第十夜:鏡女(1)
それは、いとも簡単に割れた。大きな音と共に粉々に割れて、床に破片が散らばる。
窓から差し込む月の光を浴びて妖しく輝くその欠片は、まるで美しい女の黒髪の様だった。
その欠片に触れてみる。鋭い痛みが体に走った。指から流れる真っ赤な血。人を惑わす女の唇の色をしていて、それもまた月の光を浴びてぎらぎらと輝いている。
それを私は、ただ静かに、じっと見つめていた。
『鏡女』
紗久羅は今、三つ葉市にある喫茶店でお茶を飲んでいた。一人では無い。友人のあざみと咲月も居る。
今日で、楽しい夏休みが終わる。明日から新学期が始まり、漢字や数字、ローマ字と睨めっこする毎日が再びやってくる。
夏休み最後の日を楽しく過ごそう、ということで三人は電車でちょっと遠出をして、買い物をしたりゲームセンターで盛り上がったり(これは主に紗久羅とあざみだが)、プリクラで仲良く写真を撮ったりして大いに楽しんだ。
沢山楽しんだ後、三つ葉市にある喫茶店に入り、お茶を飲んでお喋りしながらまったりしている。ここで暫くお喋りした後、家に帰る予定だ。
右手でチョコレートケーキにフォークを刺し,左手に持ったスプーンで残り少ないいちごパフェをぐるぐるかき混ぜながら、あざみがため息をつく。
「ああ、嫌だ嫌だ。明日からまた学校だよ。友達とまた会えるのは良いけれど、授業面倒くさいよ」
「まあ、面倒くさいけれど。でもあざみの場合授業なんてどうせまともに聞かずに、ぐうすか寝ているんだろう」
と紗久羅が言えば、彼女はぷくっと頬を膨らませる。
「そんなことないよ。時々意識が吹き飛んじゃうことあるけれど、眠ってはいないもん」
「意識が飛んでる……それってつまり寝ているってことじゃないのか。というかあたし、あんたがまともに授業受けている所見たことないし。いつも目を瞑っていたじゃん」
あざみとは幼稚園の頃からの付き合いだ。小・中学校の時も居眠りばかりしていたことを覚えている。高校は別だから知らないが、恐らく授業などまともに聞いていないだろう。
「失礼な。あれは寝ていたんじゃないの。集中する為に瞑想していたんです」
「嘘つけ」
頬杖をつき、呆れながらカフェオレを一口飲む。その様子を苦笑いしながら見ているのは咲月だ。
「もう、別に私が授業中寝ている、寝ていないなんてそんなの二人には関係ないじゃん。ああ、嫌だよ、夏休み終わっちゃうよ。まだ遊び足りないのに、もっと夏という季節を満喫したいのに! 毎日が夏休みだったら良いのに。夏じゃなくてもいい、毎日が休みだったら良い。ああ、ニートになりたい……」
「お前、いずれ出すだろう進路希望調査に、ニートになりたいとか絶対書くなよ」
「あら、幾らあざみでもそんなことは書かないわよ、きっと」
「甘いぜ、咲月。あざみだったらやりかねない」
と言えば、またあざみが頬を膨らませる。
「か、書かないもん。もっと綺麗な言葉を使うもん」
「そういう問題じゃないだろう」
ていうかニートをどう言い換えるんだよ、と聞くとそれはいずれ考える、と言い出す。彼女の場合本気なのか冗談なのか、いまいち分からないので、怖い。
それはそうと、と咲月が話題を少しだけ変える。
「あざみ、宿題は終わったの?」
その言葉を聞いた途端、あざみが固まる。冷や汗を流し、視線を逸らした。
その様子を見れば、終わったかどうかなど一目瞭然だ。紗久羅と咲月は顔を見合わせ、ため息をつく。
「どうせそんなことだろうと思っていたよ」
「駄目よ、あざみ。宿題はちゃんとやらなくちゃ」
「い、いいもん、大丈夫だもん。今日家に帰った後やろうと思っていたんだもん!」
絶対やらないな……二人は心の中でそう思った。そもそも後少し頑張れば終る量なのかどうかすら怪しい。
「まあ、せいぜい頑張れよ」
手伝う気は、毛頭無い。咲月は出来れば手伝いたいが、帰ったら習い事の復習をしなくてはいけないから無理だと言う。あざみは落胆したような表情を浮かべながら、パフェを一口食べた。
*
それからしばらく喫茶店で喋り、満足した三人は家のある桜町へ帰ろうとした。
その前に、と紗久羅が立ち上がる。
「ちょっと待っていて。トイレ行ってくる」
トイレは、店の奥にぽつんとある。
「今日は楽しかったなあ。いっぱい買い物もしたし……まあ、大分お金使っちゃったけれど……楽しかったから、いいや」
そう一人呟き、トイレのドアを開けようとした。
まさにその時。
「きゃあ!」
とドアの向こう側から小さな悲鳴のようなものが聞こえたのだ。何事だと思いながら、ドアを開ける。
入り口から見て右側に洗面台、左側にトイレが二つある。どこにでもある普通のトイレ。
ドアを開けた先には二人の人間がいた。
一人は恐らくこの喫茶店で働いている人であろう。店の制服を着ている。紗久羅より少し年上らしいその女性が、ドア側に足を向け、洗面台の前で倒れていた。
もう一人は客らしい少女。こちらは紗久羅と同い年位。セミロングの髪に赤いカチューシャをつけ、白いノースリーブのワンピースを着ている。
その少女は、倒れている女性を静かに見下ろしていた。
紗久羅は彼女が浮かべている表情を見て、背筋が凍るのを感じた。
口をぎゅっと結び、女性を酷く冷たい瞳で見つめている。その瞳に一切の感情は無く、無機質なモノに見えた。そしてその表情はどこか大人びていて、妖しさすら感じる。彼女の存在が、今この空間を異質なものに変えているように思えた。
目の前の彼女は、まるで、出雲のようだった。
「何、どうしたの!?」
声が出たのは、ドアを開けて少し経ってからだった。
紗久羅が叫ぶと少女がはっとしたように顔をあげ、彼女を見た。途端、異様な空気が消え失せる。今目の前に居るのは、冷たさも妖しさも感じない、どこにでもいる普通の女の子だ。
「あの、この女の人私の目の前で倒れちゃって……ど、どうしよう」
女性を指差す彼女の声は震えており、やや早口になっている。
「あ、待っていて。店員さん呼んでくるから」
こんな所でぼうっと突っ立っている場合ではないことに気づき、慌ててその場を離れた。
丁度近くに居た女性店員を呼び、三人で協力してトイレの外に女性を半ば引きずるように連れ出す。その後男性店員さんが彼女を抱えて、休憩室へ連れて行った。
紗久羅と少女はその様子を心配そうに見守る。
「あの人、大丈夫かな。私本当びっくりしちゃったの。あそこ洗面台が一つ壊れていて……丁度、あの女の人が洗面台を使っていて、それで、あの人が手を洗うのを待っていて……そしたら、急に女の人が悲鳴をあげて、倒れちゃって」
黙って待っているのが辛かったのだろう、少女が目の前で起きたことを掠れた声で話し始めた。
「確かに目の前で人が倒れたらびっくりするよな。大丈夫だといいけれど……」
二人、休憩室の前で突っ立っている。程なくして女性を運んだ男性店員が休憩室から出てきた。
「あの人、大丈夫ですか?」
少女が聞くと、男性店員は静かに微笑んだ。
「はい。どうやらただの貧血だったようです。今目を覚ましました」
それを聞いて、二人はほっと胸を撫で下ろす。
二人は謝罪とお礼を言われた後その場を去る。
紗久羅を待っていたあざみと咲月は、二人楽しくお喋りしていた。
「ちょっと紗久羅、遅いよ」
「何かお手洗いの方が騒がしかった気がしたけれど、何かあったの?」
「うん、ちょっと。ここで働いている女の人がトイレの中で倒れちゃって。でも、ただの貧血だったみたい。本当、びっくりしたよ」
「そうだったの。でも、大事なくて良かったわね」
うん、と返す紗久羅は肩を叩かれ、振り返る。そこにはさっきの少女が立っており、ぺこりと頭を下げる。誰?という顔をしているあざみと咲月に小声で、女の人が倒れた時トイレに居た人だと説明する。
「さっきは有難う。貴方が丁度来てくれて、良かった。それじゃあ私はそろそろ行くね」
「うん。それじゃ」
少女は紗久羅に小さく手を振り、店を出て行く。
それからすぐ、三人も店を出て桜町に帰った。
*
まだ、これ位のことしか出来ないのか。酷くもどかしい。あれだけの生気を奪ったところで、何の足しにもならない。
しかし、慌てる必要は無い。この地は私達に力を与えてくれる。強く歪んだ、異質な気の流れるこの地。もう少し離れた所から、より強い力を感じるが……まあ、ここでも十分だろう。
必ず、全てを取り戻す。
*
楽しい夏休みはあっという間に終わりを告げ、新学期が始まった。
夏休みは終ったが、夏は未だ終っていない。憎らしい暴君が空の上に君臨し、朝から遠慮なしに世界を焼き尽くし、苦しめる。
まだ夏休み気分が抜けきっていない子供達が、暑さに呻きながら久しぶりの学校へ向かう。ぎゅうぎゅう詰めのバス、道路を駆け抜ける自転車、揺れるランドセルやカバン。
紗久羅は久しぶりに校門をくぐり、教室へと向かう。廊下も教室も、一段と騒がしい。携帯のメール等で散々やり取りしていても、まだ話し足りないようだ。せわしなく吐き出される言葉は、海の中無限に浮かび続ける泡沫の様。次々と浮かんでは弾け、多くのそれが重なって騒がしい音楽を作り出す。
日焼けして真っ黒になっている人、髪を染めたまま直していない人(恐らく後で教師にこってこてに絞られるだろう)、大きくイメージチェンジした人等も居るが、大方の人は夏休み前と少しも変わっていない。
教室に入り、席につく。香る机の木の香りは懐かしいようなそうでもないような。
紗久羅が席につくや否や、仲の良いクラスメイトが彼女のところにやってきた。久しぶり、という言葉から始まり、夏休み中何をしたかという話題へと移っていく。
最初は何をして遊んだとか、宿題は終わったかとか、そんな話題だった。それがしばらくして、話題は夏休み中に起きた桜町連続神隠し事件の話に変わる。
紗久羅の兄・一夜もその被害者の一人であった。そのことについて色々聞かれたが、彼女は曖昧な言葉を返すだけにした。喋りすぎると、一般の人が知りえない情報までうっかり喋ってしまいそうだったからだ。事件の真相を知る者は少ない。しかもその真相はおよそ他人に言っても信じてもらえないようなものなのだ。余計なことを喋って、変な目で見られるのは嫌だった。
夏の間降り続けた不思議な雨の話も出た。紗久羅はその雨の背景にあったものを詳しくは知らない。ただ、雨が降り続いて憂鬱だったとだけ言う。
不思議な事件に、不思議な出来事。今年の夏はいつもと一味違ったねと友人が一言。恐らく今後も不思議な事件が次々と起きるだろう……とは口が裂けても言えない紗久羅だった。
隣の席に、今来たらしい生徒が座った。紗久羅は隣の席に目を向け、にやりと笑う。
「よう、久しぶりだななっちゃん」
なっちゃん……こと深沢奈都貴は、紗久羅をじろりと睨んだ。
「だから、なっちゃんって呼ぶなっての」
「そんなこと言わないでよ、あたしとなっちゃんの仲じゃない」
意地悪く笑ってやると、なっちゃんはどんな仲だといかにも嫌そうな表情を浮かべながら返す。
なっちゃん……は可愛く明るい女の子――では無い。クールで一匹狼タイプな女の子――でも無い。男っぽい女の子――というわけでも無い。
「その女の子みたいな呼び方やめろよ、恥ずかしいんだよ」
そう、なっちゃんは男の子である。両サイドの前髪を伸ばしており、顔もどちらかというと中性的ではあるが、正真正銘の男の子だ。
数年前から「なっちゃん」と呼ばれるようになってしまったのだが、本人はその呼び方を毛嫌いしている。
「いいじゃん、なっちゃんで。可愛いしさあ」
紗久羅は、彼がむきになって反論する様子を見るのが楽しくて仕方無いのだ。
「良くないし。ったく、大体井上のせいだぞ。俺がその女の子みたいな呼ばれ方をするようになったのは」
「あれ? そうだったっけ? あはは、全然覚えていないや」
惚けた笑みを浮かべると、奈都貴がため息をつく。そして逃げるように席を立ち、友人のところへ行った。
その様子をにやにやしながら見ていた友人は、相変わらず仲が宜しいことで、と紗久羅を茶化す。紗久羅は別にそんなんじゃないよ、と笑って返した。
遠くで友人と話している奈都貴は、お喋りしている紗久羅をちらちらと見ている。しかし、そのことに気がついている人は誰も居ない。
その後、始業式の為全員体育館へと向かった。生徒達でぎゅうぎゅう詰めになったそこは、非常に蒸し暑い。散々喋ってもまだ話し足りない生徒達の声が体育館中に響き渡る。まるでセミの合唱だ。
そのセミの合唱を教師が無理矢理静め、始業式が始まる。うろ覚えの校歌をやる気無く歌い、校長のどうでも良い話を延々と聞かされ、その後は夏休み中にあった大会などで好成績を収めた者、何か受賞した者の表彰式。始業式という名の苦行が終わり、だらだらと教室へ戻った。
*
校歌の時は情けない位小さかった声は再び大きくなり、弾ける泡沫の不協和音が教室に響き渡る。かなり、騒々しい。
ドアを開け、クラス担任が入ってきた。黒系の服ばかり着ている「烏先生」こと加納さえは、相変わらず青白くほっそりしていた。
軽く話をした彼女は、何故かちらと教室のドアに視線を移す。
「そうそう。今日、このクラスに一人転校生が来ます」
転校生、という言葉に生徒達が反応し、ざわざわと騒ぎ始める。
「転校生! 女? ねえ、女?」
お調子屋の男子が机から身を乗り出し、手を上げて尋ねる。授業の間は決して上げられることのないその手は、ピンと綺麗に真っ直ぐ伸びていた。挙手に理想のフォームというものが存在するのなら、まさにこんな感じであろうというものだった。
さえは女の子よ、と半ば呆れ気味に答える。よっしゃあとガッツポーズをする彼を、隣に座っている女生徒が軽くはたいた。
さえはドアを開け、転校生を手招きする。
開けたドアから、一人の女の子が静かに教室へと入ってきた。
揺れるセミロングの髪の毛、赤いカチューシャ。可憐なその姿を見て、更に教室内が騒がしくなる。
正面を向いた彼女の顔。それを見て、紗久羅は目を丸くした。
どう見ても転校生である彼女は、昨日喫茶店であった少女だったからだ。
「あっ、あんた!」
思わず声が出る。その声に皆反応し、一斉に紗久羅を見た。
「何、井上さん知り合いなの!?」
「あの子のこと知っているの!?」
「え、あ、あの……」
紗久羅はうっかり叫んでしまったことを後悔し、体を小さくした。
少女の方も紗久羅に気がつき、小さく「あっ」と声を上げ、ほっとしたように微笑んだ。
さえは首を傾げながらも、転校生の名前を黒板に書く。彼女の名前は『及川柚季』というらしい。
「さあ、皆静かにして。それじゃあ及川さん自己紹介宜しくね」
柚季は頷き、小さく深呼吸をした。
「初めまして。及川柚季といいます。学校のこととか、色々教えて下さい。後、もしよければ、この辺りでオススメのお店とかも教えて欲しいな、と思います。これから、宜しくお願いします」
そう言って、柚季はぺこりとお辞儀した。それに合わせて、生徒達が拍手をする。
*
休み時間になると、早速柚季はクラスに女子達に質問攻めされていた。
紗久羅も話したいとは思ったがごみごみした輪っかに入り込みたくなかったので、まあ落ち着いた後でいいかと思いながらその様子を眺めていた。
「井上、あの転校生と知り合いなの?」
奈都貴に聞かれ、うんと答えた後昨日あったことを簡単に説明した。
「ふうん、成程ね」
「何、なっちゃん。あの転校生のことが気になるの」
「別に、そういうわけじゃないけれど。ただいきなり大声あげたものだから、びっくりしただけだよ」
「だって、本当にびっくりしたんだもん」
そんな紗久羅のところに柚季が来たのは、次の休み時間だった。
「まさか、こんなところで再会するなんてね。私本当にびっくりしたわ」
「あたしもだよ。あ、あたし井上紗久羅っていうんだ、宜しく」
漢字はこう書くんだ、と近くにあった紙に書いてみせる。井上さんって言うんだ、と柚季がそれを見ながら頷いた。
「宜しく、井上さん。それにしても驚いた。ふふ、でも良かったわ。新しい土地、新しい学校での生活とか、正直ちょっと不安だったのだけれど。貴方の姿を見て、ほっとしたわ。やっぱり少しでも見知っている人が居ると違うわね」
そう言って笑いながら、髪を撫でつける。よく見るとその手の人差し指には絆創膏がついていた。怪我でもしたのだろうかと思いながらそれに視線を向ける。彼女はその視線に気がついたのか、ああこれ?と人差し指をぴこぴこと動かす。
「何日か前にちょっと切っちゃったの。大した怪我じゃないんだけれど、なかなかしぶとくてね。まだ完全に傷がふさがっていなくて」
「ああ、成程ね。しかしあの人ただの貧血で本当に良かったよな」
「ええ。昨日は引越しも落ち着いたし、新しく来た街をちょっと見て回ろうかなと思って、しばらく歩いた後あの喫茶店に入ったの」
「それでトイレに行ったら、目の前であの女の人が倒れた、と」
「そういうこと。悲鳴をあげて、突然倒れて。あまりにびっくりしすぎて、叫ぶことも動くことも出来なかったわ」
確かに柚季は、紗久羅が来るまでただ静かに倒れた女性を見ているだけだった。その時浮かべていた彼女の表情は、今思い出してもぞくっとする。あまりびっくりしすぎると、人間逆にああいう顔になるものなのかな、と紗久羅は思った。
「まあ何にせよ、良かったよ」
うん、と言って柚季はまた微笑んだ。その後も自分の趣味などについて、色々話した。
その日は授業らしい授業もなく、半日で帰った。
柚季は家が比較的近いらしい生徒と一緒に帰るらしい。その途中、オススメのお店とか色々教えてもらうのだと、弾んだ声で紗久羅に話してくれた。
紗久羅はいつものように奈都貴をからかった後、下校した。
帰った後、今度は自分が出雲にからかわれ続けることになった……。
*
ああ、生気が欲しい。あれを喰らわねば私の力が完全に戻ることは無いだろう。おのれ忌々しい、もう少し上手く動くことが出来れば。しかし嘆いても腹は膨れぬ。力も戻らぬ。
今はただ、待つしかない。絶好の機会が訪れる日を。
*
新学期から五日が経とうとしていた。学校生活もすっかり普段通りのものになり、五日前まで夏休みだったことが嘘のようだった。だが夏休みの時と変わらず、暑い。
開け放たれた窓から入ってくるのは、涼しい風では無く、熱風と腹が立つほど眩しい太陽光。
「ああ、暑い。ものすごく暑い。なっちゃん、助けて」
「何で俺に助けを求めるんだよ。ていうかなっちゃん呼ぶな」
次の授業の準備をしていた奈都貴も暑さにほとほと参っているらしく、反論する声に力が無い。エアコンがあればいいのだが、残念ながら三つ葉高校には特別教室等、一部の教室以外には設置されていない。
仕方なく、紗久羅は下敷きをぱたぱたと煽いだ。多少涼しくはなるが、腕が疲れる。そうやって、下敷きや家から持ってきた団扇などでぱたぱた煽いでいる人は少なくない。中には強烈なミント飴を舐めて暑さを忘れようとしている者もいる。
ちょっとトイレに行こうと、席を立ち教室を出る。
「あれ?」
女子トイレ入り口ドア前に何人かの女子が集まり、騒いでいる。楽しくお喋りしているようには見えない。何かあった様子だった。その女子集団の中には、新しい学校生活にも大分慣れてきた柚季も居た。そんな彼女の顔は、何故か酷く青ざめている。
「どうしたの?」
柚季に話しかけると、俯いていた彼女は顔をあげた。
「ねえ、井上さん。こんなことってあるのかなあ?」
「え?」
「……またなの」
「また?」
柚季が、静かに頷いた。
「また私の前に居た子が、悲鳴をあげて倒れちゃったの」