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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
鏡女
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鏡女(3)

 授業が終わり、掃除の時間となる。紗久羅の班は図書室、柚季の班は教室掃除となる。紗久羅は一階にある図書室を目指す。

 図書室から一番近い所にある階段を下りようとした時、何かが自分の肩に触れたのを感じ、後ろを振り向く。しかしそこには誰も居ない。気のせいか、と首を傾げながら進もうとすると「紗久羅」と自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。その声に紗久羅は聞き覚えがあった。……出雲の声だ。しかし彼の姿はどこにも見えない。

 暑さのせいで幻聴でも聞いたのだろうか。不思議に思いながら階段を下り、図書室へ行った。


 三つ葉高校の図書室にはドアや壁が無い。非常に開放的なスペースなので、居ても息苦しくは無い。入り口にはセキュリティゲート。入り口に対して垂直に本棚が並び、その本棚の群れの奥にテーブルがある。貸し出しカウンターは右端にぽつんとある。

 掃除内容はテーブルやカウンター、本棚を雑巾で拭いたり、床を綺麗にしたりするというもの。

 カウンターには司書の九段坂(くだんざか)英彦(ひでひこ)が居た。パーマのかかった髪を肩ほどまで伸ばした、ひょろりとした男だ。彼は真面目に掃除をする奈都貴と、そんな彼にわざわざちょっかいを出す紗久羅を見て「微笑ましいですねえ、青春ですねえ」とにこにこしている。九段坂さんが思っているような関係ではないですよ、と奈都貴が言うと英彦はあははと笑いながら照れることはないという。


「だから違いますって。……というか九段坂さん、仕事中なのに読書なんかしていていいんですか?」


「え? あ、ああしまった。生徒の一人が返却した本が懐かしいものでね……ちょっと中身を、と思っていたら……失敬失敬」


「なんだよおっさん、さぼりか?」


「こらこら、おっさん呼ばわりはいけませんよ、おっさん呼ばわりは。それにしても本当に懐かしい本ですねえ……」

 とまた先程までのように本を読みだす。奈都貴が取り上げていなければしばらく読んでいたかもしれない。一度夢中になると仕事中だろうがなんだろうがお構いなしの点はさくらそっくりかもしれない。


「あのおっさん大丈夫かよ」


「多分……時々ああいう困ったことになっていることもあるけれど、基本的にはいい人だし仕事もちゃんとやっていると思う」


「ふうん。まあどうでもいいけれど。そういやあ、なっちゃん。……昨日あたしに何を言おうとしたわけ?」

 ほこりのたまっている本棚の上を拭いていた奈都貴の手が止まる。


「別に、何でもないよ。大したことじゃないし」


「あんな中途半端に止められても困るんだけど。……何、まさかあたしに愛の告白をしようとしたわけ?」

 笑いながら言うと、奈都貴が顔を赤くしながら「そんなわけないだろう、ボケ」と返す。ええ、やだ、残念とわざとらしく言う紗久羅に、汚い雑巾を近づける。


「それ以上言ったら、この雑巾でお前の口を塞いでやる」


「それは嫌だなあ。ねえ、本当に大したことじゃないの」


「大したことじゃないよ」

 改めて言う奈都貴だったが、その声はやや掠れている。紗久羅は絶対大したことじゃない……と思ったがこれ以上しつこく聞いても無駄のようだったので、その後は彼のご要望通り黙っておいた。


 掃除が終わり、教室へ戻る。教室の方はいつも掃除に時間がかかるので、未だ終わっていない。といっても後は掃いたごみを回収し、机を元に戻すだけのようだった。

 柚季がゴミをちりとりに入れ、ゴミ箱に入れる。後は机を運ぶだけだ。机を運ぶのは、掃除を終えて教室に戻ってきた人達も手伝う。後ろに固まった机を元の場所まで運ぶ。机によって異様に重いものと軽いものがある。重いものにあたると、結構辛い。


 紗久羅も運ぶのを手伝う。柚季も机を運んでいるようだった。


「あっ」

 そんな柚季が声を出したのと同時に、何かが落ちる音が聞こえた。どうやら運んでいたのは女子の机。その中に鏡が入って居たようで、それが落ちてしまったのだ。


「やっちゃった。鏡、割れていないよね?」

 柚季はそう言い、落ちた鏡を広い割れていないか一応確認する。しかし、確認するにしては随分長い時間見つめている。

 そして鏡に向かって、ぶつぶつと何か呟いている。どこか気味の悪い光景に紗久羅は胸がざわつくのを感じた。


「ああっ」

 そんな彼女が急に声をあげ、手に持っていた鏡を床に落としてしまった。


「及川さん?」

 鏡は幸い割れていなかったが、柚季の顔は酷く青ざめており、体は微かに震えている。紗久羅はその鏡を手に取り見てみるが何の変哲も無い只の鏡だった。


「な、何でもないの。ああ、この鏡この机から落ちてきたの。ちゃんと入れないとね」

 朝と同じような元気の無い姿。柚季は鏡を机の中に入れなおし、再び机を運ぶ。その様子を見ていた周りの人達も何だろうと首を傾げている。


「……ない……絶対……」

 何か呟いているようだったが、その声は彼女のすぐ後ろで机を運んでいた紗久羅にもよく聞こえなかった。

 そしてその様子を、奈都貴が静かに見つめていた。


 ふふふ、少しずつ調子が戻ってきている。明日と明後日はより自由に動くことが出来る。ならば、色々な所へ行こう。そして多くの人間共の生気を奪ってくれる。まあ、ほどほどにしておかないと怪しまれるだろうから……ふふ。

 だが、先程妙な気配を感じた気がする。気のせいだと思いたいが。

 誰にも邪魔はさせぬ。


 土曜日、紗久羅は満月館を訪ねることにした。というのも昨日出雲に「美味しいお菓子をあげる。後色々他にも、ね」と招かれたからだ。他が何かは気になるが、美味しいお菓子は好きだから遠慮なく行くことにした。お菓子に釣られるというのもどうかと自分自身思うのだが……。

 昼は友人と遊んでいたので、桜山に来たのは夕方近くになってからだった。


 山は透き通った緑色のガラス瓶のようで、太陽の光を受けてきらきらと輝く。紗久羅は広く伸びるガラス瓶の底へと向かう。

 木々に隠れるようにひっそりと佇む鳥居。そこから伸びる石段。


「あれ? 誰か居る……」

 紗久羅に背を向け、鳥居の前に立っている人が居た。祭がある日以外にここを訪れる人間など、殆ど居ない。近所の人(殆どがおじいちゃんおばあちゃん)が散歩で来るとか、子供達が遊び場にするとか、そういうことはあるのだが。

 空に浮かぶ雲と同じ色をしたワンピースに、黒い髪。女性であるらしい。

 

 目の前に居る女性に気づかれる前に、さっさと通しの鬼灯を握ってしまおうと思った。

 しかし紗久羅が通しの鬼灯に手を触れようとしたまさにその時、その人は振り返ってしまった。


 風が吹き、その女性の髪とワンピースのスカートを揺らす。正面を向いた女性の顔には見覚えがあった。


「お、及川さん?」

 間違いなく目の前に居るのは、及川柚季だった。しかし何かが違う。

 紗久羅を見つめるその表情は冷たく、およそ感情と呼べるものが存在しないように見えた。その表情に紗久羅はぞっとするのと同時に、彼女と初めて会った日のことを思い出す。

 そう、初めて会った時に彼女が見せていた顔。それと全く同じものだったのだ。歳不相応の大人っぽい雰囲気。


「何で及川さんがこんな所に……」

 三つ葉市に住む彼女が、こんな所に何の用があるのだろうと疑問に思う。

 しかし彼女は何も答えない。しばらく紗久羅の顔を見た後、冷たい目のまま口を綻ばせて笑った。

 そして紗久羅に何も言わず、彼女の横をすり抜けて立ち去っていった。すれ違った瞬間、紗久羅は心臓を冷たい手で握り締められたような感覚に襲われ、顔をしかめる。


(及川さんじゃない? いや、でも……)

 普段の柚季とは雰囲気が全く違う。けれどどう見ても彼女は柚季だった。ならば何故彼女は紗久羅を無視したのか。

 柚季の姿が完全に見えなくなった後、紗久羅は頭を振り、通しの鬼灯を握った。


 無数に立ち並ぶ赤い鳥居、気味の悪い光を放つ灯篭、季節はずれの桜の木に囲まれた石段を渡った先にある満月館。夜浮かぶ月のように淡く輝いており、周りの木々は夜空の如く暗い色をしている。


 満月館二階にある部屋。そういえばこの部屋以外には入ったことがないな、と紗久羅は思った。

 出雲は部屋の正面にある机で、本を読んでいた。怖くなる位整った顔立ち、さらりと流れる髪。本を読むその姿は悔しいが絵になっている。

 紗久羅が戸を閉めると、出雲が顔をあげた。


「おや、こんにちは紗久羅。お菓子に釣られて来たのかな? ふふ、可愛いねえ。それじゃあ早速お兄さんが美味しいお菓子をあげよう」


「何か誘拐を企てている怪しい男みたいな言い方だな」


「ん、攫って欲しいなら攫ってあげるよ。紗久羅だったら大歓迎だ」


「勘弁してくれ……」

 ふふ、と出雲は笑い部屋を出る。部屋の左側にあるいつものテーブルにつく。

 しばらくして出雲がお盆にお茶とお菓子をのせてやってきた。


「珍しいな、お前が用意するなんて」


「鈴は今居ないんだ。お使いを頼んでいるからね。……さあさあ、遠慮なくお食べ。このお店のお菓子は餡子がとても美味しいんだ」

 皿に盛られているのは、どら焼きやおはぎ、栗羊羹だ。試しにどら焼きを口に入れてみる。生地がふんわりしていて柔らかく、中の餡子は甘すぎず、ふわりと豆の香りが漂う。舌を優しく包み込むようなほっとする味。くどくないから、ついつい食べ過ぎてしまいそうだった。お茶と一緒に食べると体がふわふわする。


「これ美味しいなあ」


「だろう。これを売っている店は、この世界では有名でね。高価だし、なかなか手に入らないんだよ。愛しい君の為に頑張って手に入れたんだよ?」

 と笑いながらからかう。気持ち悪いことを言うな、とぶっきらぼうに言いながら紗久羅は次のどら焼きを掴み、口に入れる。そちらのどら焼きには白玉が入っていて、冷たくて滑らかな喉越しがたまらない。

出雲は黄金色の栗が入った羊羹を小さく切って食べている。


「ところで、他にも色々あるとか言っていたけれど……何?」

 出雲が顔をあげ、やや首を傾げる。しばらくして何かを思い出したような表情を浮かべる。


「嗚呼、そういえばそんなことを言ったね。うん、いや君に話したいことがあってね」


「話すって、何を?」

 どら焼きをまた一口頬張る。


「いや、実は先日君の学校に行ってね」

 栗羊羹を口の前にやり、それを眺めながらさらっと言ってのける。紗久羅は口に入れたどら焼きを危うく噴出しそうになり、ごほごほと咳き込んだ。


「な、な、な!?」


「ほら君前話してくれただろう。及川柚季という娘の前で三人もの人間が倒れたっていうの」


「話したけれど……まさかそれを調べるために?」


「ふふ、私はとても優しい人間だからね。困っている人間を放ってはおけないのさ」

 胡散臭い笑顔を浮かべ、一切心を込めずに言う。清清しくなる位見事な棒読みだ。

 紗久羅はどうやって行ったのか、そもそも何故三つ葉高校の場所を知っているのかとか色々聞こうとして、ふとある事実に気がついた。


「あれ。女子生徒が倒れたのってどこも女子トイレだよな。……お前、まさか」


「気配は消して誰にも見つからないようにしたし、授業中で誰も使っていなかったし。君が居た教室の近くにあったお手洗いだから場所は間違っていないと思う。で……何か問題でも?」

 つまり、女子トイレに普通に入って調べたということだ。紗久羅は頭を抱え、深くため息をつく。誰も居なければ、見ていなければいい、という問題でも無いような気がするが……矢張り人間と妖はどこか感覚が違うようだ。そしてそんなことを思った後、先日掃除に行く途中出雲の声らしきものを聞いたことを思い出した。あれは幻聴ではなかったのだ。恐らく調べがてら、校内をふらふらしていたのだろう。

 出雲は何故紗久羅が呆れているのか分からない様子で、目をぱちくりさせながら首を傾げる。


「変なの。君たち人間って本当妙に細かくて、面倒な生き物だよね」


「お前等が適当でいい加減すぎるんだよ。……で、何か分かったの?」

 出雲は栗羊羹を口に入れ、ゆっくりそれを味わった後飲み込む。


「微妙だね。まあ人では無いものが関わっていることは間違いないと思う。ただあの場にはもう殆ど気配は残っていなかった。まあ日にちが経っているというのもあると思うけれど。……けれどまあ、大した奴では無さそうだね。人を昏倒させるだけの力しか無いのだから」


「及川さんはやっぱり関係しているのかな」


「それもよく分からないな。そもそも私はその柚季とやらの顔を知らないし……一応、君が居た教室を覗いてはみたのだけれど。授業をしているようだったから、その娘も居たはずだ。けれど、あまり妙なものは感じなかった。何かに憑かれているとすれば、その者の姿が見えるか、何かしらの気配を感じると思うのだけれど……そういうものは特に無かったような気がする。というか、君が身に纏っているこちらの世界の気配が思いの外強くて。まあ単純に君の纏っているものに紛れてしまう位弱い奴ってだけの話かもしれないけどね」


「何、あたしそんなに変なものついているわけ!?」


「それはもう、半端ないよ。……しかし本当にその柚季って娘、誰かにとり憑かれているのかねえ。彼女が意図的に引き起こしている、という可能性もあると思うのだけれど」


「そんなことをする意味が無いじゃないか」

 友人のことを悪者扱いされ、紗久羅はむっとする。しかし出雲はおかまいなしに話を続ける。


「これといった意味もなく人や動物を傷つけたり、殺したりするのが人間だろう?」


「この捻くれ者。兎に角及川さんはそんなことをする人じゃないし……何か悪いものに憑かれているんだと思う」

 紗久羅はついさっき神社で柚季らしき人と会ったが無視されたこと、まるで別人の様な表情を浮かべていたこと、そしていつまで経っても取れない絆創膏のことなどを話す。


「ふうん、それはまあ妙な話だねえ」

 出雲は真面目に聞いている様子を一切見せず、用意したお菓子をもぐもぐ頬張りながら適当にも程がある相槌を打つ。自分から話を切り出しておいて、飽きたらろくに話を聞かない。紗久羅は脳内の血管が引きちぎれそうになるのを感じた。


「兎に角どうにかしてくれよ。こんなことがもしずっと続いたら……。及川さんが原因なのかどうかはっきり分からないっていうのなら、今度色々理由をつけてお前と会わせるからさ」


「何でそんな面倒なことをしなくてはいけないんだい? いいじゃないか、大したことじゃないし、しばらくすれば慣れるよ、きっと」


「助ける為に調べに行ったんじゃないのか!?」


「別に。只の暇つぶしだよ。まあとんでもない大ごとになったら――助けてあげるよ。その時の気分次第ではあるけれど、ね」

 潤んだ赤い唇を歪めて笑う。紗久羅はその唇と同じ位顔を真っ赤にし、立ち上がった。


「ああそうかい、あんたみたいな馬鹿狐を少しでも頼ろうとしたあたしが馬鹿だったよ! もう知らない! お菓子ご馳走様、以上!」

 どかどか大きな足音を立て、乱暴にドアを閉めて満月館を――『向こう側の世界』を後にした。


 石段を下り、通しの鬼灯から手を離す。それを同時に携帯が震え、紗久羅はそれをカバンから取り出した。

 見ると柚季からメールが入っていた。


『今日三つ葉市で気になるお店を見つけたよ。最近出来たらしい雑貨屋さんなんだけれど。今度一緒に行かない? 放課後辺りに』

 紗久羅は一緒に行こうという旨の文章を書き、最後に「今日桜町にある桜山神社の前に居なかった?」と付け加えた。

 送信してすぐ返信が来た。

可愛い顔文字と一緒に「やったあ」という文章が書かれ、それに続いて紗久羅の質問に答えていた。


『桜町? うーんまだそっちには行ったことないや。その神社のこともよく知らないし。それがどうかしたの?』

 とのことだった。


(良かった……やっぱりあれは及川さんじゃなかったんだ)

 紗久羅はほっとした。しかし完全に納得は出来なかった。他人の空似にはどうしても思えなかったから。別人ではないとしたら――きっと何かに操られているのだ、と思った。

 一応柚季に及川さんに似た人を神社の前で見かけたから、ちょっと聞いてみただけという文章を送る。そしてそのまま柚季とメールのやり取りをしながら家へと帰った。


 月曜日学校へ行き教室へ入った紗久羅を迎えたのは、何故かどんよりとした表情を浮かべている柚季だった。また何かあったのだろうか、と紗久羅は考える。


「どうしたのさ、及川さん」

 柚季は顔をあげ、それがねえと何かにうんざりしているような声で返事をした。そのまま話を続けようとしたが、それはクラスの女子によって遮られた。


「ねえねえ及川さん、昨日テンキューに居た?」

 テンキューというのは三つ葉市にある洋服店のことで正式名称を「tenQ」という。

 柚季はそう問われ、困惑したような表情を浮かべて首を横に振る。


「ううん、行ってない。そのお店を通り過ぎた覚えはあるけれど……」


「中には入ってない?」


「うん」


「それじゃあやっぱり人違いかあ。及川さんにすごく似ていたんだけれど。でも挨拶したのに無視されて。それでおかしいなあと思ったんだけれど……」

 ごめんね、とその女子は続けて友人が居るところへ戻っていった。柚季は小さくため息を吐き、またか……と呟く。


「また? またってどういうこと」


「それがね……。ほら、井上さん休みの日に私にそっくりな人を桜町で見たって言っていたでしょう。――他にも見たって言う人が居てね」


「え、あの及川さんそっくりの人に?」

 柚季は頷く。


「井上さんとさっきの彼女を入れて、六人。私だと思って話しかけたら無視されたって。しかも私とはまた雰囲気が違って……何か冷たくて気味が悪い感じだったとか。井上さんが会ったそっくりさんも、そんな感じだった?」

 紗久羅は桜山神社の前で会った彼女のことを思い出す。あの時見た表情を思い出しただけで寒気がした。紗久羅が頷くと、やっぱりそうなんだと柚季はまたため息を吐いた。


「でもそれは私じゃないわ。私本当に桜町なんて行ってないもの。他の人が言っていた場所も、そう。喫茶店とか洋服店とかで見かけたって言うのだけれど……そのお店に入った覚えはないし。最近妙なことばかり起こっている。嫌になっちゃうわ、本当」

 柚季の目の前で倒れる人達、柚季にそっくりな顔の、妖しい雰囲気を持つ少女。そして彼女の指には未だ絆創膏が巻かれている。

 不思議なことが重なりすぎている。矢張り彼女は何か妙なことに巻き込まれているのだ、と紗久羅は思った。

 

「もう訳が分からないわ、本当」


「だよなあ。あれかなあ、ドッペルゲンガーって奴かな」

 TV等で耳にしたことのある単語を口に出してみる。特別深い意味は無く、ただ何となく出た言葉だった。

 しかしそれを聞いた柚季の顔が何故か急に真っ赤になり、ものすごい剣幕で紗久羅を睨みつけた。いきなりのことに、紗久羅はぎょっとする。


「そんなもの、いるわけないじゃない!」

 柚季が大きな声で叫ぶ。周りに居た人達が一斉に柚季を見る。赤かった顔は何故か今は青白くなっていて、体はぶるぶると震えている。紗久羅に向けた言葉には怒りと憎しみが混ざっていた。


「え、あ、ごめん……」

 紗久羅は謝る。自分の想像している以上に柚季は今回のことに参っていたのかもしれないと思った。考えなしに言ってしまったことを紗久羅は後悔する。しかし彼女がそうして叫んだ理由は違うところにあったらしい。

 彼女は口を押さえ、俯く。


「あ、違うの。ごめん……井上さんが悪いわけじゃないの。私幽霊とか、妖怪とか、そういう類の話が好きじゃなくて。私引っ越す前はお婆ちゃんと一緒に暮らしていたのだけれど――そのお婆ちゃんが迷信家で、おまけに妖怪とかそういうのも信じていて――そのせいで嫌な目にあったこともあって――それで……ごめんね」

 そう小さな声で話す柚季は何だかとても辛そうだった。何か嫌なことでも思い出したのかもしれない。紗久羅は申し訳なく思う一方で、彼女には絶対妖の存在を話すこと、出雲のところまで引っ張っていくこと等は出来ないと思った。

 柚季は嫌な思いを振り払うかのように首を横に激しく振り、いつも通りの笑顔を紗久羅に向けた。


「今日の放課後、メールで書いた雑貨屋さんに一緒に行こうね。あ、今日大丈夫?」


「大丈夫だよ。母さんに今日は店番出来ないってメールを送ればいいし」


「ありがとう。ふふ、楽しみだなあ。よく考えてみたら、こっちに来てから他の人と一緒にどこかへ行くってことしていなかったから。初デートIN三つ葉市ってことね、今日が」

 そんなことを言って笑う。紗久羅も一緒に笑った。自分と一緒に買い物をすることで少しでもリラックス出来たら良いなと紗久羅は思う。その一方で彼女の身に何が起きているのかますます気になった。


 力がどんどん戻ってくる。あの桜町なる所に行ってから、ますます力の戻りが早くなっているような気がする。ああ、あそこはとても心地の良い場所だった。

 これだけ力が戻れば、わざわざ私が鏡の前に立つ必要も無くなるだろう。

 早速試してみよう。昔と同じことが出来るようになったかどうか……。


 二時間目は体育で、今年最後のプールの授業だった。授業といっても特別何をする訳でも無い。ただ泳ぎが極端に苦手な者とそうでも無い者に分かれて、ひたすら泳ぐだけ。

 

 暴君の居座る空の下、冷たい水に包まれて泳ぐのは気持ちが良い。しかしゆったり自由気ままに泳げる訳では無い。只真っ直ぐ、前の人とぶつからないようにしながら一定のペースで泳ぐ必要がある。しかも水は塩素臭いし、ゴーグルをつけないと目が痛くなるし、うっかり鼻に水が入ると辛い。

 紗久羅は泳ぎながら、虚水で満ちた金魚亭で泳ぐ方が楽しかったかなと思った。その思いを振り払うように、心の中で首を横に振った。


(いやいや、あちらの世界の方が良いなんて思っちゃいけない。あそこはあたしの居るべき世界じゃないし――)

 プールの端まで行き、そこにある短い金属の梯子のようなものに足をかけ、プールから上がる。体に重みがぐっと戻ったような妙な感覚に襲われる。

 また移動して、最初から泳ぎ直す。一、二コースは泳ぎが苦手な人が使っているから、三コース目から泳ぐことになる。ぺたぺたと熱されたコンクリートの上を歩いて移動する。

 紗久羅の前を泳いでいた柚季が、プールを囲むフェンスの方を向いて、その先にある校舎をじっと見つめていた。泳ぎ疲れたのだろうかと思ったが、どうもそうでは無さそうだった。


「及川さん?」

 何となく嫌な予感がして、紗久羅は彼女に話しかけた。しかし反応は無い。彼女の顔を覗き込んだ瞬間、寒気がした。


(ああ、またあの顔だ。氷で出来た人形の様な……)

 休日、桜山神社で見かけた「及川柚季のそっくりさん」が浮かべていたものと全く同じものだった。


(やっぱりあれは及川さん本人だったんじゃないか? 及川さんは行ってないと言っていたけれど。それは彼女が覚えていないだけで――或いは嘘を吐いている――いや、そんなことは……でも及川さんは何かを隠しているようにも見えるし……)

 隣に居る柚季は紗久羅に気づいた様子もない。体はその場から少しも動かない。ただ彼女の髪や肌を水が伝い、雫となって落ちるのみ。その水滴が落ちる様子が艶かしく見え、紗久羅はどきりとした。同時に恐怖を感じた。


 彼女はやがて口元を歪め、妖しい笑みを浮かべ、小さな声で笑った。とても邪悪で、悪意がたっぷり込められた声で。

 紗久羅は胸が苦しくなるのを感じた。今の彼女は人間ではなく、出雲達『向こう側の世界』の住人に見えて、恐ろしかった。


「及川さん!」

 もう一度、今度は先程より大きな声で彼女の声を呼ぶ。柚季はびくっと体を震わせ、目をぱちくりさせながら紗久羅の方を見る。


「え、ど、どうしたの?」


「いや、何かぼうっとしているようだったから……」


「そ、そう。あれかしら久しぶりの水泳の授業で疲れちゃったのかな、あはは、ごめんごめん」

 と笑うが心の底から笑っているようには思えず、無理矢理笑っているような感じだった。


 間もなく授業は終わり、急いで着替える。ちんたらしていると次の授業に間に合わないのだ。


 水着等を入れるバッグを教室に戻す暇も無く、そのバッグと次の授業に使う教科書等を抱えて、どこか近くに止まっているらしい救急車の音を聞きながら小走りで移動する。


 授業中二年生女子の一人が倒れ、病院へ運ばれたという話を聞いたのは昼休みのことだった。


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