鏡女(5)
*
気づくと紗久羅は暗闇の中で、一人ぽつんと立っていた。天も地も、右も左も無い。ふわふわ浮いている感覚も無ければ、地に足をつけている感覚も無い。あまりに暗いから自分の手も足も、何も見えない。
これはきっと夢なのだろう、夢でなかったら何だというのだ、と紗久羅は思った。音も匂いも色も無い世界はとても恐ろしい。一刻も早くこの恐ろしい夢から逃げ出し、目を覚ましたいと強く願う。
何も無い世界で、一分か三十分或いは一時間位座ったり立ち上がったり歩いたりし続けていた。周りに時間を示すものが一切無いと、時間感覚が滅茶苦茶になる。
誰か助けてくれと、手を合わせてお祈りする。しかし誰も居ない所でそんなことを願っても意味など無い。
もう誰も居ないのだし、いっそ泣き喚いてしまおうかと思った。
「どうやら命拾いしたようね」
紗久羅が泣くまでとはいかずとも、大声で喚き散らしてやろうと思い息を大きく吸い込んだその時、どこからか女性の声が聞こえた。
吸い込んだ息を変に吐き出してしまったせいで、紗久羅は大きく咳き込む。きょろきょろと辺りを見回してみるが誰の姿も見えない。
「ああ、ごめんなさい。今からそちらに行くからちょっと待っていて頂戴」
「え、何、何?」
訳も分からずぽかんとしていた彼女の目の前が急に明るくなった。暗闇に慣れていた瞳は光を受け入れられず、思わず目を瞑る。あまりに眩しくて、目は熱を帯び、酷く痛んだ。
「大丈夫?」
何か冷たいものが、目蓋に触れる。すると目を襲っていた痛みと熱がすっと和らぎ、紗久羅は再び目を開けた。
見れば紗久羅の前に一人の女性が立っている。彼女の体は光っており、はっきりとその姿が見えた。短い髪にガラス玉の様に透き通った瞳。藤色と紫の着物を重ね、青い帯をつけている。
「良かったわ、無事で」
「あんた、誰?」
「私の名前は夢結。人の夢や精神世界に潜り込む力を持った妖。今は主の命を受け、貴方の世界にお邪魔しているわ」
主?誰のことだろうと紗久羅は頭をひねる。その様子を見て夢結が肩をすくめる。
「教えても良いのだけれど……。ここで話したことは目を覚ますと、その殆どを忘れてしまうの、大抵の場合はね。だから話しても多分、無駄。――貴方は直に目を覚ますわ。あれに襲われたけれど大丈夫、命に別状は無いわ。私の主が貴方を守ったから。――もし主が何もしていなかったら、貴方は多分死んでいたわ」
死んでいたかもしれない――その言葉を聞いて先程自分の身に起きたことを思い出し、ぶるっと体を震わせた。確かにあの時「死」はすぐ近くにあったのだ。
「まあ貴方は主の力で助けることが出来たけれど――」
そこで言葉を止め、ため息をつく。その様子に紗久羅は不安を覚えた。
「貴方の友達、及川柚季という娘を助けることは主には出来ないわ」
及川柚季を助けることは出来ない……それはどういう意味なのか、そもそも彼女の身に何が起きているのか。
「哀れな娘。このまま誰も何もしなければ、彼女はあれに全てを奪われてしまう」
それを聞いた紗久羅は足を前へ踏み出し、夢結に詰め寄る。
「あれって何だ、全てを奪われるってどういうことだよ!」
張り上げた声が闇の中へ溶けていく。
「説明しても、きっと忘れるから詳しいことは言わないわ。けれど彼女は今、とても危険な状態なの。けれど、主には彼女を救う術が無い。少しだけ力を貸すことは出来るみたいだけれど」
「柚季が、危ない……。やっぱり、何かにとり憑かれて?」
その問いに答えるように、夢結が首を横に振る。
「似ているけれど、ちょっと違う。とり憑かれているだけだったら、割と簡単に解決出来たのだけれど。……あら」
夢結が何かに気づいたのか、話をやめる。
黒い空間に光が差し始め、黒から灰へ、そして白へと変わっていく。夜から朝へと移り変わるような――そんな感じだ。
「もう時間切れみたいね。最後にこれだけ言っておくわ。及川柚季を信じなさい。――貴方の友を想う気持ちがもしかしたら、彼女を救うかもしれないから」
「え、ちょ、ちょっと待ってよ!」
まだ聞きたいことが沢山ある、と紗久羅は手を必死に伸ばすが夢結には届かない。やがて空間中に光が満ちていき、再び全ては無になった。
*
はっと目を覚ますと、白い天井と蛍光灯が紗久羅の目に映る。白い壁、薬の匂い。少ししてから、自分は病院に居るのだと悟った。
寝ている彼女の左隣には母が座っており、目を覚ました紗久羅を見て「あ、起きた」と一言。
「母さん……」
「とりあえずお医者さん呼ぼうかしらね。全く驚いたわよ、病院からいきなり電話がかかってきて『娘さんが道路で倒れて病院に運ばれた、いますぐ来てくれ』って。私一瞬いたずら電話かと思ったわ」
それを聞いて、自分が柚季と共に彼女の家へ向かう途中カーブミラーから出てきた女に襲われたことを思い出した。まだぼうっとしている。錆ついた歯車のそれのように、鈍くてぎこちない脳の回転。
「まあ、大したことがなくて良かったけれどねえ。……あんた後で一緒に居たお友達に謝りなさいよ。あんたが目の前で倒れたものだから、相当驚いたみたいで――顔を真っ青にして震えていたらしいわ。病院に電話してくれたのも彼女みたいだし、お礼も言っておきなさいね」
(柚季……)
彼女のことを思い出すと、胸がざわついた。意識を失って倒れている間見た夢で、誰からか彼女についての話を聞いたのをおぼろげながら思い出したからだ。詳しい内容までは覚えていない。しかし、あまり良い話でなかったことは確かだった。
その後母が呼びに行った医者に「特に異常も無いし、もう大丈夫だろう」と言われ、病院を出た。
車に揺られながら、柚季にメールを送る。驚かせてしまって申し訳なかったこと、救急車を呼んでくれてありがとうということ、もしよければ改めて家に招いて欲しいということ等を書いた。
それから十分ほど経ってから、柚季からメールが届いた。本文には「ごめん」とだけ書かれていた。紗久羅は何で柚季が謝るの?あれはただ単に体調が悪くなって倒れただけのこと。柚季は関係ないよ、と送った――しかし返事は来ない。
家に帰ると菊野に「軟弱者め」と罵られ、一夜には「お前が倒れるなんて。こりゃ天変地異の前触れか?」などと言われ、笑われた。
柚季からの返事が一向に来ないことに不安を覚え、意味も無く携帯を弄り続ける。電話もかけてみたが、留守番サービスに繋がるだけで応答は無い。
明日になれば学校がある。その時改めて話をしようと決め、携帯を手から離す。しかし胸の中はざわめき続け、少しも落ち着かない。
柚季は明日学校に来ないかもしれない。何となくそんな予感がした。
不安を無理矢理押さえ込む為に、紗久羅は学校のカバンの中身を乱暴に床にぶちまける。明日の授業の支度、及び宿題をやれば少しは気が紛れるだろうと思ったからだ。明日は必要ない教科書を手に取り、乱暴に机に上に置く。そして今度は必要な教科書を机にある棚から抜き取り、床にあるものと合わせて時間割通りに並べる。
まとめたものをカバンに入れようとした時、一冊のノートの間から何かがひらひらと落ちてきた。紗久羅はそれを拾う。
(何これ……ゴミ?)
水面に着地する鳥のように、床へと落ちたのは紙切れ二つ。元は一つだったのが二つに分かれてしまったらしい。それぞれの紙切れには火で燃やされたと思しき黒こげの部分があり、軽く触れただけでそれはぼろぼろとこぼれ落ちた。
最初、こんな火で中途半端に燃やした紙切れなどカバンに入れた覚えは無い、誰かの悪戯だろうかと思った。しかし未だ無事な部分に描かれている模様を見て、それが何であったのかを思い出した。
「あ、これ……もしかして、司書のおっさんがくれたしおり?」
模様と形をもう一度よく見てみる。矢張り英彦がくれたしおりに間違い無さそうだった。紗久羅は炭になった部分をつつきながら、何でこんな状態になってしまったのだろうと疑問に思った。
カバンの中にしまっただけで燃えるなんてことはありえない。このしおりに何かが起きたのだとしたら、それはあの女に襲われた時だろう。
(そういえば、あれに危うく殺されそうになった時何かが光ったような気がした……)
光ったのはもしかして、このしおりだったのだろうかと紗久羅は考えた。だとすれば、紗久羅を女から守ったのはこのしおり、ということになる。
「それじゃああたしはあのおっさんに助けられた……ってことか」
呟いた瞬間、頭の中で「私の主が貴方を守った」という言葉が、女の声で再生された。女に襲われて気を失っている時、夢の中でそんなことを誰かが言った気がすると思った。
紗久羅が持っているぼろぼろのしおりが守ってくれた。しおりをくれた英彦が紗久羅を守ってくれた――とも言える。
「あのおっさんに聞けば、もしかしたら今柚季に何が起きているのか分かるかもしれない」
紗久羅はそれをファイルに挟み、再びカバンの中へと入れる。
*
次の日、紗久羅はいつも通り学校へと行った。昨日のうちは未だ少しだけ体がだるかったが、ぐっすりと寝たらすっかり元通り。柚季から返信は未だ来ていない。三つ葉市に入った辺りで救急車を何台か見た。何か大きな事故でもあったのだろうか、とぼうっとしながらそれを眺める。
教室に入るといつも通り友人達が迎えてくれた。倒れて病院に運ばれた、ということは彼女達には話していない。何だか情けないし、恥ずかしいと思ったからだ。変に心配をかけたくなかったというのもある。
柚季は未だ来ていないようだった。紗久羅は友人達といつも通り他愛もないおしゃべりをしながら、彼女が来るのを待っていた。しかし一向に彼女は来ない。
結局柚季が来ることはなく、SHRの始まりを告げるチャイムが空しく胸に響く。程なくしてドアが開き、担任のさえが入ってくる。名簿を開き、出欠席の確認をする。今日は四人もの生徒(しかも全員女子)が欠席していた。
「今日は及川さん、塚田さん、成田さん、樋口さんが体調不良で欠席。最近体調を崩して倒れている人が多いようだけれど、皆さんしっかり体調管理をしてくださいね。未だ当分暑いですし……水分補給など忘れないようにね」
確かに校内の女子生徒が相次いで倒れている。殆どの人が原因はこの暑さにあると思っているようだ。普通はそう思うだろう。
ああそれと、とさえが話を続ける。
「本日図書室は、司書がお休みの為利用することが出来ません。明日になれば利用出来るそうだけれど」
頬杖をつきながら、柚季のことや今回の事を考えていた紗久羅はそれを聞いて顔を上げた。
(おいおい、マジかよ……。有力な情報を持っているはずのおっさんが、よりにもよって)
完全にアテが外れてしまい、紗久羅は落胆する。一方で今日に限って彼が休んだ理由が気になった。単純に具合が悪くなったのか、用事があったのか――それとも。
昨日の出来事が関係しているのか。
理由は何にせよ、最低今日一日は彼から情報を得ることは叶わない。
(くそ、どうすればいいんだ。おっさんなら何か知っていると思っていたのに……。柚季のことも心配だ。どうして今日学校に来なかった? 本当に体調を崩したのか。いいや、きっとそうじゃない。昨日の事が関係しているんだ)
紗久羅に胸に秘めている何かを話そうとした、柚季の顔を思い出す。彼女の話を聞きたかった――と唇を噛み締めた。
柚季の話を遮るかのように現われたあの気味の悪い女の事を、心の底から憎んだ。あの女は柚季に色々喋られると困ることがあったから、わざと会話を遮ったのかもしれないとも思った。
落胆しながら受けた一時限目の授業。その後の休み時間、情報通の霧江から気になる話を聞いた。
「何かさあ、他のクラスも休んだ人が多かったらしいよ。でね、その殆どの人は朝までは元気だったんだって。ところが出かける前の準備をしている時、突然倒れちゃったんだって。私の近所に住んでいる人も倒れちゃったみたいで。救急車で病院に運ばれたみたい」
「そういえば、今日やたら救急車見たかも」
「何だか怖いね。病気でも流行っているのかな」
「もしかして悪霊とかの仕業とか?」
「嫌だ、そんなものいるわけないじゃん。あはは」
霧江の話を聞いている女子達が口々にそんなことを言う。紗久羅も登校中救急車を沢山見たことを思い出す。
(これも全部あの女の仕業なのか? 何か段々倒れる人の数が増えていっているような……。出雲は柚季に何か憑いている様子は無いし、憑いていたとしても大した力は持っていないだろうとか何とか言っていたけれど。くそ、やっぱりまたあいつの所へ行くしかないのか? 嫌だなあ……)
しかし、もう頼れるのは出雲くらいしかいないのだ。弥助に聞くのも手だが、彼がどの程度役に立つかは分からない。
あ、そうそうと霧江が話を続ける。
「昨日さ、リーフビルに新しく出来た雑貨屋でも人が倒れたらしいよ」
その言葉に紗久羅はどきりとする。
更に他の女子がそれを聞いて話し始める。
「そういえば……この前の休みの日にさ、テンキューで人が倒れたんだって。知り合いがあそこで働いていてさ、びっくりしたって話してくれた。まあ大したことはなかったらしいんだけどね」
この前の休みの時――テンキュー――人が倒れた――その言葉を聞いて、紗久羅は月曜日、柚季が女子の一人に「テンキューにいなかった?」と聞かれていた時のことを思い出した。柚季はそれを否定していたが……。
「何か本当怖いよねえ。私も気をつけようっと」
「紗久羅も気をつけなよ。まああんたはものすごく丈夫そうだから、心配無いとは思うけれど」
「え、ああ、うん。そうだな」
乾いた笑いしか出なかった。実は昨日倒れて病院へ運ばれたということを彼女達が知ったらさぞかし驚くだろうと思ったからだ。霧江がこの情報を手に入れていなかったことを心の底から良かったと思うのだった。
話を終え、席につく。すると体に突き刺さるような視線を右隣から感じる。
見れば奈都貴が紗久羅をじっと見つめていた。
「な、何だよなっちゃん。あたしの顔に何かついているのか?」
小さくため息をついた奈都貴が何かを差し出す。それは昨日英彦から貰ったものと同じデザインのしおりだった。
「これを井上に渡せって、昨日九段坂さんから言われた」
「あのおっさんが? いや、でもあたしもう同じ物をあのおっさんから貰ったし」
唐突にしおりを差し出され、紗久羅は困惑する。奈都貴は彼女から視線を逸らす。しおりを持つ手だけが彼女の方へ向けられている。
「昨日貰ったやつは、もう使い物にならないだろう」
紗久羅ははっとして、思わずしおりを挟んだファイルを入れたカバンに触れる。奈都貴が視線を戻し紗久羅を見つめる。
「やっぱり、そうなんだ。……なあ井上」
「な、何」
「今日学校が終わったら、喫茶店『桜~SAKURA~』に来てくれないか。当然お前は場所を知っているんだろう? 話したいことがある。――弥助と出雲も一緒だよ。やっぱり井上は知っていたんだな……あっちのことを」
「なっちゃん……」
「及川を助けたいんだろう。なら、来い。詳しいことはあっちで話すから」
そう言って奈都貴は紗久羅の机の上にしおりをそっと置いた。と同時に授業の始まりを告げるチャイムが鳴った。
チャイムの音に負けない位大きな音を、心臓が出しているを感じる。
(なっちゃんは、いや、なっちゃんも知っているのか。あちらの世界に関わっていたのか。弥助と出雲のこと――あいつらの正体も、知って)
そして柚季の身に何が起きているのかということも知っているのだ。何か知っているらしい英彦が奈都貴に話したのだろうか?兎に角詳しいことは放課後には分かる。
昼休み、紗久羅は柚季にメールを送ることにした。『桜~SAKURA~』へ行けば真相の多くは分かるようだが、それでも矢張り紗久羅は柚季自身の口から話を聞きたいのだ。奈都貴から話を聞いた上で、柚季からも話を聞きたい。
『柚季。あたしをどうか信じて欲しい。あたしは柚季のことを信じるよ。柚季が話したことを嘘だなんて言わない。笑いもしない。……あたしの知り合いだったら、柚季を助けることが出来るかもしれないんだ。あたしは柚季ともっと居たい。色んな所に行きたいし、一緒に遊びたい。桜町のことも紹介したいんだ。こんな月並みの言葉しか並べることが出来ないけれど。でも、お願い。信じて』
本当はもっと色々書きたかったが、いざ打とうとすると言葉が出てこなかった。平凡な言葉を並べるのが精一杯。それでも送らないよりはましだと思い、送信ボタンを押す。
返信が来ることを期待したが、結局放課後になっても来なかった。
友人に一緒にカラオケに行かないかと誘われたが、紗久羅はそれを断り、下駄箱で靴を履きかえ校門を出てバス停へ向かう。
あせる気持ちが、足の運びを早くさせる。
バスに乗り、流れる汗をぬぐった。冷房が効いている車内は涼しくて心地が良い。あの女に襲われた時や、人が変わったような柚季の姿を見た時に感じる寒気などとは全然違うものだ。
バスを降り、再び灼熱地獄の地を歩き、家へと着く。また今日も店番が出来ないと言うと菊野が呆れたような表情を浮かべた。
「またかい。まあ別にいいけどねえ……その代わり、お駄賃はやらんよ」
それは非常に残念なことだが、お金よりも、友人の方が大切なのだ。
ばたばたと二階へ上がりさっさと支度を済ませ、再び降りてきた紗久羅の頭を菊野がぺしんと叩く。
「あまり無茶はしなさんなよ」
「分かっているよ。それじゃあ、行ってくる」
陽光に炙られた道を、紗久羅は勢いよくかけていった。
*
一刻も早く喫茶店に辿りつきたいが為に全速力で走り出したものの、矢張り熱さにはかてず、速度は目に見えて落ちていく。体が今にも爆発しそうな位熱くて苦しい。矢張り無茶はいけない、と身をもって知ることとなった。
「ああ、もう、暑い。ちくしょう九月っていえばもう秋だろう。なのに何でこんなに暑いんだ。あたしは急いでいるんだ、急いで走るにはこの気温はきついんだ。誰かどうにかしてくれ」
などと一人文句を言い始め、ため息をつく。
走るのをやめ、気持ち早めに歩き始めたところで携帯が鳴った。
「あれ、電話?」
震える携帯を手に取り、相手が誰なのかを確認して紗久羅はその場に立ち止まった。
電話は、柚季からだった。紗久羅は心臓をばくばくさせながらボタンを押す。
「もしもし、柚季!?」
「紗久羅……」
電話から聞こえてきた彼女の声は酷く掠れている。鼻をすする音も聞こえる。泣いているのだろうか、と紗久羅は思った。
「ごめんね、紗久羅。ごめんね」
「……柚季が謝ることじゃないよ」
「ううん、私の所為なの。紗久羅が倒れたのは、私の所為。私があんなことをしなければ、紗久羅も……他の人も……悲鳴をあげて倒れることは無かったの」
弱弱しく、聞いているこちらが泣きたくなる位に苦しくなる声。柚季が涙をぽろぽろ流して泣いている姿が容易に想像できた。紗久羅は唾を飲み込み、話し始める。
「柚季は何をしたの? 今柚季の身に何が起きているんだ。知っていることを全部話して欲しい。メールでも書いたけれど、あたしは信じるよ。――今近くに鏡は無い。だから、きっと大丈夫。昨日みたいなことにならないはずだ。仮になったとしても大丈夫。あたしは何度でも柚季に話しかける、何度だって話しを聞こうって思う。お願いだよ、柚季」
紗久羅のその言葉に励まされたのか、柚季がうんと了承を示す言葉を呟き、話し始めた。
「私はね……悪い妖怪を鏡とかそういった道具に封印することで人々を災いから守っていた一族の子孫らしいの」
「うん」
驚いたような声を出せば、柚季が話を続けにくいと思いあえて余計なことは言わず、只相槌を打つだけにした。
「お母さんがその一族の家系でね……ほら前話したでしょう、私のおばあちゃんの話。そのおばあちゃんというのがお母さんのお母さん。おばあちゃんはご先祖様達のことをとても尊敬していて、その人達の英雄譚を聞かせたり、蔵や物置部屋に保管してある物を持ってきては、これにはこういう妖怪が封印されている、これにはこういう力があるっていう話をしたりしていたわ。……同じ話を何度も何度も聞かせるの。お母さんも小さい頃から耳にたこができる位聞かされたって言っていた」
そこで話を一度きり、柚季は深呼吸する。
「おばあちゃんは妖怪が今でも居ると信じているし、家にある物には妖怪達が実際封印されているって本気で思っていたわ。おまけに迷信深くて。……家の中で言っているだけならまだ良かった。適当に聞き流していれば良かったし……けれど、おばあちゃんはね近所の人や私の友達にもそういう話をしたの。大人の人達はやっぱり適当に聞き流した。でも子供達は違う。……私、幼稚園や小学校の頃はその所為でクラスの子達にからかわれたり、意地悪されたりしたの。これに妖怪を封印してみろよって男子達に消しゴムとかノートとか色々な物を投げつけられたこともあったわ。……私は何も悪いことをしていないのに」
紗久羅は何も言えなかった。自分が思っていた以上に辛い目に彼女はあっていたのだ。柚季はしばらく話を続けず泣きじゃくっていた。話すうちに嫌な思い出が甦ったのだろう。
「小学校高学年か、中学に上がってから位になると流石にそういうことも少なくなっていったけれど……。お母さんはおばあちゃんに何度も注意した。時には怒鳴りつけていたわ。おばあちゃんはその度にごめんね、と言うけれどすぐにけろっとするの。おばあちゃんにはきっと分からなかったのでしょうね、何故お母さんがそうして怒るのかが……。私はおばあちゃんがおかしくなったのも、私が酷い目にあうのも全部妖怪や幽霊という空想の生き物の所為だって思うようになったわ。私は彼等の存在を信じない。けれど一方で私はその居もしないはずの彼等のことを恨んだわ」
また一呼吸おく。
「私以上に長い時間をおばあちゃんと過ごしたお母さんは、とうとう我慢出来なくなった。私ももううんざりしていたし、お父さんも嫌気が差した。私達家族はおばあちゃんから逃げる為に、引っ越すことを決めたの。今までも何回かそうしようとしていたらしいわ。けれどおばあちゃんのことをどうしても心の底から嫌いになれなくて、放っておくのは辛くて……けれど、決心した。引越し先を三つ葉市に決め、準備を始めた。そんな日の夜のことよ」
どうやらここから本題に入っていくようだ。柚季は鼻をすすりながら、静かに話を続けた。
「あまりはっきりとは覚えていないのだけれど……私は誰かに呼ばれたような気がして、目を覚ましたの。そしてふらふらと家の中を歩いて、物置部屋へと辿り着いた。大嫌いな場所だったのに……私はあの部屋の中へと入ってしまった……そして、棚に置いてある木箱を開けた」
「その木箱の中に入っていたのは……鏡?」
「そう。鏡。昔沢山の人を襲ったっていう鏡の妖を封印した物っておばあちゃんが言っていたわ。私は、その鏡を手に取った。鏡が私に『壊して』って話しかけてきている気がしたわ。何でそんなことを思ったのか自分でも分からないけれど。手に持ってその鏡を眺めているうちに、黒くてぐちゃぐちゃした感情が湧き上がってきた」
こんな物壊れて消えてしまえばいいと思った、と柚季は声を張り上げる。
「妖怪なんて居るわけが無い、これは只の鏡だ、こんな物をおばあちゃんは大事にしている。家族よりも、ずっとずっと大切にしている。そのせいで私やお母さんは嫌な思いをしてきた。それが悔しくて、憎らしくて、私の中で感情が爆発して――私は思いっきり鏡を床に叩きつけた」
鏡は驚く位簡単に割れたと柚季は静かに語った。とても大きい音がしたが、不思議と誰も来なかったらしい。
「右手の薬指の怪我はね……その時割った鏡の破片に触れた時に出来たものなの。鏡を割った直後はぼうっとしていて、はっきりとした記憶が無かったけれど……怪我をした時の痛みで私は我に返った。そして部屋の中にあった箒で破片を掃いて、木箱の中に突っ込んで……逃げるように自分の部屋に戻ったわ」
「そしてそれからすぐ、こっちに引っ越して来たんだ」
「そう。……おばあちゃんは、もし此処にある物を壊してしまったら封印されているものが出てしまうから、絶対壊してはいけないとか言っていたけれど……そんなことあるわけがない、だって何も封印などされていないのだからと思っていた。あれは只の鏡、何の変哲も無い古びた鏡……そう思っていた。けれど」
そうでは無かったのだ、と言って柚季は泣きじゃくる。
「あの鏡を割ってから、私はおかしくなった。時々意識が無くなるの。鏡を見ると、高確率でそうなった。ぼうっとして……魂が体から離れてしまったかのように。……喫茶店で女の人が倒れた時も、学校で目の前に居た子が倒れた時も、そんな感じだった。倒れた瞬間を見た覚えが無いの。気がつくと、倒れている」
紗久羅はまた柚季と初めて会った日のことを思い出した。倒れた店員を静かに見つめていた彼女。その時、柚季の意識は恐らく無かったのだろう。
「最初の内は殆ど気にしなかった。けれど、どんどん不安になっていった。私が鏡の前に立つと、人が倒れる。おまけに倒れた時のことを覚えていない。指の怪我も全然治らなかったし……あのね、ぼうっとする前に必ず指が痛むの。痛いと思った次の瞬間、意識がどっかにいっちゃうの。私の不安は膨らむばかりで、消えることは無かった。まさかあの鏡には本当に妖怪が居たんじゃないか……そして、破片に触れた時その妖怪に入り込まれたんじゃないかって……」
でも私はその考えを振り払った、そんな訳が無い、妖怪なんて居るわけがないじゃないと自分に言い聞かせた、そうしなければ心が折れてしまいそうだった!と叫ぶ柚季。
「けれどそうしている間にも、どんどん事態は悪くなっていったわ……意識が飛ぶ頻度がどんどん多くなって、時間も長くなって……気がついたら知らない場所に居たり、皆から行った覚えの無い場所で見かけたって話を聞いたり……。時々鏡を見ると、そこに私の姿は映っていなくて、着物を着た女の人が代わりに立っていて……その人が、笑うの。お前は私、私はお前だって。夢の中にも現われたわ。お前のお陰で私は解放された。お礼にお前から全てを奪ってやるって言うの……それでも、それでも信じたくなかった。違う、私は関係無い、私の所為なんかじゃないって……」
「柚季……」
「自分でも信じられないような話だもの。他の人が信じてくれるはずが無い。信じたとしても精神的な病気なんじゃない、って言われるだけだと思った。だから誰にも話せなかった。自分ではどうしようもない、かといって助けを求められるような人なんていなかった。……紗久羅は信じてくれるって言ったけれど」
「信じるよ!」
思わず声を張り上げる。いきなり大声を出されて驚いたのか、柚季が小さな悲鳴をあげた。
「あたしは知っている。妖怪とか、幽霊とか、そういう『有り得ない者』が存在していることを。柚季は信じたくないかもしれないし、そんな事実あって欲しくないと願っているかもしれないけれど。残念ながら、居るんだよ。……あたしのばあちゃんと母さん、弁当屋をやっているんだ。それでさ、店の常連に出雲って男が居るんだけれど……いなり寿司が大好きでさ。そいつ、化け狐なんだ。すっごく性格は悪いけれど、すっごい強いんだ。そいつだったら、柚季のことを助けることが出来るかもしれない。知っているからこそ、出来ることがあるんだ」
「紗久羅……?」
いきなりの告白に柚季は困惑しているらしい。
「はは、こんな話されても普通は信じないよな。……でも、信じて欲しい。あたしは嘘を吐いていない。そしてあたしも柚季の言っていることを信じる。」
紗久羅は凛とした声で、はっきりとそう言った。電話から聞こえてくるのは鼻をすする音と、嗚咽。携帯を持っている手に力を込め、紗久羅は柚季の返事を待った。
しばらくして、柚季が息を大きく吸い込む音が聞こえた。
「……信じる。私も、紗久羅のこと信じる。未だ友達になってから間もないけれど、でも分かる。紗久羅は嘘を吐くような人間じゃない」
「ありがとう」
紗久羅はほっと胸を撫で下ろした。
「でも……もう遅いかもしれない。今も胸が苦しくて、頭が痛くて。今ね、司書さんから貰ったしおりを握っているの。これを握ると何故か少しだけ落ち着くから……けれど、もう限界。多分、もう、駄目。またあの女の人に意識も体も奪われる。今度は、目覚めないかもしれない。私はどこかへ行ってしまうかもしれない。嫌だ、そんなの、絶対に嫌。助けて、紗久羅、助けて!」
言葉なのか、泣き声なのかもう分からない状態だった。柚季の悲痛な叫び、苦しそうに呻く声が紗久羅に突き刺さる。事態は思った以上に深刻なのだと悟る。
「分かった! あたし、絶対助ける! 約束する!」
「ありが……」
その言葉を最後まで聞くことは出来なかった。電話が切れたのだ。
紗久羅は急いで喫茶店へと向かい、再び走り始めた。
「くっそう、なっちゃんのメアド聞いておけば良かった! あそこの喫茶店の電話番号も知らないし……さくら姉なら知っているかな? ああ、駄目だ。さくら姉携帯持っていないんだ……ちっ、やっぱりあそこまで行くしかないか!」
全力で駆け、熱風をその体に受ける。運動能力には自信がある紗久羅でも、これは流石にこたえた。もっとあの喫茶店が近くにあれば良かったのに、と心の底から思う。
やっとの思いで『桜~SAKURA~』のドアを開けた時には、汗はだらだら、顔は真っ赤になっていた。紗久羅の予想外の状態に、彼女を迎えた三人と秋太郎は呆然としていた。
「い、井上、どうしたんだ?」
「あたしのことは気にしないで! なっちゃんがどうして向こう側の世界のことを知っているのかとか……そういう話は後で聞く。兎に角話してくれ! もう時間が無いんだ」
紗久羅は柚季から電話があったことと、電話の内容について話す。途中喉が渇いて、思うように声が出ずもどかしい思いをしながら水を流し込んだ。どうにか話し終わった後、奈都貴がため息をつく。
「大方の話は本人から聞いたってわけだ。まあ、とりあえず座れば?」
奈都貴は自分の隣に空いているスペースを指差す。更に親切な彼はタオルを貸してくれた。紗久羅はそれをありがたく受け取り、汗を拭く。
その様子を、頬杖をつきながら見ているのは出雲で、酷くつまらなそうな表情を浮かべていた。弥助は真剣な面持ち。朝比奈さんには用事を頼んでおり、今は店には居ないらしい。
「私としたことがねえ……柚季という娘はとり憑かれたわけでは無かった。それ以上に面倒なことになっていたんだねえ」
半ば独り言のような呟きに、奈都貴がこくりと頷いた。
「俺が話すことは殆ど九段坂英彦っていう、俺と井上の通っている高校にある図書室の司書――といっても分からないだろうけれど――が調べたこと、気づいたことだ」
「やっぱりあのおっさんが関係しているのか」
「まあね。まあそこら辺のことは後回しにする」
そして奈都貴は、柚季の家のことを話した。大体話した内容は柚季がしてくれたのと同じものだった。
災いをもたらす悪しき者を鏡や箱、面等に封印することで人々を守った柚季の先祖達。彼等のことを昔の人は『封術師』と呼んでいたという。及川家(柚季の父は婿養子らしい)はその中でもかなり有名な家だったらしい。
妖等を封印した道具には霊的な力が備わり、それを使ってより人々の生活を豊かにしたという。
「そういう家だから、妖が封印された物が保管されていたとしてもおかしくはないとあの人は言っていた」
「確かに柚季は家にそういうのがいっぱいあったって言っていた。その中の一つが鏡だった。柚季は何かに呼ばれたような気がして目を覚まし、鏡を前にして憎しみの感情を爆発させて……それを割った」
奈都貴がこくりと頷く。
「鏡の中に現われ、人を驚かしたり生気を吸い取ったりする妖が居たらしい。……鏡女って言うんだってさ」
「恐らくその鏡女が柚季という娘を自分の所まで導いたのだろうね。元々封印は解けかかっていたのだろう。……永遠の封印など存在しないからね」
「でも、それじゃあ柚季の実家にある他の物……そいつらの封印も解けちゃうじゃん」
あまりにそれは危険じゃないか、と紗久羅が声を張り上げる。それを受けた奈都貴が小さく首を振った。
「いや、どうも妖達は力を根こそぎ奪われて、殆ど搾りかすの状態になっているらしい。封印が解けて出てきたとしても、基本的には何もすることが出来ずに消滅するんだってさ」
そんな搾りかす状態の妖が入った物でも、霊的な力を十分発揮できるらしい。ようは中に何かの魂が入っている、という状態が重要らしいと奈都貴は続ける。
しかし紗久羅にとってはそんなことはどうでも良かった。
「でも柚季に憑いた鏡女は……」
「そのままだと消えちまうからこそ、柚季に鏡の破片を触らせて怪我をさせ、そこから入り込んだんだ。まあ普通はそんな上手くいかないがな」
弥助がここでようやく口を開いた。
「けれど」
「まあそんなことはどうでもいいじゃないか。彼女の実家で何が起ころうと知ったことではない。私達には関係の無い話だ」
出雲が冷たく言い放つ。冗談で言っている訳ではないことは良く分かった。弥助もそればかりはどうしようもない、と肩をすくめる。
「今は兎に角及川を助けることを考えないといけないんだ。及川の魂は今、鏡女の魂に侵食されている。……井上は美沙さんのこと、知っているだろう」
「あ、ああ知っているよ」
「あの人は九段坂さんに仕えている……ていうかあの人が使役している妖なんだってさ。人に触れるのと同時に、内面にも触れることが出来る力を持っているって」
「あの人妖怪だったのか!?」
紗久羅が驚いて声をあげる。しかも使役とはどういうことだ、と口をぱくぱくさせた。
彼女のことなど微塵も知らないであろう出雲と弥助は只目をぱちくり。
「九段坂さんは化け物使いっていうものらしいんだ」
それを聞いた出雲はへえ、と関心を抱いたかのような声をあげる。
「未だこの世界に居たんだ。……化け物使い。自分の力で妖を配下にし、それらを使役して人々に害を成そうとする妖を退治したり追い出したりしたっていう……まあ私達にとっては敵みたいなものだねえ」
「そんなのも居たんだ」
封術師といい化け物使いといい――この世界には妖や霊に関わる職業が幾つあったのだろうと紗久羅は思った。そういうものが沢山存在していたほど、二つの世界の繋がりは今よりずっと強かったのだろうかとも思った。
「居たらしいよ。まあそれで……彼女が及川に触れたら……邪悪なものが流れ込んできたらしい。及川の魂はその殆どが鏡女に侵されている……」
そういえば、柚季は図書室で美沙に抱きつかれたと言っていた。その時彼女の内側に触れたのだろう。
「あそこで及川に抱きついたことで、情報を手に入れたんだ。古くて立派な家――鏡――指から流れる血――笑う女――。まあその前から鏡が今回のことに関係していることには気づいていたらしいけれどね」
確かに、英彦が紗久羅に「鏡に気をつけろ」と言ったのは放課後より前――昼休みの時だった。
言葉を一旦区切り、奈都貴は俯く。紗久羅の顔をちらと見やった後、息をゆっくり吐き、話を続ける。
「このままじゃあ、及川は鏡女に全てを奪われてしまう。体も、心も、その魂も。いずれ及川は鏡女になってしまう」
紗久羅はその言葉を聞き、体を硬直させた。
(柚季が、柚季が――鏡女になるって?)
それはつまり柚季が柚季で無くなるということだ。柚季が妖怪になる。……この世で最も憎い存在に、自分自身がなってしまうのだ。それを思った時、頭の中は真っ白になり、体が冷たくなったような、熱くなったような気がした。
それは大変だねえ、と何の思いも込めずに出雲が呟く。奈都貴は何も言うことが出来ない紗久羅を見て苦々しい顔を浮かべながらも話を続けた。
「普通はそう簡単に魂を乗っ取られることは無いってあの人は言っていた。自分の魂が、入り込んできた魂を拒絶して追い出すんだって。ましてや及川の体に入り込んだ時の鏡女の魂はとても弱弱しいものだったはずなのに……てさ」
「紗久羅っ子の話によれば、柚季って子は妖怪の存在を否定していた。しかし一方でその居るはずの無い者を憎んでいた。あっしら『向こう側の世界の住人』への強く激しい負の感情が、逆に『向こう側の世界の住人』である鏡女を惹きつけ、結びつけちまったのかもしれないっすね。……しかもその子はどんどん追い詰められ、精神的に相当参っている状態だろう。鏡女にとっては好都合だっただろうな。ますます乗っ取りやすくなったのだから」
弥助は酷く面白く無さそうな表情を浮かべている。人間好きな彼にとって、人間が『向こう側の世界の住人』に苦しめられているというのがたまらなく嫌なのだろう。
しばらく固まっていた紗久羅はようやく口を開く。
「柚季は、柚季は……助かるのか」
その言葉に出雲は、正直言って難しいかもと答える。
「お前の弓でどうにかならないのか!?」
出雲はわざとらしいため息をついた。
「そう簡単にはいかないよ。第一矢を放つだけで済むなら、こんな所でつまらない話などせず、さっさと柚季って娘に矢を放って終わらせているよ」
「何でだよ、何で、上手くいかないって……」
出雲ならどうにかできると思っていた。悔しいが彼が強い力を持っていることは確かだったからだ。出雲はもう一度ため息をついた。先程よりも大きくて、嫌味たらしいものだった。
「だから――」
仕方無い、説明してやるかという空気になり出雲が話を始めようとした。しかしすぐに開けた口を閉じ、見えない糸に上から引っ張られたかのように彼は勢いよく立ち上がり、店を出る。
三人は何が何だか訳が分からなかった。しかし出雲の様子が尋常では無かったので慌てて彼の後を追う。
ドアを乱暴に開けて外に出て、三人は立ち止まる。
先程まで照っていた太陽は隠れ、空は汚れて曇った鏡の様な色へと変わっていた。気持ちの悪い生ぬるい風が吹き、紗久羅達の体をねっとりと撫でる。
どこか遠くで女の笑い声が聞こえる気がした。
「さっきまで晴れていたのに……」
「この感じ……やばいな」
色々鈍い弥助も何かを感じ取ったらしく、苦い薬を飲んだかのような表情を浮かべている。ごく普通の人間である紗久羅や奈都貴でさえ、その異様な空気を感じ取ることが出来た。
バサバサバサ、と何かが羽ばたく音が聞こえて四人は音のした方を見上げる。そこには足が三本ある烏が二羽居た。やた吉とやた郎だった。奈都貴は彼らのことは今まで見たことが無かったらしく、小さな叫び声をあげる。
「出雲の旦那、大変だ。町の人達が鏡の妖怪に襲われている!」
その言葉を聞いて紗久羅と奈都貴は驚きの声をあげ、顔を見合わせた。