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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
鬼灯一夜
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鬼灯一夜(4)

 そこに立っていたのは少年を助けた男――出雲であった。店の中に吹き込む、氷の混ざった風。その風より冷たい男の眼差し、白い肌、そこにかかる長い髪。

 出雲は少し疲れているようだった。さり気なく隣にいる弥助の顔を少年は見てみる。予想通り彼の顔は歪んでいた。相当嫌いであるらしい。


「いらっしゃい、出雲」


「はあ、疲れた。……全く……誰か一人位助太刀に来てくれたっていいじゃないか。少年から話は聞いたのだろう? それなのに誰も腰をあげないなんて」


「あんたが一人で戦っていようと、死にかけていようと、あっしらには関係の無いことっすよ」


「黙れこのごみ狸」

 月光に照らされた、よく研がれたナイフの様な目で弥助を睨みつける。普通の人間があの目で突き刺されたらひとたまりも無いだろう。しかし弥助は全く意に介していない風であった。


「まあ、良いではないか。どうせ雑魚だったのだろう?」


「ああ、雑魚だったよ。けれど雑魚っていうのはね」

 とても往生際が悪いんだ……低くも高くも無い、魅惑的な声でそう囁く。


(ああ、そういえばそんな感じのこと、さっきも言っていたっけ)

 ぶるぶる震える心を落ち着かせようと湯のみを握る。しかしそれを口へもっていくことが出来ない。出雲はそんな彼には目もくれず、話を続ける。

 どうもあの後お化けは仲間を呼び出したらしい。彼は雑魚が増えても全く問題は無いと適当に力を抜いたまま戦ったようだ。だが。


「奴等四方八方にいきなり散ったんだ。おまけにえらくすばしこくて。全部仕留めるのにえらくてこずってしまったんだ。まあ最後には本気を出して、自慢の弓を使って一掃してやったのだけれど。それにしても……あんな雑魚に本気を……ああ、屈辱だ! そこの馬鹿狸とじゃんけんをして負ける位屈辱的なことだ!」


「知るか。……けっ、それにしてもちょっと動いただけでそのざまとは。本当体力が無いなあ、お前は。情けない奴っすねえ」


「お黙り。私はお前のような筋肉馬鹿とは違って、とても繊細なんだ。それに醜く動き回るのは性に合わない」


「はいはい。まあ、とりあえず雑魚は倒したんだろう。それなら良いじゃないか」


「ふん。……まあ良い。鬼灯の旦那、きつねうどんといなり寿司をお願いしようか」


「分かったよ。柳、いなり寿司を頼む」

 はい、というしっとりとした柳の声。出雲はほうと一息。戸を閉め、入り口からみて一番右側の席に座った。少年はどもりながら、礼を述べる。出雲は少年の方をちらと見て気の無い返事をした。


 柳は甘く煮た油揚げの中に、同じく甘めの汁で煮たしいたけと人参、れんこんを混ぜた酢飯を優しく入れてやった。

 あっという間に完成したいなり寿司三個が、出雲の前に出される。出雲は恍惚の表情を浮かべ、一個手に取り、口に入れる。

 口の中に入れると、油揚げの油と甘味が交じり合い、そしてそこに酢飯の仄かな酸味が加わる。口の中に広がる甘い味と酸味が、なんともいなかった。噛めば噛むほど甘くなり、また、酸味も増してくる。れんこんのしゃりしゃりという音がたまらなく心地良い。


「うん、美味しい。いつもと変わらぬ美味しさだ。噛む度、ああ生きていて良かったと思うよ」

 そんな大げさな、と鬼灯の主人は苦笑した。ローテンション期を脱したらしい白粉が笑った。


「出雲の旦那は将来いなり寿司か、もしくはきつねうどんと祝言をあげちまいそうだねえ。もったいない、良い男なのにさあ」

 まあ鬼灯の旦那には敵わないけれどねえ、と付け加え、主人に熱い視線を送る。


「流石に祝言をあげるなんてことはしないよ。いなり寿司と夫婦になるなんて……そこまで私はお馬鹿さんじゃない。馬鹿馬鹿しい。とても馬鹿馬鹿しい。人間と妖が夫婦になるという話並に馬鹿馬鹿しい」

 そこで出雲は弥助に視線を向ける。タコの足を揚げたものと格闘していた弥助はその視線を受け、顔をしかめた。


「こっちを見るんじゃねえ、馬鹿狐が」


「きつねうどん出来たよ」


「おや、出来たのかい。早速頂くとしよう」


「ちょ、無視か!」


(自分から喧嘩をしかけておいて……)

 少年は出雲の見事な無視っぷりに感心するやら、呆れるやら。

 出雲は吠える弥助には目もくれず、目の前にある白くもちもちしたうどんをつるつるとすする。


「矢張り美味しいねえ。このつゆがまたたまらない。このつゆの作り方を教えてもらいたいな。家でも試してみたい」


「どうせ自分で作らず、鈴っ子に作らせるんだろう」


「ねえ、鬼灯の旦那。今日こそ教えておくれよ、このつゆの材料や作り方をさ」

 華麗にスルー。そもそも弥助の声など彼の耳には届いていないのかもしれない。


「ふふ、秘密だよ。こればかりは教えるわけにはいかない」


「それは残念」

 汁をたっぷり含んだ油揚げを噛む。あっという間に口の中がつゆと油の海に変わった。


「きつねうどんより、たぬき蕎麦の方がずっと美味し」


「たぬき蕎麦なんかより、きつねうどんの方が何万倍も美味しいねえ」

 今度は弥助の台詞に被せてきた。無視しつつ、大げさな口調で挑発する出雲。


(多分弥助兄ちゃん……だっけ……は勝てないな、この人に)

 少年が思った通り、弥助はぐぬぬと怒りと屈辱に満ちた表情を浮かべつつ、それ以上何も言わない。やがて大嫌いな男に喧嘩を売るより、美味しい料理を食べた方が良いと判断したらしく、焼き鳥を何串かまとめて食べ始めた。


「少年はきつねうどんとたぬき蕎麦、どちらが好きなんだい?」

 さっさと諦め、逃げた弥助になお攻撃を加えたいのだろう。出雲が少年にそんな話題を振る。少年はいきなり話しかけられ、驚いた。


「え、えと、どちらも……」


「強いていうなら、どちらなんだい?」

 遠くから放たれる視線の矢。それが体中に突き刺さり、少年は冷や汗を流した。


(殺される。きつねうどん、と言わなければ殺される……)

 何となくそんな気がした。


「え、えと、きつねうどん……かなあ?」

 だよね、と出雲が笑う。それに抗議したのはほんの一時大人しくなっていた弥助であった。


「てめえ、無言で人間の子供脅かすんじゃねえ! 全く大人気ない……おい坊主! あんたが好きなのは、たぬき蕎麦の方だよな!?」

 弥助は少年の肩をがちっと掴み、顔をぐいっと近づけた。その顔は怒り震えるくまのようであった。つまり、とても、怖い。


(自分だって脅しているじゃないか……)


「きつねうどん、だよね?」


「きつねうどんです……。誰が何と言おうと、きつねうどんです!」

 半ばやけくそであった。

 しかしそんな弥助の顔以上に、出雲の視線と氷の様な笑みは怖かった。身の危険を感じる程に。

 少年の肩をつかみながらがっくりとうなだれる弥助を見ないように、視線をそらす。とても心苦しかった。


「あの、蕎麦も嫌いじゃないよ! ただどちらかといえばうどんの方が好きなだけで」

 決して嘘では無い。しかし弥助はうなだれたまま。


「慰めの言葉はいらないっすよ……ええ。まあね、子供には分からないっすよ……蕎麦の良さなんて。蕎麦の香りも、それを包み込み、そして引きたてるつゆの……出汁の香りも。蕎麦の甘味をより強くするかき揚げの味もさ……蕎麦よりうどんが好きな奴は子供なんだ、そうに違いない」


「つまり私は子供だということかい? お前に子ども扱いされるなんて……屈辱以外の何物でもないよ」


「おにぎり一つまともに握れないような子供のくせに」


「出雲、お主握り飯一つまともに作れぬのか」


「うわあ。僕でさえ作れるのに……」


「おにぎりが握れなくたって、生きていけるよ。大体、蕎麦よりうどんの方が好きな奴は子供なんだとか、おにぎりがまともに作れない人は子供だなんて……滅茶苦茶すぎやしないかい」

 正論だ。一同、そうだよなあと頷く。弥助はぐうと言葉に詰まった。


「論理的思考が出来ないお前の方がずっと子供だよ。この子供が」

 

「そういう出雲さんも子供だと思います……」

 狢の呟きは果たして彼に聞こえただろうか?


「鬼灯の旦那、あたしはあいつらと違って、大人だよう。心も、体も。ねえ旦那、今夜は帰りたくないよう。いいや、もうここから一生出たくない。愛している、旦那、愛しているよう」

 もう大丈夫だろうと勝手に判断した白粉が、首を伸ばし、再び主人に絡みついた。狐面の向こうにある口からもれるため息。


「白粉さん、まだ諦めていなかったんですか。呆れた」

 つっこみを入れるのも面倒になってきた三つ目からもため息が。


「悪いが何を言われようと、私は柳一筋だ。他の女性に心動かされることは決して、無い」

 冷たい声色でそう言い放たれたにも関わらず、白粉の頬は紅潮している。


「ああ、もう冷たいねえ、鬼灯の旦那は。でもそういうところも好きだよう」

 べろり。まだ子供である少年ですら目をそらしたくなる位艶かしい舌が、主人の狐面を舐めた。途端店の中の空気が凍りつく。

 少年はおでこを氷の塊で殴られた感覚に襲われ、顔をしかめる。店内を冷たく恐ろしい何かが満たしている。


「白粉さん」

 その何かの発生源は、どうやら柳であるらしかった。彼女は笑っている……いや、目は全く笑っていなかったが。

 彼女の白くしなやかな手が、白粉の首をがしりと掴んだ。見るからに冷たそうな手。白粉が短い悲鳴をあげる。


「あまりおいたが過ぎると……どうなるか、分かっていますよね? 私にも堪忍袋というものが存在するんです」

 薄い氷にひびが入った時に聞く音が、店中に響き渡る。たまらず白粉は首を元に戻す。先程までの彼女はどこへやら。俯き、ぶるぶる震え出す。

 分かればいいんですよ、と言いながら鬼灯の主人に寄りそう柳。


(怖い。もしかしたら出雲さんより怖いかも……)

 恐怖心を打ち消すには、暖かい料理が一番。少年は主人によそってもらったおでんをかきこむのだった。


 時間は流れる。

 少年は、夢中になって妖達とおしゃべりをしたり美味しい料理を食べたりした。鬼灯で食べる料理はどれも美味しく、食べても食べても食べたりない気持ちになる。特に少年が気に入ったのは鶏肉にほお葉味噌を塗って焼いたものだった。

 楽しく、幸せな時間。


 そんな時間は出雲の一言によって、終わりを告げることになった。


「ところで坊や。……君はいつまでここにいるつもりなんだい」


「え? ……あ、ああ!」

 少年は忘れていた。この世には時間というものが存在し、そして時間というのはどんどん流れていくものだということを。そして、自分が今どこで何をしているのか家族は全く知らないということを。

 慌てて店内を見渡す。が時計らしきものは全く無い。


「い、今何時!?」


「さあ?」

 弥助以外の妖達は仲良く首を傾げた。


「聞いても無駄っすよ。時間に縛られた生活とは無縁っすからねえ、人間と違って。……ああ、これはやばいっすね、本格的に」

 弥助だけは腕時計を持っていたらしい。そんな彼は文字盤を見るなり顔をしかめた。その表情が少年の不安をかきたてる。


「確実に家族が心配している時間っすねえ。……今頃坊主のことを皆して探し回っているかも。失念していた、ああそうだよなあ、人間だもんな、坊主は……もっと早く気づいてやれれば良かったんだが」


「うわああ、どうしよう、どうしよう! 怒られる、絶対怒られる! うわあ!」

 パニックのあまり頭が冷たくなったり熱くなったりを繰り返し、心臓が激しい音楽を奏で。少年は泣きそうになった。いや、もうすでに涙が瞳を潤し始めている。

 白粉達には少年が慌てている理由が分からなかった。好きな時間に好きなことをしてきた彼等には一生分かるまい。


「……仕方無い。私が助けてあげよう。騙す、ごまかす、裏切る……そこらへんは私の得意技だ」

 残り一つのいなり寿司を食べ終えた出雲が静かに言った。少年は彼に目を向ける。


「ほ、本当?」


「本当さ。私が嘘をつくとでも?」


「いや、あの」

 騙す、ごまかす、裏切るが得意技だと言った人が何を言うのだろうとパニック状態からやや落ち着いた少年は内心そんなことを思った。しかしここで変なことを言って彼のご機嫌を損ねるわけにはいかない。結局それ以上は何も言わず。


「鬼灯の旦那、この子にお土産でも持たせてやったらどうです」

 三つ目の提案。少年の心が躍る。主人は成程いい考えだと食器棚から小さな朱塗りの箱を取り出し、そこにたこご飯やおでん、豚の角煮等を詰めふたをした。最後に紫色の風呂敷に包めばあっという間に出来上がり。


「これを持っていきなさい。明日の朝にでも食べるといい」


「ありがとうございます」


「あっしもついていくよ。あの馬鹿狐だけだと心配だからな」

 椅子から立ちあがり、弥助は軽く伸びをする。


(ああ、本当は帰りたくない。もっといたい)

 美味しい料理を食べながら、彼らともっと話をしたかった。狢や三つ目のことをもう全く怖いと思っていないと言えば嘘になる。だが決して嫌いではない。

 暖かい空気。美味しい匂い、店の中を駆け回る皆の笑い声。それらと別れるのは大変辛いことではある。しかしここにずっといるわけにもいかない。また、家のことを思った途端急に眠くなった。きっといつもならとっくに寝ている時間なのだろう、今は。


「もうここには来られないんだね」

 通しの鬼灯が無ければ、ここへ辿り着く道を見ることは出来ないのだから。

 これは貴重なものだから、そうほいほい渡すことは出来ないんだよと出雲が言った。


「君に貸した鬼灯はね……いずれある子に渡そうと思って作ってもらったものなんだよ。私がここに連れてきたいのは君じゃない」


「連れてきたいのって……人間?」


「まあね」


「お前あまりそういうことするなよな」


「さあ、行こう」


「やっぱり無視か! おい、坊主あっしの代わりにそいつに文句を」


「ええと皆さん短い間でしたが、お世話になりました。とても楽しかったです」


「坊主まで!」


「縁があれば、また会えるかもしれない」

 主人の言葉に少年は頷く。そんな縁があるかどうかは分からない。だがその言葉は少年の心に光を灯す。

 きっと、本当は関わってはいけない世界なのだろう。誰に言われたわけでもないが、そんなことを思う。それはきっと間違いではない。

 それでも。


 弥助が戸を開ける。外の温度が、店内の温度を奪っていく。白粉がぶるっと身震いした。


「おう、寒いねえ。ほらさっさとお行き。そして早く戸を閉めておくれよ。酔いが冷めちまうよ」


「あんたの酔いは冷めた方が良いと思うがね。それじゃあ、行こうか。ほれ坊主、おぶされ」


「え、ええ。そんなの恥ずかしいよ、それに僕だってもうそんな軽くないし」


「気にするな。坊主も疲れているだろう? あっしは力持ちだからな。あんた一人おぶさる位、わけないさ」


「そうそう。そこの馬鹿は馬鹿すぎて重さを感じないから、何にも問題ない」


「心の重みを感じない馬鹿に言われたくないっすよ。ほれ、坊主」

 少年は少しためらったが、疲れと睡魔が彼の体を自然に動かした。弥助の大きな背中によっとおぶさった。彼の足を弥助がしっかり抱える。

 そして三人、店の中を出て行った。


 遠ざかっていく灯り。出雲から再び借りた鬼灯を握りしめ、少年は世界をまたいだ。ここにある『道』はとても短いもので、あっという間に抜けてしまった。目の前に広がる、見慣れた風景。

 弥助は少年に道案内をしてもらいながら、彼を運ぶ。


「皆面白い人だった。……楽しかった。けれど、もうあそこに行くことはないんだろうな」


「まあ普通に考えればそうなるっすねえ。だが坊主はあっちに行ったことで、あっちの世界と縁を結んじまったからなあ……どうだろうなあ……」

 ここは天下の桜町だしなあ、と意味の分からない言葉をぼそりと呟く。


「桜町がどうかしたの?」


「坊主。昔二つの世界は深い縁で結ばれていたっていう話はしたよな?」

 少年は素直に頷く。


「でも今は違うんだよね? 二つの世界の関係は消えちゃったんだよね? それで、二つの世界ははっきり分かれちゃったんだよね」


「……それがさ、そうでも無いんだ」


「え?」


「確かに昔程関わることは無くなった……殆ど無関係になった。多分それで良かったんだろう。だが、二つの世界の関係はわずかだが、まだ続いている。恐らく永遠に終わることは無いだろうな。二つの世界の境界はほぼはっきりしている。けれどそれがものすごく曖昧になっている所っていうのがある。それだけじゃない。はっきりしていた境界が一瞬だけ曖昧になるっていうこともあるっすよ」

 その曖昧になっている(なった)部分から向こう側の住人が入り込んでくることもあれば、逆に人間が向こうへうっかり行ってしまうこともあるのだと弥助は続ける。


「この世界には『神隠し』という言葉があるだろう。あれはそうやって起こる現象なんだ。曖昧になってしまった境界から向こうの世界に入りこんでしまう。運が良ければ帰れる。運が悪ければ一生自分の世界へ戻ることは出来ない」

 これは、出雲だ。彼は通しの鬼灯をいじくっている。


「そうして境界を飛び越えてこっちにやってきた奴等が騒動を起こすことも少なくない。中には『道』をわざわざ通ってきてこっちに来る輩もいる。……こっちの世界にそのまま居座る奴もいる。あっしもそうだ」

 弥助は町にある喫茶店の名前をあげ、今はそこで働いているのだと言った。

 その店の名前には聞き覚えがある。よく母が友人達とお茶を飲んでいる所だったような気がした。そんな身近な所に本物の妖怪がいたなんて、と少年は驚きを隠せない。ちなみに出雲は商店街にある弁当屋をよく訪れているそうだ。少年はその弁当屋のことも知っていた。


「お化け通りには妖怪とかが出るっていう噂、あるだろう? ありゃ本当だ。あそこにはあっしらの仲間がうじゃうじゃいる。こちらの世界が相当気に入った様子でな。……特にあの辺りは昔なつかしの空気が今も残っている。その空気を吸いながら暮らすのはたまらなく心地良いらしいっすよ」

 彼等はお化け通りは自分達のものであると思い込んでおり、そこを侵そうとする者は誰であろうと許さない。

 お陰でいつまで経ってもお化け通りにある建物の骸共を葬ることが出来ないのだ、と弥助は嘆いた。人間には極力手を出すなと彼らには再三言っているらしいのだが、聞く耳をもたないらしい。


「悪い奴等じゃないんだが。……まあ命が惜しければあそこには近づかない方がいいっすよ」


「うん」

 多分、行かない。


「……桜町は、あちらとこちらの境界が他の土地よりずっと曖昧なんだ。隣接している三つ葉市や舞花市もそう。大方坊主を襲った奴とその仲間達も、曖昧になった境界からこちらの世界に入り込んじまったんだろうさ」


「まあ昔はもっとすごかったけれどねえ。いやあ昔は楽しかったなあ」

 と冷たい夜空を見上げながら呟く出雲の顔はとてつもなく邪悪であった。


(そういえばこの町には色々な言い伝えが残っていて……確か、昔この町にはものすごく凶悪な化け狐がいて、散々悪さをして、最後に巫女だかなんだかに殺され……あれ、そいつの名前って)

 少年の顔が一気に青くなる。


「楽しかったなあ」

 少年の考えを見透かしたように、彼はもう一度その言葉を繰り返した。


「坊主。この化け狐には二度と関わらない方がいいっすよ。平和で幸せな人生を送りたいなら」


「う、うん。そうする」


「やれるものならやってごらん?」


「子供を脅すな!」

 少年は笑う。そして。

 彼の意識は遠のいていく。


「一度結ばれた縁は、切れないんだ。完全にはね。覚えておくんだね、坊や」

 意識が完全に彼方へいってしまう寸前、出雲のそんな言葉を聞いたような気がした。


 目が覚ますと、少年はベッドの中にいた。窓からは暖かい光が差しこんでおり、小鳥が気持ち良さそうにさえずっていた。

 ゆっくり、出来るだけ、ゆっくり少年は階段を下りる。台所には母の姿があった。恐る恐る声をかけてみる。振り返った母の顔に怒りの感情は浮かんでいない。いつも通り笑顔で「おはよう」と返してくれた。少年はほっと胸を撫で下ろす。

 一体出雲が何をしたのか分からないが、とりあえず大丈夫なようだ。


(それとも昨日のことは夢だったのかな)

 そう思うと胸が苦しくなり、少年はがっくり肩を落とす。だが冷蔵庫にあの朱塗りの箱が入っているのを見て、彼の心は躍った。


(ああ、夢じゃない。夢じゃなかったんだ!)

 早速それを冷蔵庫から取り出し、それぞれお皿に盛ってレンジで暖める。今日は土曜日。学校が無いからゆっくり食べられる。

 相変わらず美味しいおでんやたこ飯を口いっぱい頬張りながら、少年は彼らのことを思った。


 今夜も彼等はあの店で、笑い、泣き、喧嘩し、飲み、そして店主が腕によりをかけて作った料理に舌鼓をうつのだろう。

 いつか、弥助が働いているという喫茶店に行きたいと思った。彼ともっと話がしたい。あの世界のことをもっと知りたい。


(そうやってあの人達と関わることは間違っているのかもしれないけれど。それでも)


 この時の少年は知らない。自分が嫌というほど向こうの世界、及び向こうの世界の住人と関わることになるという未来を。

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