鏡女(4)
*
情報通のクラスメイトである吉田霧江は、丁度倒れた女子の後ろに座っていた人から一部始終を聞いてきたらしく(たまたまその人が仲の良い先輩だったらしい)それを友人達に聞かせていた。紗久羅も何となく気になって、その話の輪に加わった。
話を聞き終えた女子達は顔をしかめ、苦笑いしながら「嘘だ」とか「作り話じゃないの?」などと言いだす。
話の内容は、こうだ。
授業中(紗久羅達がプールで泳いでいた時)、二年女子が鞄の中に入れていた鏡が床に落ちた。その落ち方は実に奇妙で、まるで鏡が意思を持ったかのような動きをして落ちたのだという。
鏡の持ち主である女子は首を傾げながら、鏡を拾った。そのまま鞄に戻そうとしたようだが、その動きが途中で止まる。そしていきなり尋常では無い大きな声で叫んだのだという。教室に居た人全員が彼女を見た。真後ろでその様子を見ていた人はそのものすごい声に心臓が止まりそうになったらしい。
悲鳴をあげた女子は鏡から手を離し、そのまま崩れ落ち、床に倒れこんだ。先生によってすぐ保健室に運ばれたが、どう見ても只の貧血には見えない上に目を覚ます様子が無かった為、病院へ搬送された――というもの。
「それを見ていた生徒達が軽くパニック状態になって、そのパニックっぷりが周りの教室にも伝染して、大変な騒ぎになったんだって」
霧江の言葉に話を聞いていた女子達は「想像しただけでぞっとする」「下手な怪談話より怖いかも」と未だ信じられない、といった表情を浮かべながら呟く。
こくこく頷いていた霧江は「そういえば」と話題を少し変える。
「一年と二年の女子が何日か前にトイレで倒れたよね」
その言葉に紗久羅はどきりとした。何気なく近くに座っている柚季の方を見る。柚季は俯いて体を小さくさせていた。きっと会話を聞いていたのだろう。
「その二人も確か悲鳴をあげてから倒れたんだってね。只の偶然かもしれないけれど、何か気味が悪いよね。あ、梨奈のお父さんも最近倒れたんだっけ」
霧江の言葉にまあね、と梨奈が苦笑する。
「悲鳴をあげて倒れたっていうところは共通しているけれど。もしかしたら今日倒れた先輩も、すごく怖い幻覚を見たんじゃない?」
「ああ、そうかもね。それにしても気味の悪い話だよねえ」
そしてその後女子達の話題は別のものへと移っていき、紗久羅はさり気なくその場から離れる。
柚季はそんな紗久羅を手招きし、図書室までついてきて欲しいと言った。
「気分転換に本でも読みたいなと思って。……一緒に来てくれる?」
元気の無さそうな彼女を見て、紗久羅はこくりと頷く。妙なこと続きで彼女も不安なのだろう。頷く紗久羅を見て柚季はほっとしたような表情を浮かべて立ち上がる。
生徒達でごった返している廊下を渡り、図書室へと向かう。柚季は何か話すわけでもなく、只無言で歩いている。紗久羅もどう話しかければいいのかいまいち分からず、無口になった。妙に気まずい空気、やけに長く感じる図書室までの道。
(今日倒れた二年生……やっぱり及川さんが関係しているのか? けれど、その人が倒れたのはトイレじゃないし、及川さんは彼女の傍に居なかった。……あたし達と一緒にプールで泳いでいたんだから。じゃあ今回のことは彼女とは無関係?)
そう考えたが、すぐに首を横に振った。体育の授業中に柚季が見せた妖しく気味の悪い笑みを思い出したのだ。二年女子が倒れたのは丁度彼女があの笑みを浮かべた時だったのでは、と紗久羅は思う。
(あの馬鹿狐曰く、及川さんに何かがとり憑いている可能性は低いみたいだけれど……。くそ、全然分からない)
考えがまとまらず首を横に振る。
無言で歩き続ける内に、図書室へと辿り着いた。カウンターには英彦と奈都貴が座っている。今日は奈都貴がカウンター当番らしい。本来当番はもう一人居るはずだが、姿が見当たらない。恐らくさぼっているのだろうと紗久羅は思った。図書委員会の人はローテーションでカウンター当番をすることになっているが、真面目にその役目を全うする人間は殆どいない。
英彦は相変わらずどう見ても私物である書物をカウンターに積み上げ、ぶつぶつ何か呟きながら本を読んでいる。その姿は不気味であり、ゆえに彼は生徒達に「図書室に住む妖怪」と呼ばれているのだ。
「この学校の図書室って結構広いんだね」
柚季は目を輝かせながら辺りを見回している。
「前の高校は狭い上にろくな本が無くて。何かすごく昔の本とか、お堅い本とか、そんなのばかりだったの。小説とか殆ど無かったわ」
そう言いながら笑う柚季の姿は、本のことを語っている時のさくらに似ていた。本が好きなの、と紗久羅が問うとそこそこ、と答える。
「暇な時に読む程度だけれどね。文学少女とか本の虫とか、そこまでいくほど読まないわ」
「ふうん、そうなんだ。あたしは読書感想文を書く時以外はまず読まないや。ああ、でも及川さんが本を読んでいる姿って絵になりそうだな」
「そう? まあ私は何をしても可愛いけれど」
「自分で言うかあ?」
「あはは、冗談よ冗談。私そんなナルちゃんじゃないもん」
そんな会話をしていると、さっきまで頭の中をぐるぐる巡り暴れていたものが大人しくなっていく。そういうごちゃごちゃしたことを忘れて喋ることは、とても楽しい。柚季にも自然と笑顔が戻る。
しかし二人は背後からちくちく痛い視線を感じ、口を閉ざす。ちらっと振り返ると、奈都貴がじろっとこちらを睨んでいるのが見えた。うるさい、図書室では静かにしろ、と言いたげだ。しばらくして奈都貴は隣に居る英彦に声をかけ、何か話し始める。時々紗久羅と柚季の方を指差しながら。
「ぶうぶう、ちょっと大きな声で喋ったからって。なっちゃんは厳しいなあ」
「なっちゃん?」
まだクラスメイトの名前を把握しきれていないらしい柚季が小さく首を傾げる。
「今司書のおっちゃんと話している奴のこと。名前が奈都貴だから、なっちゃん」
「随分可愛いあだ名だね。女の子みたい」
柚季がぷっと吹きだす。
「だろう? あたしがつけてやったんだ。なっちゃんって女の子みたいな字を書くんだぜ」
「そうなんだ。今度見てみたいかも」
奈都貴がこほんとわざとらしく咳をして暗に「黙れ」と言うまで、二人でずっと笑っていた。
ひとしきり笑った後柚季は国内小説が置かれた棚をあさりはじめ、紗久羅はそれに付き合う。
しばらくして借りる本を決めたらしく、カウンターへそれを持っていった。
「これ借ります」
本と一緒に学生証を出す。この学生証の裏にはバーコードがあり、これと本の裏にあるバーコードを読み込ませることで貸し出し処理をするのだ。……ちなみに紗久羅は一度もこのバーコードを使った事が無い。
処理をする奈都貴と、それをぼうっと見ている柚季達を英彦がじっと見つめている。奈都貴が処理の終わった本を柚季に渡そうとした時、その本の上におしゃれな模様が描かれたしおりを静かに置いた。
「この本しおりがありませんから。もし宜しければお使いください」
そう言って英彦は柔らかな笑みを浮かべる。柚季はおしゃれなしおりに一瞬で心奪われたらしく、目をきらきらと輝かせた。
「ありがとうございます」
「読書が好きな子には優しいんですよ、私は。君は転校生だそうですね。深沢君から聞きましたよ。早く学校生活に慣れるといいですね」
「え、ああ、ありがとうございます」
そう言って曖昧な笑みを返す。英彦はその微妙な反応を疑問に思ったのか、首を軽く傾げた後今度は紗久羅に視線を移す。
「ああ、折角だから貴方……井上さんでしたっけ? 貴方にも一つあげますよ」
「え、でもあたしあまり本読まないし……」
「たまには読んでみなさい。面白いですよ」
そう言って紗久羅にも柚季とは又違う模様が描かれているしおりを差し出す。貰ったところで使う機会などそう無いのだが、しゃれたデザインだし、タダでくれるものはありがたくもらっておきたいなどと思いそれを受け取った。
「これ、すっごくおしゃれなしおりですね」
笑いながら柚季は本の上に置かれたしおりに右手で触れる。途端「いたっ」と小さな声をあげてそのしおりを落としてしまう。
「どうしたんだ?」
「あ、ううん。何でもない。静電気かな? 一瞬びりってきたような気がして」
床に落ちたしおりを拾い上げ、借りた本の間に挟む。さあ、教室に戻ろうと紗久羅に声をかけ、一足先に図書室を出る。
紗久羅もそれに続こうと足を前へ運ぶ。盗難防止のセキュリティゲートをくぐろうとしたところで、英彦に呼び止められ振り返る。いつの間にかカウンターを離れて紗久羅の前に立っていた彼の表情は何故かとても陰鬱なものだった。
「井上さん」
「な、何? どうしたんだ?」
「……鏡」
「は、はあ?」
いきなり出てきた単語に思わず間抜けな声をあげ、眉をひそめた。しかし英彦の方はいたって真剣な様子である。
「鏡に気をつけなさい」
(何をいきなり言い出すんだ? 鏡? 鏡が何だっていうんだ)
訝しがりながらも一応頷き、セキュリティゲートを潜り抜けた。
鏡に気をつける理由も、英彦が突然紗久羅にそのような忠告をした意味も分からず最初はただ首を傾げるのみだった。
まあどうでもいいか、と言われたことを忘れようとして、ふと一つの事実に気がつき立ち止まる。
柚季の前で倒れた三人。彼女達は洗面台の前に立っていた。
(洗面台には……鏡がある)
そして今日女生徒が落ちた鏡を拾いあげた時に倒れたのだ。
気がついた途端、心臓が止まり、頭が熱くなった。
更にこの前の掃除の時、柚季が鏡を持った途端様子がおかしくなったことを思い出す。ただ柚季は倒れたわけではなく小さな悲鳴をあげて鏡を落としただけだった。しかし何かに怯えているかのような様子は見せていた。
(ということは及川さんと鏡がキーワードってことか? けれど何で今までは及川さんが傍に居る時に倒れていたのに、今回はそうではなかったのだろう。及川さんが傍に居る・居ないは関係ないのか?)
しかしそれ以上に気になることがあり、紗久羅は口元に左手をやり考え込む。
何故英彦は「鏡に気をつけろ」と言ったのか。
(あのおっさんは司書とはいえ学校で働いている人間だから……女生徒が立て続けに何人か倒れていることは知っているだろう、多分。けれど――もし今回のことに鏡が関係しているとして……何であの人はそのことを知っていたのだろう? 普通の人間に分かるはずがない。じゃあ)
紗久羅は英彦が読んでいる本を思い出してみる。掃除をしている時に見た限りでは、妖怪、伝承、民俗学といった単語が入った題名のものばかり読んでいたような気がした。
「今回のことはやっぱりあっちの世界の奴が関わっているのか……そしてあのおっさんはあっちの世界のことを、知っているのか……?」
そう呟くも、答えは出ない。とりあえず今は教室に帰り次の授業に備えることの方が大事。どうせ小さな脳みそをフル回転させても答えは出ないのだ、と紗久羅は心の中で言い聞かせた。
紗久羅は、突然立ち止まって考え事を始めた紗久羅を不思議なものを見る目で見ていた柚季向かって駆け寄る。紗久羅を迎えた柚季は苦笑いしながら、どうしたのと問う。
「いや、別に何でもないよ」
「そう。それならいいんだけど、いきなり立ち止まって考え込むような仕草見せたものだから、どうしたんだろうって思ったわ」
「あはは、ごめんごめん」
柚季のことを考えていた――とは口が裂けても言えなかった。
*
放課後。約束通り一緒に三つ葉市にある雑貨屋へ行くことになった。しかし柚季はその前にもう一度図書室に寄りたいと言う。
「それがさ、さっき借りた本ね前読んだことがあったものだったの」
悔しそうな表情を浮かべながら柚季はさきほど借りた本を取り出す。本を滅多に読まない紗久羅は、以前読んだ本をまた借りてしまうことなんてあるんだ、と暢気なことを考えていた。
「とりあえず新しい本は明日借りるとして……とりあえず返却だけさっさとしてきちゃうね。だから図書室の前でちょっと待っていてね」
「ああ、いいよ」
昼休み以来の図書室へ。利用している人は殆ど居ないようだ。
本の返却位ならすぐに終わるだろうとセキュリティゲートの傍でぼうっとしていた。
しかし思ったよりも帰ってくるのが遅い。どうしたのかと思って図書室に入ってみれば、柚季は英彦と自分達よりやや年上らしい女性と喋っていた。
「じゃあゆずちゃんは転入生なんだねえ」
ツインテールが可愛らしい女性は、英彦にべったりくっつきながら柚季と話している。声もまた可愛らしい。
柚季は様子を見にきた紗久羅に気づき、両手を合わせてごめん、と一言。
「ごめん、待たせちゃって」
「いいや、気にしなくていいよ」
そう言いながら見慣れぬ女性をじいっと見つめる。女性はその視線に気づいてにっこりと笑った。
「ごめんねえ、私が話しかけちゃった所為でお友達待たせちゃったんだね。私の名前は美沙。英彦様の家で使用人をやっているの」
使用人、と聞いて紗久羅は驚いた。
「え、司書のおっさんお金持ちなの? 使用人を雇っているなんて」
英彦が苦笑いする。
「まあ実家が一応、ね。それとおっさんと言わないで下さい。私これでも未だ三十前なんですよ」
「十分おっさんじゃね? へえ、そうだったんだ」
そういえば時々見知らぬ美人が図書室を訪れている、という噂を耳にしたような……と紗久羅は思った。噂によると一人二人ではないようだが、皆使用人なのだろうか。
「あ、それじゃあ私達はこれで」
引き上げようとする柚季に美沙は笑みを浮かべる。
「ごめんね、引き止めちゃって。これから二人でデート?」
「ええ、まあそんなところです。それじゃあ」
柚季と紗久羅は美沙(と英彦)に軽くお辞儀してから、図書室を出た。
「あの美沙さんっていう人、とっても可愛かったね。後お喋りも好きみたい。出身どことか、その指どうしたの怪我したの、とか色々聞かれちゃった。可愛いもの大好き、って言って抱きつかれた時はどうしようかと思ったわ、本当。あ、でも嫌いってわけじゃないわ。あの人の傍に居ると何か暖かい気持ちになった」
「へえ。それにしてもあの人、随分司書のおっさんにべったりくっついていたな。本当は使用人じゃなくて、恋人とか愛人とかだったりして」
「あはは、そうかもね。それじゃあ行こうか」
「ああ、行こう」
そうして二人仲良く三つ葉市にある雑貨屋へと向かった。
街の中心にある『リーフビル』の二階に、それはある。入り口の両脇に大きなクマのぬいぐるみがあり、訪れた人達を迎えてくれる。店内には文房具、アクセサリー、キッチン用具、ぬいぐるみ等がずらりと並んでおり、赤や青、黄緑等様々な色で溢れていた。今はオープン記念セールを実施しているらしい。
店の中に居るのは殆どが紗久羅達と同じ女子高生で、楽しそうに喋る声があちこちから聞こえ、店内を賑やかにしていた。
「色々あるんだな」
「うん。私携帯のストラップ買おうかな。前持っていたやつが壊れちゃって」
まだどこにどんな商品が置いてあるか分からないから、まず店内をぐるっと一周してみた。ちなみにキーホルダーやストラップ等は入り口から割と近い場所に陳列されていた。
種類も豊富で、有名なキャラクターからあまり見かけたことがないキャラクターがついたもの、食べ物を模したもの、大き目のぬいぐるみがついたものなどメジャーなものから変り種まで色々なものがある。
「やだ、これすっごく変」
びよんと伸びたスライムにやる気なさげな目のついたキャラクターのストラップを手に取り、柚季が笑う。ストラップについているそのマスコットはむにむにと柔らかく、何度も握りたくなるようなものだった。
「こっちには目玉がついたストラップがあるぜ。こんなの誰が買うんだろう。あ、この青い薔薇のついているやつ綺麗でなかなかいいな」
「ハートが二つに分かれているのもあるよ。二つで一セット。恋人同士で持つのかしら。お互いのをくっつけると一つのハートになるっていうものみたい」
「バカップルにお似合いのストラップって感じだな。……それのキーホルダー版もあるみたいだぜ。ええと、あと『学校シリーズ』なんていうのもあるぞ。フラスコとか黒板消しとか校舎とかがついているものみたいだな。――うわあ、人体模型つきのもある」
「うわあ、気持ち悪い……。井上さん、それ買うの」
人体模型のついたストラップを指差され紗久羅は激しく首を横に振る。
「買わないよ、やだやだ、無理! あたしの趣味じゃないし! 柚季が買えばいいじゃん」
そう言ったところで、紗久羅は初めて柚季のことを名前(更に言えば呼び捨て)で呼んだことに気づき、自然と笑みをこぼした。柚季も嬉しそうに笑う。
「そういえばあたしずっと及川さんって呼んでいたよね。……柚季って呼んでいい、よな?」
「勿論。そっちの方が嬉しいもん。ふふ、私もずっと井上さんって呼んでいたけれど……紗久羅って今度から呼ぶね」
「うん。あたしもそっちの方が嬉しい。へへ、この人体模型ストラップのお陰だな」
そう言ってストラップの入った袋を柚季の顔の前で振ってみせる。そうしたら、それじゃあ記念に買う?などと柚季に返され、絶対嫌だ!とさっさと元の場所に戻す。
「折角だからストラップを一つ買って、交換しようよ。私は紗久羅の為に、紗久羅は私の為にストラップを選ぶの。面白そうじゃない?」
「ああ、それいいかも。あ、でもさっきの人体模型は無しで」
「分かっているよ、勿論。店を出た後交換ね。何を買ったか分かるとつまらないから……」
「それじゃああたしが先に選ぶよ。選んで会計済ませるまで柚季は他のコーナーをまわっていればいい」
紗久羅の提案に柚季が頷く。
「OK。それじゃあその辺りをふらふらしているね」
そう言って、どこか別のコーナーへと行った。紗久羅は最初ネタっぽいものにしようか、真面目な物にしようか迷ったが最終的にちゃんとしたものを買うことに決める。種類が豊富なのでどれにしようか悩んだ。
良さそうな物を探していると、一つのストラップが目についた。黄緑と透明の丸いビーズが連なっていて、その先に四葉のクローバーがついているというものだ。
(これにしよう。この四つ葉のクローバーが柚季を守ってくれれば……なんて、ちょっと女々しい考え方かもしれないけれど、まあいいか)
そのストラップに決め、会計を済ませる。今度は柚季が決める番だと、紗久羅は彼女を探した。
きょろきょろと辺りを見回していると、柚季の後姿が見えた。声をかけようとして、紗久羅は立ち止まる。
柚季が居たのは鏡が沢山並んでいるコーナーだった。英彦の「鏡に気をつけろ」という言葉を思い出し、紗久羅は不安になる。
紗久羅は無理矢理明るい声を出し、柚季の名を呼ぶ。しかし返事は無い。彼女の目を、意識を掴んで離さない幾多の鏡。どこにでもある物なのに、今は異質で気味の悪いものに見えた。
「後少し。後少しだ、あはは」
それは確かに柚季の声で、彼女の口から発せられたものだった。鏡に映る彼女の口が動いていたのだから、間違いない。しかし普段出している声とは雰囲気が全く違う。
ああ、まただと紗久羅は思った。「後少し」とはどういう意味なのかは分からなかった。だがこのままではいけないと思い、紗久羅は柚季の肩を強く掴み無理矢理彼女を振り向かせる。
幾度となく見た冷たく妖しい瞳にやがて光が戻り、柚季は正気に戻った。
「あれ? 紗久羅、どうしたの」
「え、いや何でもないよ。あ……あたし、もう選び終わったからさ。今度は柚季の番だよ」
「決まったんだ。どんなものを選んでくれたのかな、楽しみだわ。それじゃあ私選んでくるね」
ぎこちない笑みを浮かべる紗久羅を見て、少し顔を曇らせたがすぐ笑顔になって、柚季はその場を離れた。紗久羅は彼女を見送った後、もう一度鏡を見てみる。何だか嫌な感じがして、紗久羅はその場から逃げるように離れた。
(後少し、って何がだろう。柚季が言ったことは確かだ。けれど、やっぱり……)
紗久羅は先程買ったストラップの入った紙袋をそっと握りしめる。
(本当に四葉のクローバーが幸運を呼ぶのなら……守って欲しい、柚季を)
お飾りのクローバーに力などあるわけないと思いながらも、紗久羅はそう願った。
程なくして柚季が、売り場をうろうろしていた紗久羅の所までやって来て「決まったよ」と笑顔で言う。
その後ぬいぐるみや小物等を見て、幾つかの商品を追加で購入し、店を出ようとした。
出入り口の自動ドアから店の外へ出ようとしたところで、急に柚季がその場に立ち止まる。
「どうした? 未だ買いたいものが……」
続きを言おうとした丁度その時、物凄い音と共に女性の悲鳴が聞こえた。紗久羅はぎょっとして振り返り、柚季もまた体をびくんとさせた後、振り返る。
売り場に居た近くの店員、客等が悲鳴のした方へ集まった。二人も気になってその場に駆けつける。
悲鳴がした場所……それはあの鏡が並んでいるコーナーだった。女子高生らしき人が床に倒れているのが見える。そして周りには鏡があり、幾つかは割れている。恐らく商品である鏡を巻き込みながら倒れたのだろう。
見れば倒れている人の顔は真っ白で、ぴくりとも動かない。悲鳴を聞いて集まった人達はその光景にただ呆然としていた。
「救急車を呼ばないと!」
店員の一人が倒れた少女の傍につき、もう一人が救急車を呼びに行く。
しばらくして救急車がやってきて、少女は病院へと搬送された。死んではいないようだったが、危ない状態であることは何となく分かった。
紗久羅と柚季はそれを見送った後、店を出る。
ビルから出て、二人はしばらく無言で歩いた。
(さっきの人は、鏡の前で倒れた。やっぱり今回のことも……)
「ね、ねえ、紗久羅。さっき買ったストラップ……交換しようよ」
沈黙を破ったのは、柚季の小さく震えた声だった。彼女の顔は青く、見るからに元気が無さそうだった。
「あ、ああそうだな。うん、そうしよう。折角買ったんだから」
気を紛らわせようと、二人はぎこちない笑みを浮かべながら買ったストラップの入った紙袋を交換する。
先程見た光景を頭の中で巡らせながら、紗久羅は袋を開いた。
柚季が紗久羅に買ったストラップ。それは透明の丸いビーズと桜の花を連ねた可愛らしいものだった。
「うわ、可愛い」
「あ、四葉のクローバーだ。色がとっても綺麗で、可愛い。ありがとう」
柚季は嬉しそうに笑う。紗久羅も笑みを返す。
「こっちのストラップも可愛い。こちらこそありがとう」
「それにしてもびっくりしたな。あの人大丈夫かな」
貰ったストラップを携帯につけながら呟くと、柚季は俯く。
「そうだね、心配だね……」
人が悲鳴をあげて倒れるという光景を立て続けに見ている柚季。さぞかし辛いことだろう。
ストラップを携帯につけた後、柚季は紗久羅を見てにこりと笑った。明らかに無理して笑っているようで、紗久羅は胸が締めつけられるのを感じた。
「あのさ、紗久羅。これから私の家に来ない? 美味しいお菓子とお茶があるの」
「え、いいの?」
「いいよ。どうせ親は仕事で帰ってくるの遅いし。紗久羅さえよければ、是非」
「それじゃあ、お邪魔しちゃおうかな」
「有難う。それじゃあ一緒に行こう。ここからそんなに遠くないし」
街の中心部から離れると景色もがらりと変わる。高いビルが消え、マンションや一軒家が増えていく。同じ住宅街でも桜町とは違い、割と新しく出来たと思われる家が多い。
柚季は不安をまるで振り払うかのようによく喋り、紗久羅はそれに付き合う。お喋りは嫌いではないから全く苦にはならず、むしろ楽しいと感じていた。
そうしてしばらく喋っていたら、笑いながら話していた柚季の顔が急に曇りだし、足取りが明らかに重くなる。どうしたのだろうと思っていると、彼女はぴたっと足を止め、紗久羅の顔を真っ直ぐな瞳で見つめる。
「……ねえ、紗久羅」
「何? どうしたの」
「紗久羅は……私のこと、信じてくれる?」
いきなり何を言い出すのだろうと紗久羅は思った。
「わ、私。話したいことがあるの。……でも、その……ちょっと信じられないような話で……。紗久羅は、私がこれから話すことを信じてくれる? 冗談だと思わず、真面目に、聞いて、くれる?」
微かに潤む瞳。今にも泣きそうな表情に、紗久羅はどきりとした。
(もしかして……それじゃあ、やっぱり柚季は何か知っていたのか。いや、もしかしたらそのことじゃないかもしれないけれど、でもきっと、そのことなんだろう。柚季の様子は明らかにおかしかった)
柚季は紗久羅から目を離すことなく、唇を噛み締めながら返事を待っていた。
紗久羅はそんな柚季に優しく微笑む。
「信じるよ。あたしは、信じる。だから……話して?」
もしかしたら重要な手がかりを掴むことが出来るかもしれない。手がかりを掴むことが出来れば、柚季を助けることだって……。
柚季はこくりと頷き、大きく深呼吸する。そして言葉を紡ぎだそうと、口を開きかけた。
しかしその口から声が出ることは無かった。
明らかに彼女の目が虚ろになり、開きかけた口を閉じ、俯く。
「どうしたんだよ、柚季。あたしのこと信じて話してくれてい……」
いいんだ、と言おうとして紗久羅はその場に立ち尽くす。どこからか、女の笑い声が聞こえた。
くすくすくす、あはははは。若い女の笑い声で、その声は徐々に大きくなり、笑い方も派手になっていく。熱が奪われていく。体が動かない。ただ心臓だけが激しく動いている。
声がする方を見てはいけない、と言う声が桜の頭の中に響く。男の声で、聞き覚えのある声だった。しかし言うことをきかない体は誰かに操られているかのように、勝手に動いてしまう。顔をあげ、声のした方を見た。
そこにあったのは、カーブミラーだった。しまった、と紗久羅は思った。カーブミラー――すなわち、鏡である。
目を逸らすことが出来ない。二つの瞳は完全に鏡に囚われた。
カーブミラーに見知らぬ女の顔が映されている。本来映し出されているはずの風景などは一切見えない。
ミラーを占拠している女は着物姿で、夜空よりなお暗い色の髪は綺麗に切りそろえられている。金の髪飾りが漆黒の髪によく映えている。光を受けてぎらぎら輝くそれは、夜空を飾る星のようであった。
一切の光の無い瞳、真っ赤な唇。
紗久羅は、その女が誰かに似ていると思った。しかし誰に似ているのか思い出せない。女が口を開く。
「お前は邪魔だ。――まあ今更小娘一人が抗ったところで何がどうなるわけでもないが。しかしお前からは何か嫌なものを感じる。万が一ということもあるし……芽は刈り取らなければならない」
そう言うと、女が手を前に突き出した。その手はミラーをすり抜け、こちら側に飛び出してくる。次に顔が、胴が……。
一瞬の出来事だった。女は獲物を狩る獣の如く素早く、勢いよく紗久羅の眼前までやってきた。胴は伸びていて、離れた場所にあるミラーとくっついている。
「いや!」
かろうじて動いた口で、悲鳴をあげる。あげずにはいられなかった。
女が、にたりと笑った。女の透き通るような――いや、実際に透き通っている両手が紗久羅の顔を包み込む。頭の中がかあっと熱くなる。体から何かが飛び出すのを感じ、あっという間に全身から力が抜けていった。目を開けていられない、立っていられない。女から逃れなければ、全てを奪われ死んでしまうと思った。しかし逃げられない。女の手を振り払うことすら出来ない。
頭がぼうっとしてきて、呼吸が上手く出来なくなってきた時何かが激しく光りだした。体中に電気の様なものが走ったかと思うと、女の手が紗久羅の顔から離れる。
「おのれ……!」
女は怒り狂いながらも、ミラーの中へ戻っていき、その姿を消した。
それを見届けたのと同時に、紗久羅は崩れ落ちた。
(ああ、そうだ……あの女。様子がおかしくなった時の柚季に似ていたんだ……)
ひざやひじをコンクリートの地面に強くぶつけたが、痛みを全く感じなかった。
程なくして、意識は完全に途切れてしまった。