出雲を見ながら、奈都貴は深いため息をつくのであった。


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